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城山三郎『ビッグボーイの生涯 五島昇その人』あらすじ・感想

城山三郎『ビッグボーイの生涯 五島昇その人』表紙

書籍紹介

  1. 五島昇は父・慶太の巨大な影を超え、最期を「にぎやかに」演出して見送るなど、複雑な親子愛を貫いた。
  2. 正力松太郎の「人に相談するな」という言葉を胸に、孤独な決断で東急グループを率いた。
  3. 文化人との交流や日生劇場支援、東急ハンズ・109など、経済と文化・新しい消費を融合させた。
  4. 日本商工会議所会頭として財界を牽引し、慎ましい墓に眠るまで、時代を切り拓いた巨星の生涯を描く。

城山三郎の略歴・経歴

城山三郎(しろやま・さぶろう、1927年~2007年)
小説家。本名は、杉浦英一(すぎうら・えいいち)。
愛知県名古屋市の出身。名古屋市立名古屋商業学校(現在の名古屋市立向陽高等学校)を経て、1945年に愛知県立工業専門学校(現在の名古屋工業大学)に入学。大日本帝国海軍に志願入隊し、海軍特別幹部練習生として、特攻隊である伏龍部隊に配属。
1946年に東京産業大学(現在の一橋大学)予科入学、1952年に一橋大学を卒業。
1957年に『輸出』で第4回文學界新人賞。
1959年に『総会屋錦城』で第40回直木賞。
1975年に『落日燃ゆ』で吉川英治文学賞、毎日出版文化賞。

五島昇の略歴・経歴

五島昇(ごとう・のぼる、1916年~1989年)
実業家。東京急行電鉄の社長・会長。日本商工会議所の会頭。東急グループの創業者・五島慶太(ごとう・けいた、1882年~1959年)の長男。
東京都千代田区神田駿河台の生まれ。学習院初等科、中等科、高等科を経て、東京帝国大学経済学部を卒業。東京芝浦電気を経て、東京急行電鉄に入社。

『ビッグボーイの生涯 五島昇その人』の目次

一 無表情な男
二 勉強会のパン係
三 にぎやかな生と死
四 信長の再来
五 はげしい人事
六 休んで走る
七 「好きなようにやれ」
八 単独行
九 新会頭は走る
十 後継者指名
十一 第四の人生
あとがき
解説 高野昭

『ビッグボーイの生涯 五島昇その人』の概要・内容

1997年5月15日に第一刷が発行。講談社文庫。243ページ。

副題は「五島昇その人」。

月刊『現代』1992年2月号~12月号の連載が初出。

1993年5月20日に刊行された単行本を文庫化したもの。

解説は、読売新聞社の高野昭(たかの・あきら?、1927年~2011年)。東京都の出身。早稲田大学英文科を卒業。読売新聞社に入社。文化部記者、次長、部長、編集局参与。日本文芸家協会の事務局長などを歴任した人物。

『ビッグボーイの生涯 五島昇その人』のあらすじ・要約・感想

  • 巨大な父の影と別れの美学
  • 孤独なる頂点と決断の真理
  • 変化する時代と自己の確立
  • 多彩な交友と文化への貢献
  • 財界における卓越した政治力
  • 新しい消費文化と先見的な創造
  • 静かなる境地と永遠の記憶
  • まとめ:歴史に名を刻んだ不世出の巨星

日本という国家が戦後の荒廃から立ち上がり、未曾有の経済成長を成し遂げていく激動の時代において、経済界を牽引し続けた稀代の経営者が存在した。

彼の生涯を深く掘り下げることは、単なる一個人の伝記を読むという枠を超え、日本の近代経済史そのものを追体験するような壮大な知の旅となるだろう。

今回取り上げるのは、日本のビジネス界に多大なる影響を与えた人物の素顔に迫る傑作『ビッグボーイの生涯 五島昇その人』という一冊である。

著者は、経済小説という独自の分野を開拓し、数多くの実業家たちの生き様を鮮烈に描き出してきた城山三郎(しろやま・さぶろう、1927年~2007年)である。

冷徹な事実関係の調査に基づきながらも、血の通った人間の心の機微をすくい上げる著者の筆致は、多くの読者を魅了してやまない。

本書が主題としている五島昇(ごとう・のぼる、1916年~1989年)は、東京急行電鉄という巨大な企業グループを率い、日本商工会議所の会頭まで務め上げた傑出した実業家である。

彼は東京都千代田区神田駿河台という由緒ある地に生まれ、学習院の初等科から高等科というエリートコースを歩んだ後、東京帝国大学経済学部で深い学識を身につけた。

卒業後は、現在の東芝である東京芝浦電気に進む。

父親の五島慶太(ごとう・けいた、1882年~1959年)とは、距離を置いた関係であったこともあり、東急グループとは関係のない人生を送ろうとしていた。

しかし、家業を継ぐはずだった弟・五島進(ごとう・すすむ、1918年~1943年)が戦争で亡くなってしまう。

五島昇は、仕方なく東京急行電鉄に入社し、巨大組織の舵取りを担うこととなるのである。

容姿端麗にしてスポーツ万能、さらには尋常ならざる体力を誇り、日本国内にとどまらず海外においても精力的な企業活動を展開した彼のエネルギッシュな姿は、まさに時代を象徴するものであった。

さらに彼は、植物や星座に関する広範な知識を有し、ハワイでのリゾート開発やゴルフ、釣りといった多彩な趣味を持つなど、実業家という枠に収まらない豊かな人間性を備えていた。

この重厚な一冊を通じて、一人の偉大なリーダーがいかにして己の信念を貫き、時代を切り拓いていったのかを、多角的な視点から詳細に読み解いていきたいと思う。

巨大な父の影と別れの美学

彼の生涯を語る上で絶対に避けて通れないのが、強烈な個性と実行力で東急グループの礎を築き上げた偉大なる父親、五島慶太の存在である。

父親は、数々の企業買収や激しい競争を勝ち抜き、鉄道事業を核とした巨大なコングロマリットを形成した伝説的な経営者であり、その圧倒的な存在感は二代目にとって重圧でもあったはずだ。

しかし、父と子の関係性は単なる反発や服従という単純なものではなく、深く複雑な愛情と尊敬によって結びついていたことが、本書の端々から読み取ることができる。

特に心を打たれるのが、日本の経済界に君臨した巨星がこの世を去ろうとするその瞬間の、あまりにも劇的で美しい情景である。

「にぎやかに送って上げなくては」
の声が出た。
「にぎやかに生き、にぎやかに死にたい」
それが慶太の口癖であったからである。(P.69「にぎやかな生と死」)

父親の最期の場面において、息子は自ら手配し、病室にチャッキリ節の陽気なレコードを響き渡らせたという事実には、深い感動を覚えざるを得ない。

さらに、父親が愛飲していたオールドパーというウイスキーでその乾いた唇を優しく湿らせたというエピソードは、二人の間に通底する人生への粋な態様を見事に表している。

「にぎやかに生き、にぎやかに死にたい」という言葉を日常から口にし、その通りの最期を演出されるような人生の在り方は、人間としての一つの理想的な到達点であろう。

悲しみに暮れるだけでなく、父親の生き様を尊重し、最期までその美学を貫かせて見送った息子の度量と、それに賛同した親族、友人たちの温かさもまた、計り知れないほど素晴らしいものである。

このように徹底して「にぎやかに」自分らしく生きていくことができれば、それは最高に充実した輝かしい人生となるはずであり、私自身も深く目指していきたいと強く感じる。

孤独なる頂点と決断の真理

父親という巨大な後ろ盾を失い、文字通り巨大グループの命運を一身に背負うことになった新たなトップには、想像を絶する孤独と重圧がのしかかっていた。

組織の頂点に立つ人間がどのように考え、どのように振る舞うべきかという本質的な問いに対して、ある大物からの言葉が決定的な指針を与えている。

父の葬儀が終わった後、昇は父の大学時代からの旧友、正力松太郎を訪ねた。短く挨拶を交わしただけであったが、そのとき正力は、せきこむようにして昇に言った。
「昇君、いちばん大事なことは人に相談するなよ」(P.75「信長の再来」)

ここで登場する正力松太郎(しょうりき・まつたろう、1885年~1969年)は、内務官僚から実業家へと転身し、読売ジャイアンツの初代オーナーや日本テレビの創立者としてメディア界を席巻した怪物的な人物である。

その彼が、これから荒波に乗り出そうとする若き後継者に対して贈ったこの一言には、幾多の修羅場を潜り抜けてきた権力者ならではの冷徹な真理が隠されている。

トップに立つ人間は、最も重要で決定的な局面において、安易に他者に相談を持ちかけてはならないという戒めは、経営学や組織論の観点からも極めて重要である。

なぜなら、巨大な組織を動かしていく過程においては、必ずと言っていいほど関係者の思惑が交錯し、意図せぬ横槍が入ったり、予期せぬ力学が働いて物事が停滞するからだ。

社内外の複雑な政治的な動きや、長年培われてきた人間関係のしがらみは、時として合理的な経営判断を鈍らせ、組織を誤った方向へと導く危険性を孕んでいるのである。

本当に大切な決断は、最終的な責任を全て引き受ける覚悟を持った者だけが、深い孤独の中で自ら下さなければならないということを、この短い言葉は見事に言い当てている。

その忠告を胸に刻み、彼は数々の困難な経営課題に対して自らの直感と論理を信じ、時に周囲が驚くような果断な決断を次々と下していくことになるのだった。

変化する時代と自己の確立

経営者としての経験を重ねる中で、彼は自らの経営スタイルを確立し、父親の時代の強引な手法とは異なる、より現代的で洗練された組織運営を模索していく。

興味深いのは、著者がかつて若き日の彼にインタビューを行った際の、生々しくも率直な印象が語られている部分である。

この当時、わたしも銀座東急一〇〇一号室で昇と対談しているが、ほとんど印象に残っていない。もともとシャイなところのある昇が、その上、脂で蔽われていたせいかも知れない。(P.109「はげしい人事」)

多くの名経営者たちと対峙し、その本質を見抜いてきた著者が、彼との対談についてはほとんど印象に残っていないと述懐しているのは、非常に意外であり面白い事実である。

財界の集まりや秘密裏の会合などで頻繁に使用されていたという、銀座東急の1001号室という特別な空間で交わされた言葉が記憶に薄いというのは、当時の彼の状態をよく表しているのだろう。

昭和40年から46年辺り、西暦で言えば1965年から1971年頃の高度経済成長期の真っただ中において、彼はまだ自己を確立する途上にあり、ギラギラとした野心や重圧という脂で蔽われていたのかもしれない。

生来のシャイな性格と、巨大組織を牽引しなければならないという気負いが混ざり合い、独自のカリスマ性がまだ洗練されていなかった時期の貴重な証言と言える。

しかし、このような無骨な時代を経てこそ、後に彼が獲得していく軽やかで洗練されたスマートな経営手法や、人間としての底知れぬ魅力が形成されていったのだと推測できる。

挫折や苦悩、そして自らの殻を打ち破ろうとするもがき苦しむ過程があったからこそ、彼は単なる世襲の経営者という枠を超えて、独自の確固たる地位を築くことができたのである。

多彩な交友と文化への貢献

彼の活動範囲は、単なる企業の利益追求という経済活動だけにとどまらず、文化や芸術の振興という精神的な領域にも広く及んでいた。

ビジネスの厳しい世界で戦う一方で、彼は第一線で活躍する数多くの文化人たちと深い交流を持ち、彼らの活動を物心両面から力強く支援していたのである。

また、昇は日生劇場の後援者として浅利慶太や石原慎太郎らと親しくなり、さらに財界文壇ゴルフ会をつくって、井上靖、柴田錬三郎、源氏鶏太、横山隆一、泰三、生沢朗らの文士や画家ともつき合った。(P.163「単独行」)

ここに名を連ねる人物たちの顔ぶれを見るだけでも、彼が構築していたネットワークの途方もない広さと、文化に対する深い造詣の念が伝わってくるはずだ。

劇団四季を創設し日本の演劇界に革命を起こした浅利慶太(あさり・けいた、1933年~2018年)や、後に東京都知事としても剛腕を振るう作家の石原慎太郎(いしはら・しんたろう、1932年~2022年)との親交は、彼の新しい才能を見抜く眼力を示している。

さらに、歴史小説の巨匠である井上靖(いのうえ・やすし、1907年~1991年)、剣豪小説で一世を風靡した柴田錬三郎(しばた・れんざぶろう、1917年~1978年)、サラリーマン小説の先駆者である源氏鶏太(げんじ・けいた、1912年~1985年)といった日本文学史に輝く文豪たち。

加えて、国民的な人気を誇った漫画家の横山隆一(よこやま・りゅういち、1909年~2001年)や、鋭い風刺画で知られる横山泰三(よこやま・たいぞう、1917年~2007年)、独創的な画風の生沢朗(いくざわ・ろう、1906年~1984年)といった美術界の重鎮たち。

これら多種多様な天才たちと、財界文壇ゴルフ会という場を通じて親交を深めていたという事実は、彼自身の人間的な器の大きさと懐の深さを何よりも雄弁に物語っている。

経済界のトップとしての金銭的なサポートはもちろんのこと、ゴルフというスポーツを通じて肩書きを越えたフラットな関係性を築いていたことは、極めて興味深いアプローチである。

利益だけを追い求めるのではなく、一流の文化や芸術に触れることで自らの感性を磨き、それを再び経営の場に還元していくという好循環が、彼の中には確かに存在していたのだろう。

日生劇場への支援に見られるような、長期的な視点に立った文化活動への投資は、企業としての社会的責任を果たすと同時に、彼自身の精神を豊かにする重要な要素であったに違いない。

財界における卓越した政治力

企業経営を盤石なものとした彼は、やがてその視野を日本経済全体へと広げ、財界活動においても持ち前の強烈なリーダーシップを発揮していくことになる。

その頂点の一つとも言えるのが、全国の中小企業を束ねる巨大な組織である日本商工会議所の会頭への就任という、栄誉ある出来事であった。

先輩の小山副会頭は、かねてから昇を支持してくれている。加えて、昇の強い推薦で、五年前には本田宗一郎が、三年前には瀬島龍三が副会頭陣に加わっている。(P.183「新会頭は走る」)

この引用部分からは、彼がどのような人物たちを周囲に配し、自らの支持基盤をいかにして強固なものに構築していったかという、高度な政治力の一端を垣間見ることができる。

ここで言及されている小山副会頭とは、三井銀行のトップを務めた財界の重鎮である小山五郎(こやま・ごろう、1909年~2006年)のことであり、彼のような実力者が後ろ盾となっている意義は非常に大きい。

さらに注目すべきは、彼自身の強い推薦によって、日本を代表する二人の傑物が副会頭という重要なポジションに引き上げられていたという事実である。

一人は、世界のモータリゼーションの歴史を変えた稀代の技術者であり経営者である本田宗一郎(ほんだ・そういちろう、1906年~1991年)である。

そしてもう一人は、大本営参謀としての苛烈な経験を経て、戦後は伊藤忠商事のトップとして総合商社を牽引した瀬島龍三(せじま・りゅうぞう、1911年~2007年)である。

昭和59年、すなわち1984年に彼が会頭に就任した際、これほどの圧倒的な実績を持つ人物たちが味方として脇を固めていたという事実は、彼の人心掌握術の凄まじさを証明している。

特に瀬島龍三に関しては、伊藤忠商事の内部構造の改革だけでなく、日本の政治経済の裏舞台において暗躍したとされるフィクサー的な側面を持つ人物であり、本書の中で度々登場することからもその重要性が窺える。

彼のような複雑な背景を持つ実力者を自らの陣営に引き入れ、組織の運営に活用していくしたたかさこそが、激動の昭和を生き抜いた経営者の真骨頂と言えるだろう。

さまざまな思惑が渦巻く財界という特殊な環境下において、彼は決して独断専行するのではなく、卓越した人物たちの力を借りながら巨大な組織を巧みにコントロールしていったのである。

新しい消費文化と先見的な創造

彼の経営者としての卓越性は、組織を拡大していく手法だけでなく、人々の生活様式の変化を鋭く感じ取り、新しい価値観を持った事業を次々と創出していった点にある。

高度経済成長期が終焉を迎え、大量生産・大量消費の時代から個人の多様な価値観が重視される時代へと移行していく中で、彼は明確なビジョンを提示した。

ニーズの時代が終わったいま、衣食住にとらわれず、生活全般にわたって楽しくクリエイティブなものを考え、それを経済的活動にとりこむ時期になっている。東急に即していえば、東急ハンズ、あるは渋谷に出した109という店の動きなどが、その一例である。(P.192「新会頭は走る」)

物質的な欠乏を満たすだけの「ニーズの時代」が終わり、精神的な豊かさや自己表現を求める時代が到来したことを、彼は誰よりも早く正確に把握していたのである。

彼が東京ファッション協会という組織を発足させ自ら会長に就任した際、そこで意図された「ファッション」とは、単なる流行の服装や装飾品などのことではなく、時代の風物やライフスタイル全体を包含する極めて広義な概念であった。

衣食住という生活の基本にとらわれることなく、生活そのものを楽しくクリエイティブな空間へと変革していくという思想は、当時の日本の小売業において画期的なものであった。

その思想が見事に結実したのが、後に都市の風景を一変させることになる「東急ハンズ」という革新的な業態の開発と展開である。

興味深いエピソードとして、この店舗の名称が当初は「東急ハンド」として提案されていたものを、「落ち着きがわるいし、両手を使うことだから」と彼自身が直接指示を出して「ハンズ」へと修正させたという事実がある。

この言葉の微細な調整にこそ、彼の鋭い感覚が表れている。

手作りの喜びや多様な素材を提供する場所としてのコンセプトを持ち、東急ハンズは予想以上の人気となったのである。

さらに、渋谷という街の文化的な中心地として若者たちの絶大な支持を集めることになる「109」や「Bunkamura」の立ち上げもまた、彼の時代を読む卓越した力と深い関係がある。

単なる商業施設の建設ではなく、新しい文化の発信地を作り出し、人々の行動様式そのものをデザインしていくという彼の先見性は、現代のマーケティング理論から見ても驚くべき高みに到達している。

時代のうねりや消費者の心の奥底にある微細な変化を的確に捉え、それを具体的なビジネスの形として社会に提示し続けた彼の手腕は、まさに天才的と呼ぶにふさわしい。

静かなる境地と永遠の記憶

波乱に満ちた激動の人生を駆け抜け、日本の経済界に巨大な足跡を残した彼も、やがて避けられない最期の時を迎え、静寂なる場所へと帰っていくことになる。

本書の終盤において、著者が彼の眠る場所を訪れ、その静かなる情景を描写している部分は、読み手に深い余韻と哲学的な思考をもたらしてくれる。

昇の墓は、九品仏の名で呼ばれる浄真寺に在る。(P.234「第四の人生」)

彼の永遠の安息の地が、世田谷区にある九品仏という名で広く親しまれている浄真寺という歴史ある寺院にあるという事実は、感慨深いものがある。

私自身も過去に、彼の父親・五島慶太が情熱を注いで設立した五島美術館で貴重な美術品を鑑賞したその帰路において、偶然にもこのお寺へとお参りをした経験があるため、不思議な縁の深さを感じずにはいられない。

あの静かで荘厳な空気が流れる境内に、生前あれほどの巨大なエネルギーを放ち続けた実業家が静かに眠っているという対比は、人生の儚さと尊さを同時に教えてくれる。

境内には、壮大な野望を抱き東急グループを創り上げた父親である五島慶太夫妻の墓石も建立されている。

しかし、著者が実際にその場所を訪れて深い感銘を受けたように、巨大な権力を握った五島昇の墓は、周囲の予想を裏切るほどに慎ましく、小さなものであったという。

生前は華やかな交友関係を持ち、莫大な資金を動かし、派手な事業展開を行ってきた彼が、自らの最期の場所としてあえて小さく控えめな墓を選んだという事実にこそ、彼の真の人間性が隠されているように思える。

どれほど物質的な成功を収めようとも、人間の最終的な帰結は自然の一部へと還っていくことであり、そこに過度な装飾は必要ないという彼なりの究極の悟りであったのかもしれない。

世俗の権力や名声から完全に解き放たれ、永遠の静寂の中へと溶け込んでいくその後ろ姿は、私たちに真の豊かさとは何かを静かに問いかけてくるのである。

まとめ:歴史に名を刻んだ不世出の巨星

ここまで本書の記述を辿りながら、一人の並外れた実業家の軌跡を追ってきたが、改めて彼が残した業績のスケールの大きさと、人間としての器の巨大さに圧倒される思いである。

東京帝国大学という日本の最高学府で磨かれた明晰な頭脳と、どんな困難にも負けない強靭な肉体を持ち、常に前を向いて走り続けた彼の人生は、まるで壮大な物語のようである。

経営者としての冷徹な判断力を持つ一方で、星空を見上げて宇宙の神秘に思いを馳せ、植物の育成に心を砕き、広大な海で釣り糸を垂れるというロマンチストな一面も持ち合わせていた。

経済活動の第一線で戦うだけでなく、日生劇場を通じた舞台芸術への多大な支援や、数多くの文人墨客との心温まる交流など、日本の文化的な成熟にも計り知れない貢献を果たした。

父親から受け継いだ巨大な組織を単に維持するだけでなく、東急ハンズや109といった革新的な事業を通じて、人々のライフスタイルそのものを豊かに変革していった功績は永遠に色褪せることはない。

本書『ビッグボーイの生涯 五島昇その人』は、単なる成功者の賞賛にとどまらず、彼が抱えていたであろう苦悩や孤独、そしてそれを乗り越えていく過程の人間臭さを克明に描き出している。

城山三郎という類まれなる観察眼を持った作家によって切り取られたこの群像劇は、現代の複雑な社会を生きる私たちに対して、どのように人生に向き合うべきかという多くの示唆を与えてくれるだろう。

彼のように、ダイナミックに時代を駆け抜け、周囲を巻き込みながら新しい価値を創造していくような生き方は、いつの時代においても人々の心を強く惹きつける圧倒的な魅力に満ちている。

自らの限界を定めず、知的好奇心を満たしながら力強く生き抜いた彼の生涯から、私たちが学び取るべきエッセンスは、まだまだ無数に隠されているに違いないのである。

書籍紹介

関連書籍

関連スポット

SHIBUYA109

SHIBUYA109(しぶや・いちまるきゅー)は、東京都渋谷区道玄坂にあるファッションビル及びテナン、ブランドの名称であり、1979年の開業。名称の由来は、「東急」(とうきゅう)⇒10・9⇒いち・まる・きゅう、の語呂合わせから。

公式サイト:SHIBUYA109

Bunkamura

Bunkamura(ぶんかむら、文化村)は、東京都渋谷区道玄坂にある大型複合文化施設。企画展用の美術館、ミニシアター、コンサートホールなどで構成され、1989年に開業。東急文化村が運営する東急グループの施設。

公式サイト:Bunkamura

五島美術館

五島美術館は、東京都世田谷区上野毛(かみのげ)にある、美術館。東急グループの創業者である五島慶太の美術コレクションを保存・展示するために、没後の翌年の1960年に開館。

公式サイト:五島美術館

浄真寺

浄真寺(じょうしんじ)は、東京都世田谷区奥沢にある浄土宗の寺院。九品仏(くほんぶつ)とも呼ばれる。山号は九品山(くほんざん)、院号は唯在念仏院(ゆいざいねんぶついん)、寺号は浄真寺。正式名称は旧字表記では「九品山唯在念佛院淨眞寺」。五島昇をはじめ、五島慶太の夫妻などの墓がある。

公式サイト:浄真寺

文化のみち二葉館:城山三郎

文化のみち二葉館(ふたばかん)は、愛知県名古屋市東区橦木町にある展示施設。旧川上貞奴邸(きゅうかわかみさだやっこてい)とも呼ばれる。2階には、名古屋にゆかりのある文学資料室があり、城山三郎の関連資料や復元された書斎なども展示されている。

公式サイト:文化のみち二葉館