- 人生の理不尽さを受け入れる
- 能力の不平等と自己の武器
- 人間関係の重要性
- 「無用の用」に見出す生きる真実
中島義道の略歴・経歴
中島義道(なかじま・よしみち、1946年~)
哲学者、作家。専攻はドイツ哲学、時間論、自我論。
福岡県門司市の生まれ。神奈川県立川崎高等学校を卒業。東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科を卒業。
1973年、東京大学大学院人文科学研究科哲学専攻修士課程を退学。東京大学法学部に移って1976年に卒業。1977年、 東京大学大学院人文科学研究科哲学専攻修士課程を修了し、文学修士号を取得。
その後、オーストリアに渡り、1983年にウィーン大学基礎総合学部哲学科を修了し、ウィーン大学に学位論文『カントの時間構成の理論』を提出して哲学博士号を取得。
『働くことがイヤな人のための本』の目次
はじめに あとわずかの命
1 一生寝ているわけにはいかない
2 「命を懸ける仕事」はめったに与えられない
3 仕事と能力
4 仕事と人間関係
5 仕事と金
6 金になる仕事から金にならない仕事へ
7 死ぬ前の仕事
簡単なあとがき
著者紹介
『働くことがイヤな人のための本』の概要・内容
2023年3月29日に第一刷が発行。電子書籍版。株式会社シティブックス。172ページ。
副題的に「仕事とは何だろうか」と表紙に書かれている。
2001年2月1日に日本経済新聞社から刊行された単行本を基に修正、電子書籍化したもの。
2004年4月24日に新潮文庫として文庫版が出版されている。
『働くことがイヤな人のための本』の要約・感想
- 人生の前提としての「理不尽」を受け入れる
- 近代が唯一認める「能力」という不平等
- 組織の外でも不可欠な「人間関係」の網の目
- 「無用の用」に見出す、生きることの真実
- 天才ではない我々が「よく生きる」ということ
- 中島義道の父が示した「充実した孤独」の姿
- 『働くことがイヤな人のための本』が示す道
働くことがイヤだと感じたとき、多くの人は自己責任を問われたり、あるいは甘えだと断じられたりすることを恐れる。
しかし、その感情の根源には、もっと深く、そして普遍的な問いが横たわっているのかもしれない。
今回紹介する一冊は、そうした感情に真正面から向き合い、読者と共に思索の海へと漕ぎ出す哲学の書である。
哲学者の中島義道(なかじま・よしみち、1946年~)による『働くことがイヤな人のための本』がそれだ。この刺激的な題名を持つ中島義道の著書は、単なるハウツー本や自己啓発本とは一線を画す。
本書は、働くことの意味、ひいては生きることそのものの意味を、読者一人ひとりに問い直させる力を持っている。
本書の形式は、複数の架空の人物との対話、インタビュー形式で進んでいくのが特徴である。
この中島義道ならではの対話形式は、哲学という難解になりがちなテーマを、いくぶんか身近なものに感じさせてくれるだろう。だが、語られる内容は決して平易ではない。
中島義道の他の本や著書にも共通するが、彼は安易な答えや慰めを提供しない。その代わりに、我々が普段、見て見ぬふりをしている人生の根本的な問題点を、容赦なく突きつけてくる。
この記事では、『働くことがイヤな人のための本』の中から、特に核心的ないくつかのテーマを抽出し、そこに私自身の解釈を交えながら、この稀有な本の魅力を深く掘り下げていきたい。
仕事に、そして人生に、言いようのない息苦しさを感じている人にこそ、読んでほしい一冊である。
人生の前提としての「理不尽」を受け入れる
なぜ、こんなにも辛い思いをしてまで働かなければならないのか。
なぜ、自分だけがこのような苦境に立たされているのか。そうした問いは、しばしば「なぜ?」という形で我々の心に浮かび上がる。
しかし、中島義道はその問い自体を、より大きな視点から捉え直すことを促す。
すなわち、人生とは「理不尽」のひとことに尽きること。(P.31「1 一生寝ているわけにはいかない」)
この短い一文は、本書の根幹をなす思想の出発点である。
人生は、そもそも理不尽なのだと。
この言葉に触れたとき、かつて旧制第一高等学校の生徒であった、藤村操(ふじむら・みさお、1886年~1903年)が、華厳の滝に身を投じる際に遺した「巌頭之感」の一節、「不可解」という言葉を思い起こした。
彼は人生の不可解さに絶望し、自ら命を絶った。
しかし、中島義道が提示する「理不尽」は、絶望のための言葉ではない。むしろ、それは現実を受け入れ、次の一歩を踏み出すための礎となる。
人生が理不尽であることを嘆き、その原因を問い続けても答えは出ない。なぜなら、それが「前提」だからである。
重要なのは、その理不尽という名の土俵の上で、いかにして自分の相撲を取るか、ということだ。
理不尽さを前提として受け入れたとき、初めて我々は自分自身の戦略や戦術を冷静に組み立てることができる。
不公平や矛盾に満ちたこの世界で、自分は何をなし得るのか。何を目指し、どう行動すべきか。
もちろん、この事実に気づくのが遅かったと感じることもあるかもしれない。もっと若いうちに知っていれば、と悔やむこともあるだろう。
だが、人生において「遅すぎる」ということは本質的には存在しない。
たとえわずかな時間しか残されていなくとも、その中で自分にやれることを探し、実行していくことこそが、生きるということなのである。
理不尽さを嘆くステージから、理不尽さを前提として行動するステージへ。その転換点に、本書は静かに我々を導いてくれる。
近代が唯一認める「能力」という不平等
私たちは、どのような社会を生きているのか。
この問いに対して、多くの人が「平等な社会」や「自由な社会」といった言葉を思い浮かべるだろう。
確かに、かつての封建社会のように、生まれや身分によって人生が決定づけられることは、現代の日本ではほとんどない。
しかし、中島義道は、その「平等」の内実に鋭いメスを入れる。
しかし、近代以降は能力の不平等だけは認めて、それ以外の不平等を一切認めないという社会である。(P.77「3 仕事と能力」)
この指摘は、私にとってまさに目から鱗が落ちるような発見だった。
私たちは、出自、人種、性別といった要素による不平等をなくそうと努める社会に生きている。それは人類の偉大な進歩であるに違いない。
だがその一方で、たった一つだけ、公然と認められ、むしろ推奨さえされている不平等が存在する。それが「能力の不平等」である。
この視点を持つことで、現代社会の構造がより明確に見えてくる。なぜ私たちは、幼い頃から勉強やスポーツに励み、良い学校や良い会社を目指すのか。
それは、この社会が「能力」という唯一の尺度で人を評価し、その優劣によって報酬や地位を配分するシステムになっているからに他ならない。
だとすれば、この社会で生き抜くための戦略は自ずと見えてくる。それは、自分自身の「能力」を磨き、伸ばしていくことだ。
特に、自分の得意なこと、すなわち長所を最大限に伸長させることが重要になる。誰もが同じ能力を持つ必要はない。むしろ、他者とは違う、自分ならではの能力を持つことが価値となる。
そして、その能力は他者にとって「重要な意味を持つ」ものでなくてはならない。言い換えれば、誰かにとっての利益、あるいは価値を提供できる人物になるということだ。
それは、金銭的な利益に限らない。知識や技術、あるいは安心感や楽しさを提供することでも良い。
能力の不平等が公認された社会だからこそ、私たちは他者との比較に一喜一憂するのではなく、自分だけの武器を磨き、それを他者のために役立てる道を探求すべきなのである。
組織の外でも不可欠な「人間関係」の網の目
「会社を辞めて自由に生きたい」「組織に縛られずに働きたい」。
現代では、こうした思いを抱く人が少なくない。フリーランスや独立起業といった働き方が、かつてないほど身近な選択肢となっている。
しかし、中島義道は、組織から離れることと、人との関係を断つことを混同してはならないと警鐘を鳴らす。
その例として挙げられるのが、放浪の俳人として知られる、種田山頭火(たねだ・さんとうか、1882年~1940年)である。
山頭火は組織に属していなかったが、なんと濃厚な人間関係のうちにいきたことか。彼は独りではなかった。同業者から評価され、愛され、慕われていた。放浪の先々で、彼に宿を貸し、金を貸し、酒を恵んでくれる少なからぬ人々がいた。だから、誰でも何か仕事をしようとするなら、組織に留まることは絶対ではないが、人間関係を絶ってはならない。(P.105「4 仕事と人間関係」)
私たちは、山頭火に対して、世俗を捨て、孤独のうちに自然と一体となりながら句を詠んだ、孤高の俳人というイメージを抱きがちである。
しかし、その実像は大きく異なる。確かに彼は定職に就かず、特定の組織に属することもなかった。
だが、彼の周りには常に「人間関係」の豊かな網の目が張り巡らされていたのである。
その中心にあったのが、自由律俳句の巨匠、荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい、1884年~1976年)が主宰した俳句雑誌『層雲』である。
山頭火は『層雲』に作品を投稿し続け、やがてその才能を認められて選者にまでなった。この『層雲』という俳句コミュニティには、全国に同人たちが存在した。
山頭火が日本中を放浪できたのは、行く先々でこうした同人たちが彼を温かく迎え入れ、宿や食事、時には金銭的な援助さえ提供してくれたからに他ならない。
彼の旅は、あたかも偉大な先人である、松尾芭蕉(まつお・ばしょう、1644年~1694年)が、各地の門人たちに支えられながら『おくのほそ道』の旅を続けた姿と重なる。
孤独に生きたように見える山頭火は、実のところ、文学への情熱を共有する人々との、極めて濃厚な人間関係の中で生きていたのだ。
この山頭火の例が示すのは、組織に所属することと、人間関係を維持することは、必ずしもイコールではないという事実である。
むしろ、会社という枠組みから一歩外に出るからこそ、より意識的に、そして能動的に人との繋がりを築き、維持していく必要がある。
仕事とは、突き詰めれば人と人との関わりの中で成立するものだ。
たとえ一人で作業する時間が長かったとしても、その仕事が誰かに届き、評価され、対価を得るというプロセスには、必ず他者の存在が介在する。
組織に留まるか否かは個人の選択だが、人間関係まで絶ってしまえば、いかなる仕事も成り立たない。中島義道のこの教えは、自由な働き方を志向する者にこそ、深く刻まれるべき言葉である。
「無用の用」に見出す、生きることの真実
中島義道は、哲学や文学の対話を通じて思索を深める私塾「無用塾」を主宰している。
その名が示す通り、彼は一見すると「役に立たない」とされるものの中に、真の価値を見出そうとする。
その思想的背景にあるのが、古代中国の思想家、荘子(そうし、前369年頃~前286年頃)の哲学だ。
「無用の用」という荘子の思想によるのだが、いかなる現実の役にも立たないがゆえに、かえってそれを超えたもの、例えば生きることと死ぬことがまるごと見えるようになるという役に立っている。(P.133「5 仕事と金」)
「無用の用」とは、一見すると何の役にも立たないものが、かえってそれ自身を災いから守り、天寿を全うさせるといった文脈で語られる、逆説的な思想である。
例えば、大きすぎて使い道のない木は、誰も伐採しようとしないために大木として生き長らえることができる。
中島義道は、この思想をさらに深化させ、役に立たないことの効用を「生きることと死ぬことがまるごと見えるようになる」という点に見出す。
現代社会は、効率や生産性、すなわち「役に立つ」ことを至上の価値とする。
そうした価値観の中で生きていると、我々はいつしか、人生そのものを割り切れるもの、計算可能なものとして捉えがちになる。
しかし、本当にそうだろうか。中島義道は、そうした態度に潜む欺瞞を鋭く指摘する。
つまり、生きることそのことは理不尽のキワミであり、絶対に割り切れないが、科学や常識はそれを割り切るふりをする。だから、そのとき使われる言葉は究極的に真実ではない。理不尽や不合理をそのままとらえ、それをそのまま精緻に語り尽くそうとする態度そのものが、ごまかすことなく生きることの役に立っているのだ。(P.134「5 仕事と金」)
ここでもまた、「理不尽」というキーワードが登場する。
生きるという経験は、本質的に理不尽で、不合理で、割り切れないものに満ちている。科学や常識は、その複雑怪奇な現実を単純化し、あたかも理解可能なものであるかのように見せかける。
しかし、それは「割り切るふり」に過ぎない。
中島義道が価値を置くのは、その理不尽さや不合理さから目を背けず、それをありのままに受け入れ、言葉を尽くして捉えようとする態度そのものである。
それは、一見すると何の生産性もない、「無用」な営みに見えるかもしれない。
しかし、その「無用」な営みこそが、人生をごまかすことなく、誠実に生きることに繋がるのだと彼は言う。
物事を単純化せず、その複雑さを複雑なままに理解しようと努めること。割り切れないものを、割り切れないままに抱え続けること。
それこそが、効率や生産性という尺度では測れない、生きることの真実に迫る道なのである。
天才ではない我々が「よく生きる」ということ
世の中には、後世にまで語り継がれるような、圧倒的な作品や業績をのこした「天才」たちが存在する。
私たちは彼らの人生や作品に触れ、深い感銘を受ける。
しかし、私たちは彼らではない。その他大勢の「凡人」である我々は、彼らのように生きることはできないのだろうか。
この問いに対し、中島義道は日本を代表する文芸批評家、小林秀雄(こばやし・ひでお、1902年~1983年)の視点を借りながら、独自の答えを提示する。
中島によれば、小林秀雄は、芸術活動そのものよりも、生きること、そして死ぬことの重みに直面し、その格闘の中から圧倒的な作品を生み出した芸術家たちに強い関心を寄せたという。
その上で、中島は小林の視点に同意しつつも、さらにその先へと踏み込んでいく。
小林秀雄はこうした境地に至った者にのみ興味を寄せた。その着眼点はみごとだが、彼が選んだのは超一流の作品をのこした者だけである。しかし、そうではないんだ。三流でも四流でも、ゴッホやモーツァルトと同じ態度で仕事をしている者が少なからずいる。ただ、彼らはその作品がまったく世に評価されず、したがって無名のまま終わってしまうだけだ。(P.149「5 仕事と金」)
この言葉は、働くこと、そして生きることに悩む多くの人々にとって、大きな救いとなるだろう。
小林秀雄が光を当てたのは、フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh、1853年~1890年)や、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart、1756年~1791年)といった、歴史に名を刻んだ一握りの天才たちだった。
彼らが「よく生きる」ことで偉大な作品をのこしたことは事実である。
しかし、中島義道が言いたいのは、「よく生きる」ことと、「偉大な作品をのこす」ことは、必ずしもイコールではないということだ。
重要なのは、結果として何を生み出したか、世間からどのような評価を得たかではない。その仕事に、その生に、いかに真摯に向き合ったかという「態度」そのものである。
世の中には、誰に知られることもなく、評価されることもなく、しかし、あのゴッホやモーツァルトと同じくらい真剣な態度で自らの仕事に向き合っている人々が無数に存在する。
彼らは、たとえ三流や四流と見なされようとも、その生きる姿勢において、天才たちと何ら変わるところはない。
私たちは、天才ではない。
歴史に名を残すことも、社会に大きな影響を与えることもないかもしれない。ほとんどの人は、大きな注目を浴びることもなく、静かに生きて死んでいく。
しかし、それで良いのだと本書は語りかけてくる。大切なのは、自分自身の生を、仕事を、誰かからの評価のためではなく、自分自身の基準で、誠実に、真摯に全うすること。
その態度の中にこそ、人間の尊厳は宿るのである。
中島義道の父が示した「充実した孤独」の姿
本書『働くことがイヤな人のための本』では、著者の個人的なエピソードも、その哲学を裏付ける重要な要素として語られる。
特に印象深いのが、「7 死ぬ前の仕事」の中島義道の父親に関する述懐である。彼の父親は、もともと孤独を愛する性質の人だったという。
そして、その性質は、人生の最終盤において、見事な結実を見せることとなる。
彼の父親は、73歳で仕事を完全に辞めてから、83歳で亡くなるまでの10年間を、誰にも干渉されない「充実した孤独」のうちに過ごした。
その日々は、派手さとは無縁の、静かで穏やかなものだった。鎌倉の寺を一人で巡り、自宅の庭の草をむしり、そして書斎にこもっては、世界の長編名作を心ゆくまで読みふける。
この父親の姿は、「働くこと」が人生のすべてではないという、あまりにも明快な事実を我々に示してくれる。
私たちは、キャリアや仕事上の成功に価値を置きすぎるあまり、仕事から解放された後の人生を想像する力を失いがちだ。しかし、人生は仕事よりもずっと長く、そして広い。
中島義道の父親が示したのは、社会的な役割や生産性から解放された人間が、いかに豊かに生きられるかという一つのモデルである。
彼は、誰に評価されるでもなく、誰の役にも立つわけでもない時間を、自分自身のために、心から味わい尽くした。
それは、山頭火が人間関係の網の目の中で生きた姿とは対照的でありながら、どちらも「自分らしく生きる」という点では共通している。
孤独は、必ずしも寂しさや孤立を意味するのではない。
他者からの評価や期待から自由になり、自分自身の内なる声に耳を澄ますための、かけがえのない時間にもなり得る。
仕事という舞台から降りた後に待っているかもしれない、そうした「充実した孤独」の可能性に思いを馳せることは、現在働いている我々にとっても、生きる上での大きな支えとなるだろう。
『働くことがイヤな人のための本』が示す道
この一冊を読み終えたとき、読者は「働くことがイヤ」という当初の感情が、より根源的な「いかに生きるべきか」という問いへと昇華されていることに気づくだろう。
この中島義道の著書は、安易な解決策や心地よい慰めを与える本ではない。むしろ、読者をより深い思索へと誘い、自分自身の頭で考えることを強く促す。
本書を通じて中島義道が提示するのは、人生の「理不尽さ」を直視し、それを出発点とすること。
近代社会が唯一認める「能力の不平等」という本質を理解し、自らの武器を磨くこと。組織から離れてもなお、「人間関係」の重要性を忘れないこと。
そして、効率や生産性といった尺度では測れない「無用の用」にこそ、生きる真実が宿ること。
さらに、歴史に名を残す天才だけでなく、誰に知られることもなく真摯に生きる無数の「凡人」の生を肯定することで、私たち一人ひとりの存在に尊厳を与えてくれる。
この本は、仕事や人生に袋小路を感じているすべての人々にとって、新たな視点と、自らの足で歩き出すための勇気を与えてくれるに違いない。
もしあなたが「働くこと」に、そして「生きること」に、言いようのない違和感や疑問を抱いているのなら、この中島義道の本を手に取ってみることを強く勧めたい。
それは、あなたの人生観を根底から揺さぶり、新たな地平を切り拓く、忘れられない読書体験となるはずである。
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