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森博嗣『諦めの価値』要約・感想

森博嗣『諦めの価値』表紙

  1. 諦めをネガティブではなく積極的な戦略として位置づけ、固執を避け次のステップへ移る身軽さを強調。
  2. 「諦めない」姿勢の危険性を指摘し、常に諦める選択肢を準備し、失敗を想定した思考が対応力を高めると主張。
  3. 後悔を時間の無駄とし、過去を楽観的に解釈し未来を悲観的に備えることで、合理的な生き方を提唱。
  4. 誠実な努力の価値を認めつつ、他者に期待せず感情をコントロールし、自分で考えることだけは「諦めない」生き方を推奨。

森博嗣の略歴・経歴

森博嗣(もり・ひろし、1957年~)
小説家、工学者。
愛知県の生まれ。東海中学校・高等学校、名古屋大学工学部建築学科を卒業。名古屋大学大学院修士課程を修了。三重大学、名古屋大学で勤務。1990年に工学博士(名古屋大学)の学位を取得。1996年に『すべてがFになる』で第1回メフィスト賞を受賞しデビュー。

『諦めの価値』の目次

まえがき
第1章 諦めなければ夢は叶うか?
第2章 諦められないという悩み
第3章 何を諦めるべきか?
第4章 諦めが価値を持つとき
第5章 諦めの作法
第6章 生きるとは諦めること
第7章 変化を選択する道について
第8章 他者に期待しない生き方
あとがき

『諦めの価値』の概要・内容

2021年8月30日に第一刷が発行。朝日新書。301ページ。

『諦めの価値』の要約・感想

  • 「諦めない」という思考停止の危険性
  • 後悔する時間で未来のリスクに備えよ
  • 記念日を祝うことの理不尽さ
  • 「考えること」だけは諦めてはいけない
  • 誠実な努力は決して裏切らない
  • 「期待しない」ことこそが本当の応援
  • 感情をコントロールする実利的なメリット
  • 神仏に頼らず、死をも受容する生き方
  • 森博嗣という人間の形成過程
  • 性格が合わなくても「共に暮らす」という選択
  • 「諦め」の本質は、次へ移る「身軽さ」
  • 形にしなければ「存在しない」のと同じ
  • まとめ:「諦め」を積極的な戦略として手に入れる

「諦めなければ夢は叶う」という言葉は、しばしば我々を鼓舞するスローガンとして使われる。

しかし、その言葉を信じて突き進んだ結果、すべてを失ったり、疲弊しきってしまったりする現実もまた、我々の周りには転がっている。

本当に「諦めない」ことだけが正義なのだろうか。

むしろ、賢明に「諦める」ことこそが、より良い人生を切り開く鍵になるのではないか。

そんな根源的な問いに対し、工学博士であり、稀代の作家でもある森博嗣(もり・ひろし、1957年~)が、独自の合理的かつ透徹した視点で切り込んだ一冊が、本書『諦めの価値』である。

「諦め」という言葉にネガティブな響きを感じるかもしれない。

しかし、森博嗣はそれを「価値」であると断言する。

本書を読み解くことは、我々が日常で無意識に抱えている「諦められない」という呪縛から自らを解放する、知的訓練となるだろう。

まずは、本書の「まえがき」から、森博嗣の基本的なスタンスを確認してみたい。

確率の高い方法を選び、地道に努力を積み重ねることが、最も期待値が高い成功への道といえる。そんなことは、本に書くようなことでもない常識だろう。(P.18「まえがき」)

結局のところ、成功への期待値が最も高いのは、確率論に基づいた地道な努力の積み重ねである。

これは至極当たり前の話であり、森博嗣自身も「常識だろう」と述べている。

しかし、我々は日々の雑務や目先の感情に流され、この「当たり前」の常識をいとも簡単に忘れてしまう。

非合理的な一発逆転の夢にすがったり、明らかに確率の低い選択肢に固執したりしていないだろうか。
本書は、まずその「常識」に立ち返ることからスタートする。

「諦めない」という思考停止の危険性

「諦めない」ことは美徳とされがちだが、森博嗣はその姿勢に警鐘を鳴らす。

重要なのは、常に「諦める」という選択肢をテーブルの上に置いておくことだ。

その準備があるかどうかで、現実に直面したときの対応力が決まる。

日本語には、「そんなことはまったく考えておりません」という言い回しがあるが、どんな場合でも、思いつくすべてのことを考えておくべきだ。考えなければ、判断ができない。「諦めるなんて、まったく考えていない」という状況は、はっきりいうと危険である。常に、諦めることを想定して臨むべきである。(P.57「第1章 諦めなければ夢は叶うか?」)

これは、森博嗣が他の著作『悲観する力』でも一貫して主張している「準備の重要性」と通底する。

あらゆる可能性を事前にシミュレーションしておくこと。

特に、失敗や期待外れの結果に終わった場合のことを具体的に考えておく。

その物心両面の準備が、我々をパニックから守ってくれる。

「諦めるなんて考えていない」という状態は、裏を返せば「失敗する可能性を考えていない」という思考停止に他ならない。

考えていなければ、いざその事態が発生したとき、人は感情的になったり、思考が停止したりして、シンプルに対応不能に陥る。

それは非常に「危険である」。

だからこそ、常に「諦める」ことを想定し、その場合の次善の策を準備しておくべきなのである。

後悔する時間で未来のリスクに備えよ

「諦める」ことに関連して、我々を悩ませるのが「後悔」という感情である。

過去の選択を悔やみ、落ち込むことは、人間らしい感情の動きかもしれない。

だが、森博嗣はその行為を「非常に時間の無駄」であると一刀両断する。

実際、後悔したり、くよくよして落ち込んだりするのは、非常に時間の無駄である。そんな時間があるのなら、さきにその時間を使って、悲観的に予想しておく。(P.123「第3章 何を諦めるべきか?」)

これこそ、森博嗣の真骨頂である現実的かつ論理的な思考である。

落ち込むことに意味はない。それは何の生産性も持たない、純粋な時間の浪費である。

過去は変えられない。変えられないものに対して感情を消費するのは、エネルギーの無駄遣いだ。

それならば、その時間とエネルギーを「未来」のために使うべきである。

森博嗣が提唱するのは、「過去を楽観し、未来を悲観する」という思考法だ。

過去に起きたことは、「あれで良かったのだ」と楽観的(あるいは都合良く)解釈してしまう。

一方で、未来に対しては徹底的に悲観的になり、起こりうる最悪の事態を想定し、その準備に時間を使う。

後悔や落ち込みに使う「無駄な時間」があるのなら、それを未来の悲観的な予想と対策に充てる。

これが、合理的な時間の使い方である。

記念日を祝うことの理不尽さ

森博嗣の合理的な思考は、我々が当たり前だと思っている習慣にも向けられる。

例えば、誕生日や結婚記念日といった「特別な日」を祝う文化だ。

同様に、結婚記念日とかも、べつになにもしない。特別な感情を抱かない。結婚相手に感謝したいなら、毎日すれば良いではないか。年に一度だけなんて、もの凄く理不尽ではないか。(P.131「第3章 何を諦めるべきか?」)

この引用の前では、誕生日会についても同様の指摘がされている。

確かに、もし結婚相手に本当に感謝しているのなら、その感謝は毎日伝えるべきである。

年に一度だけ「感謝の日」を設けるというのは、よく考えれば奇妙な習慣だ。

もし年に一度の感謝で済むのなら、それは随分と楽なことである。

森博嗣はさらに、災害復興のイベントについても言及する。

年に一度だけ集まって復興を祈る、という行為も、本質的には同じ構造を持っていないか、と問いかける。

ただ、ここで重要なのは、森博嗣がそういった習慣を持つ人々を否定したり、見下したりしているわけではない、という点だ。

彼は、それらが個人の趣味や嗜好の範囲内である限り、何の問題もないとする。

ただ、自分にそれを誘ったり、強制したりしないでほしい、というスタンスである。

これは彼の優れたバランス感覚、あるいは科学者としての客観的な姿勢の表れだろう。

自分が正しいとも思わないが、相手が誤りだとも断定しない。

自分はただ、自分にとって最も合理的だと思える判断をしているだけである。

このドライとも言える距離感が、彼の思考の信頼性を高めている。

「考えること」だけは諦めてはいけない

では、我々は何を諦め、何を諦めてはいけないのか。

森博嗣は、「諦める」という行為そのものに、絶対的な基準はないと語る。

そこには善も悪もなく、正解も間違いもない。

「諦める」という行為に善悪はない。正解も間違いもない。そのときどきで、難しい判断をするしかない。生きていくうえで、これは避けられないことなのだ。
唯一のアドバイスは、「考えなさい」である。
この「自分で考えること」だけは、諦めてはいけない。それだけは、いえる。(P.139「第3章 何を諦めるべきか?」)

結局、我々は自分の人生において、その都度、難しい判断を下し続けるしかない。

他人や社会の価値観に流されるのではなく、自分自身の頭で「考える」。

自分にとって何が最適か、どの選択が最も合理的か。

それを判断するための「思考」こそが、我々が最後まで諦めてはならない、唯一のものである。

他の一切を諦めたとしても、「自分で考えること」さえ放棄しなければ、人は自分の道を歩み続けることができる。

これこそが、本書の核心的なメッセージの一つである。

誠実な努力は決して裏切らない

「諦める」ことを推奨すると、それは「努力からの逃げ」を肯定することになるのではないか、と懸念する人もいるかもしれない。

しかし、森博嗣は努力そのものを否定しているわけでは決してない。

むしろ、誠実な努力の価値を深く理解している。

なにも努力をしなければ、成功も失敗もない。誠実に生き、努力をする者は、たとえ失敗をしても、どん底まで落ちることはないだろう。それは、目標が達成されなくても、なんらかの成果が、その人間に残るからである。(P.161「第4章 諦めが価値を持つとき」)

これは、非常に真っ当で、勇気づけられる言葉である。

誠実に行った努力は、たとえその時の目標が達成されなかったとしても、決して無駄にはならない。

その努力のプロセスで得た知識、技術、経験、あるいは人脈といった「なんらかの成果」が、必ずその人自身の中に蓄積される。

だからこそ、誠実に努力を積み重ねることができる人間は、一時的な失敗によっても、再起不能な「どん底」まで落ちることはない。

蓄積された成果が、次の挑戦への足がかりとなるからだ。

諦めるべきは「一つの目標」への固執であって、「誠実な努力」そのものではない。

この切り分けが重要なのである。

「期待しない」ことこそが本当の応援

森博嗣の「諦め」の哲学は、他者との関わり方にもユニークな視点を提供する。

それは「期待しない」という姿勢である。

たとえば、僕はオリンピックに出場する日本選手に期待をしない。金メダルを逃しても、残念だとは感じない。でも、応援はできる。期待をすることだけが応援ではないし、愛でもないだろう。むしろ、負けたときに拍手を送ることが、応援だし、愛ではないだろうか?(P.173「第4章 諦めが価値を持つとき」)

「期待」とは、裏を返せば「自分の望む結果」を相手に押し付ける行為でもある。

だからこそ、期待が裏切られると、我々は「残念だ」と感じてしまう。

しかし、森博嗣は、それは本当の応援や愛ではないのではないか、と問う。

勝ったときだけ称賛し、負ければ落胆する。

それは、相手の存在そのものではなく、相手が出す「結果」を愛しているに過ぎないのかもしれない。

むしろ、負けたときにこそ「よく頑張った」と拍手を送ること。

結果に関わらず、そのプロセスと挑戦そのものを称賛すること。

それこそが、より深く、本質的な「応援」であり「愛」ではないだろうか。

これは非常に素敵な考え方であり、森博嗣の冷徹な合理性の中に垣間見える、深い人間愛を感じさせる部分である。

こうした一面が、多くのファンを惹きつける要因なのだろう。

感情をコントロールする実利的なメリット

合理的であるためには、しばしば「感情」のコントロールが求められる。

感情的になることは、多くの場合、非合理的な判断を導くからだ。

森博嗣は、感情を抑えることを、精神論ではなく実利的な「技」として捉えている。

感情を抑えることは、それが自身にとって有利であり、得だということを覚えててもらいたい。この技を会得すれば、感情を抑えられた自分に満足し、気分が良くなるだろう。笑ってしませることができるようになる、というが、その笑いが本当に「愉快」なものになるはずである。(P.205「第5章 諦めの作法」)

怒りや苛立ちに任せて行動しても、良い結果になることは稀である。

むしろ、人間関係を悪化させたり、不利な状況に陥ったりすることのほうが多い。

だから、感情を抑えることは、自分にとって「有利」で「得」なのだ。

さらに興味深いのは、この技を会得すると「気分が良くなる」という点である。

感情に振り回されるのではなく、自分が感情の主人となれた、という自己効力感が満足を生む。

その結果、「笑って済ませる」という余裕が生まれ、その笑いは「本当に愉快なもの」になるという。

もちろん、これは簡単なことではない。

感情を抑えることができたとしても、その場で論理的な発言や行動を即座にアウトプットするのは、高度な技術が要る。

感情が昂っていると、論理的な思考そのものが難しくなるからだ。

しかし、これが「技」である以上、訓練によって習得が可能であるはずだ。

感情を抑えることが自分の「得」になる、という実利的なメリットを意識することが、その訓練の第一歩となるだろう。

神仏に頼らず、死をも受容する生き方

森博嗣の合理性は、我々の文化に深く根付いている宗教的な習慣や死生観にも及ぶ。

僕は、先祖に手を合わせることもないし、神社にお参りすることもない。お守りも持っていないし、厄払いもしたことがない。(P.222「第6章 生きるとは諦めること」)

この徹底ぶりには驚かされるかもしれない。

日本で暮らしていれば、何となく初詣に行ったり、子供がいれば合格祈願のお守りを買ったりすることも多いだろう。

私自身も、お賽銭を入れるときには、神様へのお願いというよりは、その場の維持費や、住職のお話やお経に対する感謝の気持ちといった、ある種の「何となく」の感覚で行動している部分がある。

しかし、森博嗣の思考には、そうした「何となく」が一切ない。

彼にとって、それらの行為は合理的ではない、という判断なのだろう。

だが、重要なのは、彼がそうした非合理的なものを一切信じないからこそ、「死」というものもまた、特別なものではなく、自然な現象として普通に受け入れることができる、という点に続いていることだ。

神仏に頼らない生き方は、自らの思考と判断だけを頼りに生きる、覚悟の表れでもある。

森博嗣という人間の形成過程

このような独自の思考法を持つ森博嗣は、どのような子供だったのか。

彼自身の記述が、その一端を垣間見せてくれる。

僕は考えることが好きな子供だった。いつもいろいろ考えていて、目の前の現実に焦点が合わないことがよくあった。こういう子供を、母親は心配するだろう。特に、長男が病気で亡くなったあと次男の僕が生まれたので、なおさらだったと想像する。(P.233「第6章 生きるとは諦めること」)

森博嗣には幼少期に亡くなった長兄がいた。

その後に次男として生まれたという事実は、彼の精神的な成長に何らかの影響を与えた可能性も想像される。

目の前の現実よりも「考えること」に没頭する子供。

母親が心配するのも無理はない。

そして、その性質は彼の息子にも受け継がれていたようだ。

僕の息子も、そんな子供で、二歳になるまで一言もしゃべらなかったし、じっと絵本などを見続けて、人の話を聞かない子供だった。僕の奥様(あえての敬称)は、心配して何度か医者へ連れていったり、知人に相談したりしたようだ。そんなとき、僕は彼女にこう言った。「無駄口を叩かないなんて、素晴らしいじゃないか」と。きっと彼女は頭に来たこだろう。(P.233「第6章 生きるとは諦めること」)

一般的な感覚からすれば、森博嗣のこの発言は、心配する母親の気持ちを逆撫でするものだろう。

「きっと彼女は頭に来たことだろう」と、彼自身も客観的に分析している。

ただ、森博嗣の奥様だからこそ、夫のこの特異な合理性に対して、ある種の「諦め」の境地に至っていたのかもしれない。

ちなみに、この話題に挙がった息子さんは、ある日のこと、車に乗っているときに突然、それぞれを指さして「僕、ママ、パパ」と話し始めたという。

その後は東海中学校・高等学校から、一浪を経て京都大学の理系学部に進学し卒業している。

性格が合わなくても「共に暮らす」という選択

森博嗣の「諦め」の哲学は、他者との関係性、特に最も近しい家族との関係において、どのように機能しているのだろうか。

彼は18歳で出会った女性と結婚し、45年以上も共に暮らしている。

その関係性について、彼は驚くべき内実を明かす。

三回めに会ったときに「結婚しないか」と話したら、彼女は頷いた。それが今の奥様(あえて敬称)である。まったく性格も嗜好も一致しない、話も合わないのだが、既に四五年ほど一緒に暮らしている。共通しているのは、金に興味がなく、ただ自分が好きなことをしていたい、という点くらいである。(P.273「第8章 他者に期待しない生き方」)

性格も嗜好も「まったく一致しない」。

話も「合わない」。

それにもかかわらず、45年以上も共生している。

これを可能にしているのが、「金に興味がなく、ただ自分が好きなことをしていたい」という、根幹となる価値観の共有である。

これは、言い換えれば、互いの「性格」や「嗜好」といった表層的な部分については、早々に「諦めている」ということではないだろうか。

相手を自分好みに変えようと期待せず、互いの違いを「そういうものだ」と受容する。

互いに干渉せず、ただ好きなことをして生きる。

その根本的なスタンスさえ共有できていれば、他の細かな点が一致しなくても、共に暮らしていくことは可能である。

これは、他者と生きる上での一つの究極的なヒントかもしれない。

「諦め」の本質は、次へ移る「身軽さ」

ここまで様々な側面から森博嗣の「諦め」を見てきた。

本書の終盤で、彼は「諦める能力」の本質を喝破する。

諦める能力とは、つまりは、次のステップへすぐに移れる身軽さを意味する。諦めきれない時間は、判断を遅らせ、新しいものへの備えが間に合わなくなる。(P.291「第8章 他者に期待しない生き方」)

これこそが、本書の結論である。

「諦め」とは、敗北や逃避ではない。

それは、一つの物事に固執し、貴重な時間を浪費することをやめ、次なる新しいステップへと迅速に移行するための、積極的な「戦略」であり「身軽さ」である。

「諦めきれない」でいる時間は、判断を遅らせる。

後悔や悩みという「無駄な時間」に縛られることで、未来への「有効な準備」が間に合わなくなる。

過去は変えられない。だから都合良く楽観する。

未来は変えられる。だから悲観的に準備する。

この切り替えを素早く行うためのスイッチこそが、「諦める」という判断なのである。

形にしなければ「存在しない」のと同じ

そして最後に、「あとがき」から、行動することの重要性についての言葉を紹介したい。

完成しなければ、つまり出力しなかったことと同じになってしまう。(「あとがき」)

どれほど深く考え、素晴らしいアイデアを持っていたとしても、それを「完成」させ、世の中に「出力」しなければ、それは存在しないのと同じである。

「考えること」だけは諦めてはいけないが、同時に、「考える」だけで終わってもいけない。

どのような形であれ、一度「完成」という形を取り、外の世界へ「出力」すること。

出力して初めて、その思考は世の中に「存在」することになる。

我々は、考え続けると同時に、出力し続けなければならないのである。

まとめ:「諦め」を積極的な戦略として手に入れる

森博嗣の『諦めの価値』は、「諦め」という言葉にまとわりつくネガティブなイメージを鮮やかに覆す。

そして、それを合理的かつ積極的に生きるための「価値」あるツールとして再定義してくれる一冊であった。

彼の著作を読み進めていると、共通するテーマやロジックに出会うことも増えてくるが、本書もまた、他の作品と重複しつつも、新たな視点を提供してくれた。

「諦め」をネガティブな終焉としてではなく、次のステップへの「身軽さ」と捉え直す。

後悔に使う時間を、未来への準備に充てる。

他者に期待しない。

これらの思考法は、日々の生活や仕事の中で抱える多くの悩みやストレスを、根本から解消する力を持っている。

もし今、あなたが何か「諦めきれない」ことに縛られ、身動きが取れなくなっているのなら、本書を手に取ってみることを強く推奨する。

それはきっと、あなたを呪縛から解き放ち、次の一歩を踏み出すための「身軽さ」を与えてくれるはずである。

書籍紹介

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