
書籍紹介
- 大原孫三郎は若き日に放蕩で莫大な借金を抱えたが、後に倉敷紡績などを率いる大実業家となり、大原財閥を築いた。
- 彼は築いた富を私利私欲に使わず、社会事業や文化事業に惜しみなく還元し、ノブレス・オブリージュを体現した。
- 日曜講演会や大原美術館設立、人材育成など、教育・芸術・研究分野で幅広い支援を行い、児島虎次郎らを支えて文化を残した。
- 息子・總一郎に「少数の賛成のうちに仕事をやれ」と先見の教えを伝え、現代にも生きる経営哲学と社会貢献の姿勢を示した。
城山三郎の略歴・経歴
城山三郎(しろやま・さぶろう、1927年~2007年)
小説家。本名は、杉浦英一(すぎうら・えいいち)。
愛知県名古屋市の出身。名古屋市立名古屋商業学校(現在の名古屋市立向陽高等学校)を経て、1945年に愛知県立工業専門学校(現在の名古屋工業大学)に入学。大日本帝国海軍に志願入隊し、海軍特別幹部練習生として、特攻隊である伏龍部隊に配属。
1946年に東京産業大学(現在の一橋大学)予科入学、1952年に一橋大学を卒業。
1957年に『輸出』で第4回文學界新人賞。
1959年に『総会屋錦城』で第40回直木賞。
1975年に『落日燃ゆ』で吉川英治文学賞、毎日出版文化賞。
大原孫三郎の略歴・経歴
大原孫三郎(おおはら・まごさぶろう、1880年~1943年)
実業家、社会事業家、慈善家。
岡山県倉敷市の出身。大地主で倉敷紡績を営む大原孝四郎(おおはら・こうしろう、1833年~1910年)の三男として生まれる。豪商で祖父の大原壮平(おおはら・そうへい、?~1882年?)にあやかる孫として「孫三郎」と名付けられる。
倉敷小学校、窪屋郡組合立高等小学校、閑谷黌(しずたにこう)を経て、1897年に東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学、ほとんど講義に出ず、1901年に中退。
倉敷紡績および倉敷毛織(現在のクラボウ)、倉敷絹織(現在のクラレ)、中国合同銀行(中国銀行の前身)、中国水力電気会社(中国電力の前身)の社長を歴任、大原財閥を築く。
社会・文化事業にも熱心で、財団法人石井記念愛染園、倉紡中央病院(現在の倉敷中央病院)、大原美術館、大原奨農会農業研究所(現在の岡山大学資源生物科学研究所)、倉敷労働科学研究所(現在の大原記念労働科学研究所)、大原社会問題研究所(現在の法政大学大原社会問題研究所)、私立倉敷商業補習学校(現在の岡山県立倉敷商業高等学校)を設立。
石井十次の略歴・経歴
石井十次(いしい・じゅうじ、1865年~1914年)
慈善事業家。岡山孤児院の創設者。
宮崎県児湯郡高鍋町の出身。東京の攻玉社(現在の攻玉社中学校・高等学校)に入学するが、脚気により1年で退学。小学校や警察署での勤務を経て、岡山県医学校(現在の岡山大学医学部)に入学、1889年に中退。1887年に孤児教育会(後の岡山孤児院)を創設。
児島虎次郎の略歴・経歴
児島虎次郎(こじま・とらじろう、1881年~1929年)
洋画家。
岡山県高梁市成羽町(なりわちょう)の出身。1902年に、東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科選科に入学。倉敷の大原家の奨学生となる。1904年に2年飛び級で卒業。1908年にヨーロッパに留学。1909年にベルギーのゲント美術アカデミーに入学。1912年に首席で卒業し、日本に帰国。
大原總一郎の略歴・経歴
大原總一郎(おおはら・そういちろう、1909年~1968年)
実業家。大原孫三郎の長男。
岡山県倉敷市の出身。 第六高等学校文科乙類、東京帝国大学経済学部経済学科を卒業。
倉敷レイヨン(現在のクラレ)社長、倉敷紡績社長などを歴任。
『わしの眼は十年先が見える 大原孫三郎の生涯』の目次
はじめに
一 やる可し、大いにやる可し
二 「友達」の顔
三 大集会の大男
四 不学の大学者
五 済人道楽
六 一本の電話
七 人生最後のおねだり
八 「エヲカッテヨシ カネオクル」
九 大不況の中で
十 勲三等の旅
十一 一人息子への手紙
十二 いちばんの傑作
あとがき
ノブレス・オブリージュ 神崎倫一
『わしの眼は十年先が見える 大原孫三郎の生涯』の概要・内容
1997年5月1日に第一刷が発行。新潮文庫。286ページ。
1994年5月に飛鳥新社から刊行された単行本を文庫化したもの。
解説は、経済評論家の神﨑倫一(こうざき・りんいち、1926年~2009年)。満州の生まれ。東京大学経済学部経済学科を卒業。野村證券などを経て、東洋信託銀行(現在の三菱UFJ信託銀行)取締役になった人物。
『わしの眼は十年先が見える 大原孫三郎の生涯』のあらすじ・要約・感想
- 稀代の起業家の軌跡を辿る傑作伝記
- 東京専門学校での放蕩無頼と莫大な借金
- 富を社会へと還元する信念と大内兵衛の評価
- 山路愛山の言葉から始まった日曜講演会
- 児島虎次郎への支援と大原美術館の誕生
- 薬師寺主計と清水安三を支えた壮大なネットワーク
- 大原總一郎に遺した仕事のタイミングの真髄
- 先見の明を持つ大原孫三郎が現代に問いかけるもの
稀代の起業家の軌跡を辿る傑作伝記
城山三郎(しろやま・さぶろう、1927年~2007年)の筆致は常に鋭く、歴史の波間に埋もれかけた偉人たちの息遣いを現代に鮮やかに蘇らせる力を持っている。
彼が記した『わしの眼は十年先が見える 大原孫三郎の生涯』は、単なる伝記の枠を超えた、圧倒的な熱量を持つ人間ドラマである。
本作の主人公である大原孫三郎(おおはら・まごさぶろう、1880年~1943年)は、日本が近代国家としての歩みを進める激動の時代において、途方もないスケールで事業を展開した実業家だった。
岡山県倉敷市の出身である彼は、大地主であり倉敷紡績を営んでいた大原孝四郎(おおはら・こうしろう、1833年~1910年)の三男として生を享けた。
彼の名前は、かつての豪商であった祖父の大原壮平(おおはら・そうへい、?~1882年?)にあやかり「孫三郎」と名付けられたものである。
この名前には、大原家という巨大な財を成した一族の期待が、ずっしりと込められていたに違いない。
しかし、彼の人生は最初から順風満帆な優等生の道筋を辿ったわけではなかった。
むしろ、若き日の彼は周囲の期待を大きく裏切るような、無軌道な日々を送ることになる。
その規格外の行動力は、後に彼が成し遂げる偉業の片鱗であったと見ることもできるだろう。
城山の巧みな文章は、そうした彼の人間臭さや、矛盾に満ちた魅力を見事に描き出している。
本書は、先の見えない現代を生きる私たちにとって、極めて重要な示唆を与えてくれる一冊である。
彼がどのようにして自らの運命を切り開き、巨大な富を築き、そしてそれを社会へと還元していったのか。
その足跡を辿ることは、単なる過去の歴史を学ぶことにとどまらない。
それは、私たちがどのように生き、どのように他者と関わり、どのような未来を描くべきかという根源的な問いに対する、一つの力強い答えを提示しているのである。
大原財閥を築き上げた彼の生涯は、驚きと感動の連続であり、ページをめくる手が止まらなくなることだろう。
これから、本書に描かれた彼の途方もない人生の軌跡と、その根底に流れる哲学について、深く掘り下げていきたい。
日本の近代化といううねりの中で、彼がいかにしてその荒波を乗りこなし、新たな価値を創造していったのかを紐解くことは、現代における様々な課題に対するヒントを与えてくれるはずである。
彼の歩んだ道は、決して平坦なものではなかったが、その一歩一歩には確かな信念と情熱が刻み込まれていた。
私たちはこの稀代の起業家の物語を通じて、人間の持つ無限の可能性と、社会に対する責任の重さを改めて学ぶことができるのである。
東京専門学校での放蕩無頼と莫大な借金
若き日の大原孫三郎は、郷里の倉敷を離れ、東京という大都会の喧騒の中で、その持て余したエネルギーを爆発させていた。
彼は倉敷小学校、窪屋郡組合立高等小学校、閑谷黌といった教育機関を経て、1897年に東京専門学校に入学することになる。
この東京専門学校とは、現在の早稲田大学の前身にあたる、当時のエリートたちが集う学び舎であった。
しかし、彼はそこで学問に励むことはなく、ほとんど講義には出席せずに、ひたすら放蕩の限りを尽くしたのである。
当時の彼を取り巻く環境は、地方の豪商の御曹司という特権的なものであり、その気になればいくらでも金を使うことができた。
その結果として彼が抱え込んだ借金は、実に1万5千円という当時では途方もない金額に膨れ上がっていた。
この金額がどれほどのものか、現代の貨幣価値に換算してみなければ、その真の恐ろしさは実感できないだろう。
本書の解説を務めた経済評論家の神﨑倫一(こうざき・りんいち、1926年~2009年)は、この莫大な借金について次のように述べている。
借りも借りたり一万五千円というのはスゴい。今の感覚では十億円を超す。(P.282「ノブレス・オブリージュ」)
この神崎倫一の解説が書かれた1997年当時の感覚で10億円を超えるということは、約30年後の現在であれば、物価の変動などを考慮するとさらに膨らむことになる。
色々と調査したところ、現在の価値に換算すれば、およそ11億円以上といった規模になるようだ。
一介の学生が、遊興費だけでこれほどの負債を抱え込むというのは、もはや常軌を逸しているとしか言いようがない。
彼は1901年に父親の大原孝四郎によって東京から倉敷へと連れ戻され、東京専門学校を中退したうえで、厳しい謹慎処分を受けることとなった。
普通の人間であれば、ここで人生の落伍者として静かに余生を送るか、一族の鼻つまみ者として日陰を歩くことになるだろう。
しかし、彼はこの絶望的な状況から見事に立ち直り、後に日本の産業史にその名を刻む大実業家へと変貌を遂げるのである。
この劇的な変化の裏には、彼自身の内面における深い挫折と、そこから這い上がろうとする強烈な意志の力があったことは想像に難くない。
放蕩無頼の極みから、社会を牽引するリーダーへの飛躍。
この極端な振り幅こそが、彼という人間の底知れぬ器の大きさを物語っているのである。
若き日の過ちは、彼にとって単なる汚点ではなく、人間の欲望と悲哀を深く理解するための、高価な授業料だったのかもしれない。
そして、この途方もない失敗を経験したからこそ、後の彼は他者の弱さや苦しみに対して、深く共感できる人間へと成長を遂げることができたのだ。
どん底を味わった者だけが持つ独特の凄みと包容力が、彼のリーダーシップの源泉となっていったのである。
富を社会へと還元する信念と大内兵衛の評価
倉敷に戻り、実業家としての歩みを始めた大原孫三郎は、倉敷紡績をはじめとする数々の企業を率いて、莫大な富を築き上げていく。
彼は倉敷毛織、倉敷絹織、中国合同銀行、中国水力電気会社などの社長を歴任し、大原財閥と呼ばれる巨大な企業グループを形成した。
しかし、彼の真の偉大さは、その築き上げた富を自らの欲望のために溜め込むことなく、社会のために惜しみなく還元し続けた点にある。
マルクス経済学者であり、後に法政大学の総長も務めた大内兵衛(おおうち・ひょうえ、1888年~1980年)は、大原社会問題研究所の嘱託として彼と深く関わった人物である。
資本家と労働者の階級闘争を説くマルクス主義の権威であった大内兵衛が、資本家の筆頭とも言える人物を評価している事実は、極めて特筆すべきことである。
大内兵衛は、彼のあり方について、非常に的確かつ感銘深い言葉を残している。
もう一度申します。金を儲けることにおいては大原孫三郎よりも偉大な財界人はたくさんいました。しかし金を散ずることにおいて高く自己の目標をかかげてそれに成功した人物として、日本の財界人でこのくらい成功した人はなかったといっていいでしょう(P.14「はじめに」)
この言葉は、彼の凄さを端的に、そして完璧に表現している部分である。
資本主義の黎明期において、利益を追求し、巨万の富を築いた実業家は確かに他にも数多く存在した。
しかし、稼いだ金をどのように使うか、いかにして社会のために「散ずる」かという点において、彼に匹敵する人物は皆無であったと言ってよい。
彼は、財団法人石井記念愛染園や倉紡中央病院など、数々の社会事業や文化事業を次々と立ち上げていった。
そこには、慈善事業家として知られる石井十次(いしい・じゅうじ、1865年~1914年)との運命的な出会いが大きく影響している。
石井十次は岡山孤児院を創設し、貧しい子供たちの救済に生涯を捧げた人物である。
大原孫三郎は、石井十次の無私の精神と行動力に深く打たれ、自らの富を彼の事業のために惜しみなく注ぎ込む決意をしたのである。
ただ単にお金を寄付するだけでなく、自らが経営者として培った組織作りのノウハウや人脈を駆使して、社会事業を持続可能なものへと育て上げていった。
企業の利益は、最終的には社会を良くするために使われなければならないという、強烈な信念が彼の中には確固として存在していたのだ。
現代の企業がこぞって掲げる社会貢献活動の概念を、彼は遥か昔の明治・大正期において、すでに完璧な形で実践していたのである。
私財を投じて社会の課題に立ち向かう彼の姿勢は、真のノブレス・オブリージュを体現したものであった。
利益の独占を許さず、広く世の中へと利益を分配し続けるその手法は、現代の経済社会においても全く色褪せることなく、私たちに強い警鐘を鳴らしている。
山路愛山の言葉から始まった日曜講演会
大原孫三郎の関心は、単なる産業の振興や貧困の救済にとどまらず、人々の精神を豊かにするための文化事業にも広く向けられていた。
その代表的な取り組みの一つが、倉敷の地で長年にわたって開催された日曜講演会である。
この講演会は、ある一つの小さな会話から始まった。
彼は石井十次を通じて、評論家であり歴史家でもあった山路愛山(やまじ・あいざん、1865年~1917年)が、信濃毎日新聞で日曜講演会を推奨しているという話を聞きつけたのである。
その情報に触れた瞬間、彼はすぐさま倉敷でも同様の試みを実施しようと決断した。
ここにも、彼特有の素早い行動力と、思い立ったら即座に実行に移す並外れた実行力が遺憾なく発揮されている。
しかし、驚くべきは単に講演会を開催したことではなく、そこに招かれた講師陣の顔ぶれの豪華さである。
講師には、石井の旧知の徳富蘇峰をはじめ、新渡戸稲造、金原明善、大隈重信、留岡幸助、海老名弾正、江原素六、志賀重昂、桑木厳翼、山路愛山、高田早苗といった当時の日本を代表する知識人が揃った。(P.87「不学の大学者」)
ジャーナリストの徳富蘇峰(とくとみ・そほう、1863年~1957年)をはじめ、教育者の新渡戸稲造(にとべ・いなぞう、1862年~1933年)、実業家の金原明善(きんぱら・めいぜん、1832年~1923年)、政治家の大隈重信(おおくま・しげのぶ、1838年~1922年)など、そうそうたる面々が名を連ねている。
さらに、社会事業家の留岡幸助(とめおか・こうすけ、1864年~1934年)、思想家の海老名弾正(えびな・だんじょう、1856年~1937年)、政治家の江原素六(えばら・そろく、1842年~1922年)も倉敷に足を運んだ。
加えて、地理学者の志賀重昂(しが・しげたか、1863年~1927年)、哲学者の桑木厳翼(くわき・げんよく、1874年~1946年)、教育者の高田早苗(たかだ・さなえ、1860年~1938年)といった、当時の日本を牽引する最高峰の知識人たちが次々とこの地方都市を訪れたのである。
交通網が現代ほど発達していなかった時代に、これだけの一流の人物たちを東京から遠く離れた倉敷まで招致できたことは、奇跡に近い。
当時の地方都市においては、東京のような中央で発信される最新の思想や情報に触れる機会は極めて限られていた。
彼は、自らの財力だけでなく、持ち前の粘り強い交渉力と、人間的魅力を武器にして、彼らを説得して回ったに違いない。
結果として、この日曜講演会は24年間もの長きにわたり、実に76回も開催されることとなった。
地方の人々に、世界や日本を動かす最先端の知識と教養に直接触れる機会を提供し続けたのである。
これは、彼がいかに教育と文化の力を信じ、人々の精神的向上を願っていたかを示す、非常に象徴的な出来事である。
地方創生や文化の均等な発展が叫ばれる現代において、彼のこの取り組みは、何が本当に地域社会を豊かにするのかという問いに対する、一つの大きな模範解答となっているのである。
児島虎次郎への支援と大原美術館の誕生
大原孫三郎の文化に対する情熱は、芸術の分野において最も美しく、そして永遠の形で結実することになる。
それが、日本初の西洋美術中心の私立美術館として広く知られる、大原美術館の設立である。
この美術館の誕生の裏には、彼と一人の才能あふれる画家との、深く美しい友情の物語が存在している。
その画家とは、洋画家の児島虎次郎(こじま・とらじろう、1881年~1929年)である。
児島虎次郎は岡山県高梁市成羽町の出身であり、東京美術学校で西洋画を学んでいた。
大原家の奨学生となった彼は、大原孫三郎の全面的な支援を受けて、ヨーロッパへと留学する機会を得ることになる。
彼はベルギーのゲント美術アカデミーに入学し、見事首席で卒業を果たすほどの並外れた才能の持ち主であった。
留学中、彼は自らの画業の傍らで、日本の人々に本物の西洋美術を見せたいという強い情熱に駆られ、美術品の収集を始める。
彼は、ヨーロッパから大原孫三郎に対して何度も手紙を送り、作品購入のための資金援助を求めた。
その際、彼が送った電報の返信こそが、本書の章題にもなっている有名な「エヲカッテヨシ カネオクル」という言葉である。
資金の心配をせずに良い作品を買い集めろという、パトロンとしての揺るぎない信頼と度量の大きさが伝わってくる素晴らしいエピソードである。
そうして収集されたエル・グレコ(El Greco、1541年~1614年)やクロード・モネ(Claude Monet、1840年~1926年)といった巨匠たちの名画は、計り知れない価値を持って日本へと持ち帰られた。
しかし、志半ばにして児島虎次郎は病に倒れ、この世を去ってしまう。
児島の死後、孫三郎の命で、この薬師寺が大原美術館を設計することになる。(P.178「「エヲカッテヨシ カネオクル」」)
親友であり、芸術という夢を共有した同志の死を深く悼んだ彼は、児島虎次郎が収集した美術品を展示するための美術館の建設を決意する。
その設計を任されたのが、建築家の薬師寺主計(やくしじ・かずえ、1884年~1965年)であった。
薬師寺主計もまた、大原奨学金を得て東京帝国大学を出た優秀な建築技師であり、フランスで児島虎次郎と出会っていた人物である。
深い縁で結ばれた人々が集い、一人の画家の情熱と、一人の実業家の無償の愛が融合して、ギリシャ神殿を思わせる荘厳な大原美術館が完成したのである。
近年、エル・グレコの「受胎告知」が約60年ぶりに修復されて話題を呼んだことや、モネの自宅から株分けされた睡蓮が中庭の池で美しい花を咲かせていることからも、この美術館の歴史的価値の高さが窺える。
彼が蒔いた芸術の種は、百年という途方もない時間を超えて、今もなお倉敷の地で美しい花を咲かせ続けているのである。
文化を保護し、それを万人に開かれたものとする彼の精神は、大原美術館の存在を通じて、未来永劫語り継がれていくことだろう。
薬師寺主計と清水安三を支えた壮大なネットワーク
大原孫三郎の支援の輪は、単なる芸術分野にとどまらず、教育、医療、科学研究など、驚くべき広がりを見せていた。
彼が設立した研究機関の数々、例えば大原奨農会農業研究所や倉敷労働科学研究所などは、当時の日本の学術研究を大きく前進させる原動力となった。
彼の人材育成に対する情熱の原点は、父である大原孝四郎の時代から連綿と続けられてきた大原奨学金の制度にある。
この奨学金によって、多くの有為な若者たちが学びの機会を得て、社会の第一線へと巣立っていったのである。
前述の児島虎次郎や薬師寺主計もその恩恵を受けている人物たちであり、またドイツに渡った生理学者・産業医学者の暉峻義等(てるおか・ぎとう、1889年~1966年)も同様である。
暉峻義等もまた、後に大原社会問題研究所の創立に際して所員として招かれ、日本の労働環境の改善に多大な貢献を果たすことになる。
大原孫三郎の周囲には、彼を慕い、彼の理念に共鳴する優秀な人材が、磁石に吸い寄せられるように集まってきたのである。
また、彼の支援は国境を越え、海外で活動する教育者にも及んでいた。
こうして清水は孫三郎の世話でアメリカに渡り、オハイオ州オベリン大学へ二年間の留学。オベリンの名に因む桜美林学園を後に創設することになる。(P.181「「エヲカッテヨシ カネオクル」」)
ここで登場する清水とは、教育者であり牧師でもあった清水安三(しみず・やすぞう、1891年~1988年)のことである。
清水安三が北京に滞在していた際、中国を視察に訪れた大原孫三郎の案内役を務めたことが、二人の不思議な縁の始まりであった。
大原孫三郎は、貧しい中国人女子児童のために崇貞学園を設立するなど、献身的に活動する清水安三の姿に深く感銘を受けた。
そして、彼がさらに深い教育の知識を得るためにアメリカへ留学したいと望んだ時、その莫大な費用を惜しげもなく支援したのである。
それにしても、大原孫三郎は本当に多種多様な人物たちを支援していることに、ただただ驚かされるばかりである。
彼の目は、肩書きや身分ではなく、その人物の内面にある情熱と志の高さを確実に見抜いていたに違いない。
その結果として誕生した桜美林学園は、現在も日本の重要な教育機関として多くの若者たちを育て続けている。
彼が築き上げた壮大な人的ネットワークは、単なる資金のやり取りではなく、より良い社会を創り上げようとする熱い魂の連鎖であったと言えるだろう。
投資すべき対象が何であるかを的確に見抜く彼の洞察力は、企業経営だけでなく、人材育成においても大いに発揮されていたのである。
大原總一郎に遺した仕事のタイミングの真髄
大原孫三郎の経営哲学は、彼の長男であり、後に大原財閥の事業を引き継ぐことになる大原總一郎(おおはら・そういちろう、1909年~1968年)へと受け継がれていった。
大原總一郎は、岡山県の第六高等学校から東京帝国大学へと進み、経済学部を卒業後、倉敷レイヨンや倉敷紡績の社長を歴任した人物である。
彼は戦後の日本経済の復興と発展に極めて重要な役割を果たした実業家であり、偉大な父の背中を追いかけながらも、独自の道を切り開いていった。
偉大な父を持つことの重圧は並大抵のものではなかったはずだが、彼は父の教えを胸に深く刻み込み、自らも独自の経営手腕を存分に発揮していった。
城山三郎は本書の中で、晩年の大原孫三郎が息子に対して語った、仕事のタイミングに関する非常に興味深いアドバイスを紹介している。
總一郎がまた晩年の父孫三郎からよく聞かされたのは、「十人の人間の中、五人が賛成するようなことは、たいてい手おくれだ。七、八人がいいと言ったら、もうやめた方がいい。二、三人ぐらいがいいという間に、仕事はやるべきものだ」(P.251「いちばんの傑作」)
この言葉は、新規事業に乗り出す際のタイミングを見極めるための、極めて実践的かつ普遍的な真理を突いていると私は考える。
仕事のタイミングのアドバイスとして、これほど面白いものはないだろう。
大多数の人間が賛成し、安全だと判断するような事業は、すでに市場での競争が激化しており、先行者利益を得ることは難しい。
誰もが気づく前に、わずかな可能性を信じて行動を起こさなければ、真の成功を掴むことはできないという厳しい教えである。
これは現代の激しく変化する経済環境においても、全く色褪せることのない黄金律と言えるだろう。
大原總一郎が、日本初の合成繊維であるビニロンの工業化という困難な事業に挑戦した時、周囲の状況はまさにこの教えの通りであったという。
さらに大原孫三郎は、「一人もいいと言わないときにやると、危ない」とも付け加えていたそうだ。
独善に陥ることなく、少数の理解者の声に耳を傾けつつも、最後は自らの信念で決断を下すというバランス感覚が求められている。
益々、含蓄のある発言であり、何度でも反芻したくなる重みを持っている。
卓越した先見性と、それを裏付ける冷徹な現状分析の能力こそが、大原孫三郎を稀代の経営者たらしめた最大の要因なのである。
彼の言葉は、新しい挑戦を前にして足踏みをしているすべての者の背中を、力強く押してくれるに違いない。
現状維持を打破し、未知の領域へと踏み出す勇気を与えてくれるこの哲学は、あらゆる時代のリーダーたちにとってのバイブルとなるだろう。
先見の明を持つ大原孫三郎が現代に問いかけるもの
城山三郎が丹念な取材と圧倒的な筆力で紡ぎ出した本書を読み終えた時、読者は誰しもが深い感嘆のため息を漏らすことだろう。
大原孫三郎という人物の途方もないスケール、そしてその遺志を継いだ大原總一郎の並々ならぬ覚悟。
この二人の親子の生き様は、本当に凄いの一言に尽きる。
私自身、読み進めるごとに予想以上の感動を覚え、彼らの熱量に圧倒され続けた作品であった。
同時に、膨大な資料を読み解き、彼らの複雑な人間性をこれほどまでに魅力的な物語として再構築した、城山三郎も凄いなと改めて敬意を表したい。
大原孫三郎は、己の利益だけを追求するのではなく、常に社会全体の幸福を考え、十年先、あるいは百年先の未来を見据えて行動し続けた。
彼が設立した病院や研究所、そして美術館は、決して彼個人の名誉を飾るための記念碑ではない。
それは、病に苦しむ人々を救い、労働者の権利を守り、人々の心に豊かな芸術の光を灯すための、生きた装置なのである。
フランス語に「ノブレス・オブリージュ」という言葉があるが、まさに彼はその「持てる者の義務」を、日本の風土の中で誰よりも真摯に体現した人物であった。
彼の生涯に触れることで、私たちは自分自身の生き方を深く問い直さざるを得なくなる。
私たちは、彼のように遠くの未来を見つめ、他者のために何かを残そうと努力しているだろうか。
現代という時代は、情報の波に飲まれ、目先の利益や効率ばかりが優先されがちである。
だからこそ、彼のように確固たる信念を持ち、自分の眼で本質を見極めようとする姿勢が、かつてないほどに求められているのだ。
本書を通じて彼の精神に触れた後は、ぜひとも岡山県の倉敷へと足を運んでみてほしいと強く思う。
大原美術館や、赤レンガの建物を生かした空間で紡績業の歩みや倉敷の近代産業に関する資料を見られる倉紡記念館などに行ってみたいと思う。
美しい倉敷美観地区の街並みの中に佇むそれらの施設を実際に訪れることで、彼の息遣いや情熱をより身近に感じることができるはずである。
そこで触れる芸術作品や歴史の足跡は、本を読んだ後の感動をさらに深いものへと昇華させてくれるに違いない。
『わしの眼は十年先が見える 大原孫三郎の生涯』は、迷い多き現代を生きるすべての人々に、強く、そして優しく生きるための道標を与えてくれる、不朽の傑作である。
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書籍紹介
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関連スポット
大原美術館:大原孫三郎、児島虎次郎
大原美術館は、岡山県倉敷市にある美術館。大原孫三郎が支援していた洋画家の児島虎次郎に託して収集した西洋美術や古代エジプト美術、中近東美術、中国美術を展示するために、1930年に開館。日本で最初に、西洋美術、近代美術を常設展示する美術館。
公式サイト:大原美術館
倉紡記念館:大原孫三郎、大原總一郎
倉紡記念館は、岡山県倉敷市にある倉敷紡績の企業博物館。1969年に、創業80周年を記念して開設し、1971年に一般公開。倉敷紡績は大原家などの出資を受けて設立。初代社長は大原孝四郎、二代目社長は大原孫三郎、四代目社長は大原總一郎。
公式サイト:倉紡記念館
文化のみち二葉館:城山三郎
文化のみち二葉館(ふたばかん)は、愛知県名古屋市東区橦木町にある展示施設。旧川上貞奴邸(きゅうかわかみさだやっこてい)とも呼ばれる。2階には、名古屋にゆかりのある文学資料室があり、城山三郎の関連資料や復元された書斎なども展示されている。
公式サイト:文化のみち二葉館








