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森博嗣『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』要約・感想

森博嗣『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』表紙

  1. 抽象的思考こそが物事を根底から捉え直し、自由で豊かな視点を与えてくれる最強のツール。
  2. メディアの「客観性」や世論・国民の声は実は偏っており、自分と異なる意見に耳を傾ける自信こそが、真の知性と成長の証。
  3. 抽象的思考は金銭的成功や尊敬だけでなく、悩みを成長の糧に変え、死の恐怖すら乗り越える実用的な力を持つ。
  4. 森博嗣自身が実践する事例は、言葉に頼らず抽象を熟成させる思考法の極みであり、読者に抽象という翼を授ける。

森博嗣の略歴・経歴

森博嗣(もり・ひろし、1957年~)
小説家、工学者。
愛知県の生まれ。東海中学校・高等学校、名古屋大学工学部建築学科を卒業。名古屋大学大学院修士課程を修了。三重大学、名古屋大学で勤務。1990年に工学博士(名古屋大学)の学位を取得。1996年に『すべてがFになる』で第1回メフィスト賞を受賞しデビュー。

『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』の目次

まえがき
第1章 「具体」から「抽象」へ
第2章 人間関係を抽象的に捉える
第3章 抽象的な考え方を育てるには
第4章 抽象的に生きる楽しさ
第5章 考える「庭」を作る
あとがき

『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』の概要・内容

2013年3月20日に第一刷が発行。新潮新書。207ページ。

『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』の要約・感想

  • 客観性とマスコミの報道について
  • 自分と異なる意見を聞く自信
  • 抽象的思考がもたらす現世利益
  • 世論や国民の声は常に正しいか
  • 悩むことの効用と知的な成長
  • 生きる価値と知性のアップデート
  • 言葉への依存と思考停止の罠
  • メモを取らない独自の創作術
  • 虚しさと親しみ、死と生を思う
  • 多作で速筆な作家の誕生秘話
  • 隠遁者のようなストイックな日常
  • 論理的な集中と発想的な散漫
  • 幸福を掴むための抽象的思考

現代社会を生きる私たちは、常に何かしらの問題に直面し、悩み、答えを探し求めている。

「どうすればお金持ちになれるのか」

「どうすれば人間関係がうまくいくのか」

「どうすれば幸せになれるのか」

書店に行けば、それらの問いに対する具体的な「ハウツー」が溢れている。

「こうすれば儲かる」「こう言えば好かれる」といった即効性のあるテクニックは、確かに魅力的である。

しかし、それらの具体的な解決策をいくら集めても、私たちの不安が完全に消え去ることはない。

なぜなら、私たちが抱える問題の本質は、もっと深いところにあるからだ。

表面的な対処療法ではなく、物事を根底から捉え直す思考法が必要なのである。

そこで今回紹介したいのが、森博嗣(もり・ひろし、1957年~)の著書『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』である。

著者の森博嗣は、工学博士でありながら、数々のベストセラーを生み出してきた小説家でもある。

理系的な論理的思考と、作家としての豊かな発想力を併せ持つ稀有な知性が、私たちの凝り固まった頭を解きほぐしてくれる一冊だ。

本書のキーワードは「抽象」である。

「抽象的」というと、一般的には「わかりにくい」「曖昧だ」といったネガティブなイメージを持たれがちである。

しかし、森博嗣は断言する。

抽象的に考えることこそが、私たちを自由にき、豊かにし、人生を楽しくするための最強のツールなのだと。

具体的な事象に囚われず、一歩引いて物事を俯瞰する。

そうすることで見えてくる世界がある。

本記事では、本書の内容を紐解きながら、現代を賢く生き抜くための「抽象的思考」の極意について解説していく。

悩み多き現代人にとって、この思考法は、暗闇を照らす一筋の光となるはずである。

難しい専門用語は使わず、誰にでもわかる言葉で綴っていくので、ぜひ最後まで付き合ってほしい。

客観性とマスコミの報道について

私たちは普段、テレビや新聞、ネットニュースなどを通じて世界を知る。

そこには「専門家」と呼ばれる人たちが登場し、様々な解説を加える。

私たちはそれを「客観的な事実」として受け取りがちだが、果たして本当にそうなのだろうか。

森博嗣は、鋭い視点でその「客観性」に疑問を投げかける。

お互いの国で、その島が相手の国の領土だと主張する学者(専門家)を探す。少なくとも、その学者は、自国の国益を棚上げしているだけでも、普通の人より客観的だろう。マスコミには、こういう人の意見はけっして紹介されない。マスコミもまた客観的ではない証拠である。(P.10「まえがき」)

この指摘は、非常に鋭い。

おそらくこれは尖閣諸島や竹島といった領土問題を念頭に置いた記述であろう。

自国の利益を優先するあまり、私たちは「自国にとって都合の良い意見」ばかりを求めてしまう。

そしてマスコミも、視聴者や読者が喜ぶような、愛国心をくすぐる意見ばかりを取り上げる傾向がある。

しかし、それは真の意味での「客観性」とは程遠い態度である。

本当に客観的であろうとするなら、自国の利益すらも一旦棚上げし、相手国の主張に理がある可能性すら検討できる専門家の意見を聞くべきなのだ。

だが、そのような意見は「非国民的」と見なされ、排除されがちである。

森博嗣の発想力と論理力は、私たちが無意識のうちに陥っている「自国中心主義」や「偏見」を鮮やかに暴き出す。

あえて具体的な国名や地名を出さずに論じることで、問題の本質をより普遍的なものとして提示している点もさすがである。

私たちは、メディアが流す情報を鵜呑みにせず、「その情報は誰にとって都合が良いのか」「紹介されていない反対意見はないのか」と、常に問いかける姿勢を持つ必要がある。

自分と異なる意見を聞く自信

ネット上の議論を見ていると、自分と異なる意見に対して感情的に反発したり、最初から耳を貸そうとしない人を見かけることがある。

なぜ、人は自分と反対の意見を聞くことができないのだろうか。

森博嗣は、その心理を次のように分析する。

自分と反対の意見に耳を塞ぐというのは、よほど自分の意見に自信が持てないのだろう。そもそも自分の意見があるのか、と疑いたくもなる。(P.13「まえがき」)

逆説的だが、自分の意見に絶対的な自信がある人ほど、他人の意見に対して寛容になれるものである。

「あなたの意見も一理あるかもしれないが、私はこう考える」と、堂々と議論できるからだ。

逆に、反対意見を聞くのを拒絶するのは、自分の信念が揺らぐのが怖いからである。

それは裏を返せば、自分の意見に確固たる自信がないことの証明でもある。

あるいは、そもそも「自分の意見」だと思っていたものが、誰かの受け売りや、世間の空気に流されただけのものであり、自分自身で深く考え抜いたものではないからかもしれない。

私たちは、自分と反対の意見に出会ったときこそ、喜ぶべきである。

それは自分の考えを検証し、補強し、あるいは修正してより良いものにする絶好の機会だからだ。

反対意見が参考になるのであれば、これほど素晴らしいことはない。

自分自身の思考の枠組みを広げ、より高みへと導いてくれるのは、いつだって「自分とは異なる他者」の存在なのである。

批判を恐れず、異論を歓迎する。

そんな知的でタフな態度を身につけたいものである。

抽象的思考がもたらす現世利益

「抽象的に考える」というと、哲学者のような浮世離れした生活を想像するかもしれない。

しかし、森博嗣はもっと現実的で、ある意味で俗物的なメリットを提示してくれる。

抽象的思考は、私たちの生活を豊かにするための実用的なスキルなのだ。

そこで、あえて卑近な話をすれば、その抽象的思考によって生まれるユニークなインスピレーションは、貴方を金持ちにし、自由にし、そして人から尊敬される立場をもたらすだろう。これは、多くの偉人、成功者に共通するもだといっても良い。(P.29「『具体』から『抽象』へ」)

お金持ちになりたい、自由になりたい、人から尊敬されたい。

これらは多くの人が抱く率直な願望である。

森博嗣は、抽象的思考こそがそのための近道だと言う。

なぜなら、ビジネスにおける成功も、革新的な発明も、すべては既存の枠組みにとらわれない「抽象度の高い発想」から生まれるからだ。

目の前の具体的な作業に追われているだけでは、大きな価値を生み出すことはできない。

物事の構造を見抜き、異なる事象の間に共通の法則を見出す。

そうした抽象的な思考プロセスから、ユニークなインスピレーションが生まれ、それが結果として富や名声をもたらすのである。

「抽象的思考なんて役に立たない」と考えている人は、実は損をしているのかもしれない。

この現世利益への肯定的な言及は、読者のモチベーションを大いに刺激する。

また、本書ではさらに深いテーマにも触れられている。

それは「死」についてである。

森博嗣の友人には自ら命を絶った人が数人いるという。

彼は、自殺する人の思考は「主観的」で「具体的すぎる」傾向があると分析する。

目の前の苦しみだけを具体的に見つめすぎると、逃げ場がないように感じてしまう。

しかし、抽象的に、客観的に自分を見る視点があれば、「これは人生の一つの局面に過ぎない」「世界はもっと広い」と考える余裕が生まれる。

想像力と抽象的思考は、金銭的な成功だけでなく、自分自身の命を救うセーフティネットにもなり得るのである。

世論や国民の声は常に正しいか

民主主義社会において、「国民の声」は神聖なものとして扱われる。

政治家はこぞって「国民の声を聞く」とアピールする。

しかし、歴史を振り返れば、その「国民の声」が常に正しい選択をしてきたわけではないことは明らかだ。

戦争だって、国民の多くの声で突入するのだ。「国民の声を聞け」というが、その国民の声がいつも正しいとは限らないことを、歴史で学んだはずである。(P.57「『具体』から『抽象』へ」)

熱狂した世論が国を誤った方向へ導いた例は枚挙に暇がない。

多数決は物事を決める一つの手段に過ぎず、それが真理である保証はどこにもないのだ。

「みんなが言っているから正しい」という思考停止は非常に危険である。

集団心理は時に暴走し、個人の冷静な判断力を奪う。

私たちは「国民の声」という大きな主語に惑わされず、一歩引いて状況を観察する必要がある。

もちろん、人々の意見に耳を傾けることは重要である。

独りよがりな判断を避けるためにも、多様な声を聞くべきだ。

しかし、聞いた上で、それに流されることなく、冷静に「正しさ」を見極める知性が求められる。

世論とは距離を置き、歴史的な視点や俯瞰的な視点(つまり抽象的な視点)を持って物事を判断する。

それが、現代を生きる個人の責任ある態度と言えるだろう。

悩むことの効用と知的な成長

悩み事は辛いものだ。

できれば悩まずに、すっきりと生きたいと誰もが願う。

しかし、森博嗣は「悩むこと」を肯定的に捉える。

悩むことは、思考が働いている証拠であり、成長の糧になるからだ。

繰り返すが、悩むことはけっして悪いことではない。とにかく、考えないよりは考えた方が良い。この法則に例外が少ない。(P.92「人間関係を抽象的に捉える」)

悩んでいるとき、私たちは問題解決のために脳をフル回転させている。

あーでもない、こーでもないとシミュレーションを繰り返す。

特に、人間関係などの正解のない問題について抽象的に考えることは、自分の中に思考の「型」や「様式」を蓄積していく作業になる。

そうして悩み抜いて得た知見は、後の人生において必ず役に立つ。

逆に言えば、悩みのない人生とは、思考していない人生とも言えるかもしれない。

ある事象について「悩ましい」と感じることができるのは、そこに問題や矛盾を発見できる能力があるからだ。

鈍感な人は、そもそも問題の存在にすら気づかない。

だから、もし今あなたが何かに深く悩んでいるなら、それはあなたが知的に誠実であり、成長の途上にある証拠だと思っていい。

安易な解決策に飛びつかず、その悩みにじっくりと付き合ってみる。

そのプロセス自体が、あなたの抽象的思考力を鍛え、人間的な深みをもたらしてくれるはずである。

悩むことは、決して時間の無駄ではない。

それは、自分という人間を耕すための大切な時間なのだ。

生きる価値と知性のアップデート

私たちは何のために生きるのか。

人生の価値とは何か。

古今東西、多くの哲学者が問い続けてきた難問である。

森博嗣は、シンプルかつ力強い答えを持っている。

それは「変化」することだ。

常に学び、沢山のことに気づくことで、知性はどんどん成長し、もちろん常に修正されていく。生きていることの価値とは、この変化にあるといっても過言ではない。(P.117「抽象的な考え方を育てるには」)

昨日知らなかったことを今日知る。

昨日とは違う見方で世界を見る。

その小さな発見の積み重ねこそが、生きる喜びであり、価値であるという。

私たちは大人になると、つい「もう学ぶことは終わった」と錯覚しがちだ。

日々のルーチンワークに埋没し、知性の更新を怠ってしまう。

しかし、それでは生きているとは言えない。

身体的な成長が止まっても、知的な成長に限界はない。

本を読み、人と話し、新しい場所に足を運び、思考する。

インプットとアウトプットを繰り返し、自分のOSを常にアップデートし続けること。

それが「生き生きと生きる」ということなのだろう。

固定観念にしがみつくのではなく、新しい知見を得て柔軟に自己修正していく。

そんなしなやかな知性こそが、不確実な時代を生き抜く武器になる。

言葉への依存と思考停止の罠

私たちは普段、言葉を使って思考する。

しかし、言葉に頼りすぎることは、時に思考を狭めてしまう危険性がある。

森博嗣は、安易に言葉で定義することに対して警鐘を鳴らす。

抽象的にものを見ることができない人が、言葉に頼る。わからないという不安があるためだろう。これは、「わかってしまえば、もう考えなくても良い」という、思考停止の安定状態を本能的に求めているわけで、「お前はもう死んでいる」と言われそうな状態に近い。(P.123「抽象的な考え方を育てるには」)

わからないことに対する耐性がない人は、すぐに名前を付けたがる。

「これは〇〇だ」とレッテルを貼ることで、安心したいのだ。

しかし、一度言葉にしてしまえば、私たちはそれ以上考えようとしなくなる。

「わかったつもり」になって、思考を停止してしまうのである。

森博嗣の指摘は強烈だ。

「思考停止は死んでいるのと同じ」という言葉には、ハッとさせられる。

世の中には、言葉では表現しきれない曖昧なものがたくさんある。

それを無理やり既存の言葉に押し込めるのではなく、わからないまま、抽象的なまま保持しておく力。

それこそが真の知性ではないだろうか。

「間違った具体的な解釈」をするくらいなら、「わからないままにしておく」方がマシである。

言葉に頼って安心するのではなく、不安定な「わからなさ」に耐え抜く知的な体力をつけたい。

考えることはエネルギーを使うし、疲れることだ。

しかし、その疲れこそが、生きている証なのである。

メモを取らない独自の創作術

ビジネス書などでは「アイデアはすぐにメモしろ」と教わることが多い。

しかし、森博嗣のスタイルは真逆である。

彼は一切メモを取らないという。

僕は、メモというものは一切取らない。これは、研究でもそうだった。メモを取ろうと思った瞬間に、つまり、言葉にしようとすることで失われるものが多すぎる。どうせ最後は言葉にするのだ。メモよりは、本文を書く方が言葉の数が多いので、失われるものは最小限になる。発想したときメモを取るくらいなら、発想しながら本文を書いた方が効率的だ、と考えている。(P.144「抽象的に生きる楽しさ」)

これは驚くべき発想法である。

頭の中に浮かんだ抽象的なイメージを、メモという断片的な言葉に変換する過程で、多くのニュアンスがこぼれ落ちてしまう。

だから、あえてメモをとらず、頭の中で熟成させ続ける。

数ヶ月、あるいはそれ以上の期間、タイトルだけをぼんやりと考えて、抽象的なまま保持する。

そして、いざ書くときには、一気に本文として出力する。

そうすることで、情報の欠落を最小限に抑えることができるという理屈だ。

これは、先ほどの「言葉への依存と思考停止」の話とも繋がっている。

安易にメモ(言葉)に定着させず、脳内でイメージを育て上げる。

もちろん、これは誰にでも真似できる方法ではないかもしれないが、創作や企画に携わる人にとっては、非常に示唆に富んだアプローチである。

「忘れてしまうようなアイデアは大したものではない」という自信の表れでもあるかもしれない。

言葉にするタイミングを極限まで遅らせることで、思考の純度を保つ。

効率性と質を両立させる、森博嗣ならではの究極の思考法と言えるだろう。

虚しさと親しみ、死と生を思う

物事を客観的・抽象的に見つめると、現世の細々とした出来事がちっぽけに見えてくることがある。

一種の「虚しさ」を感じるかもしれない。

しかし、森博嗣はその虚しさを否定しない。

むしろ、それと親しむことで人生は楽しくなるという。

人生を楽しむためには、この虚しさと親しみ、明日死ぬと思って毎日行動することだし、また、永遠に生きられると想像して未来を考えることである、と僕は思う。これは、誰か偉い人が似たようなことを言っていたはずだ。具体的に、誰がどんなふうに言ったのか、よく覚えていないが。(P.155「抽象的に生きる楽しさ」)

「明日死ぬと思って生きる」ことと、「永遠に生きると思って学ぶ」こと。

これは、マハトマ・ガンジー(Mohandas Karamchand Gandhi、1869年~1948年)の言葉として知られる名言(”Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.”)に通じるものがある。

森博嗣らしいのは、「誰か偉い人が言っていたはずだが、よく覚えていない」と付け加えている点だ。

権威に頼らず、あくまで自分の実感として語っていることが伝わってくる。

明日死ぬと思えば、今日という一日が愛おしく、無駄にできないものになる。

同時に、永遠に生きると思えば、長期的な視点で学び、未来に投資することができる。

この相反する二つの視点を同時に持つこと。

それが、虚無に飲み込まれず、かといって刹那的な享楽にも溺れず、バランスよく人生を楽しむ秘訣なのだろう。

日本の伝統的な美意識である「無常観」とも響き合う、深みのある人生哲学である。

多作で速筆な作家の誕生秘話

森博嗣といえば、驚異的なペースで作品を発表し続ける「多作」「速筆」の作家として知られている。

一体どうやったらそんなことが可能なのか。

その秘密の一端が垣間見える記述がある。

実は、自分から「こういうものを書かせてもらえないか」と申し出たことは一度もない。すべて、出版社から依頼があって、それに応えた結果である。研究をするときのように、けっこう集中して書いてしまった。おかげで、僕は「多作」で「速筆」な作家ということになった。気がついたら、そうなっていただけである。(P.157「抽象的に生きる楽しさ」)

自分から「書きたい」と売り込むのではなく、来る依頼を淡々とこなしていたら、いつの間にか多作な作家になっていた。

まるで工場の生産ラインのような淡々とした語り口だが、そこには並外れた集中力とプロ意識がある。

彼は研究者時代も、自分では意識せずにがむしゃらに働いていたという。

森博嗣自身が客観的に見れば「異常で危機的な」働き方と振り返っているが、当時の本人はそれを苦行とは捉えていなかったのだ。

「気がついたらそうなっていた」という感覚は、何かに没頭している人特有のものだ。

また、作家デビュー後も10年以上大学教員を続け、研究と執筆を両立させていたという事実は驚愕に値する。

常人離れした体力と精神力、そして効率的な頭の使い方があったからこそ成し遂げられた偉業である。

「書きたいものがないと書けない」という作家も多い中で、依頼に応えることに集中する職人的な姿勢。

それは、ある意味で「自我」を排した抽象的な働き方とも言えるかもしれない。

隠遁者のようなストイックな日常

ベストセラー作家の私生活というと、華やかなパーティーや贅沢な旅行をイメージするかもしれない。

しかし、森博嗣の生活は極めて質素で、ストイックである。

旅行に出かけたりすることも滅多にない。TVも映画も見ないし、本も、専門書や雑誌を読むだけだ(小説は読まない)。音楽は、執筆のときや工作のときに聴いている。(P.159「抽象的に生きる楽しさ」)

彼は現在、冬には氷点下20度にもなる寒冷地に住んでいる。

テレビも映画も見ず、小説家なのに小説も読まない。

では何をしているのかといえば、「工作」である。

朝は6時に起き、妻と犬の散歩をし、午前中は5時間ほど庭仕事やガレージでの工作に没頭する。

午後は買い物に行き、夕食後は翌日の工作の準備や研究をする。

そして23時には就寝。

まるで修行僧か、職人のような生活リズムである。

世俗的な娯楽には一切興味を示さず、自分の手で何かを作り出すことに至上の喜びを見出している。

消費するだけの生活ではなく、創造する生活。

情報のノイズを遮断し、自分自身の内面や、目の前の「モノ」と対話する時間を大切にしている。

「考える庭」を作るためには、こうした静寂と孤独が必要なのかもしれない。

現代人がスマホやSNSに時間を奪われているのとは対照的である。

ちなみに、彼は就寝前の15分ほど、洋雑誌を読む習慣があるそうだ。

英語が苦手なので、読んでいるうちに眠くなって、ライトを消すことになる。睡眠時間は七時間弱といったところか。(P.159「抽象的に生きる楽しさ」)

名古屋大学の工学博士であり、研究者として英語論文も読み書きしていただろう彼が「英語が苦手」と言うのは、謙遜かジョークだろう。

しかし、難解な英文を睡眠導入剤代わりに使うという発想は面白い。

7時間弱というしっかりとした睡眠時間を確保している点も重要だ。

良質な思考には、良質な休息が不可欠であることを、彼は身をもって示している。

論理的な集中と発想的な散漫

最後に、思考のモード切り替えについて触れておこう。

森博嗣は、「論理」と「発想」では頭の使い方が全く異なると指摘する。

たとえば、論理的な思考というのは、それに集中し、「脇目もふらず」突き進む感じのものだが、発想するときの思考は、「どれだけ脇目をふるか」が重要になる。これは、明らかに「集中」とは逆の頭の使い方に思えるのだ。(P.168「考える『庭』を作る」)

私たちは普段、「集中力」こそが重要だと思わされている。

しかし、新しいアイデアを生み出すためには、むしろ「散漫」であること、つまり「脇目をふる」ことが必要なのだ。

論理は、AだからB、BだからCと直線的に進む。

これはゴールが決まっているときには有効だが、新しい可能性を探るときには視野が狭くなってしまう。

一方、発想は、あちこちに意識を飛ばし、無関係に見えるもの同士を結びつける作業である。

リラックスして、ぼんやりと全体を眺める「抽象的な視線」がここで活きてくる。

まず「発想」で多角的に可能性を広げ、その後に「論理」で現実的な解へと落とし込んでいく。

この二つのモードを意識的に使い分けることが、問題解決の鍵となる。

ずっと集中しっぱなしでは疲れてしまうし、良いアイデアも浮かばない。

時には意識的に「脇目をふる」時間を持つことが、創造性を育むためには不可欠なのである。

幸福を掴むための抽象的思考

本書を読み通すと、脳の普段使っていない部分が刺激され、心地よい疲労感に包まれる。

それは、筋トレの後の筋肉痛のような、成長への確かな手応えである。

抽象的に考えることは、確かにエネルギーを要する。

具体的な答えに飛びつく方が楽だし、安心できる。

しかし、それでは決して辿り着けない境地がある。

自分の頭で考え、悩み、抽象と思考の海を泳ぎ切った先にこそ、真の自由と幸福が待っている。

頭の中に新しい風が吹き込み、淀んだ空気が入れ替わるような清涼感。

それは、他人の受け売りではない、自分だけの道筋が見えた喜びかもしれない。

『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』

この問いに終わりはない。

しかし、森博嗣という稀代の思考家が案内する「抽象の世界」への扉を開けば、きっと今までとは違った景色が見えてくるはずだ。

日々の雑事に追われ、思考停止になりかけているすべての人に、ぜひ手に取ってほしい一冊である。

あなたの脳に、抽象という名の翼を授けてくれるだろう。

そして、たとえ思考することに疲れたとしても、それは私たちが人間として懸命に生きている証であり、幸福へのプロセスそのものなのだから、堂々と疲れていこうではないか。

書籍紹介

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