記事内に広告が含まれています

鷲田清一『岐路の前にいる君たちに』あらすじ・感想

鷲田清一『岐路の前にいる君たちに』表紙

  1. 複眼的な視点の重要性
  2. 教養とコミュニケーション
  3. 社会への開かれた姿勢
  4. 柔軟で実践的な知恵

鷲田清一の略歴・経歴

鷲田清一(わしだ・きよかず、1949年~)
哲学者(臨床哲学・倫理学)。評論家。
京都府京都市の生まれ。京都大学文学部哲学科を卒業、京都大学大学院文学研究科博士課程を単位取得退学。

『岐路の前にいる君たちに』の目次

第一章 卒業式の言葉
問題の根を発見し、解決する力 2007年度 大阪大学卒業式 式辞
枠の外の価値を見つけられる眼 2008年度 大阪大学卒業式 式辞
他者の小さな声を聴き、応じることができるリベラリティ 2009年度 大阪大学卒業式 式辞
社会の根底的な変化を感知するセンス 2010年度 大阪大学秋季大学院学位記授与式 式辞
重要なのは優れたフォロワーシップ 2010年度 大阪大学卒業式・学位記授与式 式辞
芸術の根底にある民主主義の精神 2015年度 京都市立芸術大学卒業式 式辞
全容を把握できないまま拡大し続ける社会 2016年度 京都市立芸術大学卒業式 式辞
「わたし」の表現は「時代」の表現 2017年度 京都市立芸術大学卒業式 式辞
感動や違和感を一つの確かな表現へと転換する 2018年度 京都市立芸術大学卒業式 式辞

第二章 入学式の言葉
わからないまま的確に問題に処するスキル 2008年度 大阪大学入学式 告辞
ほんとうの科学は思いやりのあるもの 2009年度 大阪大学入学式 告辞
タフな知性に必要な「複眼」 2010年度 大阪大学入学式 告辞
他者を他者のほうから理解しようとする想像力 2011年度 大阪大学入学式 告辞
社会の現場に想像力を届ける 2015年度 京都市立芸術大学入学式 式辞
アートは人びとをつなぐ生存の技法 2016年度 京都市立芸術大学入学式 式辞
「つくる」技を回復させる 2017年度 京都市立芸術大学入学式 式辞
体は世界を感知するセンサー 2018年度 京都市立芸術大学入学式 式辞
あとがき

『岐路の前にいる君たちに』の概要・内容

2019年12月20日に第一刷が発行。朝日出版社。191ページ。ソフトカバー。128mm✕188mm。四六判。

副題は「鷲田清一 式辞集」。

帯には「哲学者 鷲田清一が若者に贈った、不定の時代を照らす教養の言葉」、「見晴らしのよい場所へ立つために。」とも。

『岐路の前にいる君たちに』の要約・あらすじ・感想

  • 教養の本質:専門性と普遍性の架け橋
  • 価値の遠近法:複眼が生み出す判断基準
  • 複眼と客観性:関心の外側へ目を向ける
  • 優れたフォロワーシップ:「一差し舞える」準備
  • 芸術の抵抗:多様性を守る砦
  • 詩人の眼差し:「見えてはいるが、誰も見ていないもの」
  • 学びの意味:自分を「見晴らしのいい場所」へ
  • 視差(parallax)と社会意識:他者理解への道
  • 鷲田清一という哲学者:学歴や著作、子供たち
  • 本書を読む意義:不確実な時代を生きるための羅針盤

哲学者の鷲田清一(わしだ・きよかず、1949年~)による著作『岐路の前にいる君たちに』は、主に大阪大学と京都市芸術大学の卒業式や入学式で語られた式辞・告辞をまとめた一冊である。

しかし、その内容は単なる学生への祝辞や訓示にとどまらない。変化の激しい現代社会において、自らの進むべき道を見定めようとするすべての人々、すなわち人生の様々な「岐路」に立つ私たち一人ひとりにとって、深く考えさせられる言葉が詰まっている。

鷲田清一の文章は現代文の教材としても取り上げられることがあり、その普遍的なメッセージは多くの読者の心を捉えてきた。本書は鷲田清一の考え方に触れる入門書としても最適であろう。

本書の中心的なテーマは、複雑化し、先行きの見えない社会を生き抜くための知性、特に「複眼的な視点」を持つことの重要性である。

鷲田清一は、専門分野に閉じこもることなく、多様な価値観や視点を取り入れ、物事を多角的に捉える「教養」の必要性を繰り返し説く。それは、単なる知識の蓄積ではなく、状況に応じて的確な判断を下し、他者と共生していくための実践的な知恵なのである。

この記事では、『岐路の前にいる君たちに』の中から、特に印象的な言葉を引用しつつ、その背景にある鷲田清一の思想や、現代を生きる我々にとっての意義を深く掘り下げていきたい。

人生の選択に迷うとき、あるいは日々の仕事や生活の中で立ち止まって考えたいとき、本書の言葉はきっと、新たな視点を与えてくれるはずである。

鷲田清一がどのような人物で、何を探求してきた哲学者なのか、その学歴や思想の核心にも触れながら、本書の魅力を余すところなく伝えたい。

教養の本質:専門性と普遍性の架け橋

本書の第一章は、鷲田清一が大阪大学総長および京都市立芸術大学学長時代に行った卒業式の式辞で構成されている。

社会へと巣立っていく若者たちへ向けられた言葉であるが、その内容は、年齢や立場に関わらず、変化の節目に立つすべての人にとって示唆に富むものである。

ここには、不確実な未来を歩むための心構えや、社会の中でいかに自己を確立し、他者と関わっていくべきかについての深い洞察が示されている。

鷲田清一は、専門分野を深く掘り下げることの重要性を認めつつも、それだけでは不十分であると指摘する。

真の専門家とは、自らの専門知識を、専門外の人々にも理解できるよう、普遍的な言葉で語れる人物でなければならない。そのために不可欠なのが「教養」であると、2008年度の大阪大学卒業式で述べている。

自分が何を知っていて何を知らないか、自分に何ができて何ができないか、それを見通せていることが「教養」というものにほかなりません。内輪の符丁でしか語れない人は、そもそも専門家としても失格なのです。(P.21「枠の外の価値を見つけられる眼 2008年度 大阪大学卒業式 式辞」)

ここで語られる「教養」とは、単なる知識の量ではない。

自己の能力や限界を客観的に認識し、それを他者に伝え、共有できるコミュニケーション能力をも含意する。専門分野の「内輪の符丁」だけでしか語れない人物は、その知識を社会の中で活かすことができず、孤立してしまう危険性がある。

鷲田清一が教科書などで取り上げられる現代文の文章にも通じるように、多様な背景を持つ人々と対話し、協働していくためには、専門性を超えた共通の土台、すなわち幅広い視野と柔軟な思考を可能にする教養が不可欠なのである。

これは、専門分化が進む現代社会において、ますます重要となる視点であろう。

ビジネスの世界においても、技術者と営業担当者、あるいは経営層と現場スタッフといった異なる立場の人々が円滑に意思疎通を図るためには、こうした教養に裏打ちされたコミュニケーション能力が求められる。

鷲田清一の言う教養は、組織や社会における「通訳者」としての役割を果たすための基盤とも言えるだろう。

価値の遠近法:複眼が生み出す判断基準

教養を持つこと、それは物事を「複眼」で見ることにつながる。

一つの視点に固執せず、多様な角度から物事を捉えることで、世界はより立体的に、奥行きをもって見えてくる。そして、この複眼的な視点が可能にするのが、「価値の遠近法」であると鷲田清一は説く。

これは、2009年度の大阪大学卒業式の言葉である。

この奥行き、それは「価値の遠近法」と言いなおすこともできるでしょう。「価値の遠近法」とは、なくてはならないもの、つまり絶対に見失ってはならないものと、あってもよいけどなくてもよいものと、端的になくてもよいもの、そして最後に絶対にあってはならないこと。この四つを、どんな状況にあってもそのつど区分けできるということです。(P.31「他者の小さな声を聴き、応じることができるリベラリティ 2009年度 大阪大学卒業式 式辞」)

教養は複眼を持つこと。複眼を持つと世界は「奥行き」を感じられる、から続く部分。

そして、「奥行き」を「価値の遠近法」と言い直す。

「価値の遠近法」とは何か?

それは、物事の重要度や優先順位を的確に見極めるための判断基準である。鷲田清一は、世の中の価値を四つのカテゴリーに分類する。

1. なくてはならないもの(絶対に見失ってはならないもの)

2. あってもよいけどなくてもよいもの

3. 端的になくてもよいもの

4. 絶対にあってはならないこと

この四つの区分けは非常に明快であり、私たちが日々直面する様々な選択や判断において、羅針盤となり得る。

情報が氾濫し、多様な価値観が交錯する現代社会において、何が本当に重要で、何がそうでないのかを見極める力は、ますます重要になっている。

この「価値の遠近法」を身につけるためには、やはり多様な知識や経験に触れ、複眼的な視点を養う「教養」が不可欠なのである。

この視点は、個人の生き方だけでなく、企業経営や政策決定など、社会的な意思決定の場面においても応用できる普遍的な考え方であろう。

何を守り、何を切り捨て、何を避けるべきか。この判断軸を持つことが、変化の激しい時代を生き抜くための知恵となる。

複眼と客観性:関心の外側へ目を向ける

鷲田清一は、教養と複眼の関係について、さらに深く掘り下げる。

2010年度の大阪大学秋季大学院学位記授与式では、教養が知性をいかに客観的なものにするかを語っている。

教養とは、一つの問題に対して必要ないくつもの思考の補助線を立てることができるということです。いいかえると、問題を複眼で見ること、いくつかの異なる視点から問題を照射することができるということです。このことによって、人の知性はより客観的なものになります。わたしたちの知性がそのように複眼的になるためには、常日頃から、自分の関心とはさしあたって接点のない思考や表現にふれるよう心がけていなければなりません。(P.45「社会の根底的な変化を感知するセンス 2010年度 大阪大学秋季大学院学位記授与式 式辞」)

一つの問題を解決しようとするとき、単一の視点からだけでは、その全体像や本質を見誤る可能性がある。

しかし、複数の「思考の補助線」、すなわち異なる分野の知識や多様な人々の視点を取り入れることで、問題はより立体的に、客観的に捉えられるようになる。主観的な思い込みや偏見から解放され、より本質に迫る理解が可能になるのである。

そして、そのような複眼的な知性を養うためには、意識的に自分の「関心の外側」に目を向ける努力が必要だと鷲田清一は強調する。

普段自分が接している情報や人間関係の範囲を超えて、未知の分野の書籍を読んだり、異なる文化や価値観を持つ人々と交流したりすること。そうした経験を通じて、自分の思考の枠組みを相対化し、新たな視点を取り込むことができる。

これは、自己満足的な内向き志向に陥らず、常に世界に対して開かれた姿勢を保つことの重要性を示唆している。

主体的な関心だけでなく、一見無関係に見える客体や外部の世界への意識を持つことが、結果的に自己の知性を豊かにし、客観的な判断力を高めることにつながる。

鷲田清一の思想の根幹には、常に他者や外部世界への開かれたまなざしが存在するのである。

優れたフォロワーシップ:「一差し舞える」準備

リーダーシップの重要性が叫ばれることが多い現代社会において、鷲田清一は「フォロワーシップ」の意義にも光を当てる。

2010年度の大阪大学卒業式・学位記授与式では、文化人類学者の梅棹忠夫(うめさお・ただお、1920年~2010年)の言葉を引用し、責任のあるリーダーや、フォロワーのあるべき姿について語っている。

昨年亡くなられた文化人類学者の梅棹忠夫さんは、亡くなられる直前のインタビューにおいて、いつも全体を気遣いながら、自分にできるところで責任を担う、そういう教養のあるフォロワーシップについて語っておられました。そしてその話をこんな言葉で結ばれました。――「請われれば一差し舞える人物になれ」(P.57「重要なのは優れたフォロワーシップ 2010年度 大阪大学卒業式・学位記授与式 式辞」)

梅棹忠夫は、『知的生産の技術』などの著作で知られる碩学である。

その彼が晩年に語った「請われれば一差し舞える人物になれ」という言葉は、非常に示唆に富む。

「一差し舞える」とはどういう意味か?

それは、単に専門分野に特化するだけでなく、幅広い教養と多様なスキルを身につけ、組織や社会全体の状況を常に把握し、いざという時に求められる役割を的確に果たせるよう、常に準備を怠らない人物であれ、ということである。

リーダーとして推されたのであれば、リーダーシップを存分に発揮する。そのような準備を日頃からしておくということ。

これはフォロワーも同様である。優れたフォロワーとは、単に指示に従う存在ではない。全体の状況を理解し、リーダーを支え、時にはリーダーの盲点を補い、自らの持ち場で責任を果たす、能動的な存在である。

そのためには、専門性はもちろんのこと、状況判断能力、コミュニケーション能力、そして何よりも、全体への貢献意識が必要とされる。梅棹忠夫のこの言葉は、専門バカになることなく、常に自己研鑽に励み、社会の変化に対応できる柔軟性と即応力を持つことの重要性を教えてくれる。

まさに、現代を生きる私たち一人ひとりが目指すべき理想像の一つと言えるだろう。この「一差し舞える」準備は、個人のキャリア形成においても、組織の活性化においても、極めて重要な要素である。

芸術の抵抗:多様性を守る砦

鷲田清一は、哲学のみならず、芸術にも深い造詣を持つ。

京都市立芸術大学の学長を務めた経験から、芸術が持つ社会的な意義についても考察を深めている。2015年度の京都市立芸術大学卒業式では、芸術家たちの言葉を引きながら、芸術の本質について語る。

一人ひとりの存在を違うものとして尊重すること。そして人をまとめ、平均化し、同じ方向を向かせようとする動きに、最後まで抵抗するのが、芸術だということです。(P.64「芸術の根底にある民主主義の精神 2015年度 京都市立芸術大学卒業式 式辞」)

ここで言及されているのは、ピアニストであり指揮者でもあるダニエル・バレンボイム(Daniel Barenboim、1942年~)と、アートディレクターとして活躍する北川フラム(きたがわ・ふらむ、1946年~)である。

彼らの主張に共通するのは、芸術が持つ「抵抗」の精神である。

芸術は、個々の違いを認め、多様な表現を尊重する。画一化や同質化を求める社会の圧力に対して、「ノー」を突きつける力を持つ。

人々を一つの型にはめ込み、同じ方向を向かせようとする権力やシステムに対し、個性の輝きや異質であることの価値を主張し続けるのが芸術の本質であると、鷲田清一は捉える。

これは、岡本太郎(おかもと・たろう、1911年~1996年)のような芸術家が繰り返し訴えてきたテーマと重なる部分でもある。芸術は、単なる美的な楽しみや娯楽にとどまらないものなのである。

鷲田清一が哲学者として、また教育者として何をした人かと問われれば、こうした芸術分野への深い理解と、その社会的意義の発信も、重要な功績の一つとして挙げられるだろう。

詩人の眼差し:「見えてはいるが、誰も見ていないもの」

芸術と同様に、言葉の力、特に詩が持つ独自の機能についても、鷲田清一は注目する。

2016年度の京都市立芸術大学卒業式では、詩人・長田弘(おさだ・ひろし、1939年~2015年)の言葉を引用し、日常に埋もれた真実を捉える詩人の眼差しについて語っている。

一昨年に亡くなられた詩人の長田弘さんは、若い頃、オートバイによるヨーロッパ縦断の旅に出られ、その紀行文のなかにこんな言葉を書きとめられました。

見えてはいるが、誰も見ていないものを見えるようにするのが、詩だ。(P.69「全容を把握できないまま拡大し続ける社会 2016年度 京都市立芸術大学卒業式 式辞」)

長田弘は、福島県出身で、早稲田大学で学んだ、現代日本を代表する詩人の一人である。

彼のこの言葉は、詩、ひいては優れた表現行為全般が持つ力を端的に示している。私たちの周りには、物理的には「見えて」いるにもかかわらず、意識されることなく見過ごされている物事や感情、関係性が無数に存在する。

詩人は、鋭敏な感性と独自の言葉遣いによって、そうした日常の中に隠された真実や美、あるいは問題点に光を当て、私たちが「見る」ことができるようにしてくれる存在なのである。

これは、単に物事を観察するだけでなく、その背後にある意味や文脈を読み解き、新たな視点を提供する営みと言える。

鷲田清一の哲学もまた、日常的な経験や身体感覚を手がかりに、見過ごされがちな世界の様相を言語化しようと試みる点において、この詩人の眼差しと通底するものがあるだろう。

日常においても、表面的な言葉の意味だけでなく、その背後にある意図や隠されたメッセージを読み取る力が求められるが、それはまさに、この「見えてはいるが、誰も見ていないもの」に気づく力と重なる。

学びの意味:自分を「見晴らしのいい場所」へ

第一章が社会へ旅立つ者へのメッセージであったのに対し、第二章はこれから学びを深めようとする者たち、すなわち大学の入学生に向けられた言葉で構成されている。

ここでも、鷲田清一は単なる学問のすすめにとどまらず、学ぶことの本質的な意味や、知性を獲得するプロセスで重要となる姿勢について、深く問いかける。

学ぶとは、単に知識を詰め込むことではない。

鷲田清一は、学ぶことによって得られる最も重要な成果の一つを、「自分をより見晴らしのいい場所に立てる」ことだと表現する。これは、2016年度の京都市立芸術大学入学式の言葉である。

学ぶというのは、自分をより見晴らしのいい場所に立てるということです。そのためには、自分がいまいるこの時代を立体視することが必要となります。(P.162「アートは人びとをつなぐ生存の技法 2016年度 京都市立芸術大学入学式 式辞」)

「見晴らしのいい場所」とは、物事の全体像をより広く、より深く理解できる視座のことである。

特定の分野の知識だけでなく、歴史的な文脈、社会的な背景、他の分野との関連性などを踏まえて物事を捉えることができるようになること。それが、学びを通じて獲得されるべき視野の広がりであり、深まりなのである。

そして、そのためには、自分が生きている「いまこの時代」を客観的に、多角的に捉える「立体視」が必要となる。過去から現在に至る歴史の流れ、同時代に世界で起きている様々な出来事、社会構造の変化、多様な文化や価値観の存在。

これらを複合的に理解することで、初めて自分が立っている現在地の意味や、これから進むべき方向性が見えてくる。鷲田清一自身の学歴、すなわち京都大学、および京都大学大学院での哲学研究も、まさにこうした知的な探求を通じて、より広い視野を獲得しようとする営みであったと言えるだろう。

学び続けることによって、私たちは近視眼的な見方から脱し、より本質的な理解へと至ることができるのである。

この考え方は、今北純一(いまきた・じゅんいち、1946年~2018年)や、梅田望夫(うめだ・もちお、1960年~)、瀧本哲史(たきもと・てつふみ、1972年~2019年)、といった人物たちが、変化の時代を生き抜くための知力の重要性を説く議論とも響き合う。

視差(parallax)と社会意識:他者理解への道

時代を立体視するためには、どうすればよいのか。

鷲田清一は、その鍵となる概念として「視差(parallax)」を挙げる。同じく2016年度の京都市立芸術大学入学式の言葉である。

時代を立体視するためには当然、複数の眼が必要です。異なる二つの眼をもつからこそ世界は立体的に見えてくる。これを視差(parallax)と言います。視差は、自分の二つの眼のそれであるとともに、自分と他者との視角の差でもあります。世界を立体的に見るためのこの視差をより大きくするには、他の人たちが置かれている状況を事細かく想像することが不可欠です。つまりは社会への強い関心、あるいは社会意識が求められます。(P.162「アートは人びとをつなぐ生存の技法 2016年度 京都市立芸術大学入学式 式辞」)

私たちが物事を立体的に認識できるのは、左右の眼がそれぞれ少し異なる角度から対象を見ているからである。

このわずかな視点のずれ、すなわち「視差」が、奥行きや立体感を生み出す。鷲田清一は、この物理的な視差のアナロジーを用いて、知的な立体視について説明する。

知的な視差とは、自分自身の複数の視点(例えば、過去の経験と現在の視点、感情的な反応と理性的な分析など)だけでなく、より重要なのは「自分と他者との視角の差」である。

自分とは異なる立場、異なる経験、異なる価値観を持つ他者の視点を取り入れることで、初めて世界は多面的で豊かなものとして見えてくる。

そして、この他者との視差を大きくし、より深く世界を理解するためには、「他の人たちが置かれている状況を事細かく想像すること」、すなわち他者への共感的な想像力が不可欠である。これは、単なる同情ではなく、相手の立場に立って物事を考えようとする知的な努力を意味する。

この他者への想像力は、個人の内面にとどまらず、「社会への強い関心、あるいは社会意識」へとつながっていく。

自分の関心領域だけでなく、広く社会全体で何が起きているのか、様々な立場の人々がどのような状況に置かれているのかに関心を寄せることが、結果的に自分自身の視野を広げ、複眼的な知性を育む土壌となるのである。

広範な好奇心を持ち、世界に目を向けることが、最終的には自己の成長と社会への貢献につながるという、鷲田清一の思想の核心がここにも表れている。

鷲田清一という哲学者:学歴や著作、子供たち

本書『岐路の前にいる君たちに』の言葉を深く理解するためには、著者である鷲田清一がどのような人物であり、どのような思想的背景を持つのかを知ることが助けになるだろう。

鷲田清一は、現代日本を代表する哲学者の一人である。

鷲田清一の学歴は、 京都教育大学教育学部附属高等学校を経て、京都大学文学部哲学科に進み、同大学院文学研究科博士課程を単位取得退学している。その後、関西大学、大阪大学で教鞭をとり、2007年から2011年まで大阪大学総長、2015年から2019年まで京都市立芸術大学学長を務めた。

鷲田清一の専門分野は、哲学の中でも特に「臨床哲学」や身体論、モード論など、人間の具体的な生や経験に根ざした領域である。

臨床哲学とは、哲学的な思考や対話を通じて、医療、福祉、教育、あるいは日常生活における具体的な問題や悩みに向き合い、解決の糸口を探ろうとする実践的な哲学である。

鷲田清一の著作は多数にのぼり、『モードの迷宮』『じぶん・この不思議な存在』『「聴く」ことの力』『わかりやすいはわかりにくい?』など、読みやすいものが多く、新聞連載やエッセイなども手がけてきた。

その作品の一部は、しばしば高校の教科書にも採用されており、その平易でありながら深い洞察に満ちた文章は、多くの読者を惹きつけてきている。

家族については、長男の鷲田めるろ(わしだ・めるろ、1973年~)がキュレーターとして活動していることは知られているが、「めるろ」はフランスの哲学者メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908年~1961年に因んで名付けられた本名である。

また、次男の安達もじり(あだち・もじり)は、テレビドラマの演出家であり、母親の姓を名乗っている。「もじり」は、イタリアの画家アメデオ・モディリアーニ(Amedeo Clemente Modigliani、1884年~1920年)にちなんで名付けられた本名である。

本書を読む意義:不確実な時代を生きるための羅針盤

改めて、『岐路の前にいる君たちに』を読む意義はどこにあるのだろうか。

本書は、卒業や入学といった人生の節目に語られた言葉を集めたものであるが、そのメッセージは、特定の世代や状況にある人々だけではなく、現代を生きるすべての人々にとって普遍的な価値を持つ。

本書を通じて鷲田清一が一貫して訴えているのは、「複眼」を持つことの重要性である。

情報が溢れ、価値観が多様化し、未来の予測が困難な現代社会において、単一の視点や硬直した思考様式では、変化に対応し、適切な判断を下すことは難しい。

異なる分野の知識を学び、多様な人々の声に耳を傾け、自分の関心の外側にある世界にも目を向けること。そうした努力を通じて培われる「教養」こそが、物事を多角的に捉え、本質を見抜くための「複眼」を養う。

そして、その複眼的な視点は、「価値の遠近法」という実践的な判断基準をもたらす。

何が本当に大切で、何がそうでないのか。何を守り、何を捨てるべきか。絶対にあってはならないことは何か。この基準を持つことで、私たちは日々の選択や判断において、迷いながらも進むべき方向を見出すことができる。

そのための「視差(parallax)」を意識し、社会への関心を持ち続けること。こうした他者への開かれた姿勢が、複眼的な知性を深め、より豊かな人間関係と社会を築くための基礎となる。

梅棹忠夫の言葉「請われれば一差し舞える人物になれ」に象徴されるように、専門性を持ちつつも、常に全体を見渡し、求められる役割を果たせる準備をしておくことの重要性も、本書は教えてくれる。

それは、変化の激しい時代において、しなやかに生き抜くための重要な資質であろう。

鷲田清一の文章は、平易な言葉で語られているため非常に読みやすい。しかし、その背後には深い哲学的思索と、人間と社会に対する温かいまなざしがある。

本書を読むことで、読者は自らの思考を刺激され、日常の見慣れた風景が少し違って見えてくるかもしれない。そして、鷲田清一の他の著作や、彼が影響を受けた、あるいは言及する他の哲学者や思想家の本へと、さらに知的な探求を進めたくなるだろう。

『岐路の前にいる君たちに』は、まさに人生の様々な岐路において、立ち止まって考えるためのきっかけを与えてくれる一冊である。不確実な時代だからこそ、本書に込められた鷲田清一の言葉は、私たちにとって確かな羅針盤となり得る。

これから社会に出る若者だけでなく、経験を積んだ大人たちにとっても、自己を見つめ直し、未来への一歩を踏み出すための知恵と勇気を与えてくれる、鷲田清一の代表作の一つとして、長く読み継がれるべき書物である。

書籍紹介

関連書籍

関連スポット

大阪大学

大阪大学は、1931年に大阪帝国大学として設立した大阪府吹田市に本部を置く国立大学。旧帝国大学7校の一つ。

公式サイト:大阪大学

京都市立芸術大学

京都市立芸術大学は、1880年に設立された京都府画学校を母体とする公立の芸術系大学。京都府京都市下京区崇仁地区に本部を置く。

公式サイト:京都市立芸術大学