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森博嗣『「思考」を育てる100の講義』要約・感想

森博嗣『「思考」を育てる100の講義』表紙

書籍紹介

  1. 100年、200年単位の長大な時間感覚を持ち、目先のことに動じない思考を養う
  2. 他者の評価や既存顧客に依存せず、内発的動機と新規開拓で自己を確立する
  3. 失敗は偶然ではなく備えで防ぎ、期限厳守・多作・無駄排除をプロの条件とする
  4. 健康・政治・子育て・表現まで徹底した合理性で解説し、凝り固まった脳をほぐす

森博嗣の略歴・経歴

森博嗣(もり・ひろし、1957年~)
小説家、工学者。
愛知県の生まれ。東海中学校・高等学校、名古屋大学工学部建築学科を卒業。名古屋大学大学院修士課程を修了。三重大学、名古屋大学で勤務。1990年に工学博士(名古屋大学)の学位を取得。1996年に『すべてがFになる』で第1回メフィスト賞を受賞しデビュー。

『「思考」を育てる100の講義』の目次

まえがき
1限目 未来を考え、現在に生きる「人生」論
2限目 思考の盲点をつくらない「知識」論
3限目 なまった理性を研ぎすます「感情」論
4限目 疑問から本質に近づく「表現」論
5限目 客観的思考を手にする「社会」論
補講 思考に「遊び」をつくる森教授の視界

『「思考」を育てる100の講義』の概要・内容

2013年8月20日に第一刷が発行。大和書房。223ページ。ソフトカバー。127mm×188mm。四六判。

2014年9月12日は、あとがきの加筆されたものが、だいわ文庫から刊行されている。

「100の講義」シリーズの2作目。

『「思考」を育てる100の講義』の要約・感想

  • 未来を見通すための長大な時間感覚
  • 他者の評価に依存しない自己の確立
  • プロフェッショナルとしての冷徹な仕事術
  • 新規顧客を常に開拓し続ける厳しい理由
  • 失敗を未然に防ぐための論理的な備え
  • 嗜好品を手放して得られる不可視の資産
  • 専門家の予測と社会実装の大きなギャップ
  • 合理的な思考に基づく政治参加と投票行動
  • 子供の自立を促す独自の厳格な教育方針
  • 健康と生命に対する究極の自己責任論
  • 哲学への興味とユーモア溢れる意外な愛読書
  • 小説という表現媒体の独自の存在意義
  • 日常の不便さから学ぶ現代の経済感覚
  • 極上の頭の体操としての読書体験のまとめ

世の中には数多くの書籍が出版され続けているが、私たちの凝り固まった脳を根本から解きほぐし、新たな認識の枠組みを提供してくれるものは決して多くはない。

今回紹介する『「思考」を育てる100の講義』は、まさにそのような数少ない稀有な一冊である。

著者の森博嗣(もり・ひろし、1957年〜)は、長年にわたり国立大学の工学部で助教授として建築や流体力学などの研究に携わりながら、同時に数々のベストセラー小説を世に送り出してきた極めて特異な経歴の持ち主である。

彼の文章は、徹頭徹尾、冷徹なまでの論理性に貫かれており、感情論や精神論が入り込む隙を一切与えない。

本書は、単なる表面的な仕事術や人生訓を並べたノウハウ本ではなく、物事の本質をどのように捉え、どのように考えるべきかという、根本的な論理的思考力を鍛え上げるための書物である。

工学的なアプローチ、合理性、そして深い洞察が交差する本書の言葉の数々は、読む者の脳に心地よい知的疲労感と、それを上回る爽快感をもたらしてくれる。

ここからは、本書の中から特に印象的な言葉を引用しつつ、そこに込められた真意と、現代社会を生き抜くための応用方法について深く考察していくことにする。

未来を見通すための長大な時間感覚

物事を考える際の時間の捉え方について、本書の冒頭から非常に示唆に富む言葉が提示されている。

自分の研究が当たり前に利用されるのは百年後だろう、という感じだ。だから、百年や二百年後の地球や社会がどうなっているのかを常に考えていた。こういうのは、特別なことではない。科学者や研究者ならば、ごく当たり前の感覚だろう。(P.15【1限目 未来を考え、現在に生きる「人生」論:1 明日死ぬと思って行動し、永遠に生きられると思って考える。】)

この記述から読み取れるのは、森博嗣が持つ視野の並外れた広さと、思考の射程距離の長大さである。

私たち一般人は、つい数ヶ月先や、長くても3年、5年先のことばかりを憂慮し、目先の利益や変化に一喜一憂してしまいがちである。

しかし、100年後や200年後の先の未来を常に考えて見据えているのであれば、五年先、十年先のことなど、ある意味で取るに足らない短いスパンとして、容易に見通せるのかもしれない。

自分の専門分野である工学の世界だけでなくとも、歴史学的な大きな時間軸を持って世界を観察すれば、一般的な社会の大きな流れについても自然と理解できるということなのだろう。

例えば、中世ヨーロッパの大聖堂建築においては、着工から完成まで数百年を要することが当たり前であり、最初の設計者は完成した姿を見ることなくこの世を去っていった。

科学者や研究者も同様に、自分の目の前の研究が即座に社会に役立つことなど求めておらず、はるか未来の文明の礎となることを前提に思考を組み立てているのである。

このような長大な時間感覚を標準装備していれば、日常の些細なトラブルや短期的な経済の変動に対しても、心に深い余裕を持って、冷静に見通せるようになるに違いない。

他者の評価に依存しない自己の確立

自己肯定感や承認欲求のあり方について、著者の幼少期のエピソードが非常に興味深い視点を提供してくれている。

計算は誰にも負けないくらい速かった。でも、そんなことで褒められても嬉しくない。たとえば、体重が一番重いから褒められても嬉しくないのでは?(P.20【1限目 未来を考え、現在に生きる「人生」論:4 歩き始めるまえが、一番疲れている。】)

子供の頃から計算能力において他者よりも圧倒的に抜きん出ていたという、著者の天才性を裏付けるエピソードである。

しかし、ここで注目すべきは、ただ計算の速さを褒められても全く嬉しくないと言い切っている点である。

普通に考えれば、周囲の大人や教師から能力を褒められれば、自己承認欲求が満たされて嬉しいような気もするはずである。

しかし、彼にとっては、持って生まれた才能や天賦の計算速度は、自分自身の後天的な努力とは何ら関係のない物理的な事象に過ぎなかった。

それを体重の重さに例える感性は見事であり、自分の意志や努力が大して介在しない要素で褒められても、少しも誇らしくはないということなのだろう。

現代の多くの人々は、他者からの評価やSNSでの反応によって自分の価値を測り、それに一喜一憂して消耗している。

だが、真に自立した人間は、他者からの安易な称賛を拒絶し、自分自身が納得できる内発的な動機付けのみを行動の指針としているのである。

プロフェッショナルとしての冷徹な仕事術

仕事に対する姿勢やプロ意識について、著者は芸術家という職業を引き合いに出して冷徹な事実を突きつけている。

芸術家というのは仕事ではない、そういうものだ、と言われるかもしれないが、芸術家でも、一流と呼ばれる人は、仕事を期限までにこなすし、例外なく多作である。(P.31【1限目 未来を考え、現在に生きる「人生」論:9 なにかの記念イベントで仕事が来ることが多いのだが、いかがか。】)

インスピレーションが湧くまで作品を作らないといった、いわゆる芸術家肌のステレオタイプを真っ向から否定する言葉である。

所属する業界や専門分野に限らず、真のプロフェッショナルは確実に期限を守り、そして圧倒的に多作であるという厳然たる事実を示している。

歴史を振り返れば、ピカソ(Pablo Ruiz Picasso、1881年〜1973年)や、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart、1756年〜1791年)といった天才たちも、膨大な数の作品を世に残しており、決して寡作ではなかった。

また著者は、自身の作品に対する純粋な依頼に対してのみ仕事をするべきであり、中途半端な記念イベントやフェアなどの不純な理由での仕事の依頼は避けるべきだと主張している。

本質的な価値を生み出さない付帯的な業務に時間を割くことは、自己のブランド価値を毀損し、生産性を著しく低下させる行為である。

期限を厳守し、無駄を削ぎ落とし、ただひたすらに自分のコアとなる作品を多産し続けることこそが、一流の条件であると痛感させられる。

新規顧客を常に開拓し続ける厳しい理由

作品を世に出し続ける上で、顧客である読者とどのように向き合うべきかについて、極めて常識外れの提案がなされている。

つまり、受け手が、「もうこの作者には厭きた」とか「最近のことの作者はもう駄目だ」と言うよりもさきに、作者の方が、「もうこの読者は相手にしない方が良い」「最近のこの読者は感性が鈍っている」と見るべきなのである。(P.32【1限目 未来を考え、現在に生きる「人生」論:10 厭きられるか、期待はずれか、いずれかになる。】)

これは、これまでの商業的な常識からすれば、全く無かった視点であり、大きな驚きを禁じ得ない。

通常のビジネスであれば、一度獲得した顧客をリピーターとして囲い込み、彼らの要望に応え続けることで安定した収益を得ようとするのが定石である。

しかし、既存の読者の期待に過剰に応えようとすると、作品は必然的にマンネリ化し、作家自身の成長も止まってしまう。

経済学や経営学におけるイノベーションのジレンマと呼ばれる現象に似ており、既存顧客の声を聞きすぎることが、かえって致命的な没落を招くのである。

だからこそ、読者に見限られる前に、作家の側から既存の読者の感性を見限り、自ら次なる新しいステージへと進んでいく必要がある。

安定したリピーターの確保よりも、常に新しい価値観を提示して新規の顧客を開拓し続けた方が良いという、極めて挑戦的で孤独なクリエイターの覚悟が感じられる。

失敗を未然に防ぐための論理的な備え

現実世界で発生するトラブルや失敗に対する考え方も、徹底して工学的であり、合理的なリスクマネジメントの基本を教えてくれる。

たまたま偶然が重なって事故になった、という分析は間違いではないが、そんな分析をしたところで失敗が消えるわけではない。偶然が重なっても事故にならないように備えておく、それが成功の方法だ。(P.59【2限目 思考の盲点をつくらない「知識」論:22 上手くいかないときには、必ず理由がある。それが現実というものだ。】)

何かが上手くいかなかった時、私たちは運が悪かったとか、想定外の偶然が重なったという言い訳をして自己保身に走りがちである。

しかし、工学の設計思想において、偶然の重なりによるシステムの崩壊を許容することは、技術者としての敗北を意味する。

これも非常に大事な教訓であり、常に二の手、三の手といったバックアッププランを用意しておくことが不可欠である。

あるいは、事前の想定を超える事態が発生したとしても、その都度、次善策を迅速に考案できる柔軟なシステムを構築しておく必要がある。

最初にいくつかの確固たるバックアップのフェイルセーフを考えておき、その後も状況に応じて臨機応変に対処すること。

偶然の不運を嘆くのではなく、悪条件が重なっても決して致命傷には至らない堅牢な仕組みを構築することこそが、現実社会における真の成功法則なのである。

嗜好品を手放して得られる不可視の資産

生活習慣に関する個人的な選択についても、単なる健康法ではなく、時間と資源の投資という観点から語られている。

僕は十五年くらいまえまでヘビィスモーカだったし、酒も飲んでいたけれど、今はどちらもやらない。そして、やらなくなったことで、何が得られたかというと、それは時間である。(P.119【4限目 疑問から本質に近づく「表現」論:50 ◯◯を眺めて一杯、という表現が多いが、飲まないと楽しさがわからない?】)

本書が2013年に発売されたことを踏まえると、著者は1990年代の後半くらいまで、つまり三十代後半か四十歳くらいまでは、煙草も酒も嗜んでいたことになる。

しかし、それらをきっぱりと止めたことで、大幅に時間が浮いたと述懐しているのである。

特筆すべきは、それが単なる物理的な時間の節約にとどまらず、脳が正常に機能する頭が明瞭な時間を確保できたという点である。

煙草は一本吸うごとの時間は短くそこまでではないかもしれないが、お酒に関しては、飲んでいる時間だけでなく、酔いが覚めるまでの時間も、そしてそれに費やすお金も莫大に消費するという話が続く。

機会費用を考えれば、嗜好品を楽しむことで失っている生産的で創造的な時間は計り知れない。

自分自身もお酒や煙草を一切止めた生活を送っているため、時間とお金が多少は節約できているのかもしれないと、深く共感できる部分であった。

専門家の予測と社会実装の大きなギャップ

社会における専門知識の扱われ方について、著者の工学者としての視点から鋭い指摘がなされている。

集中豪雨が多くなる、ということは、二十年以上まえから、専門家の間では周知のことだった。でも、技術者にはそういった「予測」というものは伝わっていない。技術的な計算においては、常に過去のデータを用いるからだ。(P.148【5限目 客観的思考を手にする「社会」論:64 「集中豪雨」について、僕がいつも思い出すこと。】)

現代の2020年代後半において、線状降水帯と呼ばれる猛烈な集中豪雨は、もはや毎年のように甚大な被害をもたらす一般的な気象現象となっている。

しかし、驚くべきことに、この本の発売が2013年であり、著者がその二十年以上前と言及していることから、少なくとも1990年頃には、専門家の間では集中豪雨の増加が既に予測されていたのである。

それにもかかわらず、インフラを設計する現場の技術者たちには、そうした最新の気象予測モデルが伝わっていなかったという構造的な欠陥を指摘している。

技術的な安全基準やシミュレーションは、どうしても過去の観測データの蓄積に基づいて行われるため、過去に例のない未知の気象変動を設計に組み込むことが極めて困難だからである。

この事実から学べるのは、最先端の専門家の話にはしっかりと耳を傾け、既存のデータに囚われない予測を取り入れる方が良いということである。

ただ、数多くの自称専門家の中から、誰の予測が真に信頼できるのかどうかを一般人が正確に判断するのは、非常に難しい問題でもある。

合理的な思考に基づく政治参加と投票行動

政治や選挙に対するスタンスも、感情やイデオロギーに流されない、著者らしい徹底した合理主義に貫かれている。

僕は、成人してから、ずっと共産党に票を投じていたけれど、しだいに現実からも理想からも離れていくように感じた。消費税に反対をしたときに、投票するのをやめてしまった。その後は、そのつど、どの政党にするのか考えることにしている。(P.163【5限目 客観的思考を手にする「社会」論:71 民主主義というが、民主は主義ではないだろう。】)

これは非常に面白い政治的遍歴の告白である。

かつてはずっと特定の政党を支持し続けていたにもかかわらず、その政党が国の財政の基盤となるべき消費税に反対したという一点において、支持をきっぱりとやめたというのである。

財政の均衡や経済学的な合理性を重んじる森博嗣の思考回路からすれば、税収を確保するための消費税に無責任に反対するポピュリズム的な態度は、到底許容できるものではなかったのだろう。

さらに、現在の投票行動の基準について、以下のように続けている。

ちなみに、僕は選挙に行く。そして、だいたい、当選しそうにない勢力に一票を投じることにしている。大勢が同じ考えでないことを、常に忘れないようにしてほしい。(P.165【5限目 客観的思考を手にする「社会」論:72 「政治に関心を持て」と命令形で言うほどのことではない気がする】)

これもまた、最近の森博嗣の選挙での投票行動の独自の基準として、非常に興味深いものである。

勝ち馬に乗るような安易な投票行動を避け、あえて当選しそうにない少数派の勢力に一票を投じることで、社会に多様な意見が存在することを可視化しようとしているのである。

民主主義のシステムにおいて、多数派の意見が常に正しいわけではないという歴史的な教訓を踏まえ、システム全体のバランスを取るための、ある種のカウンターウェイトとしての役割を自ら引き受けているかのようである。

子供の自立を促す独自の厳格な教育方針

家庭内での子供との関わり方についても、現代の一般的な常識とは大きく異なる、非常に独特で厳格な哲学を持っている。

僕は、子供に対してはとても厳しく管理をした。自由にさせなかった。ゲームなど買わなかったし、遊園地へ連れていくこともしなかった。また、習い事もさせなかった。そういう楽しみは、自分の力で勝ち取るものだ、と僕は考えていた。(P.185【5限目 客観的思考を手にする「社会」論:82 ニュートラルであれ。】)

現代の過保護になりがちな子育て論の中では、あまり聞いたことがないような厳しい子供との関係性である。

親が先回りして娯楽を与え、ゲームや遊園地といった受動的な快楽を無条件に提供することを良しとしない。

遊びや習い事などの楽しみは、親から無償で与えられるものではなく、自分自身の知恵と力で社会から手に入れ、勝ち取るべきものであると考えていたという事実に、なるほどと深く唸らされる。

しかし、ただ単に抑圧するだけではないという点が、彼の教育方針の奥深いところである。

中学生くらいになったら、分別がついてくる。買ってほしいものがあれば言いなさいというと、一年に一度くらい申告があった。それは、楽器だったり、パソコンだったりした。もちろん、すぐに買い与えた。(P.185【5限目 客観的思考を手にする「社会」論:82 ニュートラルであれ。】)

小学生までの時期は徹底的に厳しく制限をかけていた一方で、中学生くらいからは少し管理を緩くしつつ、要求を受け入れるという独自の教育方針へシフトしている。

楽器やパソコンといった高価なものも、子供にとっては単なる消費の楽しみのように思えるが、中学生くらいの年齢になり、自らの意志で論理的に申告できる分別がつくと良いということなのだろう。

物事の価値や意味を理解できる年齢に達した時に初めて、創造性を発揮するための強力なツールを与え、あとは完全に本人の自主性に任せるという、見事な人材育成のプロセスのようにも見える。

健康と生命に対する究極の自己責任論

人間の根本である生命や健康に関しても、著者のスタンスは一切の妥協がなく、覚悟に満ち溢れている。

死ぬ覚悟はいつでもできているので、僕は成人してから三十五年間、一度も病院や医者にかかっていない。今の生活スタイルになって、二度、原因不明の病気に三日ほどなって、死ぬかと思うほど苦しんだけれど、なんとなく治った。(P.191【補講 思考に「遊び」をつくる森教授の視界:84 仕事をしないことがいかに健康的かわかった。】)

成人してからの三十五年間、一度たりとも病院や医者にかかっていないという告白には、言葉を失うほどの衝撃を受ける。

大学という組織に勤務していた時代にも、法的に義務付けられているはずの健康診断すら受けていなかったのだろうか。

あるいは、病気を治すための病院での治療には行かなくとも、形式的な健康診断だけは渋々受けていたのだろうかという疑問も湧いてくる。

しかし、取り敢えず、自らの肉体の衰えや未知の病気に対して、いつでも死ぬ覚悟ができているという強靭な精神と、それを貫き通す行動力は、並大抵の凄さではない。

現代人は少しでも体調が崩れるとすぐに医療機関に依存し、薬を飲んで安心を得ようとするが、彼は自分の生命の管理を完全に自分自身の責任として引き受けているのである。

哲学への興味とユーモア溢れる意外な愛読書

論理と合理性を極めた著者が、一見すると対極にあるような哲学についてどのように考えているのかも明かされている。

まず、僕は哲学というものがどんな学問なのかよくわからない。お茶の水女子大の教授だった土屋賢二先生の本はたいてい読んでいる。(P.194【補講 思考に「遊び」をつくる森教授の視界:86 思想家なんて呼ばれるようになったが、何のことだろうか?】)

世間からは思想家のように呼ばれることもある著者だが、本人は哲学という学問の定義すらよくわからないと素直に述べている。

しかし、ほお、と思わず声を上げてしまったのは、森博嗣が土屋賢二(つちや・けんじ、1944年〜)のファンであり、愛読者だったということである。

土屋賢二の著書といえば、日常の些細な出来事を論理の飛躍と屁理屈で徹底的にこねくり回し、極上のユーモアへと昇華させたエッセイで知られている。

徹底した論理的思考の持ち主である森博嗣が、あえてその論理を脱臼させて笑いを生み出す土屋哲学を楽しんでいるという事実は、彼の人柄を知る上でなかなか珍しく、非常に味わい深い情報である。

小説という表現媒体の独自の存在意義

数多くのベストセラー小説を生み出しながら、なぜそれが映像化されることが少ないのかについて、著者自身の確固たる信念が語られている。

映像化されない理由の第一として、作品を書くときに、僕はいつも「映像化できないものを書こう」と心がけている。それは、小説家にとって、小説というものはそういうものだと考えているからだ。(P.200【補講 思考に「遊び」をつくる森教授の視界:89 森博嗣が映像化されない理由がわからない人が多い。】)

現代の出版業界においては、小説がヒットすればすぐに映画化やドラマ化といったメディアミックスが企画されるのが一般的な流れである。

しかし、森博嗣の小説のイメージは、そうした映像的な分かりやすさを最初から完全に拒絶している。

文字という記号だけで構築された世界の中でしか表現できない緻密な論理の迷宮や、読者の脳内にのみ立ち上がる抽象的なイマジネーションこそが、文学の本来の力である。

あえて映像化できないものを書こうという強い心がけは、小説という表現媒体に対する究極の愛情であり、クリエイターとしての崇高なプライドの表れでもある。

日常の不便さから学ぶ現代の経済感覚

キャッシュレス社会における日常の決済についても、著者の生活の一端を垣間見ることができる。

キャッシュカードは百五十万円が限度額だが、ときどき限度を越えるので、二枚めに切り換える必要が出る。まえにも書いたが、一カ月間ではなく、ほぼ二カ月間累積するし、また、ネットオークションなどでは、入札しただけで一時的に金額が累積されることもあるので、少々不便だ。(P.206【補講 思考に「遊び」をつくる森教授の視界:92 最近、僕はキャッシュレスになった。】)

これだけの著作を持ち、当然ながらかなり金銭的に豊かであるはずの森博嗣のクレジットカードの限度額が、わずか150万円に設定されているというのが大きな驚きである。

基本的には、普段の生活においてそこまで大きな買い物を頻繁にしないという、極めて堅実な生活態度を示しているのだろう。

不便を感じるのならば、カード会社に連絡して限度額を大幅に上げておくとか、ステータスの高いゴールドカードとか、上限のないブラックカードを持っていても十分に審査は通るはずである。

ただ、金融機関のシステムやリスクについて、それくらいのことなら恐らく森博嗣なら詳細に調べていることだろうから、あえて上述の不便な状態のままにしておくのが、彼にとっては一番良いということなのかもしれない。

しかも個人的に知らなかったのは、クレジットカードの利用額の計算は、単純に一カ月間でリセットされるのではなく、締め日と支払日の関係でほぼ二カ月間累積して計算される枠があるということである。

この記述を読んで改めて、自分自身のクレジットカードの限度額や、実際の累積期間の仕組みについても見直し、確認する良い機会となった。

日常の些細な不便さの中にも、金融システムの設計思想を見出し、冷静に分析する姿勢は流石である。

極上の頭の体操としての読書体験のまとめ

本書『「思考」を育てる100の講義』を通じて様々なテーマについて考察してきたが、総論として言えることは、やはり、圧倒的に面白いということである。

これは単なる知識の吸収ではなく、凝り固まった思考の癖を強制的にストレッチさせる、極上の頭の体操である。

常識や思い込みを一つ一つ丁寧に分解し、論理というメスを入れて再構築していく過程は、知的な興奮に満ちている。

100の講義をすべて読み終えた時、読者の目の前に広がる世界は、読む前とは全く違った、クリアで解像度の高いものへと変化しているはずである。

自分の思考が少し鈍ってきたと感じた時、あるいは社会の不条理に飲み込まれそうになった時、何度でも読み返し、自らの頭脳をメンテナンスするための貴重なバイブルとして、書棚に常備しておきたい一冊である。

書籍紹介

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