『私の上に降る雪は』述・中原フク/編・村上護

中原フクの略歴

中原フク(なかはら・ふく、1879年~1980年)
詩人・中原中也(なかはら・ちゅうや、1907年~1937年)の母。
神奈川県横浜市の生まれ。山口県山口市の育ち。横浜市の老松小学校から良城尋常小学校に転入し、卒業。良城高等小学校、山口県立高等女学校を卒業。1900年に結婚。

村上護の略歴

村上護(むらかみ・まもる、1941年~2013年)
文芸評論家。
愛媛県大洲市の生まれ。愛媛大学教育学部を卒業。初の著書『放浪の俳人 山頭火』がベストセラーに。

『私の上に降る雪は』の目次

Ⅰ 雪の賦
Ⅱ 頑是ない歌
Ⅲ 少年時
Ⅳ 朝の歌
Ⅴ 夕照
Ⅵ 月の光
編者から読者へ 村上護
解説 北川透
年譜 村上護

概要

1998年6月10日に第一刷が発行。講談社学術文庫。300ページ。副題は「わが子中原中也を語る」。

1981年2月に講談社文庫として刊行されたものを底本として、若干のふりがなが加筆。

単行本は、1973年10月12日に第一刷が発行されている。

中原中也の母・中原フクが語り、村上護が編集した作品。

タイトル『私の上に降る雪は』は、中原中也の「生い立ちの歌」から。各章の題も、詩の題が使われている。

解説は、詩人で文芸評論家の北川透(きたがわ・とおる、1935年~)。本名は、磯貝満(いそがい・みつる)。愛知県碧南市の生まれ。愛知学芸大学(現在の愛知教育大学)学芸学部国語科を卒業。高校教諭を経て、評論活動を開始した人物。

その他、中原家の人々の略歴を以下に。

中原中也(なかはら・ちゅうや、1907年~1937年)…詩人。開業医の長男。山口県山口市の生まれ。旅順、広島、金沢を経て、山口の下宇野令小学校に入学。山口師範附属小学校に転校。山口県立山口中学校に入学。京都の立命館中学校に転校。日本大学予科、アテネ・フランセ、中央大学予科を経て、東京外国語学校専修科仏語部を修了。詩集『山羊の歌』『在りし日の歌』。訳詩集に『ランボオ詩集』

中原謙助(なかはら・けんすけ、1876年~1928年)…軍医・開業医。中原中也の父。山口県宇部市の生まれ。出生時の姓は、小林。後に、野村、柏村、中原と変わる。棚井小学校を卒業。上京し、母親の実家・藤井家の従兄である眼科医・藤井幸八の世話になる。東京医学専門学校・済生学舎で実地試験を受け、医師資格試験に合格、医師免許を取得。1896年、最年少の20歳で合格。

感想

中原中也の弟たちが記した『兄中原中也と祖先たち』『海の旅路―中也・山頭火のこと他』を読んで、そのままの流れ母親が語った、この『私の上に降る雪は』を手に取った。

実際に母親が語っているので、口語体で書かれている。そのため、非常に読みやすいというのもポイント。

軍医の中村緑野という方が、“中也”という名をつけてくださったそうなんです。
けど、中也はのちになって、お友達などに森鴎外さんが自分の名前をつけてくれた、と嘘を言っておったそうなんです。(P.16「Ⅰ 雪の賦」)

中原中也の命名の逸話。全く知らなかった。

中村緑野(なかむら・りょくや、1868年~没年不詳)は、勤務医、軍医。最終階級は、陸軍軍医総監。秋田県の出身。秋田医学校(甲種)を卒業。公立秋田病院で外科医として勤務した人物。

中原中也の父親・中原謙助が、旅順で一緒の宿舎になったのが、中村緑野。

“中村緑野”の最初の“中”と最後の“野”から“中野”(なかや)。そこから“野”(や)の音だけをとって、“中也”になったのではないかと推測している。

さらに、この名前は謙助から手紙で、“中也”とだけ書かれていて、ふり仮名は無かった。

“なかや”なのか、“ちゅうや”と呼ぶのか不明のままだったが、“なかちゃん”と呼ぶよりも、“ちゅうちゃん”の方がフクは呼びやすく、そのまま“ちゅうや”となった、という流れ。

軍医であり小説家でもある森鷗外(もり・おうがい、1862年~1922年)について触れるため、ここで、一気に解説の部分を引用する。

後に中也が自分の名前は森鷗外がつけた、という作り話を大岡昇平氏などの友人に吹聴した根拠はここにあった。(P.284「解説 ≪奇跡の子≫を語る 北川透」)

この手前で、中原中也の父・中原謙助の略歴や趣味が語られている。

謙助は、医師の資格を取得した後に、軍医学校に入る。その時の校長は森鷗外。

謙助は読書家であり、また自分でも短歌や小説を書く趣味を持っていた。当然、森鷗外を尊敬し、実際の交流もあり、後に手紙のやり取りなどもあったという。

そのような事実から、意図的に悪戯心で、中原中也は森鷗外に名付けられたと言って回ったのだろう。

また、ここに登場している小説家で評論家でもある大岡昇平(おおおか・しょうへい、1909年~1988年)が、後に『中原中也』を刊行しているのも面白い。

森鷗外と謙助とのエピソードでは、以下のようなものも。

ほかに、広島のときで思い出すのは、森鷗外さんがこられたことです。(P.72「Ⅱ 頑是ない歌」)

広島にいた頃は、中原謙助は30代の半ば。ドイツ留学を目指してドイツ語を学んでいたという。

そのような時期に、ドイツ留学の経験もある森鷗外がやってくる。

広島駅に迎えにいって、旅館までお供したという逸話も。だが、森鷗外は読書に熱中していたというオチがつく。

次に中原中也のエピソードについて見ていく。

「父は医者だから、患者があって夜でも起こしにくるとでていかなければならん。夜中でもでていく父の姿を見ると、ああ、いやだな、と思った。お父さんはこの寒いのに、戸外にでていく。気の毒だなと思いながら、ぼくは寝床のなかで見ておった……」(P.108「Ⅲ 少年時」)

小学校五年生の授業参観か何か似たような行事の時に、中原中也がみんなの前で話したというもの。

医師であった父親・謙助に対する視線。

両親は、長兄ということで中也を医師にしようと考えていた。だが、本人は医者になりたいとは既に思ってはいなかったような状況。

というか、よく母親のフクもこういった出来事を明確に憶えているもんだな。

中学に入ったころは、先生方も「中原君は一高に、東大は立派に入れますよ」なんておっしゃるもんだから、中也と同級生の父兄のかたからは、よくうらやましがられました。中也も「山口の高等学校みたいなボロ学校へはいかん。高等学校へ入るなら、一高へ入って、東大へ入る」といっておりました。(P.146「Ⅳ 朝の歌」)

中原中也は、山口中学に12番の成績という上位で入学。

本人も当初は、一高、東大のコースを考えていたのか。この辺りのことも、全く知らなかった。

12番で入学というのも凄いけれど、何となくもう学業よりも文学とかに関心が大きく移っているようにも感じられる。

その後、大きな関係を持つことになる小林秀雄(こばやし・ひでお、1902年~1983年)でも、一高には一年浪人してから入学しているしな。

そして、中也は文学に傾倒していき、山口中学三年の時には落第となってしまう。

いつか、湯田でも文学好きな連中が集まって、「詩園」などという雑誌を出し、中也のことなど書いておったようです。種田山頭火さんという俳人を湯田に連れてきたのも、その連中だったようです。あれは昭和十四年ころでした。(P.266「Ⅵ 月の光」)

1939年頃ということは、既に中原中也は亡くなっている時期。

ここで種田山頭火(たねだ・さんとうか、1882年~1940年)が出てくるとは予想していなかった。

中原フクは実際に山頭火と会っているのも面白い。その後の文章を見る限り、そこまで良い印象を持ってはいなかったようだ。

というのも、山頭火は、フクの住んでいる家にも遊びに来て、座敷にあがって、着物を脱いで、ゴロンと横になって寝ていたという。

その無作法さに、フクはたまげた、と。

では、なぜ山頭火は中原家に遊びに来たかというと、五男・中原呉郎(なかはら・ごろう、1916年~1975年)がキーパーソンとなる。

後に中原家の兄弟の中で唯一、医師となった人物でもある。

若い頃に、文学に目覚めて、親の願いにより医学を修めたが、最終的には『海の旅路―中也・山頭火のこと他』を刊行も。

一時期、山頭火とかなり仲良くなって、一緒に過ごしていたという。

あのころ、種田さんは中也のことに、あまり興味を示されることはなかったようです。けど、これは呉郎から聞いた話ですが、中也の詩の文句の、「蛇口の滴は、つと光り!」というのを、「これは俳句だよ」といっておられたそうです。(P.268「Ⅵ 月の光」)

種田山頭火による中原中也の詩の寸評。

まさか、山頭火が中也の詩を読んで意見をしていたとは驚き。俳人も、大きな括りで言えば詩人であるし。詩人が詩人を評したとも言える。

そして、中也の詩の一節も、確かに自由律俳句と言えば、そのように捉えることも出来る。

ちなみに、「蛇口の滴は、つと光り!」は、『在りし日の歌』に収録されている「閑寂」の一節。

いやはや、面白い。

村上護は、中原中也、小林秀雄と三角関係になった女優・長谷川泰子(はせがわ・やすこ、1904年~1993年)にインタビューして、『中原中也との愛 ゆきてかへらぬ』も編集し刊行している。

話を『私の上に降る雪は』に戻す。

予想以上に情報が入った内容。そして何より楽しい。

中原フクの人柄も良いのかも。生真面目であり、向学心もあり、都会っ子であり、視野が広い。

母親から子への愛情。ちょっとコミカルにも映る感じとか。

あとは、村上護の質問の仕方や話の運び方も、上手かったのかも。構成や編集も素晴らしいと思う。かなり素晴らしい本である。

まとめとして、『私の上に降る雪は』は、中原中也のファンには非常にオススメの本である。

書籍紹介

関連スポット

中原中也記念館

山口県山口市湯田温泉にある中原中也記念館。近くには中原中也誕生之地の石碑も。

公式サイト:中原中也記念館

中原中也の墓(中原家累代之墓)

山口県山口市吉敷中東にある「中原家累代之墓」と書かれた墓。その刻まれた文字は、中原中也が山口中学ニ年生の時に書かれたもの。

寿福寺

寿福寺は、神奈川県鎌倉市扇ヶ谷にある臨済宗建長寺派の寺院。中原中也は境内の借家に一時住んでいた。墓地には、俳人・高浜虚子(たかはま・きょし、1874年~1959年)や、作家・大佛次郎(おさらぎ・じろう、1897年~1973年)の墓も。

公式サイトは無い。

妙本寺

妙本寺は、神奈川県鎌倉市大町にある日蓮宗の本山。中原中也と文芸評論家・小林秀雄が、断絶していた関係を修復した場所。小林秀雄の『作家の顔』にある「中原中也の思い出」にも描かれている。

公式サイト:妙本寺

中原中也父謙助生誕之地

中原中也の父・謙助の生誕した場所である山口県宇部市棚井に建立された石碑。厚東郷土史研究会によるもの。