
書籍紹介
- 森博嗣は、事実をありのまま受け入れ論理的に捉える知性を真の素直さと位置づける。
- 一日一時間の集中労働で高収益を上げ、無駄を削ぎ落とした効率化を徹底する生き方を実践。
- 思い込みを捨て観察と解釈を繰り返すなど、常識を疑い自らの頭で考える姿勢を強調。
- 電車を避けた健康管理や、読者目線での執筆、家族とのユーモアある日常を通じて、自分軸で悠々と生きる術を示す。
森博嗣の略歴・経歴
森博嗣(もり・ひろし、1957年~)
小説家、工学者。
愛知県の生まれ。東海中学校・高等学校、名古屋大学工学部建築学科を卒業。名古屋大学大学院修士課程を修了。三重大学、名古屋大学で勤務。1990年に工学博士(名古屋大学)の学位を取得。1996年に『すべてがFになる』で第1回メフィスト賞を受賞しデビュー。
『素直に生きる100の講義』の目次
まえがき
1限目 素直な人生を歩む「開拓」論
2限目 独創するための「独想」論
3限目 大切なことを忘れない「美学」論
4限目 自分を見失わない「関係」論
補講 ひねくれ者ばかりの世界を“素直”に捉え直す
文庫のあとがき
『素直に生きる100の講義』の概要・内容
2015年8月15日に第一刷が発行。だいわ文庫。237ページ。
2014年8月9日に刊行された単行本を文庫化し、あとがきを加えたもの。
「100の講義」シリーズの3作目。
『素直に生きる100の講義』の要約・感想
- 書いたことを記憶する圧倒的な自信
- 長時間の休みになる「一服」の罠
- 短時間で圧倒的な成果を生み出す秘密
- 言葉の表記に見る合理性と心地よさ
- 芸術と工学の境界線を定義する
- プロの仕事は読みたいものを探すこと
- 過剰な医療に依存しない達観した死生観
- 感動は与えられるものではない
- 抵抗を確かめて関係性を測る知恵
- 思い込みを捨てて観察と解釈を深める
- 送られてくる新書をすべて読む探求心
- クレーム社会の矛盾を突く鋭い視点
- 満員電車を避けて手に入れた究極の健康
- 日常を彩るユーモアと家族の風景
人生をどのように生きるべきかという問いは、人類が古くから抱えてきた永遠のテーマである。
私たちは日々、様々な選択を迫られながら、正解のない道を歩み続けている。
時には迷い、時には立ち止まりながらも、自分なりの生き方を模索していくことが求められる。
あふれる情報の波に飲まれそうになる現代において、確固たる自分自身の軸を持つことは決して容易ではない。
周囲の意見に流され、世間の常識に縛られて、息苦しさを感じている人も少なくないだろう。
そのような混沌とした時代にあって、極めて理系的かつ合理的なアプローチで物事の本質を突く作家が存在する。
それが、森博嗣(もり・ひろし、1957年〜)である。
彼は工学博士としての背景を持ちながら、数々のベストセラーを生み出してきた稀有な才能の持ち主である。
彼の紡ぎ出す言葉は、常に冷静でありながら、私たちの固定観念を根底から揺さぶる力を持っている。
今回紹介する『素直に生きる100の講義』は、そんな彼の思考のエッセンスが凝縮された一冊である。
本書を通して、私たちは「素直であること」の本当の意味を学び直すことになるだろう。
表面的な従順さではなく、事実をあるがままに受け入れ、論理的に解釈する強靭な知性こそが、真の素直さなのである。
書いたことを記憶する圧倒的な自信
表現を生業とする者にとって、過去に自分が何をどう書いたかを正確に把握することは極めて難しい。
膨大な量の文章を生産し続ける中で、記憶は薄れ、似たような表現を繰り返してしまうことは往々にして起こる。
夏目漱石(なつめ・そうせき、1867年〜1916年)のような文豪であっても、推敲の過程で過去の記述との整合性に苦心したという逸話が残っているほどである。
しかし、森博嗣の場合は全く次元が異なるようである。
書いたことを忘れてまた書くということは僕の場合はない。必ず覚えている。(P.4【0 まえがき】)
これは本当に凄いと言わざるを得ない。
ここまで確固たる自信を持って断言できる作家は、世界を見渡してもそう多くはないだろう。
自らの生み出したテキストに対する完全な掌握力は、彼の持つ驚異的な記憶力と、論理の構築に対する厳格さの証明である。
ただし、彼がまったく同じ話題を二度と取り上げないというわけではない。
意図的に同じテーマを繰り返し書くことはあるが、それは読者への配慮や論理の発展という明確な目的があるからである。
過去の著作を読んでいない新しい読者に向けて重要な前提を共有するためであったり、以前の思考からさらに関連・発展した新しい話題を提供するためであったりする。
つまり、無意識の重複ではなく、高度に計算された上での必然的な反復が行われているのだ。
多少の重複があることを自ら示しているこの部分からも、彼の執筆活動がいかに精密なコントロール下にあるかが窺える。
長時間の休みになる「一服」の罠
日々の仕事や作業において、適度な休息を取ることは効率を維持するために不可欠である。
かつての社会では、タバコを吸うための短い時間が、労働の合間の重要な句読点として機能していた。
僕は三十代まで煙草を吸っていたから、「一服」するのが楽しみだった。(P.34【1限目 素直な人生を歩む「開拓」論:4 終わったときに一息つきたかったら、本当に一息にしよう。】)
合理性の塊のように見える森博嗣が、三十代までタバコを吸っていたという事実はなかなか興味深い。
仕事の合間に一服することを純粋に楽しみにしていたという人間臭い一面が垣間見える。
そして、現在はその習慣をきっぱりと止めているというのも、自らの意志で行動を制御する彼らしいエピソードであり、非常に面白い。
問題は、この「一服」や「一息」という言葉が持つ曖昧さである。
ところが、周囲を観察してみると、一息入れようと言いながら、二息、三息も入れる、四服も五服もするのである。「ちょっと」ではなくなっている。(P.35【1限目 素直な人生を歩む「開拓」論:4 終わったときに一息つきたかったら、本当に一息にしよう。】)
ちょっと一息のつもりが、そうではない長時間の休みになってしまっている人が世の中には非常に多い。
この指摘は、現代社会を生きる私たちにとって、極めて耳の痛い忠告である。
数分の休息のつもりで始めた行動が、気がつけば一時間、二時間と時間を飲み込んでいく現象は、誰もが経験しているはずだ。
一日の中で発生するこの僅かな時間の浪費は、単体で見れば取るに足らないものに思えるかもしれない。
しかし、その差が積み重なることで、将来的に絶望的なほど大きな差となって現れるのである。
現代において最も気をつけたいのが、スマートフォンを通じたSNSの閲覧やネットサーフィンである。
これらは私たちの注意力を巧みに奪い、「ちょっと」の時間を無限に引き伸ばす強力な引力を持っている。
真に生産的な人生を歩むためには、自らが設定した休息時間を厳格に守り、二息や三息を入れない強い自制心が求められるのである。
短時間で圧倒的な成果を生み出す秘密
労働時間と成果のバランスは、あらゆる時代の働き手にとって最も重要な関心事の一つである。
長時間労働を美徳とする価値観は徐々に薄れつつあるものの、依然として長く働くことが誠実さの証明であると考える人は多い。
そんな常識を、森博嗣は軽々と打ち破ってみせる。
一日一時間の仕事で、だいたい、時給を割り出してみると、十五万円くらいになるだろうか。毎年億の単位を稼いだが、引退後は半減している。(P.51【1限目 素直な人生を歩む「開拓」論:12 一日に一時間しか仕事をしない、についてインタビューの依頼があった。】)
時給15万円で毎日一時間働き、それを365日続けたと仮定する。
単純計算でも、15万円かける365日で5,475万円という莫大な金額になる。
一日わずか一時間の労働でこれほどの稼ぎを得ているというのは、驚異的である。
作家という職業の中でも、間違いなくトップクラスの生産性と収益力である。
もちろん、これはただ机に向かっているだけで得られる数字ではない。
過去に執筆した数多くの優れた作品が存在し、それらが市場で評価され続け、さまざまな印税として継続的に入ってきているからこそ成立する仕組みでもある。
カール・マルクス(Karl Marx、1818年〜1883年)が論じた労働価値説の枠組みを超えて、彼が生み出した知的所有権が独自の価値を増殖させている状態である。
しかし、過去の遺産にのみ依存しているわけではない。
彼は引退を公言しながらも、定期的に新作を執筆し、継続的に出版し続けているのである。
極限まで集中力を高めた一日一時間の強さが、この圧倒的な結果を支えていると言える。
無駄を削ぎ落とし、最も価値を生み出す作業にのみ時間を投下するその姿勢は、すべての知的労働者が学ぶべき究極の効率化である。
言葉の表記に見る合理性と心地よさ
言語とは、時代とともに変化し、人々の生活様式に合わせて形を変えていく生き物のようなものである。
特に外来語の日本語への取り込み方においては、様々な表記の揺れや対立が存在する。
森博嗣は、自身の著作において独自のカタカナ表記を徹底することで非常に有名である。
たとえば、「スーパー」を「スーパ」と表記すると気持ちが悪いとおっしゃる方がいるが、これはもともと英語なわけで、日本人が気持ち良い表記をするよりも、もともとの発音に近くするのが筋ではないか。(P.68【2限目 独創するための「独想」論:20 なにごとも工夫が必要であるって、誰も「こうふ」とは読まない?】)
コンピュータを「コンピュータ」、スーパーを「スーパ」とするように、語尾の長音記号を省略する表記法である。
彼の主張は極めて明快であり、もとの英語の発音にできるだけ近い表記にするという合理的なルールに基づいている。
この考え方には一理あり、発音に忠実な表記に慣れることが、結果として日本人の英語のヒアリング能力の向上にも繋がるのではないかという鋭い指摘も含まれている。
和製英語や日本独自の変形に慣れ切ってしまうと、本来の言語の音韻体系から遠ざかってしまう危険性があるからだ。
ただ、この表記問題に関しては、読者の心理的な側面も無視できない。
実際に文章を読むのは日本語を母語とする日本人であるから、長年慣れ親しんだ表記の方が、読む際の引っ掛かりがなく、日本人が気持ち良い表記の方がベターなのではないかと、個人的には思うところもある。
文字を視覚的に捉えた時のバランスや、脳内で音声化する際のリズムにおいて、「スーパー」の方が自然に感じられる人は圧倒的に多いだろう。
それでもなお、世間の慣習に迎合することなく、自らの論理的な筋書きを優先して独自の表記を貫き通すところに、彼の強烈な哲学が表れている。
常識を疑い、自らの頭でゼロからルールを構築する姿勢こそが、独創性を生み出す源泉なのである。
芸術と工学の境界線を定義する
私たちの身の回りには、人間の手によって作られた巨大な構造物が無数に存在している。
それらは大きく分けると、建築物と土木構造物に分類されるが、両者の根本的な違いについて深く考察する機会は少ない。
工学者でもある森博嗣は、この二つの領域に対する世間の認識の違いを明確に言語化している。
建築は芸術だという認識がある程度浸透している。これに対して、土木は工学であって、美しさは「機能美」なのだ。(P.99【3限目 大切なことを忘れない「美学」論:34 意味は一般的だが、美しさは個人的である。】)
この指摘は、私たちが無意識に抱いている感覚を見事に言い当てている。
建築において、美しさはしばしば感覚的なものとして語られ、設計者の思想や哲学が反映された芸術作品として評価されることが多い。
ルネ・デカルト(René Descartes、1596年〜1650年)が提唱したような純粋な数学的秩序だけでなく、人間の感情に訴えかける装飾や空間の意匠が重視される。
一方で、橋やダム、トンネルなどの土木構造物において、美しさは徹底した理論と計算の上に成り立つものである。
不要なものをすべて削ぎ落とし、自然の脅威に耐えうる力学的な必然性だけを追求した結果として現れる形。
それが土木における美であり、すなわち機能美であるという解説には、深く納得させられる。
感覚的な芸術の建築と、理論的な工学の土木。
同じように図面を引き、材料を組み立てて巨大なものを造り上げる行為でありながら、その根底にある美学の方向性が全く異なるという違いが非常に面白い。
この違いを理解することは、私たちが街の風景や自然の中に溶け込む構造物を鑑賞する際の、新しい視点を与えてくれるのである。
プロの仕事は読みたいものを探すこと
仕事において「自分のやりたいこと」を実現すべきか、それとも「他者から求められること」を優先すべきかというジレンマは、永遠の課題である。
特に芸術や執筆などの創作活動においては、自己表現の欲求が強くなる傾向がある。
しかし、職業作家としての森博嗣のスタンスは、徹底して後者に振り切っている。
どこで切り換えたのかというと、「書きたいこと」を探すのではなく、「読みたいもの」を考えるようになった。みんなが読みたいものを探して、嫌々でも書く。それが仕事になる。そいう原理なのだ。(P.103【3限目 大切なことを忘れない「美学」論:36 「書きたいことがない」ということについて書きなさい。】)
これは、プロフェッショナルの本質を突いた極めて重要な発言である。
彼は、自分が書きたいから書いているのではなく、お金がもらえるから書いているという大前提を隠すことなく提示している。
この肝心な部分を曖昧にして、崇高な自己表現の美名の下に隠れようとする創作者が多い中で、彼の態度は清々しいほどにドライである。
自分が心から書きたいテーマを探すのをやめ、世間のみんなが読みたいと求めているものを冷静に分析して探り当てる。
そして、たとえそれが自分の個人的な趣味に合わず、嫌々であったとしても、プロとして高品質な文章を書き上げる。
ピーター・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker、1909年〜2005年)が説いた顧客志向のマーケティング理論を、作家個人のレベルで完璧に体現していると言える。
自分の好き嫌いを基準にするのではなく、市場で売れるものを徹底的に計算して書く。
なるほど、これこそが彼が長年にわたってベストセラーを出し続け、豊かな富を築き上げた最大の理由なのだと腑に落ちる。
仕事とは何かという根本的な問いに対する、冷徹でありながらも最も誠実な一つの答えである。
過剰な医療に依存しない達観した死生観
現代社会は、健康と長寿に対して異常なほどの執着を見せている。
少しでも体調に異変があれば病院へ駆け込み、大量の薬を消費して、死の恐怖から遠ざかろうと必死に足掻いている。
そのような風潮に対して、森博嗣の生活スタイルは完全なアンチテーゼとなっている。
薬は一切飲まないし、病院へはもう三十五年くらい行っていない。多額の国民健康保険料を支払っているだけだ。(P.109【3限目 大切なことを忘れない「美学」論:39 質素な生活が好きだから、好きなように生活している。】)
この文章が書かれたのは2013年か2014年頃と推測される。
そこから逆算すると、彼は1980年くらいから一度も病院に行っていないということになる。
これは本当に凄いことである。
現代の日本において、これほどの長期間、医療機関と無縁の生活を送り続けることは、強い意志と信念がなければ不可能である。
50代後半という年齢でこの境地に達しているということは、彼がそこまで死というものを恐れていないことの表れであろう。
アルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer、1788年〜1860年)が説いたような、生存への盲目的な意志への執着から解放されているように見える。
彼はおそらく、これまでの人生において十分に満足のいく時間を過ごしてきたという深い感慨を持っているのだろう。
無理に寿命を引き延ばすための苦痛を受け入れるよりも、自然の摂理に身を任せて、残された日々を自らの美学の通りに生き抜く。
その潔い覚悟と、自立した健康管理の精神は、非常に素晴らしいものである。
多額の保険料を払い続けるだけで一切の対価を受け取らないという経済的な不条理さえも、彼にとっては自らの自由を証明するための必要経費に過ぎないのかもしれない。
感動は与えられるものではない
現代のエンターテインメント業界や広告の世界では、「感動を与える」という言葉が氾濫している。
映画、音楽、スポーツ、そして文学に至るまで、作り手たちは消費者を泣かせ、心を揺さぶることを至上の目的としているかのように振る舞う。
しかし、森博嗣はそのような傲慢な態度を一刀両断にする。
感動というものは、人からもらうものだろうか。そうではない、自分で感動するのである。(P.113【3限目 大切なことを忘れない「美学」論:41 感動を与えたいって、何様のつもりか。】)
この指摘は、人間の感情のメカニズムの本質を突いた、非常に大切な真理である。
他者が意図的に操作して相手の心に感動を注入することなど、本来できるはずがないのだ。
感動を生み出すのは、あくまで受け手側の能動的な行為の結果である。
イマヌエル・カント(Immanuel Kant、1724年〜1804年)の認識論にも通じるが、外部からの刺激をどのように受け止めるかは、個人の内面的な処理に完全に依存している。
まず対象を注意深く観察すること。
次に、そこから得られた情報を素直に享受すること。
そして、自らの知識や経験に照らし合わせて深く解釈し、論理的に思考を巡らせること。
この一連の複雑なプロセスを経た末に、自らの内側から自然と湧き上がってくる感情のうねりこそが、真の感動なのである。
作り手はあくまで、そのきっかけとなる素材を提供したに過ぎない。
「感動を与える」などという言葉は、受け手の知性と感性を軽視した、表現者の思い上がりに過ぎないという彼の怒りは、極めて正当なものである。
抵抗を確かめて関係性を測る知恵
人間社会において、他者との適切な距離感を保ちながら円滑な関係を築くことは、一生を通じた課題である。
その関係性の構築において、私たちが無意識のうちに行っている行動の意味を、森博嗣は力学的な視点から見事に解説している。
子供というのは、我が侭を行ったり、反抗したりして、大人と自分の関係を測っている。何をすれば、どれだけの抵抗があるのか、を確かめているのだ。これは、大人になってからも同じで、この観測をしなくなると、慣れない場面では転んでしまうだろう。(P.149【4限目 自分を見失わない「関係」論:58 ときどき抵抗を確かめた方が安全である。】)
子供が意味もなく駄々をこねたり、親の言うことに反抗したりするのには、明確な理由がある。
彼らは悪意を持って大人を困らせているのではなく、自分と世界の境界線を探索しているのである。
どこまで許されるのか、どこを超えれば強い反発を食らうのか、物理的な抵抗を確かめるようにして関係性を測っている。
そして重要なのは、この行動原理が子供特有のものではなく、大人になってからも全く同じように機能しているという点である。
新しい職場、初めて会う人々、未知のコミュニティに入ったとき、私たちは常に周囲の反応を観察しなければならない。
日頃から相手の反応という抵抗を確認する作業を怠ってはならないのである。
あるいは、自ら小さな摩擦を起こして、日頃から意図的に抵抗してみることも、安全を確認するための有効な手段であると言える。
この観測をサボり、自分の基準だけで突っ走ってしまうと、見えない壁に激突し、慣れない場面で大きく転んで痛い目を見ることになる。
人間関係を一つの物理的なシステムとして捉え、センサーを使って周囲の状況を探り続けるというこの知恵は、社会を生き抜く上で強力な武器となる。
思い込みを捨てて観察と解釈を深める
私たちが物事を判断するとき、過去の経験や偏見に基づいた先入観に支配されてしまうことは多い。
一度「この人はこういう性格だ」「この仕事はこういうものだ」と決めつけてしまうと、そこから抜け出すのは困難である。
森博嗣は、このような思考の停止状態を厳しく戒めている。
思い込みや決めつけというのは、なんのメリットもない。(P.161【4限目 自分を見失わない「関係」論:64 相手の印象を常に修正できない人は、きっと損をしている。】)
状況は常に変化しており、人間の内面も時間とともに移り変わっていく。
それにもかかわらず、古い情報をアップデートせずに思い込みで行動することは、自らの可能性を狭めるだけの行為であり、これも非常に大事な教訓である。
しかしながら、ここで少し立ち止まって考えてみたい。
もしその判断が、単なる感情的な思い込みや根拠のない決めつけで「ない」場合であれば、そこには強力なメリットが存在する。
十分な情報収集に基づいた精緻な仮説や、論理的な演繹によって導き出された結論であれば、それは迅速で的確な行動の指針となるからだ。
重要なのは、その結論に至るまでのプロセスである。
対象を偏見なく徹底的に観察すること。
得られた事実を自分の頭で冷徹に解釈すること。
そして、自らの考えを恐れずに外部へ発信して検証すること。
この観察と解釈と発信というサイクルを絶えず回し続けることで、私たちは単なる思い込みから脱却し、精度の高い認識を手に入れることができるのである。
相手の印象を常に修正し続ける柔軟な知性こそが、変化の激しい時代において損をしないための唯一の方法である。
送られてくる新書をすべて読む探求心
読書という行為は、未知の世界を知り、他者の思考に触れるための最も効率的な手段である。
多くの人は自分の興味のある分野の本だけを選んで読むが、森博嗣の読書スタイルは規格外である。
しかし、新書は沢山届く。ある出版社などは、発行された新書を全部送ってくれるので、僕はそれらを全部読んでいる。(P.217【補講 ひねくれ者ばかりの世界を“素直”に捉え直す:91 電子書籍には、見本とか寄贈とかがないみたいだ。】)
彼は他の作家が書いた小説はほとんど読まないことで知られている。
フィクションの世界に他人の想像力を必要としないほど、自身の内に豊かな世界を持っているからだろう。
しかし、その一方で、ノンフィクションや教養書など、小説以外のジャンルについては積極的に読むようになったという。
それにしても、ある出版社から毎月発行される新書のラインナップを、送られてきた端から全部読んでいるというのは尋常ではない。
毎月何十冊という新刊をすべて彼に送り続ける出版社も相当に凄いが、それを実際に残らず読破している森博嗣も圧倒的に凄い。
新書には、政治、経済、歴史、科学、サブカルチャーに至るまで、ありとあらゆる雑多なテーマが含まれている。
自分の専門外の知識であっても、偏食せずにすべてを摂取し、脳内で咀嚼していく。
チャールズ・ダーウィン(Charles Robert Darwin、1809年〜1882年)が膨大な標本を収集して進化論の体系を組み上げたように、圧倒的なインプットの量が、彼の幅広い執筆活動の底堅い土台となっていることは間違いない。
未知の知識に対する果てしない探求心と、活字を処理する異常なスピードが、彼の天才性を支えているのである。
クレーム社会の矛盾を突く鋭い視点
現代は、些細なことで企業や団体に文句をつけるクレーム社会となっている。
特にフィクションの表現に対する自主規制の圧力は年々強まっており、多くの創作者が息苦しさを感じている。
そのような風潮の馬鹿馬鹿しさを、森博嗣は極めて論理的かつユーモラスに切り捨てている。
登場人物が煙草を吸っているだけでクレームをつける団体もある(どうして、殺人を犯すことにクレームをつけないのか不思議でならない)。(P.225【補講 ひねくれ者ばかりの世界を“素直”に捉え直す:95 国立N大学と表記していた理由とは。】)
この指摘は、あまりにも真っ当であり、痛快なほどに面白い。
推理小説において、登場人物が次々と残虐な方法で殺されていく描写には誰も文句を言わないのに、その横で探偵がタバコを吸った途端に抗議の声が上がる。
現実の社会規範とフィクションの世界を混同し、表面的な倫理観だけを振りかざす人々の矛盾を見事に突いている。
また、彼の経歴で記載される大学が「国立N大学」と表記されていた理由についての裏話も興味深い。
大学の事務の人から、大学名を売り物にされるのは困るというクレームまがいのことを言われたからだという。
しかし、森博嗣自身としては、実際の名称を出したところで自分には何のメリットもなく、むしろ大学の知名度が上がる、入学希望者が増える、というメリットがあるのではないかと冷静に分析していたとのこと。
確かにその通りである。
組織の面子や前例主義に囚われた事務的な判断の愚かさを、理系の冷徹な視線で見事に看破しているエピソードである。
満員電車を避けて手に入れた究極の健康
都会で働く多くの人々にとって、毎朝の満員電車での通勤は避けられない苦行である。
すし詰めの車内で他人の息遣いを感じながら揺られる時間は、心身に多大なストレスと疲労をもたらす。
森博嗣は、この現代社会の当たり前とされる苦役から完全に離脱した生活を送っている。
風邪薬なんか飲んだことは成人以来一度もない。電車に乗らないだけで、これくらい健康でいられるのだ。(P.227【補講 ひねくれ者ばかりの世界を“素直”に捉え直す:96 僕は、電車に乗るのが大嫌いです。】)
彼はこれまでの人生において、通勤には常に車を使用し、日常的に電車を使うことを徹底して避けてきた。
その結果として、インフルエンザが世の中でどれほど猛威を振るい、大流行を起こしたとしても、自身がインフルエンザに感染したことは一度もないという。
不特定多数の人間が密閉空間に押し込められる電車に乗らないという、ただそれだけの理由で、驚異的な健康を維持しているのである。
病気を防ぐためにワクチンを打ち、マスクをして、うがい薬を消費するよりも、感染源となる環境そのものを物理的に排除する。
これこそが、彼が実践する究極の予防医学であり、極めて合理的なライフスタイルである。
もちろん、遠方へ行く必要がある場合には飛行機などに乗ることはあるらしい。
また、人が密集する東京という都市には基本的に行かないようにしているため、ますます電車に乗らなくても済む生活が成立しているとも語っている。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe、1749年〜1832年)が自然との調和の中に真の健康を見出したように、森博嗣は現代社会のノイズから物理的に距離を置くことで、自らの心身の健康を完璧にコントロールしているのである。
日常を彩るユーモアと家族の風景
本書『素直に生きる100の講義』は、全体を通して徹底的に論理的で、時に冷徹なまでに合理的な思考が展開されている。
しかし、その根底に流れているのは、人間という存在に対する深い観察眼と、人生を楽しむためのユーモアである。
読んでいて単純に楽しいし、彼の独特の言い回しが本当に面白い。
特に私が個人的にお気に入りなのは、230~321ページの「98 母を凌ぐ嫁の話」として語られるエピソードである。
森博嗣の奥様に関するエピソードは、彼の他のエッセイでも度々登場するが、毎回期待を裏切らない面白さがある。
天才的な頭脳を持つ夫の理屈を、斜め上からの直感と天然の行動力で鮮やかに打ち破っていく妻の姿は、読んでいて非常に痛快である。
どれほど強固な論理の城を築こうとも、身近な家族との関係性の中では、予定調和ではない予測不可能な事態が次々と起こる。
そして、そのような日常の些細な摩擦や驚きすらも、彼は楽しげに観察し、文章のネタとして見事に昇華させているのである。
世間の常識に縛られず、自らの頭で考え抜き、素直に世界を捉え直すこと。
そして、自分にとって本当に価値のあるものを守りながら、悠々と人生を歩んでいくこと。
本書は、息苦しい現代社会を軽やかに生き抜くための、最高の処方箋となるはずである。
自分の生き方に迷いが生じたとき、あるいは世の中の不条理に嫌気が差したとき、ぜひ手に取って彼の声に耳を傾けてみてほしい。
きっと、これまでにない新しい風が、あなたの凝り固まった思考を吹き抜けていくのを感じるだろう。
- 【選書】森博嗣のおすすめ本・書籍12選:エッセイや随筆など
- 【選書】森博嗣のおすすめ本・書籍12選:推理小説など読む順番も
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- 森博嗣『作家の収支』要約・感想
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- 森博嗣『新版 お金の減らし方』要約・感想
- 森博嗣『創るセンス 工作の思考』要約・感想
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- 森博嗣『自由をつくる 自在に生きる』要約・感想
- 森博嗣『「やりがいのある仕事」という幻想』要約・感想
- 森博嗣『面白いとは何か? 面白く生きるには?』要約・感想
- 森博嗣『常識にとらわれない100の講義』要約・感想
- 森博嗣『「思考」を育てる100の講義』要約・感想
- 森博嗣『本質を見通す100の講義』要約・感想
- 森博嗣『正直に語る100の講義』要約・感想
- 森博嗣『科学的とはどういう意味か』要約・感想
- 森博嗣『孤独の価値』要約・感想
- 森博嗣『読書の価値』要約・感想
- 森博嗣『アンチ整理術』要約・感想
- 森博嗣『勉強の価値』要約・感想
- 森博嗣『諦めの価値』要約・感想
- 森博嗣『悲観する力』要約・感想
- 森博嗣『集中力はいらない』要約・感想
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- 畑村洋太郎『失敗学のすすめ』要約・感想
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