『詩と人生』荻原井泉水

荻原井泉水の略歴

荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい、1884年~1976年)
俳人、俳論家。本名は、幾太郎、後に藤吉。
東京都港区浜松町の生まれ。麻布中学の頃より俳句を作り始める。正則中学、第一高等学校を経て、1908年に東京帝国大学文科大学言語学科を卒業。
「層雲」を主宰し、自由律俳句で有名な俳人、尾崎放哉(おざき・ほうさい、1885年~1926年)や、種田山頭火(たねだ・さんとうか、1882年~1940年)らを育てる。

『詩と人生』の目次

1 自然・自己・自由
2 生命・生気・リズム
3 貫通するものは一なり
4 此の一筋につながる
5 生活の中に詩を
6 思いよこしま(邪)無し
7 日本の詩・短詩として
8 自己を自然の中に
9 夕を思ひ旦を思ふべし
10 人生観「奥の細道」
11 自然観「奥の細道」
12 “まこと”“不易流行”
13 詩は志なり詩は人なり
14 “風雅”の観念(雅と俗)
15 後に来る者を待つ
16 生を詩とす・詩を生とす
17 初めに詩ごころあり
18 風雅とツキナミ
19 封建思想と自由思想
20 大衆の中に詩を
21 大衆の詩として
22 全人的表現ということ
23 無一物中無尽蔵
24 道あるゆえに歩く
あとがき
さし絵索引

概要

1972年8月15日に第一刷が発行。潮文社。219ページ。ハードカバー。127mm×188mm。四六判。

1997年6月1日には、副題「自然と自己と自由と」を付した新装版『詩と人生』の単行本も出版されている。

本書で言及される人物を以下に。

松尾芭蕉(まつお・ばしょう、1644年~1694年)…俳諧師。伊賀国(三重県伊賀市)の出身。俳諧を「蕉風」と呼ばれる芸術性の高い句風として確立し、後世では俳聖として知られる。紀行文『おくのほそ道』が有名。

尾崎放哉(おざき・ほうさい、1885年~1926年)…俳人。本名は、尾崎秀雄(おざき・ひでお)。鳥取県鳥取市の生まれ。鳥取高等小学校を修了、鳥取県立第一中学校を卒業。第一高等学校を卒業。東京帝国大学法科大学政治学科を追試験で卒業。東洋生命保険(現在の朝日生命保険)を経て、朝鮮火災海上保険で勤務、後に免職。

種田山頭火(たねだ・さんとうか、1882年~1940年)…俳人。本名は、種田正一(たねだ・しょういち)。出家得度し、耕畝(こうほ)の名も。山口県防府市の生まれ。松崎尋常高等小学校尋常科、高等科を修了。私立周陽学舎を首席で卒業。県立山口尋常中学校を卒業。私立東京専門学校高等学校予科を卒業。早稲田大学大学部文学科を中退。

感想

種田山頭火や尾崎放哉の関連本を読んでいて、興味を持ったのが、その師匠である荻原井泉水。

略歴などを知りたいと思って『私の履歴書<第4集>』を読んでみた。

さらに深く知りたいと思って見つけたのが『詩と人生』

目次の前に、著者の全身写真、そして次のページに見開きで

心に
詩のある
人生をもて
君の
人生を
詩として書け

と書かれている。

いきなり、強い言葉が目に入ってくる。

しかも、尾崎放哉や種田山頭火という人物の師が、この発言をしている。

凄く説得力がある。一気に内容に興味が湧く。

「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫通するものは一なり」と言う通り、南山大師(弘法大師)の書もこれと貫通する。(P.32「4 此の一筋につながる」)

松尾芭蕉の言葉を受けて、荻原井泉水がさらに弘法大師・空海(くうかい、774年~835年)を引き合いに出している部分。

ここで、登場人物たちを整理して、列挙。

西行(さいぎょう、1118年~1190年)…武士、僧侶、歌人。俗名は、佐藤義清(さとう・のりきよ)。

宗祇(そうぎ、1421年~1502年)…連歌師。

雪舟(せっしゅう、1420年~1506年)…水墨画家、禅僧、画僧。「雪舟」は号で、諱は「等楊」(とうよう)と称した。

千利休(せんのりきゅう/せんりきゅう、1522年~1591年)…商人、茶人。

それぞれの一流の人物たち。そのような人物たちに加えて、弘法大師・空海。

古人の理念を理解し、現代人がさらに前進させることが重要であるという話。

さらに荻原井泉水の信条である「自然、自己、自由」も同じであると。

山路来て何やらゆかしすみれ草
旅をしてこそはじめて出会うことのできたような気持である。山路に疲れて、そこに脚と杖とを投げだしたとき、ふと目の前にすみれがさいていた。(P.65「8 自己を自然の中に」)

松尾芭蕉の作品の知識が少ないので、この句が有名なのかも分からないが、何となく好きな感じである。

松尾芭蕉、すみれ草。

ここで思い出したのが、数学者の岡潔(おか・きよし、1901年~1978年)。

第三高等学校理科甲類、京都帝国大学理学部を卒業。フランス留学にて、生涯の研究テーマとなる多変数複素関数論に出合う。

で、その研究の独創の手助けとなるのが、松尾芭蕉の俳諧であるとした。

特に、情緒を大切にした岡潔。
では、情緒とは何ですか? と問われて

「情緒とは、野に咲く一輪のスミレを美しいと思う心」

と答えたという。

このスミレは、松尾芭蕉の句からだったのか、と納得。

私はかつて――
好き果の好き木に実るがごとく、好き句は好き人に実る。
と書いたことがある。(P.104「13 詩は志なり詩は人なり」)

「果」は「このみ」と読む。ふり仮名もあるので、読みやすい。

『論語』「雍也第六」の「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」に近い感じか。

近いようで違うか。より一直線のようだな。

ここでは“好い人”という言葉も出てくる。誠実であり自己を磨いていく人といった主旨で定義している。

そこから、松尾芭蕉の門下生たち、いわゆる芭蕉十哲などへの批評が始まる。

宝井其角(たからい・きかく、1661年~1707年)…俳諧師。江戸(東京都)の生まれ。

服部嵐雪(はっとり・らんせつ、1654年~1707年)…俳諧師。江戸(東京都)もしくは淡路国(兵庫県南あわじ市)の生まれ。

向井去来(むかい・きょらい、1651年~1704年)…俳諧師。肥前国(長崎県長崎市)の生まれ。

内藤丈草(ないとう・じょうそう、1662年~1704年)…俳諧師。尾張国(愛知県犬山市)の出身。

などをはじめ、他にも弟子たちの名前が挙がる。

荻原井泉水が、明晰に分かりやすく区分していく。“好い人”か、そうでないかを。

めちゃくちゃ面白い。

従て俳句はリズムより一定の音律、即ち定形になり易い。定型となれば遊戯の具になる。啄木が自分の歌集に「悲しき玩具」と名づけたのは、此の事実を皮肉って言ったものである。(P.180「21 大衆の詩として」)

歌人・詩人の石川啄木(いしかわ・たくぼく、1886年~1912年)が登場。

荻原井泉水は、石川啄木と直接の交流もあった。だからこそ、この文章も真実味がある。

歌集『悲しき玩具』の由来が、まさかここで出てくるとは思わなかった。

石川啄木は、定型俳句に悲しみを見出していのか。そしてこの文章を書いているのが、自由律俳句を推進している荻原井泉水というのも重みがある。

詩の表現としては一定の「入れ物」を持たないのがほんとうである。「入れ物」がないゆえに詩の動機、発想、表現は自分の全身全霊をもってこれを受ける。「両手でうける」という気持である。(P.201「23 無一物中無尽蔵」)

先程の石川啄木と同様に、尾崎放哉についても言及。

「入れ物がない両手で受ける」という、侘しさを感じられる句。

だが、その奥には激しさというか、潔さというか、強さというか、勇敢さがあるということ。

そのような見方があったのか。きっと、荻原井泉水の中にも、激しさと強さがあるのだろう。この点を考察できるのだから。

さらにその後には、「定型的表現というものに対抗する、自由律俳句の原則を代弁している句」とも言えると書かれている。

此の山頭火は――「天、我を殺さずして詩を作らしむ、われ生きて詩を作らん、われみずからのまことなる詩」と書いている。(P.216「あとがき」)

種田山頭火の言葉を紹介している。こんなに熱い文章を残していたのか。知らなかった。

そして、「此の一日をたしかに自分のための一日だと受取るところに、自分の身のまわり、見れば詩はそこにある」と、荻原井泉水は続ける。

最後には、海藤抱壺(かいどう・ほうこ、1901年~1940年)の俳句で締めている。

「紫苑の花やきようという日を静かに生きよう」

前半は松尾芭蕉を中心に、後半は尾崎放哉や種田山頭火などについて、といった構成になっている。そのような人物たちに興味を持っている人や俳句に関心のある人には非常にオススメの本である。

書籍紹介

関連スポット

妙像寺

妙像寺は、東京都港区六本木にある日蓮宗の寺院。山号は法輪山。荻原井泉水の墓がある。海軍軍人・広瀬武夫(ひろせ・たけお、1868年~1904年)の記念碑も。

公式サイトは特に無い。

佛現寺

佛現寺は、静岡県伊東市にある日蓮宗の寺院。山号は海光山。荻原井泉水の句碑がある。

公式サイトは特に無い。