現在も多くの人に愛される詩人・中原中也。
今回は、その中原中也の両親、祖父母、そして兄弟など、家族について、詳しく解説していきます。
上記には、簡易的な家系図も掲載しているので、ぜひチェックしてみて下さい。
その他にも、関連した記事や、書籍、スポットなどについても紹介するので、ぜひ最後まで楽しんでみて下さい。
- 中原中也の両親
- 中原中也の兄弟
- 母方の祖父母、中原フクの両親
- 中原フクの養父母
- まとめ:中原中也の母・フクを起点に
- 補足:中原中也の子供、子孫
中原中也の両親
中原中也の両親についての紹介。キーパーソンは、母親の中原フクです。
中原中也の父・中原謙助
中原謙助(なかはら・けんすけ、1876年~1928年)…軍医・開業医。中原中也の父。
山口県宇部市の生まれ。出生時の姓は、小林。後に、野村、柏村、中原と変わる。棚井小学校を卒業。上京し、母親の実家・藤井家の従兄である眼科医・藤井幸八の世話になる。
東京医学専門学校・済生学舎で実地試験を受け、医師資格試験に合格、医師免許を取得。1896年、最年少の20歳で合格。
中原中也の母・中原フク
中原フク(なかはら・ふく、1879年~1980年)…中原中也の母。
神奈川県横浜市の生まれ。山口県山口市の育ち。横浜市の老松小学校から良城尋常小学校に転入、卒業。良城高等小学校、山口県立高等女学校を卒業。1900年に謙助と結婚。
中原中也の兄弟
中原中也の兄弟についての紹介。血筋なのかもしれませんが、当然のように高学歴です。
中原中也・長男
中原中也(なかはら・ちゅうや、1907年~1937年)…詩人。開業医の長男。山口県山口市の生まれ。
旅順、広島、金沢を経て、山口の下宇野令小学校に入学。山口師範附属小学校に転校。山口県立山口中学校に入学。京都の立命館中学校に転校。
日本大学予科、アテネ・フランセ、中央大学予科を経て、東京外国語学校専修科仏語部を修了。詩集に『山羊の歌』『在りし日の歌』。
中原亜郎・次男
中原亜郎(なかはら・つぐろう、1910年~1915年)…次男。4歳で病没。
中原恰三・三男
中原恰三(なかはら・こうぞう、1911年~1931年)…三男。日本医科大学予科に入学。20歳で病没。
中原思郎・四男
中原思郎(なかはら・しろう、1913年~1983年)…四男。石川県金沢市の生まれ。山口県山口市の育ち。京都帝国大学法学部を卒業。宇部興産に勤務。
戦後に地元の湯田温泉に戻り、中原中也の研究に注力。
中原呉郎・五男
中原呉郎(なかはら・ごろう、1916年~1975年)…五男。山口県山口市の出身。山口中学校、長崎医科大学を卒業。陸軍軍医中尉。
長崎大学風土病研究所で細菌学を学ぶ。日本郵船で船医として勤務。1959年5月から1961年6月まで、東京都の多磨全生園に、1963年1月から2年間、静岡県の駿河療養所に勤務。
一時期、俳人の種田山頭火(たねだ・さんとうか、1882年~1940年)との交流も。
中原拾郎・六男
中原拾郎(なかはら・じゅうろう、1918年~2003年)…六男。山口県山口市の出身。山口中学校、早稲田大学政治経済学部経済科を卒業。1948年から1951年まで山口地方裁判所に勤務。1953年から1977年まで朝日広告社に勤務。後にハーモニカ奏者としても活躍。
母方の祖父母、中原フクの両親
ここで、中原中也の母・中原フクの両親についても紹介する。というのも、中原フクがキーパーソンであるため。これについては、後述する。また、中原フクの母親・引頭スエも中原中也の子守に関わっているため。
母方の祖父・中原助之
中原助之(なかはら・すけゆく、1849年~1886年)…中原フクの父。中原中也の母方の祖父。
山口県山口市の生まれ。長男。幼名、寿之助。ジュノさんと呼ばれる。郷校・憲章館で学ぶ。上京し、三田塾の教師の家に書生として住み込み英語を学ぶ。工部省に就職。通訳、翻訳になど、外国語、外国人に関わる仕事を担当。
1875年に結婚。1876年に生まれた長女・昇(ショウ)は、2歳で逝去。1879年に、次女・フクが生まれる。1886年に助之は横浜の病院で亡くなる。
母方の祖母・引頭スエ
引頭スエ(いんどう・すえ、1857年~1932年)…中原フクの母。中原中也の母方の祖母。
山口県山口市の生まれ。剣一筋の小野家に生まれる。次女。長井忠左衛門の寺子屋で学ぶ。1875年に助之と結婚。1886年に助之が逝去し、山口に戻る。
1891年9月10日に次女・フクを、中原政熊(なかはら・まさくま、1854年~1921年)の養女に。
1891年10月23日、旧毛利萩本藩士・引頭祐一(いんどう・ゆういち、1843年~1901年)の後妻となる。税務署長を歴任した人物。祐一が亡くなった後、地元・山口の吉敷に戻り、1907年3月8日に山口県立山口高等女学校の舎監に招かれ、嘱託教員に。
孫・中原中也が生まれ、11月3日に謙介が家族で任地の満州・旅順に向かうため、10月末で女学校を辞めて、子守りとして船に乗り、11月6日に旅順に。
中原フクの養父母
上述の引頭スエの部分でも記載したが、フクは養女に出されているのである。その養父母が、中原中也から見ると、養祖父母が次の二人である。
中原政熊
中原政熊(なかはら・まさくま、1854年~1921年)…開業医。中原フクの父親・中原助之の弟。
親戚に医者が多く、また郷校・憲章館で英学、蘭学によって医学の基礎を学んでいたことから医学を志す。大内の伊藤生民(いとう・せいみん、1832年~没年不詳)の伊藤医院の門に入り、書生となって医術と漢学を学ぶ。
大歳の山下医師、防府の福田医師のもとで更に研修をしたとされる。医家書生時代が約8年続き、1878年の春頃に、大阪で文部省の医師検定試験を受けて合格し、医師に。
1891年9月10日に兄・中原助之の娘である中原フクを養女として迎える。
中原コマ
中原コマ(なかはら・こま、1863年~1935年)…中原政熊の妻。吉敷郡大内氷上の真光院の寺臣(てらざむらい)の田辺助作の長女として生まれる。
1879年に政熊と恋愛結婚。伊藤医院の頃に出会ったと推測。カトリック信者。後に夫にも勧めて、入信させる。14歳の時に、助作の弟で医師の玄齢(1826年頃~1900年)の元で、修行している。
まとめ:中原中也の母・フクを起点に
中原中也の母親である中原フクは、幼い時に父親の中原助之を亡くしてしまう。そのため、中原助之の弟である中原政熊の養女となる。
そこで育ち、中原謙助と結婚し、長男の中原中也を出産する。後に、中原亜郎、中原恰三、中原思郎、中原呉郎、中原拾郎と出産したのである。
補足:中原中也の子供、子孫
1933年に中原中也は、遠縁にあたる上野孝子(うえの・たかこ、1913年~?)と結婚して、二児をを授かる。
中原文也・長男
中原文也(なかはら・ふみや、1934年~1936年)…中原中也の長男。
中原愛雅・次男
中原愛雅(なかはら・よしまさ、1936年~1938年)…中原中也の次男。
書籍紹介
関連書籍
関連スポット
中原中也記念館
山口県山口市湯田温泉にある中原中也記念館。近くには中原中也誕生之地の石碑も。
公式サイト:中原中也記念館
中原中也の墓(中原家累代之墓)
山口県山口市吉敷中東にある「中原家累代之墓」と書かれた墓。その刻まれた文字は、中原中也が山口中学ニ年生の時に書かれたもの。
寿福寺:中原中也
寿福寺は、神奈川県鎌倉市扇ヶ谷にある臨済宗建長寺派の寺院。中原中也は境内の借家に一時住んでいた。墓地には、俳人・高浜虚子(たかはま・きょし、1874年~1959年)や、作家・大佛次郎(おさらぎ・じろう、1897年~1973年)の墓も。
公式サイトは無い。
妙本寺:中原中也
妙本寺は、神奈川県鎌倉市大町にある日蓮宗の本山。中原中也と文芸評論家・小林秀雄(こばやし・ひでお、1902年~1983年)が、断絶していた関係を修復した場所。小林秀雄の『作家の顔』にある「中原中也の思い出」にも描かれている。
公式サイト:妙本寺
中原中也父謙助生誕之地
中原中也の父・中原謙助(なかはら・けんすけ、1876年~1928年)の生誕した場所である山口県宇部市棚井に建立された石碑。厚東郷土史研究会によるもの。