『等伯』安部龍太郎

安部龍太郎の略歴

安部龍太郎(あべ・りゅうたろう、1955年~)
小説家。
福岡県八女市の生まれ。久留米工業高等専門学校機械工学科を卒業。
2004年『天馬、翔ける』で第11回中山義秀文学賞、2013年『等伯』で第148回直木賞を受賞。

『等伯』の目次

【上巻】
第一章 京へ
第二章 焦熱の道
第三章 盟約の絵
第四章 比翼の絆
第五章 遠い故郷
第六章 対決

【下巻】
第六章 対決(承前)
第七章 大徳寺三門
第八章 永徳死す
第九章 利休と鶴松
第十章 「松林図」
解説 島内景二

概要

2015年9月10日に第一刷が発行。文春文庫。上下巻。上巻が374ページ。下巻が406ページ。

2012年9月に日本経済新聞出版社から刊行された単行本を文庫化。

もともとは、2011年1月22日から2012年5月13日まで日本経済新聞朝刊に掲載。

安土桃山から江戸初期の時代にかけて活躍した絵師・長谷川等伯(はせがわ・とうはく、1539年~1610年)の人生を描いた作品。

最大のライバルである狩野永徳(かのう・えいとく、1543年~1590年)との対決。

最高権力者は、豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし、1537年~1598年)。最高文化人は、公家の近衛前久(このえ・さきひさ、1536年~1612年)。

茶人・千利休(せんのりきゅう、1522年~1591年)との交流も。

解説には国文学者の島内景二(しまうち・けいじ、1955年~)。長崎県生まれ。東京大学文学部国文科を卒業、東京大学大学院博士課程を単位取得満期退学。後に博士を取得。

絵師としての業を背負いつつ果敢にも絵に人生を捧げた長谷川等伯の一生を描いた作品。

感想

何となく長谷川等伯の名前は知っていた程度。

2020年10月に東京国立博物館の「桃山―天下人の100年」の企画展で長谷川等伯の「松林図屏風」を鑑賞。

その人物の事を知りたいと思っていて、手に取ったのがこの安部龍太郎の『等伯』

長谷川等伯は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師。狩野永徳たちらと並び桃山時代を代表する画人。

現在の石川県七尾市、能登国・七尾の生まれ。千利休や豊臣秀吉に重用された。

作品では、他の登場人物たちもキャラクター造形が素晴らしかった。それぞれの事情や背景などもありつつ、物語は進み、さまざまな思惑や欲望、業などが絡まっていく。

心に残る文章も数多くあった。

結局の所、観賞するというのは、その鑑賞者の思想や着眼点、枠組みでしかない。みたいな感じとか。

芸術家は、修羅の道というか、孤独の道、仏法的な求道者でなければ、ならない。みたいなのとか。

最終的には「松林図屏風」とは、此岸と彼岸との架け橋となっている水墨画であると認識した。

絵画や美術などに興味がある人にも非常にオススメの時代小説である。

書籍紹介

関連スポット

本法寺

本法寺は、京都市上京区にある長谷川等伯が住んでいた教行院の本寺。

1436年に日蓮宗の僧・日親(にっしん、1407年~1488年)が創建。庭園と宝物館が有名。長谷川等伯の佛涅槃図の複製が展示。

公式サイト:本法寺

智積院

智積院(ちしゃくいん)は、京都市東山区にある真言宗智山(ちさん)派の総本山。

収蔵庫に、長谷川等伯と、その子供で絵師・長谷川久蔵(はせがわ・きゅうぞう、1568年~1593年)の作品が展示。

根来山(ねごろざん)に建てられた塔頭寺院の一つだった智積院。豊臣秀吉の軍勢によって、根来山の堂塔のほとんどは無くなる。

智積院の住職・玄宥(げんゆう、1529年~1605年)が高野山へ逃れて、秀吉が亡くなった1598年に京都東山に再興の一歩を踏む。

1601年、豊国神社の境内の坊舎と土地が、徳川家康(とくがわ・いえやす、1543年~1616年)によって与えられ、現実的に智積院が再興。

公式サイト:智積院

大徳寺

大徳寺は、京都市北区にある臨済宗大徳寺派の大本山。

宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう、1283年~1338年)が開基で、1325年に創立。金毛閣の天井や柱に長谷川等伯が絵を描いたという史実がある。

その他に、13世紀後半の中国の僧で水墨画家の牧谿(もっけい、生没年不詳)や、後醍醐天皇(ごだいごてんのう、1288年~1339年)に関連した文化財も。また、一休宗純(いっきゅうそうじゅん、1394年~1481年)や千利休との縁も。

特に公式のホームページは無い。三門、仏殿、法堂は無料で、参拝可能。特別拝観などで、方丈や庭園などに入場できる場合も。