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山形浩生『翻訳者の全技術』(星海社新書)要約・感想

山形浩生『翻訳者の全技術』表紙

  1. 翻訳を超えた知的探求
  2. 翻訳の本質と課題
  3. 読書と好奇心の戦略
  4. 実践と洞察と人生設計

山形浩生の略歴・経歴

山形浩生(やまがた・ひろお、1964年~)
コンサルタント、評論家、翻訳家。
東京都の生まれ。麻布中学校・高等学校を卒業。東京大学工学部都市工学科を卒業、東京大学大学院工学系研究科都市工学専攻修士課程を経て、野村総合研究所の研究員に。マサチューセッツ工科大学不動産センター修士課程を修了。山形浩生のX(旧Twitter)

『翻訳者の全技術』(星海社新書)の目次

はじめに
第1章 翻訳の技術
なぜ翻訳をするのか
出発点
翻訳の技術
原文通りに訳すということ
訳者解説の書き方
翻訳の基礎体力
英語について
翻訳の道具
記憶に残る翻訳家
翻訳者になるまで
第2章 読書と発想の技術
読書は大雑把でもいい加減でもいい
読書の意義
本の読み方
積ん読について
本の敷居の高さと期待効用
読まない本の危険性:積ん読の有毒性について
積ん読の時代変化
積ん読の解消
余談:山野浩一のことなど
行きがけの駄賃で:橋本治について
積ん読の先へ
勉強は小間切れでやる
わかったつもりが一番よくない
1週間なら誰でも世界一になれる
アマチュアの強みと弱み
好奇心の広げ方
オカルト雑誌とフェイクニュース
コンサルタントについて思うこと
第3章 好奇心を広げる技術
知らない世界を旅する
旅行をするなら
開発援助の現場に行くこと
社会主義国キューバの衝撃
モンゴルのノマドは自由ではない
変なものが好きだった
あとがき

『翻訳者の全技術』の概要・内容

2025年2月17日に第一刷が発行。星海社新書。203ページ。

「山形浩生『翻訳者の全技術』(星海社、2025.02) サポートページ」には、正誤表などの記載も。

『翻訳者の全技術』の要約・感想

  • 翻訳の枠を超えた知の探求
  • 翻訳とは何か? 山形浩生が語る翻訳の原点
  • 翻訳の良し悪しと翻訳家の苦悩
  • 翻訳に必要な「基礎体力」とは?
  • 翻訳家への道:意外な第一歩
  • 読書の真髄:知識習得への第一歩
  • 積ん読は悪? 本との向き合い方
  • 読書を通じて「自分」を知る
  • 日常に刺激を:好奇心を刺激する方法
  • コンサルタントの視点と推薦図書
  • 机上の空論を超えて:実体験の重要性
  • 豊かさへの鍵:「生産手段」を持つこと
  • 山形浩生の思考に触れる知的冒険

翻訳の枠を超えた知の探求

本書『翻訳者の全技術』(星海社新書)は、そのタイトルから翻訳家や翻訳学習者向け専門書という印象を受けるかもしれない。

しかし、ページをめくると、その予想は良い意味で裏切られることになるだろう。著者は、博覧強記で知られる評論家であり、そしてもちろん優れた翻訳家でもある山形浩生である。本書は、単なる「翻訳の技術」に留まらず、氏の広範な知識と経験に裏打ちされた「読書術」「発想術」、そして「好奇心の広げ方」までをも網羅した、まさに知的な冒険への招待状といえる一冊なのだ。

本書の成り立ち自体も興味深い。山形氏自身が「はじめに」で語っているように、これは数回にわたるインタビュー放談を基に、他のライターが構成し、そこに山形自身の手持ち原稿を加える形で完成したという。

そんなわけで、2、3時間にわたる放談会を4回くらい行って、まとめていただいたものに手持ちの行き場のない原稿もいろいろとぶちこんでできあがったのが、本書となる。(P.5「はじめに」)

このような制作プロセスは、近年の書籍制作においては効率的な手法として主流であろう。

著者自身の言葉を借りれば「行き場のない原稿」も含まれているとのことだが、それがかえって、整理された論考だけでは見えてこない、山形の思考の断片や、多岐にわたる関心の広がりを伝えてくれる。

山形は、自身の好奇心の源泉について、そしてそれが普遍的な価値を持つことについて、次のように述べている。

誰のものでもたいがいの好奇心は、ある程度まで掘り下げれば、必ず一般性を持つものだとは思う。ぼくは自慢だけれど、多少は頭がいい。だが、決して天才ではない。何かに興味を持つときも、とんでもない飛躍はしない/できない。その一方で、ぼくがわからない、不思議だと思ったら、おそらくほとんどの人は(どんなに知ったかぶりをしようが)やっぱりわからないはずだし、指摘すればそれを不思議だと思うはずだという確信もある。(P.5「はじめに」)

一個人の抱く「なぜ?」という疑問や好奇心は、深く掘り下げていくことで、多くの人が共有できる普遍的なテーマへと繋がっていく。

山形は自身を「多少は頭がいい」と評するが、その知性は、難解な事象を多くの人が理解できる言葉で解説する能力にこそ発揮されていると言えるだろう。

彼が「わからない」と感じる点は、恐らく多くの人々にとっても同様に理解が及ばない部分であり、本書はそうした疑問点を解き明かすヒントを与えてくれる。山形浩生が天才と評される所以の一端がここにあるのかもしれない。

本書は、翻訳という行為を通して世界をどう捉えるか、そして、どのように知識を獲得し、思考を深めていくか、その具体的な方法論と哲学が詰まっている。読み進めるうちに、翻訳という枠組みを超えて、日々の学びや仕事、そして人生そのものに対する新たな視点を得られるはずである。

翻訳とは何か? 山形浩生が語る翻訳の原点

第1章「翻訳の技術」では、まず「なぜ翻訳をするのか」という根源的な問いから始まる。

翻訳は単なる言語の置き換え作業ではない。それは、異文化を理解し、未知の知識や思想に触れるための重要な営みである。山形は、翻訳における「原文通りに訳すということ」の難しさや、訳者解説の意義、そして翻訳に必要な「基礎体力」について、自身の経験を交えながら具体的に論じていく。

特に印象的なのは、ビート文学の旗手、ウィリアム・S・バロウズ(William Seward Burroughs II、1914年~1997年)に関するエピソードである。山形は若い頃、バロウズのインタビュー翻訳を読み、その内容に感銘を受けていた。しかし、後に原文を手に入れて読んでみると、全く異なる印象を受けたという。

単なるジジイが聞きかじりのヨタ話を並べた、縁側放談でしかない代物だった。彼は普通にしゃべっていた。ぶっ飛んだ妄想だと思ったものは、完全な翻訳のでっちあげだった。(P.19「第1章 翻訳の技術:なぜ翻訳をするのか」)

これは衝撃的な告白である。

ジャンキー上がりの作家というイメージから、その言葉も難解で深遠なものだろうと期待していたが、実際は平凡な会話に過ぎなかった。そして、我々が抱いていた「ぶっ飛んだ」バロウズ像は、翻訳によって作り上げられた虚像だったというのだ。

これは、翻訳がいかに原文のニュアンスを変え、時には全く異なるイメージを読者に与えうるかを示す好例である。このエピソードは、私もバロウズの著作の翻訳を数冊読んでいたので、かなり驚いた。

このバロウズのエピソードは、「わかること」と「わからないこと」を明確に区別する重要性へと繋がっていく。山形は、かつて訪れた逓信総合博物館の展示から得た、機械と人間の違いの教訓として、次のように語る。

人間の人間たるゆえんは、わからないことをわからないと言えることなんだ、とそれを見て感心したものだけれど、これは今もそうだと思う。きっと、世の中にいろいろな誤解が生まれる理由は、わかってはいけないものをわかったつもりになってしまうからだと思う。(P.21「第1章 翻訳の技術:なぜ翻訳をするのか」)

原文では意味が通じない、あるいは論理が飛躍している箇所を、翻訳者が無理に意味が通るように、論理的に繋がっているかのように訳してしまうことがある。バロウズの翻訳もその一例であり、読者はそこに何か深遠な意味があるかのように誤解してしまう。

しかし、本来「わからない」ものは「わからない」ままにしておくべきなのだ。安易に「わかったつもり」になることは、誤解を生む元凶となる。これは翻訳に限らず、あらゆる知的活動において心に留めておくべき重要な姿勢であろう。

一方で、何でもかんでも字義通りに解釈すれば良いというものでもない。

ジョージ・オーウェル(George Orwell、1903年~1950年)のディストピア小説『一九八四』の翻訳にまつわるエピソードでは、原文の意図を汲みつつも、過度な深読みを避けるバランス感覚の重要性が示唆される。

いい加減なところをいい加減なままに残しておくのもひとつの見識で、あんまり深読みするのも不健全だと思う。(P.30「第1章 翻訳の技術:原文通りに訳すということ」)

原著者であるジョージ・オーウェルの考えや、作品の世界観などを尊重し、無理に解釈を加えない。

これもまた、誠実な翻訳態度の一つであると言える。山形浩生が『一九八四』(星海社)の翻訳を手掛けたことからも、この言葉には重みがある。この周辺に関する逸話も非常に深く、また勉強にもなる。

翻訳の良し悪しと翻訳家の苦悩

翻訳の質を評価することの難しさについても、山形は率直に語っている。

ついでに極端な話をするなら、そもそも翻訳の良し悪しが本当にわかる人は原文と訳文の両方が理解できるということだから、翻訳なんか必要としない人ではある。逆に翻訳を必要とする人は、定義からしてその良し悪しは判断できないことになってしまう。だから翻訳って報われないよな、と思うこともときどきある。(P.38「第1章 翻訳の技術:訳者解説の書き方」)

これは翻訳という行為が内包する本質的なパラドックスである。

本当にその翻訳が良いか悪いかを判断できるのは、そもそも翻訳を必要としない、原文が読める人だけなのだ。そして、翻訳を必要とする読者は、その良し悪しを正確には判断できない。

この現実は、翻訳家という仕事の報われなさ、難しさを物語っている。私自身、翻訳された書籍を読む際に、時折「原文ではどう表現されているのだろうか」と感じることがある。そのもどかしさが、外国語学習へのモチベーションに繋がることもある。

この文章を読んで、改めて、フランク・ダラボン(Frank Darabont、1959年~)監督の映画『ショーシャンクの空に』の原作である、スティーブン・キング(Stephen King、1947年~)の「Rita Hayworth and Shawshank Redemption」を原文で読んでみたいという気持ちが湧いてきた。

日本語訳の「刑務所のリタ・ヘイワース」すら読んでいないのだが、大好きな映画で既に原書は購入済みで長年放置したままなので、これを機に挑戦してみようと思う。

翻訳に必要な「基礎体力」とは?

優れた翻訳を行うためには、語学力はもちろんのこと、幅広い知識や教養、そしてそれを支える「基礎体力」が必要となる。山形は自身の英語力について、幼少期の海外経験に触れつつ、次のように述べている。

ぼくは子供の頃に親の仕事の関係でアメリカに1年半行っていたので、英語に関しては普通の日本人と比べて不平等な優位性がある。(P.53「第1章 翻訳の技術:英語について」)

この「不平等な優位性」という表現に、山形氏らしい率直さが表れている。

また、その後のエピソードで語られる、開発援助の現場で働く人々が、必ずしも流暢ではないが必要な専門知識と単語でコミュニケーションを取っているという話や、オランダ在住の自身の子供たちが話す「雑な英語」の話からは、完璧な語学力よりも、伝えたい内容や専門知識といった「中身」がいかに重要であるかが示唆される。

こういった合間に挿入される逸話や考察も面白い。

さらに山形は、自身が「一目おく」翻訳家たちを具体的に名前を挙げて紹介している。

ぼくは自慢だけれどかなり優秀な翻訳家だと思うが、それでも、いやそれだからこそ一目おく翻訳者も多い。(P.61「第1章 翻訳の技術:記憶に残る翻訳家」)

渡辺佐智江(わたなべ・さちえ)、伊藤典夫(いとう・のりお、1942年~)、浅倉久志(あさくら・ひさし、1930年~2010年)、柳瀬尚紀(やなせ・なおき、1943年~2016年)、柴田元幸(しばた・もとゆき、1954年~)、望月衛(もちづき・まもる)、村井章子(むらい・あきこ)、大森望(おおもり・のぞみ、1961年~)、柳下毅一郎(やなした・きいちろう、1963年~)といった錚々たる名前が並ぶ。

一方で「反面教師」として挙げている人物も。具体的な翻訳家の名前を挙げることで、優れた翻訳とは何か、どのような技術が求められるのか、読者はより深く考えるきっかけを得るだろう。

優れた翻訳家たちの技術に触れることは、翻訳技術の最先端を知ることにも繋がるかもしれない。

翻訳家への道:意外な第一歩

英語に堪能な山形だが、翻訳家としてのキャリアの第一歩が、実は英語ではなくドイツ語の翻訳だったというのは、少々意外な事実である。

他の国にも面白いSFがないかと思い、ドイツ語の本を取り寄せて(当時はアマゾンなんかなかったけれど、大学の生協に、赤い「外国で出ている本の一覧」というとんでもない本があり、それを見て頑張って取り寄せていた)辞書と首っ引きで翻訳して大学のファンジンに載せていたら、同世代のSFファンダムの重鎮で現東京創元社に入っていた小浜さんが、西武系のトレヴィルという出版社がドイツ語をできるやつを探していると言って紹介してくれて、『ネクロノミコン』を出すことになった。(P.75「第1章 翻訳の技術:翻訳者になるまで」)

好奇心から始めたドイツ語SFの翻訳が、思わぬ形で商業出版に繋がったというエピソードは、キャリアパスが必ずしも直線的ではないこと、そして興味関心をとことん追求することの重要性を示している。

これもまた、山形氏の翻訳の技術、あるいはそれを支える姿勢を形作った原体験の一つと言えるだろう。

読書の真髄:知識習得への第一歩

第2章「読書と発想の技術」では、翻訳の基盤とも言える「読書」について、山形独自の哲学が展開される。彼は、読書を過度に高尚なものと捉える風潮に疑問を呈し、その本質を次のように喝破する。

人があらかじめ調べてくれた知識を、自分で調べられるようになること――読書は所詮、これぐらいの営みでしかないと思うのだ。(P.84「第2章 読書と発想の技術:読書は大雑把でもいい加減でもいい」)

文学、政治経済、IT、思想など、極めて広範な分野にわたる読書量を誇る山形だが、それは決して「教養のため」といった高尚な目的からではない。あくまで自身の「興味」に基づいた自然な行為なのだ。

この後、学生時代に買ったまま放置していた数学の問題集を解き始めたというエピソードが続くが、これは過去の自分との約束を果たし、「やり残し」という名の負債を精算していく行為とも解釈できる。

読書とは、知識を得るだけでなく、自分自身と向き合い、知的な負債を解消していくプロセスでもあるのかもしれない。

特定のテーマについて深く知りたいとき、山形は独特の読書戦略を用いる。例えば、ロシアの指導者ウラジーミル・プーチン(Vladimir Putin、1952年~)について調べるとする。

そしてまず一番薄いものにざっと目を通して、大体こんなことをした人なんだ、と見取り図を頭に入れる。次に一番厚い本を読んで、それぞれのトピックを一通り詳しく見てみる。こうすると、その後に読むプーチン本のポイントは、薄い本で得た概略のおかげである程度は見当がつく。そしてその分厚い本でいろいろ細かいネタは知っているから、いま読んでいる本がそこからどういうストーリーを選んだのか、それは何を考えてのことなのかがわかり、その著者が何をどうしたいのかが見えてくる。(P.91「第2章 読書と発想の技術:本の読み方」)

まず薄い入門書で全体像、つまり見取り図を把握し、次に最も詳細な分厚い本で各論を掘り下げ、その上で他の関連書籍を読む。

この「薄い本→厚い本→その他の本」という順番は、効率的に知識を体系化し、各書籍の著者独自の視点や狙いを理解するための非常に実践的な方法論である。

最初に読むべきは薄い本か、厚い本か、といった議論があるが、山形のアプローチはその両方を取り入れたハイブリッド型であり、「なぜ自分はこの方法に気づかなかったのか」と膝を打つ思いがした。今後の読書でぜひ実践してみたい戦略である。

また、エドワード・ギボン(Edward Gibbon、1737年~1794年)の大著『ローマ帝国衰亡史』の翻訳者についても言及がある。

中野好夫(なかの・よしお、1903年~1985年)と中野好之(なかの・よしゆき、1931年~)親子による訳が有名だが、山形は助っ人として参加した朱牟田夏雄(しゅむた・なつお、1906年~1987年)の訳業をもっと評価すべきだと89ページで指摘する。

朱牟田夏雄の名前は、斎藤兆史(さいとうよしふみ、1958年~)氏の著書『英語達人列伝Ⅱ』でも取り上げられており、英語や翻訳に関心のある読者にとっては興味深い指摘だろう。

積ん読は悪? 本との向き合い方

読書家であれば誰もが抱える悩み、「積ん読」。山形は、この積ん読に対して極めて厳しい見解を示す。

すべての印刷物は、いつか、どこかの誰かに読まれるだろうという期待をこめて作られている。その期待に応えてあげなくては。それを放棄し、本の期待を踏みにじる積ん読というのは、ぼくは本に対する裏切りだとすら思う。それは死蔵であり、死蔵された本はまさに死んでいる。本を殺してはいけません。(P.96「第2章 読書と発想の技術:積ん読について」)

本は読まれることを期待して世に出される存在であり、積ん読はその期待を裏切る行為、本を「殺す」行為に等しいというのだ。

これは非常に手厳しいが、的を射た指摘である。本に限らず、お金も知識も、流通し活用されてこそ価値を持つ。

私自身の本棚にも、読まれる日を待ちわびている本たちが山積みになっている。この言葉を胸に、少しずつでも読み進め、本に命を吹き込まなければならないと決意を新たにした。

読書を通じて「自分」を知る

積ん読を解消し、大量の本を読み、そして処分していくプロセスを経て、最終的に手元に残る本は何か。山形は、そうして選び抜かれた本こそが、「自分を作ってきた本」であり、自分自身を映し出す鏡となると語る。

あの古本屋で買った橋本治『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』は必ずあるだろう。大室幹雄『桃源の夢想』『クルーグマン教授の経済入門』、荒俣宏『理科系の文学誌』。メリル『SFに何ができるか』。バロウズはないだろう。でも自分の『たかがバロウズ本。』はあるだろう。全部で30冊におさまるくらいだろうか。(P.127「第2章 読書と発想の技術:積ん読の先へ」)

ここで挙げられている書籍には、橋本治(はしもと・おさむ、1948年~2019年)、大室幹雄(おおむろみきお、1937年~)、ノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマン(Paul Krugman、1953年~)、博覧強記の博物学研究家で作家の荒俣宏(あらまた・ひろし、1947年~)、SF編集者で作家のジュディス・メリル(Judith Merril、1923年~1997年)といった、多様な分野の著作が含まれている。

興味深いのは、あれほど影響を受けたバロウズの著作は手元に残さないだろうと予測しつつ、自身が執筆したバロウズ論『たかがバロウズ本。』は残すだろうと述べている点だ。これは、単なる受容者としてではなく、批評的・主体的に関わった対象としてバロウズを位置付けていることの表れかもしれない。

積ん読という淀みをなくし、購入時の「読むぞ!」という決意、つまり過去の自分との約束を果たしていくことで、本当に自分にとって価値のある、自分を形作ってきた本だけが残る。これは、物理的な本の整理だけでなく、自身の思考や関心を整理するプロセスでもあるのだ。

日常に刺激を:好奇心を刺激する方法

マンネリ化した日常から抜け出し、新しい視点や発想を得るためにはどうすればよいか。山形浩生は、手軽にできる習慣として、未知の分野の雑誌を読むことを提案する。

これは、評論家の板坂元(いたさか・げん、1922年~2004年)の著書『考える技術・書く技術』で紹介されていた方法だという。

手っ取り早いことを一つ言うと、全然知らない分野の雑誌を見つけて読むといい。『考える技術・書く技術』(板坂元)で知り、ぼくが今でもたまにやっている習慣だ。(P.147「第2章 読書と発想の技術:好奇心の広げ方」)

山形は、かつて女子向けのファッション雑誌すらチェックしていた時期があったという。普段接することのない情報に触れることで、思考の枠組みが広がり、新たな気づきが得られる可能性があるのだ。

現在、山形が定期購読している雑誌として、『エコノミスト』のような経済誌と並んで、『フォーティアン・タイムズ』という「真面目なオカルト雑誌」を挙げている点もユニークである。

ぼくがいつも読んでいる雑誌には『エコノミスト』と『フォーティアン・タイムズ』がある。(P.149「第2章 読書と発想の技術:オカルト雑誌とフェイクニュース」)

一見すると奇妙な組み合わせだが、山形によれば、このオカルト雑誌『フォーティアン・タイムズ』は「オカルト屋のくせに科学的な厳密性に厳しい」という特徴があり、世の中に出回る様々な「とんでもない」言説を知り、それに対する免疫をつける上で役立つという。

フェイクニュースが氾濫する現代において、「まとも」な情報と「とんでも」な情報を見分けるリテラシーは不可欠である。多様な情報源に触れ、その真偽や妥当性を判断する訓練を積むことの重要性を示唆している。

コンサルタントの視点と推薦図書

山形浩生は翻訳家や評論家としてだけでなく、コンサルタントとしても活動している。

そのコンサルタントという仕事の本質について、そしてその分野で読むべき名著として、ジェラルド・ワインバーグ(Gerald Weinberg、1933年~2018年)の『コンサルタントの秘密』を推薦している。

ぼくは本業でコンサルタントの仕事をしている。コンサルに関して知るべきことの9割は、『コンサルタントの秘密』というワインバーグの名著に書いてある。他のところでも応用が利く本なので、読むといいと思う。(P.153「第2章 読書と発想の技術:コンサルタントについて思うこと」)

コンサルタントの仕事とは、クライアントが知らない専門知識を教えることではなく、むしろクライアントが「常識」だと思い込んでいることを相対化し、外部の視点を提供することにある、と山形は示唆する。

この視点は、問題解決や意思決定において、いかに固定観念にとらわれず多角的に物事を捉えるかが重要かを示している。『コンサルタントの秘密』は、コンサルティングに限らず、多くの分野で応用可能な普遍的な知恵を含んでいるとのことなので、一読の価値がありそうだ。

机上の空論を超えて:実体験の重要性

第3章「好奇心を広げる技術」では、読書や思索といった机上の営みだけでなく、実際に未知の世界に飛び込み、体験することの重要性が語られる。

山形は、自身の旅行体験や開発援助の現場での見聞を通じて得た知見を披露する。社会主義国キューバでの衝撃、モンゴルの遊牧民のノマドの実態など、ステレオタイプなイメージとは異なる現実を目の当たりにした経験は、彼の世界観をより複眼的で深みのあるものにしたのだろう。

「変なものが好きだった」という自己分析も、彼の尽きせぬ好奇心の源泉を物語っている。常識や既存の枠組みにとらわれず、異質なもの、奇妙なものに面白さを見出す感性が、彼の多岐にわたる活動を支えているのかもしれない。

豊かさへの鍵:「生産手段」を持つこと

経済や社会構造に対する鋭い洞察も山形の持ち味であるが、本書ではカール・マルクス(Karl Marx、1818年~1883年)の経済学に触れ、資本主義社会における豊かさの鍵について、核心を突く指摘をしている。

マルクス経済学で資本家と労働者を分ける決定的な要因は、「生産手段」なのだ。(P.175「第3章 好奇心を広げる技術:開発援助の現場に行くこと」)

土地、工場、機械、あるいは現代においては情報や知的財産といった「生産手段」を持つ者が、持たない者よりも有利な立場に立ち、富を得やすい構造になっている。

これは、現代社会を生きる上で、個人のキャリアや資産形成を考える上でも、深く心に刻んでおくべき原理原則であろう。どうすれば「生産手段」を持てるのか、あるいはそれにアクセスできるのかを考えることが、経済的な自立や豊かさに繋がる道筋を示唆している。

山形浩生の思考に触れる知的冒険

本書『翻訳者の全技術』は、そのタイトルが示唆する以上に、遥かに広範で深遠な内容を持つ一冊であった。

翻訳の技術はもちろんのこと、読書術、発想法、情報収集術、キャリア論、社会時評に至るまで、山形浩生という稀代の知性が、どのように世界を観察し、情報を処理し、思考を組み立てているのか、そのプロセスの一端を垣間見ることができる。

総論として個人的に感じたのは、タイトルと内容が完全に一致しているとは言い難い面もあるということだ。むしろ『山形浩生の思考法』といったタイトルの方がしっくりくるかもしれない。ただそうなると、知らない人は全く手に取らない本になってしまうので、やはり現在のタイトル『翻訳者の全技術』の方が良いのは確かである。

彼が自身を「多少は頭がいい」と臆面もなく語る潔さも、凡百の謙遜よりもずっと清々しく、好感が持てる。山形浩生が一部で天才と称される理由が、本書を読むと少し理解できる気がする。その知識量、思考の速さ、そして物事の本質を見抜く洞察力は、確かに常人の域を超えている。

本書で展開される翻訳の技術論は、専門家以外には直接役立つ場面は少ないかもしれない。しかし、そこで語られる「わからないことをわからないと言う勇気」や「原文、一次情報への敬意」「過度な深読みの危険性」といった原則は、あらゆる知的探求において応用可能な普遍性を持っている。

読書術や情報収集術に関する具体的なアドバイスは、日々の学習や仕事にすぐにでも取り入れられるだろう。特に、未知の分野へのアプローチ方法や、積ん読に対する厳しい姿勢は、多くの読者にとって耳の痛い、しかし重要な指摘となるはずだ。

翻訳家を目指す人はもちろん、知的好奇心が旺盛な学生やビジネスパーソン、あるいは日々の生活や思考に新しい刺激を求めているすべての人にとって、本書は多くの発見と示唆を与えてくれるだろう。

読後には、きっと本棚にある未読の本に手を伸ばしたくなるか、あるいは全く新しい分野の書籍や雑誌を探しに出かけたくなるはずだ。

山形浩生の多岐にわたる活動や、彼が運営するサイト、あるいはX(旧Twitter)アカウントなどでの発言にも注目が集まる理由の一端が、本書を読むことで垣間見えるかもしれない。

この一冊は、単なる技術書ではなく、知的な探求の旅へと誘う、刺激的な羅針盤なのである。

書籍紹介

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