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森博嗣『悲観する力』要約・感想

森博嗣『悲観する力』表紙

書籍紹介

  1. 楽観の危うさを指摘し、フェールセーフのような悲観的思考を人生設計に活用してリスクに備える建設的な力を強調。
  2. 悲観を実践するには、問題点を直視し弱点を修正する合理性や、疑う姿勢と余裕を持ち、日常的に「考える」訓練が必要。
  3. 過去を楽観的に解釈して精神を安定させ、未来を悲観的に予測して準備する姿勢が合理的で、過去悲観・未来楽観の罠を避ける。
  4. 著者の俯瞰的な視点と実践例から、考える力が結果を決め、他者競争ではなく自己満足の人生を追求する重要性を示す。

森博嗣の略歴・経歴

森博嗣(もり・ひろし、1957年~)
小説家、工学者。
愛知県の生まれ。東海中学校・高等学校、名古屋大学工学部建築学科を卒業。名古屋大学大学院修士課程を修了。三重大学、名古屋大学で勤務。1990年に工学博士(名古屋大学)の学位を取得。1996年に『すべてがFになる』で第1回メフィスト賞を受賞しデビュー。

『悲観する力』の目次

まえがき
第1章 心配性で助かった
第2章 あまりにも楽観的な人々
第3章 正面から積極的に悲観する
第4章 冷静な対処は悲観から生まれる
第5章 過去を楽観し、未来を悲観する
第6章 期待と願望はほとんど意味がない
第7章 悲観できなくなるまで準備する。
あとがき

『悲観する力』の概要・内容

2019年1月30日に第一刷が発行。幻冬舎新書。230ページ。

『悲観する力』の要約・感想

  • フェールセーフという人生の設計思想
  • 弱点を克服する方が合理的である
  • 成功した父が教えた「心配」の重要性
  • 著者の俯瞰的な視点が生む説得力
  • 「考える」ことを訓練する具体的な方法
  • 悲観的思考の要点「疑う」と「余裕」
  • 過去を「楽観」で解釈し直す技術
  • 最も避けるべき「過去悲観、未来楽観」
  • 過去の反省より未来の「無限の選択肢」
  • 人生は他者との競争ではない
  • 「考えたかどうか」が結果を決める
  • 理性と感情のメタ認知
  • 成功体験が「拘り」という罠になる
  • 「人事を尽くす」という悲観の終着点
  • デビュー前から貫かれた「小説ビジネス」
  • 「死」を意識した著者の「生の揺らぎ」
  • 『悲観する力』がもたらす「考える」ことの重要性

「悲観」と聞くと、多くの人はネガティブな印象を抱くかもしれない。

「ポジティブシンキング」こそが成功の鍵であると、世の中は説きがちであるからだ。

しかし、本当にそうだろうか。

工学博士であり、ミステリー作家でもある森博嗣(もり・ひろし、1957~)は、その著作『悲観する力』において、私たちが無邪気に信じがちな「楽観」の危うさと、「悲観」が持つ本来の建設的な力について、冷静かつ論理的に解き明かしている。

本書は、単なる精神論ではない。現実を生き抜くための、極めて実践的な「思考の技術書」である。

なぜ今、「悲観する力」が必要なのか。本書を読み解きながら、その本質に迫ってみたい。

フェールセーフという人生の設計思想

本書の第一章で、森博嗣は工学における「フェールセーフ」という概念を紹介している。

「フェールセーフ」という言葉をご存じだろうか。これは、工学における設計思想の一つであり、「機械は必ず壊れる」「誤操作は必ず起こる」ことを前提として、万が一そうなった場合に安全側に制御する手法あるいは原則である。(P.35「第1章 心配性で助かった」)

これは、機械設計に限った話ではない。

まさに、個人の人生設計そのものに応用できる思考法である。

計画は必ずしも予定通りには進まない。

自分は間違う可能性があり、外部環境は予測不能に変化する。

この「最悪」を前提とすることで、初めて「万が一」の事態が起きても破綻しない、安全な人生のコントロールが可能になる。

これは、漠然とした不安を抱えることとは似て非なるものだ。

不安が単なる感情であるのに対し、フェールセーフに基づく悲観は、具体的なリスクを想定し、対策を講じる「理知的な活動」である。

人生において、うまくいかなかった場合、道が外れた場合にどうするか。

その「安全装置」をあらかじめ設計しておくことこそが、森博嗣の提唱する「悲観する力」の第一歩なのである。

弱点を克服する方が合理的である

私たちはしばしば「得意なことを伸ばせ」と教えられる。

もちろん、それも一つの真理ではある。しかし、森博嗣は異なる視点を提供する。

仕事などでも、問題がある部分を修正することで効率を上げることは、新たな戦略を捻り出すことに比べれば、格段に楽な方法といえる。(P.55「第1章 心配性で助かった」)

これは非常に合理的な指摘だ。

ゼロから新たな強みを生み出す、あるいは既存の強みをさらに伸ばすことは、多大なエネルギーを要する上に、その成果は不確実である。

一方で、明らかな「弱点」や「問題点」の修正は、やるべきことが具体的である。

そして、マイナスをゼロに近づける作業は、プラスをさらに伸ばす作業よりも、投入したリソースに対する改善効果(伸びしろ)が大きい場合が多い。

これは、「悲観」が持つ分析的な側面を示している。

現状を楽観せず、問題点を直視し、そこから手を付ける。

その方が、結果として効率的に全体を向上させられる、という現実的な判断である。

成功した父が教えた「心配」の重要性

森博嗣の「悲観」のルーツは、彼の父親にあるようだ。

建築関連の商売で、森博嗣が言うには「そこそこの成功」を収めたという父親は、非常に心配性だったという。

「世の中、何があるかわからない。どんな場合にも生きていけるように、普段から準備をしておきなさい」と言われた。「無理をするな」「一所懸命になるな」という教えもあった。(P.57「第1章 心配性で助かった」)

この言葉は示唆に富む。

「一所懸命になるな」とは、恐らく「一つのことにのめり込みすぎて視野が狭くなるな」「全リソースを一点に投下して、それが失敗したときに再起不能になるな」という意味だろう。

常に「何があるかわからない」と最悪の事態を想定し(悲観し)、そのために「普段から準備をしておく」。

この堅実な「心配性」こそが、浮き沈みの激しいビジネスの世界で「そこそこの成功」、つまり持続可能な成功を収める秘訣だったのではないだろうか。

著者の俯瞰的な視点が生む説得力

本書の説得力は、森博嗣自身の現在のスタンスにも由来している。

日本の状況を、僕はネットで観察している。TVや新聞は見ていないし、近所に日本人はいないし、そもそも人に会ったり、おしゃべりしたりすることもない。(P.60「第2章 あまりにも楽観的な人々」)

これは、著者が俗世から一歩引いた、極めて俯瞰的な視点に立っていることを示している。

特定の組織に属さず、日々の人間関係のしがらみからも距離を置いている。

他の著作での言及も踏まえれば、恐らくは海外か、日本国内でも人里離れた場所で、静かに隠居に近い生活を送っていると推察される。

だからこそ、彼の言葉には特定の立場を守るための「ポジション・トーク」がない。

特定の利益に誘導しようという意図がなく、純粋な「観察者」として日本や世の中を眺めている。

この中立性が、彼の「あまりにも楽観的な人々」に対する分析の信頼性を高めている。

「考える」ことを訓練する具体的な方法

では、どうすれば建設的な悲観ができるようになるのか。

森博嗣は、その前提として「考える」ことの重要性を説く。

彼が推奨する「考える」練習は、算数や数学である。

だが、それが苦手な人には、次のようなトレーニングを勧めている。

しかも、日記などの日常を書き記すものではなく、「日本について」とか「文化について」といった抽象的なテーマで、最低でも二千文字程度を毎日書くようなトレーニングをする。このとき、調べ物をしてはいけない。自分の頭の中にある材料だけで作り出すことが「考える」ことだからだ。(P.103「第3章 正面から積極的に悲観する」)

この「調べ物をしてはいけない」という点が、極めて重要である。

私たちは往々にして、「調べること(情報収集)」と「考えること(情報処理)」を混同している。

すぐにインターネットで検索し、他人の意見や既存の情報を集めてきて、それを並べ替えただけで「考えた」気になってしまう。

しかし、森博嗣の定義する「考える」とは、外部の情報に頼らず、自分の頭の中にある知識と経験だけを材料にして、論理を構築し、結論を導き出すプロセスそのものである。

この訓練は、自分の思考の「地力」を鍛え上げる。

この地力なくして、複雑な未来を悲観的にシミュレーションすることなどできないのである。

悲観的思考の要点「疑う」と「余裕」

森博嗣は、悲観の「し方」を具体的に提示している。

ここでもう一度、「悲観」のし方について整理してみよう。大事な姿勢を箇条書きにした。
一、AならばBといった決まりごとが絶対ではない、と疑う。
二、こうだと言い切るような発言に対して、例外を探す。
三、見込める効果を小さめに評価し、それでも全体が成立するか検討する。
四、多数意見を鵜呑みにしない。
五、都合の悪い事態ほど優先して考える。
六、できるだけ多数の視点に立って考える。
七、自分の説明が相手に理解されないことを考慮しておく。
八、周囲からの評価を期待しない。
これらは、抽象すれば、「疑う」と「余裕を見る」の二点になる。疑うから余裕を見るのであり、「悲観」という操作の始まりと終わりともいえる。(P.124「第3章 正面から積極的に悲観する」)

この8箇条は、森博嗣流の「悲観的思考」の実践マニュアルである。

そして、彼自身が結論付けているように、その本質は「疑う」ことと「余裕を見る」ことの二点に集約される。

「疑う」とは、常識、前提、他人の意見、そして自分自身の見込みさえも、絶対視しないことである。

物事を鵜呑みにせず、常に「本当にそうか?」「例外はないか?」「もし違ったら?」と問い続ける理知的な態度である。

「余裕を見る」とは、その「疑い」によって生まれた不確実性に対処するため、あらかじめリソース(時間、金銭、労力、精神)に、多少の遊び、バッファを持たせておくことである。

「疑う」ことで未来のリスクを予測し、「余裕を見る」ことでそのリスクに備える。

これこそが、建設的な悲観のサイクルである。

過去を「楽観」で解釈し直す技術

本書の白眉とも言えるのが、「過去」と「未来」への向き合い方である。

特に、過去に対するアプローチは、多くの人の心を軽くするだろう。

自分が経験したことをどう解釈するか、という場合、大いに「楽観」すれば良いだろう。「あれは良かった」「あのとき、あれをしておいたのが効いた」「あの判断は正解だった」などと、過去を楽観的に評価することは、精神安定上も良い。(P.162「第5章 過去を楽観し、未来を悲観する」)

これは、非常に画期的な思考法である。

私たちはとかく、過去の失敗や後悔に囚われがちだ。

だが、森博嗣は、起きてしまった過去の事実は変えられないのだから、その「解釈」は自分に都合よく「楽観」してしまえ、と言う。

あの失敗があったから今がある。

あの判断は、あの時点での最善であり、結果として良い経験になった。

このように過去を楽観的に解釈し直すことで、自己肯定感を高め、現在の精神状態を安定させることができる。

これは、未来へ進むための強力なエネルギー源となる。

最も避けるべき「過去悲観、未来楽観」

そして、森博嗣は最悪のパターンを指摘する。

最悪のパターンは、過去を悲観し、未来を楽観する姿勢だ。(P.163「第5章 過去を楽観し、未来を悲観する」)

これは、まさに多くの人が陥りがちな罠である。

「あんなに辛い過去だったのだから、未来はきっと明るいはずだ」といった、根拠のない期待である。

過去を悲観してクヨクヨと悩み、未来は「なんとかなるだろう」と楽観して準備を怠る。

これでは、精神は不安定になり、未来のリスクにも対応できない。

森博嗣が推奨するのは、この真逆である。

「過去は、自分の都合の良いように楽観的に解釈する」
「未来は、何が起こるかわからないから悲観的に予測し、準備する」

この姿勢こそが、最も合理的で、精神的にも安定する生き方なのである。

過去の反省より未来の「無限の選択肢」

過去の反省が長すぎて、未来への一歩が踏み出せない人も多い。

過去に起こったことは、考える対象が絞られる。同じ対象について、幾度も同じように考えてしまう人がいるはず。しかし、未来に起こることは、対象が無限にある。いくらでも考える事ができるはずだ。未来のことを考え始めると、過去のことなど考えている隙はなくなるだろう。(P.165「第5章 過去を楽観し、未来を悲観する」)

まさに、その通りである。

過去の「ああすれば良かった」という反省は、一度で十分だ。

それは既に確定した、閉じた世界の話である。

それよりも、未来に目を向けるべきである。未来に起こり得る「選択肢」は無限に存在する。

その無限の選択肢について、「もしこうなったら、こうする」「このリスクには、この準備を」と「悲観的」に考え始めれば、過去という狭い対象について繰り返し悩んでいる暇など、物理的になくなるはずだ。

「前向きに悲観する」とは、思考のリソースを過去ではなく、未来へ振り向けることなのである。

人生は他者との競争ではない

私たちは常に他者と比較し、勝ち負けに一喜一憂してしまう。

しかし、翌々考えてもらいたいのだが、長い時間、つまりあなたの一生といった時間スパンにおいて、他者との競争の勝ち負けなど、一瞬のこと、実に瑣末な問題にすぎない。それ以外のほとんどの時間、あなたは一人で走っている。人間は誰でも一人なのだ。(P.170「第5章 過去を楽観し、未来を悲観する」)

これは、森博嗣の持つ達観した、しかし本質的な人生観である。

結局のところ、人生とは「自己満足」の追求である。

他者に勝った負けたという評価も、長い人生においては些細な出来事に過ぎない。

人生のほとんどの時間は、他者とではなく、自分自身と向き合う時間である。

この「一人の時間」をどう充実させるか。

他者の評価という相対的なものではなく、自分自身が満足できるかという絶対的な基準で生きること。

そのためにも、他者の動向に一喜一憂するのではなく、自分の未来を悲観し、自分のために準備することが重要となる。

「考えたかどうか」が結果を決める

森博嗣は、人間は望むとおりになる、と断言する。

人間は、自分が望むとおりになる、と僕は常々話している。これは楽観ではない。明らかにそう観察される客観的な事実だ。考えて行動した人が、考えたとおりの結果を得る。結果を得られない人は、考えていなかったからそうなった。差は、考えたかどうかである。(P.175「第5章 過去を楽観し、未来を悲観する」)

これは、「引き寄せの法則」のようなオカルトではない。

「こうなったらいいな」という「願望(楽観)」ではなく、「こうなるためには、何が必要か。障害は何か。どう備えるか」という「思考(悲観)」。

そのような積み重ね、そして実際に行動した人間が、その「考えた」通りの結果を得る、という論理的な帰結である。

結果が得られないのは、運が悪かったからでも、才能がなかったからでもない。

単に、「考えていなかった」からだ。

森博嗣の言葉は、厳しくも公平な事実を突きつけてくる。

理性と感情のメタ認知

森博嗣は、理性と感情の使い分けについても言及する。

「理性の楽観」と「感情の悲観」は危険であり、その逆、「理性の悲観」と「感情の楽観」が良い、と。

ということは、自分がどのような思考をしているのか、という理性の自覚と、自分はそれをどう感じているのか、という感情の自覚を、両方持っている必要がある。これは、やや面倒なことかもしれない。(P.181「第6章 期待と願望はほとんど意味がない」)

これは、高度な「メタ認知」を要求している。

理性においては、「最悪の事態もあり得る」と悲観的に分析・準備する。

感情においては、「まあ、準備したから大丈夫だろう」と楽観的に構える。

このバランスを取るためには、今自分は「理性的」に考えているのか、「感情的」になっているのかを、常に客観的に把握し、コントロールする必要がある。

面倒ではあるが、これができれば、無用な不安に苛まれることなく、冷静な準備が可能となる。

成功体験が「拘り」という罠になる

準備を妨げるものの一つに、過去の成功体験がある。

人間というのは、とにかく拘りやすい動物である。なにか気に入ったことが一度あると、それに拘る。自分の方法はこれだ、と決めてかかる。上手くいった体験があると、その手法を絶対視する。「拘る」は近頃は良い意味で使っているが、この言葉はもともと「取り憑かれる」くらいの意味で、悪い状況を示す表現だった。(P.213「第7章 悲観できなくなるまで準備する」)

成功体験は、強烈な「正解」として自分の中に刻まれる。

だが、環境が変われば、その「正解」は「不正解」になり得る。

それに「拘り」、思考停止に陥ることは、未来に対する「悲観」を放棄することに等しい。

「前はこれでうまくいったから、次も大丈夫だろう」という安易な楽観を生むからだ。

常に「今までの方法が通用しないかもしれない」と悲観し、柔軟に選択肢を持ち続けること。

思考の弾力性こそが、変化の時代を生き抜く鍵である。

「人事を尽くす」という悲観の終着点

では、一体どこまで「悲観」すれば良いのか。

どこまで「悲観」すれば良いのか。それは、「悲観」しなくても良くなるまで考え、対策を立て、準備ができるまで、である。(P.221「第7章 悲観できなくなるまで準備する」)

これこそが、「悲観する力」のゴールである。

不安だから悲観するのではない。不安を解消するために、能動的に悲観し、思考し、準備するのである。

時間や資金といったリソースが許す限り、あらゆる事態を想定し、対策を立て尽くす。

これ以上、考えることがない。やれることはすべてやった。

そう言い切れる状態まで到達すること。

これこそが、森博嗣の言う「悲観」であり、古くから伝わる「人事を尽くして天命を待つ」という境地そのものである。

そこまでやれば、結果がどうであれ、後悔もなければ、自分を責めることもない。

デビュー前から貫かれた「小説ビジネス」

森博嗣自身が、この「悲観する力」を完璧に実践してきたことが、あとがきで明かされる。

その後、出版社の反応を待たず、続けて作品を書いたから、デビューが決まる頃には長編五作が完成していた。一冊当てるよりも、多数書く方が、これからの小説ビジネスには適していると判断していたからだ。デビューすることが目的ではなく、小説でビジネスを広げていくことが、僕の目的だったのだ。人気者や有名人になりたかったのではない。(P.227「あとがき」)

これは、驚くべき冷静さと実行力である。

最初の作品を出版社に送った後、「デビューできるだろうか」と楽観的な期待や感情的な不安に揺れ動くことなかった。

彼は「一作目が評価されないかもしれない(悲観)」という前提に立ち、即座に次の「準備(執筆)」に取り掛かっている。

デビューは目的ではなく、ビジネスの始まりであると客観視し、承認欲求に流されず、多数書く方がビジネスに適していると、冷静に合理的な判断を下している。

森博嗣の生き方そのものが、「悲観する力」の最強の証明となっている。

「死」を意識した著者の「生の揺らぎ」

本書が執筆される約一年前、森博嗣は救急車で運ばれ、入院したという。

幸い大事には至らなかったようだが、彼は「死」を身近に感じた。

明日に死ぬかもしれないという悲観と、まだしばらくは大丈夫だろうという楽観の間で、人は揺れ動く。生きるとは、考えるとは、つまりはこの揺らぎのことである。(P.230「あとがき」)

普段は忘れがちな「死」という絶対的な悲観。

そして「今日一日」を生きるささやかな楽観。

私たちは、この両極の間で常に揺れ動いている。

この揺らぎの中で、いかに「考え」、いかに「準備」し、自分自身の生を全うするか。

本書は、そのための「揺らぎ」の作法を教えてくれる。

『悲観する力』がもたらす「考える」ことの重要性

森博嗣の『悲観する力』は、逆説的にも、私たちの心を軽くし、生きやすくしてくれる一冊である。

それは、根拠のないポジティブさで不安に蓋をするのではなく、不安の正体を「悲観」によって直視し、「考える」ことによってそれを「準備」へと転換する技術を授けてくれるからだ。

経営学者である楠木建(くすのき・けん、1964~)も『絶対悲観主義』という、同種の本を著している。

森博嗣も楠木建も、知性の頂点である大学院を修了し、大学での勤務経験を持つ。

(ちなみに何故か二人とも結婚も早い)。

知性を極めた二人が、奇しくも「悲観」を人生戦略の核に据えている事実は、非常に興味深い。

森博嗣のエッセイに一貫しているのは、「他人の評価に流されず、自分自身で考え抜き、準備し、自分が望んだ満足のいく人生を生きなさい」というメッセージである。

当たり前だが、日々の雑事に流されて見失いがちな、最も重要な指針だ。

未来に漠然とした不安を抱えている人、過去の後悔から抜け出せない人、そして、より合理的に、自分らしく生きたいと願うすべての人にとって、本書は強力な「思考の武器」となるだろう。

書籍紹介

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