
- 森博嗣は終活をシンプルに捉え、死後の形式を遺族に任せ、経済的準備だけを重視。
- モノの整理では、価値あるものを捨てず保管することを主張。
- 創造性と思考の整理では、試行錯誤の楽しさを重視し、暗記より論理的思考を優先。
- 自己整理では、冷静な自己分析と本質追求で、常識から自由になる生き方を提唱。
森博嗣の略歴・経歴
森博嗣(もり・ひろし、1957年~)
小説家、工学者。
愛知県の生まれ。東海中学校・高等学校、名古屋大学工学部建築学科を卒業。名古屋大学大学院修士課程を修了。三重大学、名古屋大学で勤務。1990年に工学博士(名古屋大学)の学位を取得。1996年に『すべてがFになる』で第1回メフィスト賞を受賞しデビュー。
『アンチ整理術』の目次
まえがき
第1章 整理・整頓は何故必要か
第2章 環境が作業性に与える影響
第3章 思考に必要な整理
第4章 人間関係に必要な整理
第5章 自分自身の整理・整頓を
第6章 本書の編集者との問答
第7章 創作における整理術
第8章 整理が必要な環境とは
あとがき
『アンチ整理術』の概要・内容
2019年11月20日に第一刷が発行。日本実業出版社。254ページ。ソフトカバー。127mm×188mm。四六判。
2022年3月15日に文庫化されて、講談社文庫『アンチ整理術』も出版されている。
『アンチ整理術』の要約・感想
- 終活という幻想からの解放
- モノを捨てられない作家の現実
- 創造性を奪う「正しいやり方」という幻想
- 知識の暗記より思考のプロセスを重視する
- 「友達は財産」という言葉の欺瞞
- 自分自身の在り方を整理する
- 自分を知るための逆説的な方法
- 思考を曇らせる「感情」という幻想
- 自己評価で生きるための創作術
- 常識から自由になるための思考のレッスン
森博嗣の『アンチ整理術』は、巷に溢れる「整理術」や「片付け本」とは一線を画す、思考と人生を深く掘り下げるための一冊である。
本書は単にモノを片付ける方法論を説くのではない。
むしろ、そうした物理的な整理の必要性を問い直し、より本質的な「思考の整理」「人間関係の整理」、そして「自分自身の整理」へと読者を導いていく。
工学博士であり、稀代のミステリー作家である森博嗣の視点は、常に合理的かつ冷静だ。
しかし、その言葉の奥には、社会の常識や他人の価値観から自由になり、自分だけの幸福を追求するための、熱い哲学が流れている。
情報が氾濫し、同調圧力が強まる現代社会において、彼の思想は、自分自身を見失わずに生きるための羅針盤となり得るだろう。
この記事では、『アンチ整理術』の中から、私たちの固定観念を揺さぶり、生き方を根本から見直すきっかけとなるであろう珠玉の言葉たちを引用し、その真意を深く探っていきたい。
日々の生活や仕事、人間関係に息苦しさを感じている方にこそ、読んでいただきたい内容である。
終活という幻想からの解放
人生の終わりを意識し、身辺を整理する「終活」がブームのようになっている。
メディアはこぞってその必要性を説き、関連ビジネスは活況を呈している。
しかし、森博嗣はその風潮を実にシンプルな思考で一蹴する。
自分自身は、どこかで野垂れ死にすればそれで良い。自分の墓はいらないし、葬式も不要だ。ただ、墓も葬式も、僕の権利ではなく、子供たちがしたければ、すれば良いと思う。そこまで親が干渉することはできない。これが、僕の終活のすべてである。簡単でしょう?(P.13「まえがき」)
この言葉は、彼の徹底した個人主義と合理主義を象明している。
墓や葬式は、死んだ本人のためではなく、遺された者たちのためにある。
ならば、その要不要を判断するのは遺された者たちであり、死にゆく者が口を出すべきではない、という考え方だ。
ここには、他者の領域を侵さないという、彼なりの誠実さが垣間見える。
森博嗣は、自身の両親が亡くなった際、家の取り壊しに300万円、葬式に数百万円という費用がかかったことを明かしている。
しかし、それ以上の遺産があったため、金銭的な問題はなかったという。
そして、彼自身も子供たちに迷惑がかからない程度の、いや、おそらくは相当な額の遺産を残すことを示唆している。
重要なのは、世間体を気にして形式を整えることではない。
遺された家族が困らないように、経済的な準備をしておくこと。
これこそが、最も合理的で、かつ愛情のある「終活」の本質なのかもしれない。
多くの「終活ビジネス」が煽る不安は、結局のところ、死後の評判や体面といった、本人にはもはや関係のない事柄に根差している。
森博嗣は、そうした虚飾を一切剥ぎ取り、本質だけを見つめているのだ。
詩人の茨木のり子(いばらぎ・のりこ、1926年~2006年)や、歌手の大森靖子(おおもり・せいこ、1987年~)といった表現者たちの死生観にも、森博嗣と通じるものがある。
彼女たちもまた、死後の世界や形式的な儀式に価値を置かず、今をどう生きるか、そして自分の言葉をどう残すかに心血を注いだ、あるいは注いでいる。
このような人々にとって、死は生の対極にあるものではなく、生の一部として淡々と受け入れられるべきものなのだろう。
結局のところ、「終活」という言葉に踊らされ、不安を煽られてはいないだろうか。
死んだ後のことまで自分でコントロールしようというのは、傲慢な考えなのかもしれない。
森博嗣の言葉は、私たちを終活という名の呪縛から解き放ち、もっとシンプルに、今を生きることに集中させてくれる力を持っている。
モノを捨てられない作家の現実
整理術の本でありながら、著者が「モノを捨てない」という事実は、なんとも痛快である。
特に、多作で知られる作家ならではの悩みが、赤裸々に語られている。
僕は、これまで三百作以上の本を上梓している。見本は初版のときには十冊、そのあと重版になるごとに二冊届く。初版だけでも、三千冊以上の見本が、僕の家に溜まっている計算になる。(P.56「第2章 環境が作業性に与える影響」)
これは驚くべき量である。
初版で10冊、重版のたびに2冊の見本が届くという出版業界の慣習も興味深い。
これだけの本が自宅に届くとなれば、いかに広大な書斎があっても、いずれは飽和状態になるだろう。
森博嗣は、これらの自著の献本をさすがに捨てることはできず、自宅の地下倉庫に段ボール箱で50箱以上も保管しているという。
この件に関しては、例外的な話というか、特殊な事例ではあるが、物理的にモノを減らすことだけが整理ではない。
必要なもの、価値のあるものを、然るべき場所に保管すること。
彼の姿勢は、一般的なミニマリズムや断捨リの思想とは対極にある。
しかし、そこには一貫した哲学がある。
つまり、「トータルで価値があるものを所有していれば、生きているうちに焦って処分する必要はない」という考え方だ。
トータルで価値があるものを所有していれば、トータルで売れるのだから、生きているうちに断捨離する必要などない。何を焦って断捨離などしているのだろう?
持っているものが、価値のないものばかりだから、自分で始末しないといけない、と後ろめたいのだろうか。(P.230「第8章 整理が必要な環境とは」)
少々意地悪くも聞こえるが、これは的を射た指摘である。
価値のないガラクタばかりを溜め込んでいるのであれば、それは自分の責任で処分すべきだろう。
しかし、作家にとって自著の見本は、単なる「モノ」ではなく、仕事の成果そのものであり、知的財産の結晶である。
価値のあるものを所有しているという自負があるからこそ、彼は堂々と「捨てない」ことを選択できるのだ。
この考え方は、私たちの所有物に対する見方を大きく変えてくれる。
問題はモノの量ではなく、その価値にある。
自分にとって、あるいは社会にとって価値のあるものならば、無理に手放す必要はない。
むしろ、それをどう活用し、次世代に引き継ぐかを考えるべきなのかもしれない。
本当に価値のあるもの、自分にとって必要なものを見極めることこそが、整理の第一歩なのである。
創造性を奪う「正しいやり方」という幻想
森博嗣の思考は、モノの整理だけに留まらない。
彼は、教育や指導の場面における「整理」、つまり「正しいやり方」を押し付けることの危険性についても警鐘を鳴らす。
そのきっかけとなったのが、自身の息子とのエピソードである。
自分は、無心に作っていた。周りのことが見えなくて、失敗を何度もした。でも、作っている最中は本当に楽しかった。だから、この歳になった今も、工作をし続けているのだ。一番大事なことは、片づけて、部品を失くさないことではない。(P.72「第2章 環境が作業性に与える影響」)
これは、彼が8歳になった息子に初めてプラモデルの作り方を教えた時の後悔と反省の弁である。
彼は息子に対し、部品をなくさないように、散らかさないようにと、効率的で「正しい」手順を教えてしまった。
しかし、後になって、それは創造性の芽を摘む行為だったと気づく。
本当に大切なのは、手順を守ることではない。
夢中になること、無心になって楽しむことである。
失敗を恐れず、自分なりの方法で試行錯誤するプロセスこそが、創造性を育むのだ。
この経験以降、森博嗣は子供や大学の教え子、後輩たちに対して、やり方を押し付けないように心掛けてきたという。
これは、あらゆる教育やマネジメントの場面で心に留めておくべき、非常に重要な教訓である。
私たちは、良かれと思って「最短ルート」や「失敗しない方法」を教えようとする。
しかし、それは相手から「楽しさ」や「発見の喜び」を奪う行為になりかねない。
特に、現代の教育は成果主義、効率主義に傾きがちで、子供たちが試行錯誤する時間や余白が失われつつある。
安全に関わることさえ教えておけば、あとは自由にやらせてみる。
回り道や失敗こそが、人を大きく成長させる。
方法論は二の次で、まずは対象への興味や愛情、楽しむ気持ちを最大限に尊重すること。
この視点を持つだけで、他者との関わり方も、自分自身の物事への取り組み方も、大きく変わってくるはずだ。
それは、他者の可能性を信じるという、深い信頼の表明でもある。
知識の暗記より思考のプロセスを重視する
森博嗣は、学生時代から一貫して「暗記」を嫌っていたという。
彼にとって、学問とは知識を詰め込む作業ではなく、物事の本質を理解し、論理的に思考する訓練であった。
僕が大学を受験するときには、まだ共通一次とかセンタ試験などは始まっていない。各大学が独自の問題で入試を行っていた。理系の学部では、数学と物理の配点が大きく、この二つで良い点を取れば、英語、国語、社会などをカバーできたのである。(P.82「第3章 思考に必要な整理」)
1979年に共通一次試験が導入される以前の時代、大学入試は各大学の個性が色濃く反映されていた。
特に理系学部では、論理的思考力を問う数学や物理が重視され、暗記科目の比重は相対的に低かった。
このような環境が、森博嗣の思考スタイルを形成する一助となったことは想像に難くない。
現代の共通テストが、知識の網羅性と思考力のバランスを模索しているとはいえ、依然として暗記に頼る部分が大きいのは事実である。
インターネットの普及により、単なる知識は誰でも瞬時に手に入れられるようになった。
今、本当に求められているのは、膨大な情報の中から本質を見抜き、自分なりの答えを導き出す「思考力」である。
森博嗣の父親が彼に語った言葉は、この思考力の重要性を端的に示している。
僕の父は、僕が幼稚園のときに、算数の計算を教えてくれました。彼は、学校の勉強なんかどうだって良い、一生懸命になるな、一番になるな、テストで悪い点を取っても良い。だけど、算数と数学だけは、ちゃんと授業を聞いていなさい。世の中に出て役立つものは、算数と数学だけだから。そういました。(P.200「第6章 本書の編集者との問答」)
建築関係の仕事をしていたという彼の父親は、実社会で本当に役立つ能力が何かを肌で理解していたのだろう。
計算能力や論理的思考の基礎となる数学こそが、あらゆる問題解決の土台となる。
この教えは、森博嗣の人生観、そして作品の世界観にも大きな影響を与えている。
私たちは、つい目先の点数や資格、知識の量に囚われがちである。
しかし、本当に大切なのは、それらの知識を使って何を考えるか、どう問題を解決するかである。
思考の整理とは、不要な知識を詰め込むのをやめ、思考のフレームワークである論理性を鍛え上げることなのかもしれない。
この父親の言葉に触発され、今一度、中学数学の教科書くらいから学び直してみるのも、無駄なことではないだろう。
「友達は財産」という言葉の欺瞞
人間関係における「整理」についても、森博嗣は極めてドライで、しかし本質的な視点を提示する。
彼は、一般的に美徳とされる価値観にさえ、容赦なくメスを入れる。
大勢の人たちと知り合っていれば、相談できる範囲が広がり、困ったときに助けを求めることもできるだろう。そういうものを「財産」だと昔はいったのである。なんとも、いやらしい価値観だと僕は感じる。打算的である点がいやらしい。(P.109「第4章 人間関係に必要な整理」)
「人脈は財産だ」という言葉を、一度は聞いたことがあるだろう。
ビジネス書や自己啓発セミナーなどでは、今でも金科玉条のように語られている。
しかし、森博嗣はそれを「いやらしい価値観」だと断じる。
その理由は、根底にある「打算」である。
いつか助けてもらうために、何かの利益を得るために人と付き合う。
それは、友情や信頼とは似て非なるものである。
彼はさらに、「友達は財産」という言葉は、より一層「卑しい」とまで言い切る。
普段は冷静で理知的な森博嗣が、これほど強い嫌悪感を表明するのは珍しい。
それは、この言葉が人間関係の最も純粋な部分を、金銭的価値に換算してしまう下劣さを持っているからだろう。
本当に良い人間関係とは、損得勘定を抜きにしたところから始まる。
見返りを求めず、ただその人と一緒にいるのが楽しい、話していると心地よい。
そうした関係性こそが、人生を豊かにするのではないだろうか。
SNSの「友達」や「フォロワー」の数がステータスになる現代において、彼のこの言葉は非常に重い意味を持つ。
私たちは、数を増やすことに躍起になるあまり、一人ひとりの人間と真摯に向き合うことを忘れてはいないだろうか。
人間関係の整理とは、不要な繋がりを切ることではない。
打算や見栄といった不純物を取り除き、純粋な好意に基づいた関係性を大切にすることなのである。
孤独を恐れず、質の高い関係を少数でも築くことの方が、遥かに精神的な満足度は高いはずだ。
自分自身の在り方を整理する
本書の核心は、モノや情報、人間関係といった外部の整理から、自分自身の内面、すなわち「自己の整理」へと向かうプロセスにある。
森博嗣は、多くの人が陥りがちな思考の罠について、鋭い指摘を行う。
願うだけなら自由だろう、と考えているのかもしれない。だが、願うものが基準となって、現実を見てしまうから、不満が生まれる。ストレスとなる。その被害を受けるのは、自分自身なのである。(P.137「第5章 自分自身の整理・整頓を」)
「こうありたい」「こうなってほしい」という願いや理想は、時として私たちを苦しめる。
高すぎる理想は、現実とのギャップを生み、不満や自己嫌悪の原因となる。
これは、経営学者の楠木建(くすのき・けん、1964年~)が提唱する『絶対悲観主義』にも通じる考え方である。
というよりも、そもそも森博嗣自身が『悲観する力』という本を出版している。
期待値をコントロールし、最悪を想定しておくことで、現実の出来事に一喜一憂せず、冷静に対処できるようになるのだ。
では、自分自身を整理・整頓するとは、具体的にどういうことなのか。
森博嗣は、それは自分と社会との関係を考え抜くことだと述べる。
自分自身を整理・整頓するということは、このように自身の現状や未来を考え尽くすこと、と言い換えても良い。自分を考えるとは、自分と社会との関係を考えるということと、ほとんど同じである。自分が何者であり、どのような可能性を持っているのか、と考えることだ。(P.148「第5章 自分自身の整理・整頓を」)
これは、他人の評価や社会的な成功を基準にするという意味ではない。
あくまで主観的に、自分の幸福を追求するために、現実社会というフィールドを正確に認識する必要がある、ということだ。
自分が置かれた状況、持っているカードを冷静に分析し、その中で最善の戦略を立てる。
それが、自分を考えるということの本質なのである。
他人の目という不確かなものではなく、目の前にある現実を直視することから、自己の整理は始まる。
自分を知るための逆説的な方法
さらに森博嗣は、自己理解に至るための、一見すると逆説的なアプローチを提示する。
それは、「自分のことだけを考えない」という方法である。
すなわち、自分のことを考えるというのは、自分のことだけを考えるのではない。なんでも良いから、とことん考えているうちに、だんだん自分というものがわかってくる、という知見である。これがなんとなく、そうなのかな、と思えたのは、五十代になってからだったと思う。(P.149「第5章 自分自身の整理・整頓を」)
これは、禅問答のようにも聞こえる深遠な洞察である。
森博嗣ほどの知性をもってしても、この感覚に到達したのは50代になってからだという。
私たちは「自分探し」と称して、自分の内面ばかりを覗き込もうとする。
しかし、本当に自分を映し出す鏡は、自分の外にあるのかもしれない。
何かの学問に没頭する、趣味に打ち込む、仕事に集中する。
そうして自分以外の対象と真剣に向き合う中で、自分の興味の方向性、得意なこと、価値を感じることなどが、輪郭を帯びてくる。
対象に深く関わることで、逆説的に「自分」という存在が浮かび上がってくるのだ。
これは、仏教的な「無我」の境地にも通じるものがある。
我を忘れ、対象と一体になることで、かえって真の自己が見えてくるのである。
最終的に、自分自身の整理とは、生きる上での軸を見つける作業に他ならない。
自分自身を整理・整頓するとは、簡単にいえば、自分が生きるうえで、「一番大事なことは何か?」あるいは「目指しているものの本質は何か?」を考えることだろう。それを考え尽くせば、余分なものが自然に排除され、頭はすっきりするし、行動も洗練されるように思う。(P.154「第5章 自分自身の整理・整頓を」)
自分にとって最も重要な価値観が明確になれば、それ以外の些末なことは気にならなくなる。
何を選択し、何を捨てるべきかが自ずと見えてくる。これこそが、究極の整理術なのである。
思考を曇らせる「感情」という幻想
しかし、この本質を見極める作業は、言うほど簡単ではない。
なぜなら、私たちの思考は常に「感情」というフィルターを通して物事を見ているからだ。
ほとんどの場合、本質や真の目的から目を逸らしてしまう原因は、「感情」にある。感情というのは、問題を見誤らせる。感情が作った幻想で、進むべき先が見えなくなってしまうのだ。(P.157「第5章 自分自身の整理・整頓を」)
不安、怒り、嫉妬、見栄。
こうした感情は、目の前にある問題を、実際よりも大きく、複雑に見せてしまう。
自分で勝手に障害物を作り出し、進むべき道を見失ってしまうのだ。
特に、SNSなどで他人の華やかな生活が目に入りやすい現代では、嫉妬や焦りといった感情が、冷静な判断をより一層困難にしている。
もちろん、感情がすべて悪いわけではない。
しかし、重要な判断を下す際には、一度感情を脇に置き、事実を客観的に分析する冷静さが必要である。
自分の「意見」と、一時的な「感情」を切り分ける訓練。
例えば、「あの人の意見には反対だ(意見)」と「あの人自身が嫌いだ(感情)」とを混同しないように心掛ける。
これが、思考を整理し、本質を見抜くための鍵となる。
感情に流されるのではなく、感情を客観的に観察し、乗りこなす術を身につけたいものである。
自己評価で生きるための創作術
森博嗣という作家のユニークな価値観は、彼の創作スタイルにも色濃く表れている。
彼は、他者からの評価を一切意に介さない。
彼が求めるのは、ただ一つ、「自分自身からの称賛」である。
僕は、基本的に人から褒められても、なんとも思わない人間ですから、自分に褒められるためにすべての行動をしている感じですね。人から貶されるほど、続けたくなりますしね。(P.202「第6章 本書の編集者との問答」)
この反骨精神と、徹底した自己評価へのこだわり。
これこそが、彼を唯一無二の存在たらしめている源泉だろう。
他人の目を気にしていては、本当に創造的な仕事はできない。
自分が心から納得できるか、自分自身を褒めてあげられるか。
その基準を持つことが、プロフェッショナルとしての矜持なのである。
「承認欲求」という言葉が頻繁に使われる現代において、彼のこの姿勢は眩しく映る。
そんな彼の創作プロセスもまた、極めて個性的だ。
事前に考えるのは、作品のタイトルである。これは半年ほどかけて考える。百くらいは候補を挙げて、その中から選ぶ。(P.213「第7章 創作における整理術」)
デビュー以来、プロットも詳細な設定も作らずに執筆に臨むという森博嗣が、唯一時間をかけて準備するのが「タイトル」だという事実は示唆に富んでいる。
タイトルは、作品のコンセプトそのものである。
時間をかけて本質を突き詰め、核となるコンセプトさえ固まれば、あとは物語が自然に走り出すのかもしれない。
これは、ビジネスにおけるコンセプト設計やブランディングにも通じる重要なプロセスである。
そして、実際の執筆作業は、驚くほど短時間の集中を繰り返すスタイルで行われる。
書いている最中というのは、単なる労働。頭にあるイメージを書き写しているだけの作業で、非常に疲れる。だから、十分か十五分ほどでやめて、別の作業をすることにしている。(P.214「第7章 創作における整理術」)
執筆の合間に、庭いじりや模型飛行機、鉄道模型といった趣味の時間を挟む。
これは、単なる気晴らしではない。
異なる作業に切り替えることで、脳をリフレッシュさせ、集中力を最大限に高めるための、極めて合理的な仕事術なのである。
これは現代の生産性向上のテクニックである25分の作業と5分の休憩を繰り返す「ポモドーロ・テクニック」を先取りしたようなスタイルとも言える。
彼の生活そのものが、思考を整理し、創造性を維持するための実験場なのだ。
常識から自由になるための思考のレッスン
森博嗣のライフスタイルは、世間の常識とはかけ離れているかもしれない。
洗車はしない(P.231)。平均5年で引っ越しを繰り返す「引越魔」である(P.249)。ギャンブルも旅行も外食もほとんどせず、趣味だけに没頭する(P.250)。
しかし、そのすべてが、「他人の目を気にしない」「自分にとっての本質を追求する」という一貫した哲学に貫かれている。
彼の生き方は、所有するモノの量や社会的地位ではなく、精神的な自由度こそが豊かさの指標であることを示している。
常に環境を変え続ける「引越魔」であることも、慣れやマンネリによる思考の停滞を防ぐための、彼なりの整理術なのかもしれない。
本書『アンチ整理術』は、片付けが苦手な人に向けたハウツー本ではない。
これは、私たちの頭の中にこびりついた「常識」や「固定観念」という名のゴミを掃除し、思考をクリアにするための哲学書であり、現代社会を賢く生き抜くためのサバイバルガイドでもある。
モノを捨てる前に、まず捨てるべきは不要な思い込みではないか。
人間関係を整理する前に、見栄や打算を整理すべきではないか。
そして何より、自分自身の人生を整理するために、自分にとって「一番大事なことは何か」を、とことん考え抜くべきではないか。
この本を読めば、凝り固まった思考がほぐれ、世界が少し違って見えてくるはずだ。
生きるのが少し楽になり、自分の足で、自分の頭で歩んでいく勇気が湧いてくるだろう。
森博嗣が仕掛けた、常識を覆す知的ゲーム。
ぜひ、あなたもこの思考のレッスンに参加してみてはいかがだろうか。
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