
書籍紹介
- 自由の本質は「思う」ことから始まり、行動や思考を通じて満足を得るプロセスで、森博嗣は合理的なアプローチを提唱。
- 身体や習慣を論理的に制御し、社会的常識や宣伝の支配から脱却し、無自覚な制約を認識し、自由へ近づく。
- 組織内での自由を確保するための「根回し」や、合理性を優先した「非常識な選択」、習慣化のテクニックとして「下限を上限にする」方法を実践。
- 安定を死の象徴とし、不安定さを生きる証と位置づけ、自己投資と論理的思考で真の自由を追求する人生観を提示。
森博嗣の略歴・経歴
森博嗣(もり・ひろし、1957年~)
小説家、工学者。
愛知県の生まれ。東海中学校・高等学校、名古屋大学工学部建築学科を卒業。名古屋大学大学院修士課程を修了。三重大学、名古屋大学で勤務。1990年に工学博士(名古屋大学)の学位を取得。1996年に『すべてがFになる』で第1回メフィスト賞を受賞しデビュー。
『自由をつくる 自在に生きる』の目次
まえがき「自由」に対する誤解
1章 人生の目的は自由の獲得である
2章 他者からの支配、社会からの支配
3章 身近に忍び寄る支配
4章 支配に対するレジスタンス
5章 やっかいなのは自分による支配
あとがき
『自由をつくる 自在に生きる』の概要・内容
2009年11月22日に第一刷が発行。集英社新書。189ページ。
『自由をつくる 自在に生きる』の要約・感想
- 思考こそが自由の起点であり現実化の第一歩
- 身体というハードウェアを制御する工学的視点
- 常識という名の支配構造を自覚する
- 自然と人工の境界線を再定義する冷徹な視線
- 研究という名の聖域に潜む死の影
- 身体の声を聞く食習慣と一日一食の合理性
- 宣伝と情報操作による思考のハイジャック
- 組織の中で自由を勝ち取るための「根回し」戦略
- 非合理な常識よりも非常識な合理を選べ
- 自己投資という名の資本蓄積と親の役割
- 習慣化のための「下限を上限にする」逆転の発想
- 安定は死と同義であり、不安定こそが生の証
- 総論:自由への渇望と論理の実践
現代社会において、「自由」という言葉はあまりにも手垢がついている。
多くの人間は、会社からの給与という鎖に繋がれ、あるいは社会的な常識という檻の中で、漠然とした不自由さを感じながら生きている。
しかし、本当の自由とは一体何なのか。
金銭的な余裕があれば自由なのか、時間が無限にあれば自由なのか。
その問いに対して、極めて論理的かつ工学的なアプローチで解を提示しているのが、森博嗣(もり・ひろし、1957年~)の著書『自由をつくる 自在に生きる』である。
森博嗣は、工学博士であり、元国立大学の助教授であり、そして累計発行部数何千万部を誇るベストセラー作家でもある。
彼の思考は、感情論や精神論を排除した、冷徹なまでの合理性に支えられている。
本書は、単なる自己啓発書ではない。
これは、現代社会というシステムの中で、いかにして個としての機能を最大化し、システムからの支配を脱するかを説いた「人生の設計図」である。
今回は、この一冊から、我々が真に自在に生きるための思考法を紐解いていく。
文学的な感性、経済学的な視点、そして工学的なロジックを総動員して、森博嗣の提示する「自由」の本質に迫りたい。
思考こそが自由の起点であり現実化の第一歩
まず、自由の定義について考えなければならない。
多くの人は、自由を「制約がない状態」だと勘違いしている。
しかし、森博嗣の定義はもっと能動的で、具体的だ。
彼は、自由をプロセスとして捉えている。
自由というのは、「自分の思いどおりになること」である。自由であるためには、まず「思う」ことがなければならない。次に、その思いのとおりに「行動」あるいは「思考」すること、この結果として「思ったとおりにできた」という満足を感じる。その感覚が「自由」なのだ。(P.18「1章 人生の目的は自由の獲得である」)
この一節は、非常に示唆に富んでいる。
森博嗣の思考力の鋭さが、この短い文章に凝縮されていると言っても過言ではない。
ここでのポイントは、明確に「思う」ことが出発点になっているという点だ。
ナポレオン・ヒル(Napoleon Hill、1883年~1970年)の名著『思考は現実化する』(『Think & Grow Rich』)を彷彿とさせるが、森博嗣のアプローチはよりプラグマティックである。
多くの人間は、自分の環境や境遇を嘆くばかりで、そもそも「どうしたいのか」という意志を持っていない。
「思う」ことがなければ、当然ながら「思い通り」にはならない。
思考という始動ボタンを押さずに、自由という結果だけを求めても、それは画餅に過ぎないのだ。
そして、ただ思うだけではなく、そこには「行動」あるいは「思考」というプロセスが介在しなければならない。
ここで重要なのは、森博嗣が「思考」もまたアクションの一つとしてカウントしている点である。
物理的な行動だけでなく、脳内での論理構築やシミュレーションもまた、自由を獲得するための重要な工程なのだ。
最初に強く「思う」こと。
そこで自分自身にブレーキを掛けてはいけない。
欲望や願望を直視し、それを現実化するために具体的な「行動」と「思考」を積み重ねる。
その結果として得られる満足感こそが、自由の正体なのである。
身体というハードウェアを制御する工学的視点
森博嗣の合理性は、自身の肉体管理においても遺憾なく発揮されている。
彼は、自身の体重すらもコントロール可能なパラメータとして扱っているようだ。
僕は、1年に1度、ダイエットをするけれど、毎年、夏になるまえに、1カ月ほどで体重の15%くらいを減量する。そうする方が躰が楽だから習慣的に実行している。(P.25「1章 人生の目的は自由の獲得である」)
この記述には驚かされる。
単に痩せるというレベルではなく、1ヶ月で15%という数値目標を掲げ、それを淡々と実行している点だ。
仮に体重が60キログラムだとすれば9キログラム、70キログラムであれば10.5キログラムの減量ということになる。
80キログラムであれば12キログラムだ。
これを毎年恒例の行事のように行っているという事実は、彼が自分の身体を「自分」という意識の乗り物、あるいはメンテナンスすべき機械として客観視していることを示唆している。
一般的に、急激な減量はリバウンドのリスクや健康被害が懸念されるが、森博嗣にとっては「その方が躰が楽」という合理的な理由がすべてに優先する。
後述するが、彼は普段から夕食のみの一日一食という生活を送っている。
それにも関わらず、定期的な減量を必要とするということは、彼の代謝システムやエネルギー効率が特異なものなのか、あるいは冬場にエネルギーを蓄積するサイクルを持っているのかもしれない。
いずれにせよ、体重を短期間で約10キログラム落とすような制御を、意志の力と論理的な手法で行っていることは間違いない。
肉体という最も身近なハードウェアさえも、思考によって支配下に置く。
これこそが、彼の実践する「自由」の具体的な形の一つなのだろう。
常識という名の支配構造を自覚する
我々が自由になれない最大の要因は、無自覚な思い込みにある。
社会通念や常識といったバイアスが、思考の枠組みを狭めているのだ。
森博嗣は、まずその「支配」を認識することの重要性を説く。
当たり前だと思っていること、不可避だと信じていたことが、単なる選択肢の一つにすぎないものだとわかってくる。なにごとも「自覚」が一番大切なことであり、これがすべての改革のスタートになる。(P.43「1章 人生の目的は自由の獲得である」)
この視点は、マルクス主義的な「イデオロギー」の概念や、フランスの哲学者ミシェル・フーコー(Michel Foucault、1926年~1984年)の権力論にも通じるものがある。
我々は、知らず知らずのうちに、誰かが作ったルールの上で踊らされている。
「朝は起きなければならない」
「食事は三食摂らなければならない」
「学校には行かなければならない」
これらは絶対的な真理ではなく、単なる選択肢の一つに過ぎない。
自分の身の回りにある「支配」を認識すること。
それを自覚した瞬間、世界の見え方は一変する。
不可避だと思っていた壁が、実はただの線であったことに気づく。
意外なほど変なものごとに思考を縛られている自分を発見するだろう。
その自覚こそが、改革のスタート地点であり、準備段階なのである。
自然と人工の境界線を再定義する冷徹な視線
森博嗣の視点は、しばしば環境問題や自然崇拝に対する盲目的な信仰をも突き崩す。
彼は、農業という営みに対して、極めてドライな定義を下している。
そもそも農業というものが既に自然の営みではない。極めて人工的な行為だ。田畑で穫れる作物とは、ようするに「養殖」された植物である。自然とはほど遠い人工的な環境によって大量生産され、また品種改良された製品なのだ。(P.45「1章 人生の目的は自由の獲得である」)
昨今のロハスブームやオーガニック信仰に対する、強烈なアンチテーゼである。
科学の発展を否定し、「自然に帰れ」と叫ぶ人々の矛盾を、彼は鋭く指摘する。
確かに、農業は自然への介入であり、遺伝子レベルでの操作(品種改良)の歴史である。
それは科学であり、化学であり、工業的なプロセスと大差はない。
「自然が好き」と言いながら、最新技術の結晶であるゴアテックスのジャケットを着て、高機能なトレッキングシューズを履いて山に入る。
防寒、断熱、防水、透湿といったテクノロジーに守られながら「自然」を享受する行為の、なんと奇妙なことか。
森博嗣は、こうした矛盾を笑うのではなく、事実として淡々と提示する。
自然と人工の対立軸そのものが、人間の作り出した幻想であることを突きつけてくるのだ。
この認識を持つこともまた、既成概念からの解放、すなわち自由への一歩となる。
研究という名の聖域に潜む死の影
自由には代償が伴う。
会社組織や時間管理といった支配から逃れることは、同時に、自分自身ですべてを管理しなければならないという過酷な現実を意味する。
森博嗣が身を置いていた大学の研究室という環境は、ある種、究極の自由空間であった。
こういった事例から感じるのは、「自由」というものに向き合うことの難しさである。たぶん、我々人間は自由にあまり慣れていないのだろう。(P.60「2章 他者からの支配、社会からの支配」)
ここで言及されている「こういった事例」の内容は、衝撃的である。
研究者という職業は、基本的に自由だ。
タイムカードもなければ、上司からの細かい指示もない。
自分でテーマを決め、探求する。
そこには終わりがなく、定時という概念も存在しない。
その結果、何が起きるか。
好きでのめり込み過ぎた結果、過労や不摂生が祟り、20代や30代という若さで病死する人間が出る。
あるいは、精神的な均衡を崩し、自ら命を絶つ者もいる。
肉体的な限界を超えて思考し続けた結果の崩壊なのか、あるいは深淵を覗き込みすぎた精神的ストレスなのかは定かではない。
しかし、確実に言えることは、人間は完全な自由を与えられたとき、それを御しきれずに自滅する可能性があるということだ。
「社畜」という言葉があるが、誰かに管理されている状態は、ある意味で楽であり、安全装置が働いている状態とも言える。
自由であることは、この安全装置を外すことだ。
森博嗣の言葉には、自由というものの持つ、血の凍るような冷たさと厳しさが込められている。
身体の声を聞く食習慣と一日一食の合理性
健康や食生活に関しても、森博嗣は独自のスタンスを貫いている。
彼の食生活は、現代栄養学の常識からは逸脱しているように見えるかもしれない。
話は少し違うけれど、僕は朝食と昼食をとらない。夕食だけの一日一食である。(P.75「3章 身近に忍び寄る支配」)
一日一食という健康法は、タモリ(たもり、1945年~)や、ビートたけし(びーと・たけし、1947年~)など、多くの著名人が実践していることでも知られている。
森博嗣は、子供の頃、親や学校から三食しっかり食べることを強要されていた。
その結果、頻繁に腹痛に襲われたり、胃腸の不調に悩まされたりしていたという。
大人になり、自分の判断で食事回数を減らすことができるようになってから、彼はまず二食にし、最終的に一日一食というスタイルに落ち着いた。
その結果、体調はすこぶる良好だという。
これは、「三食食べることが健康に良い」という社会的な支配に対する、彼の身体を用いた実験と実証の結果である。
自分自身の体質やライフスタイルに合わせて、最適な解を導き出す。
私も現在は一日二食の生活を送っているが、この記述を読んで、一日一食の可能性について再考させられた。
もちろん、間食の誘惑や空腹感との戦いはあるだろうが、消化器官への負担を減らし、可処分時間を増やすという観点では、極めて合理的な選択肢の一つであることは間違いない。
ここでも、常識を疑い、自分の感覚を信じるという姿勢が貫かれている。
宣伝と情報操作による思考のハイジャック
我々の好みや価値観は、本当に我々自身のものなのだろうか。
森博嗣は、その多くが外部からの刷り込みであると警鐘を鳴らす。
あとでも詳しく書くけれど、つまりは「自分の思い込み」が障害となっているし、また、その思い込みの多くは、誰かが仕掛けた宣伝的な情報に起因している。(P.91「3章 身近に忍び寄る支配」)
広告代理店やマスメディアは、日々膨大な情報を垂れ流し、我々の購買意欲やライフスタイルを操作しようとしている。
「これが流行っている」
「これを持つことがステータスだ」
「この家に住むのが幸せだ」
そうした誰かの思惑によって、自分の思考や嗜好が支配されている可能性を、常に自覚しなければならない。
さもなくば、誰かの操り人形として一生を終えることになる。
自分の人生を歩むためには、徹底的に疑うことが必要だ。
森博嗣はこの点において、特に住宅に対する洞察が鋭い。
彼は過去に自分で家を設計し建てたことがあり、また、古くても機能性の高い中古住宅の購入という経験を持っている。
その過程で、世間で言われる「良い家」の条件がいかに形骸化したものであるかに気づいたという。
明るさ至上主義、天井の高さへの執着。
しかし実際には、落ち着く暗さが必要な場合もあるし、天井が低ければ冷暖房効率が上がり、断熱性が確保しやすくなるというメリットもある。
ハウスメーカーの宣伝文句ではなく、自分にとってのメリットを物理的かつ論理的に明確にすること。
それが、資本主義社会という巨大な支配構造の中で、個人の自由を守るための防壁となる。
組織の中で自由を勝ち取るための「根回し」戦略
では、組織に属している人間は自由になれないのか。
森博嗣は、決して組織を全否定しているわけではない。
むしろ、組織の中にいながらにして自由を獲得するための、極めて日本的かつ政治的なテクニックを披露している。
さきほど書いたのは、その場その場の判断でバランスをとりつつ、自分の意見をしっかりと周囲に伝え、少しずつで良いから、「自由の根回し」をする努力を続ける、ということだった。(P.100「4章 支配に対するレジスタンス」)
「根回し」という言葉には、どこか前時代的でネガティブな響きがあるかもしれない。
しかし、森博嗣の言う根回しは、単なるゴマすりではない。
それは「自由の根回し」である。
自分の意見をしっかりと周囲に発信し、伝達すること。
「自分はこういう人間であり、こういう考えを持っている」ということを、日常的に周囲に刷り込んでいくのだ。
これは一朝一夕には効果が出ない。
しかし、ボディブローのようにジワジワと効いてくる。
「あの人はこういう時、こう言うだろう」
「あの人にこれを頼むと断られるかもしれない」
周囲にそう認識させることができれば、無駄な同調圧力や理不尽な要求を回避するスペースが生まれる。
自分も諦めずに、自らの意見を表明し続けること。
それが、組織という森の中で、自分の立つ場所を確保するための生存戦略なのだ。
非合理な常識よりも非常識な合理を選べ
森博嗣の哲学の核心とも言える部分が、合理性と常識の対立構造である。
彼は常に、合理性を最上位に置く。
抽象すれば、自分にとって合理的な理由で判断すること。周囲の評価、定説、噂、世間体、そして常識、といったもので選ぶな、ということ。
非合理な常識よりも、非常識な合理を採る。それが自由ヘの道である。(P.126「4章 支配に対するレジスタンス」)
「非合理な常識よりも、非常識な合理を採る」
これほど自由の本質を突いた言葉があるだろうか。
世間体や定説といったものは、思考停止の産物であることが多い。
「みんながそうしているから」という理由だけで採用されている非合理な慣習が、世の中には溢れている。
冠婚葬祭のルール、ビジネスメールの定型文、意味のない会議、非効率な通勤。
これらを「常識だから」と受け入れることは、自由の放棄である。
たとえ周囲から「非常識だ」と指弾されようとも、自分の中の論理と合理に基づいて行動する。
それが自分にとって最適解であるならば、堂々とそれを選択する。
もちろん、そのためには強靭な精神力と、先述した「根回し」による環境作りが必要になる。
自分の合理性を周囲に認めさせるためには、日頃からその姿勢を表明し、地盤を固め、空気を醸成しておかなければならない。
孤独を恐れず、合理の旗を掲げること。
それが自由への道、すなわち王道なのである。
自己投資という名の資本蓄積と親の役割
30代、40代という働き盛り、かつ子育て世代に対して、森博嗣は厳しい言葉を投げかける。
それは、自己犠牲を美徳とする日本の親たちへの提言でもある。
30代や40代というのは、まだまだ投資をして、新しいことを取り入れる年齢ではないのか。「親」という「子供育成マシン」に成り下がる必要はないのである。それこそ不自由だ、と僕は思う。(P.143「5章 やっかいなのは自分による支配」)
「子供育成マシン」
非常に刺激的で、ある意味で冷酷に聞こえる表現だ。
しかし、森博嗣は決して育児を否定しているわけではない。
彼が警鐘を鳴らしているのは、自分の人生のすべてを子供に捧げ、自分自身の成長や可能性を放棄してしまうことの危険性である。
経済学的に言えば、30代や40代は人的資本への投資回収期であると同時に、さらなる再投資を行うべき時期でもある。
この時期に「親」という役割だけに埋没し、自分への投資を止めてしまえば、その後の人生におけるリターンは激減する。
子供のためだけに生きるのではなく、自分だけの自分を大切にする。
親が楽しそうに、自由に生きている姿を見せることこそが、結果として子供にとっても最良の教育になるのかもしれない。
他者にメッセージを届ける際、極端な表現を用いることで本質を浮き彫りにする森博嗣の手法が、ここでも効果的に使われている。
習慣化のための「下限を上限にする」逆転の発想
本書の中で最も実践的かつユニークなテクニックが、「下限を上限にする」という目標設定法だ。
これは、何かのスキルを習得したり、習慣を定着させたりする上で、極めて有効なハックである。
「下限を上限にする」というテクニックを、僕はよく自分に対して使う。これは、自分で立てたスケジュールでも良い、なにかの目標数値を、最低限実現しなければならない「下限」ではなく、ここまでしかやってはいけない「上限」だと思い込むのだ。(P.179「5章 やっかいなのは自分による支配」)
通常、我々は目標を立てる際、「毎日最低○○する」というノルマ(下限)を設定しがちだ。
しかし、これはプレッシャーとなり、挫折の原因となる。
森博嗣のアプローチは真逆だ。
例えば、執筆において「1日1万字」という目標を決めたとする。
彼は、どんなに調子が良くても、筆が乗っていても、1万3,000字や1万5,000字書いてはいけないというルールを課す。
必ず1万字で止めなければならない。
これを「上限」と設定するのだ。
この手法には、行動経済学的な合理性がある。
まず、人間には「禁止されるとやりたくなる」というカリギュラ効果のような心理が働く。
「もっと書きたいのに書けない」という渇望感を残したまま作業を終えることで、翌日のモチベーションが維持される。
さらに、このルールの秀逸な点は、ルールを破る時(上限を超えてしまう時)は、目標を達成している時だという点だ。
ノルマ未達という自己嫌悪に陥ることがない。
そして、「昨日たくさんやったから今日はサボろう」という言い訳も封じることができる。
なぜなら、昨日は「ルールを破ってやりすぎてしまった」のであり、それは翌日の免罪符にはならないからだ。
この「上限設定法」は、勉強や読書、運動など、あらゆる分野に応用可能だ。
1時間しか勉強してはいけない。
10ページしか読んではいけない。
そう制限することで、継続性は飛躍的に高まるだろう。
これぞ、人間の心理を、自らの心理をロジカルに考察した工学者ならではのシステム設計とも言える。
安定は死と同義であり、不安定こそが生の証
物語の終わり、あとがきにおいて、森博嗣は妻のエピソードを紹介している。
これもまた、自由というテーマを象徴する美しい挿話である。
僕よりも少し若いけれど、すばるさんももう50歳になった。つい最近、彼女はドラムセットを購入して、ビデオを見ながら練習をしている。楽器なんかやったことは一度もないのだ。「なんとなく、できそうな気がした」らしいが、全然駄目である。(P.184「あとがき」)
50歳にして、未経験のドラムに挑戦する妻。
「なんとなく、できそうな気がした」という根拠のない自信。
そして、結果は「全然駄目」というオチ。
しかし、森博嗣はこの滑稽とも言える状況を、深い愛情と敬意を持って描写している。
できないことに挑戦する姿勢、年齢という枠に囚われない自由な精神。
彼は妻の姿を通して、自分の思考がいつの間にか凝り固まっていたことを反省し、柔軟性の重要性を再認識する。
そして、最後に究極の死生観へと至る。
安定しているといえば、死んだ人間が最も安定している。生きていることが不安定であり、その不安定さこそ、生きている証といっても良い。そして、「自由」も「生きる」とほとんど同じくらい不安定である。せめて生きているうちは、自由でありたいものだ。(P.187「あとがき」)
多くの人は安定を求める。
公務員になりたい、大企業に入りたい、終身雇用に守られたい。
しかし、物理学的に見れば、完全なる静止、完全なる安定とは、エントロピーが増大しきった状態、すなわち死である。
生きているということは、常にエネルギーを交換し、変化し続ける動的な平衡状態(ダイナミック・イクイリブリアム、dynamic wquilibrium)にあるということだ。
それは本質的に不安定なものである。
自由であることもまた、保証のない荒野を歩くような不安定さを伴う。
しかし、その不安定さこそが、我々が生きている証拠なのだ。
不安定を受け入れる心、揺らぎを楽しむ姿勢。
それを持てる者だけが、真に自由な人生を謳歌できる。
総論:自由への渇望と論理の実践
本書を再読して改めて感じたのは、森博嗣の言葉が持つ、静かだが鋭利な刃物のような切れ味である。
一度読んだだけでは通り過ぎてしまう言葉も、時間を置いて読み返すと、今の自分の状況に深く突き刺さることがある。
自由でありたい。
自在に生きたい。
それは全人類の普遍的な願いだろう。
しかし、そのためには、感情に流されるのではなく、冷徹なまでに論理的でなければならない。
まずは資金的な問題をクリアし、経済的自立を果たすこと。
社会の常識や他者のノイズを遮断し、自分の頭で考えること。
複数の視点を持ち、柔軟な思考力と発想力を養うこと。
森博嗣のエッセイは、凝り固まった脳を解きほぐすための極上の知的マッサージであり、同時に、自分自身を再プログラミングするためのコードでもある。
「思考」から始めよう。
そして「行動」しよう。
不安定な明日を恐れず、非常識な合理を選び取る勇気を持とう。
そうすれば、我々はきっと、もう少しだけ自由になれるはずだ。
このタイトルは、単なる願望ではなく、我々がこれから遂行すべきミッションの名前なのである。
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