永田龍太郎の略歴
永田龍太郎(ながた・りゅうたろう、1930年~)
文芸評論家、出版者。
長野県の生まれ。東京大学を卒業。通信社記者を経て、1966年に出版社・永田書房を創立。1966年から英文学者の同人雑誌『詩と散文』(1950年創刊)の主宰者。
『散華抄』の目次
夏目漱石 無礼な妻
田山花袋 『百夜』の妻
永井荷風 人形の妻たち
谷崎潤一郎 三人の妻と物語の女
太宰治 に関わった妻たち
北村透谷 厭世詩家の妻
石川啄木 人生の闇を生き抜いた妻
斎藤茂吉 運命の妻
高村光太郎 智恵子という妻
尾崎放哉 捨てた筈の妻
種田山頭火 妻でない妻
荻原井泉水 馬鹿々々しき奥様
石橋秀野 俳諧の鬼女と化す
『散華抄』の概要
2001年11月6日に第一刷が発行。印刷は10月25日。301ページ。ハードカバー。127mm✕188mm。四六判。
副題は「妻でない妻」。背表紙には『評伝 散華抄―妻でない妻―』と記載。
登場人物たちは以下の通り。
夏目漱石(なつめ・そうせき、1867年~1916年)…小説家、英文学者。本名は、夏目金之助(なつめ・きんのすけ)。東京都新宿区の生まれ。帝国大学英文科(現在の東京大学)を卒業。
妻は、夏目鏡子(なつめ・きょうこ、1877年~1963年)、旧姓・中根(なかね)。
田山花袋(たやま・かたい、1872年~1930年)…小説家。本名は、田山録弥(たやま・ろくや)。群馬県館林市(当時の栃木県邑楽郡館林町)の生まれ。
妻は、田山利佐子(おおた・りさこ)、旧姓・太田(おおた)。
永井荷風(ながい・かふう、1879年~1959年)…小説家。本名は、永井壮吉(ながい・そうきち)。東京都文京区の生まれ。高等商業学校附属外国語学校清語科(現在の東京外国語大学)を中退。
妻は、斎藤ヨネ(さいとう・よね)、新巴家八重次(しんともえや・やえじ、1880年~1966年、本名は内田八重〔うちだ・やい〕、藤蔭静樹〔ふじかげ・せいじゅ〕の名も)。
谷崎潤一郎(たにざき・じゅんいちろう、1886年~1965年)…小説家。東京都中央区日本橋の生まれ。東京帝国大学国文科を中退。
妻は、石川千代子(いしかわ・ちよこ)、古川丁未子(ふるかわ・とみこ)、森田松子(もりた・まつこ、1903年~1991年)。
太宰治(だざい・おさむ、1909年~1948年)…小説家。本名は、津島修治(つしま・しゅうじ)。青森県五所川原市の出身。東京帝国大学仏文科を中退。
妻は、津島美知子(つしま・みちこ、1912年~1997年)、旧姓・石原(いしはら)。
愛人に、太田静子(おおた・しずこ、1913年~1982年)、山崎富栄(やまざき・とみえ、1919年~1948年)。
北村透谷(きたむら・とうこく、1868年~1894年)…詩人、評論家。本名は、北村門太郎(きたむら・もんたろう)。神奈川県小田原市の生まれ。東京専門学校(現在の早稲田大学)政治科を中退。
妻は、北村ミナ(きたむら・みな、1865年~1942年)、旧姓・石坂(いしざか)、名前の漢字表記に、美那も。
石川啄木(いしかわ・たくぼく、1886年~1912年)…歌人。本名は、石川一(いしかわ・はじめ)。岩手県盛岡市の出身。岩手県立盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)を中退。
妻は、石川節子(いしかわ・せつこ、1886年~1913年)、旧姓・堀合(ほりあい)。
斎藤茂吉(さいとう・もきち、1882年~1953年)…歌人、精神科医。旧姓・守谷(もりや)。山形県上山市の出身。東京帝国大学医科大学を卒業。
妻は、斎藤輝子(さいとう・てるこ、1895年~1984年)。
高村光太郎(たかむら・こうたろう、1883年~1956年)…詩人、彫刻家。本名は、高村光太郎(たかむら・みつたろう)。東京都台東区の出身。東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)彫刻科を卒業。
妻は、画家の高村智恵子(たかむら・ちえこ、1886年~1938年)、旧姓・長沼(ながぬま)。
尾崎放哉(おざき・ほうさい、1885年~1926年)…俳人。本名は、尾崎秀雄(おざき・ひでお)。鳥取県鳥取市の出身。東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。
妻は、尾崎馨(おざき・かおる、1892年~1930年)、旧姓・坂根(さかね)。
種田山頭火(たねだ・さんとうか、1882年~1940年)…俳人。本名は、種田正一(たねだ・しょういち)。山口県防府市の出身。早稲田大学大学部文学科を中退。
妻は、種田サキノ(たねだ・さきの、1989年~1940年)、旧姓・佐藤(さとう)。
荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい、1884年~1976年)…俳人、俳論家。本名は、幾太郎、後に藤吉(とうきち)。東京都港区浜松町の出身。東京帝国大学文科大学言語学科を卒業。
妻は、荻原佳子(桂子?、1894年~1923年)、旧姓・谷(たに)。荻原寿子、旧姓・芹沢(せりざわ)。
石橋秀野(いしばし・ひでの、1909年~1947年)…俳人。旧姓・藪(やぶ)。奈良県天理市の出身。文化学院文学部を卒業。
夫は文芸評論家の山本健吉(やまもと・けんきち、1907年~1988年)、本名は石橋貞吉(いしばし・ていきち)。
『散華抄』の感想
確か、荻原井泉水の関連した本などを探していたら、たまたま見つけたのが、この『散華抄』。
しかも、種田山頭火や尾崎放哉についても触れられている。
そして、何よりも夫婦論。
他の本で、種田山頭火や尾崎放哉の妻については多少の知識はあった。高村光太郎や石川啄木についても同様。
ただ荻原井泉水の妻については、全く知らなかったので興味が湧いて購入したというのも、一つの理由。
他にも、気になる小説家や詩人、歌人が載っていたからというのもある。
特に、荻原井泉水は、文章や作品から、そこまで妻に冷たいのかな、と思っていたが、最初の妻に対してはなかなか。
そして、自分が文章や作品で知っていたのは、二人目の妻の話だったという事が分かった。
まぁ、尾崎放哉や種田山頭火の師匠であるから、ある程度の同種のものがあるんだろうな、と何となく納得。
斎藤茂吉についても、面白かったな。
妻として見た場合の斎藤輝子。
精神科医で随筆家の斎藤茂太(さいとう・しげた、1916年~2006年)や、精神科医で小説家の北杜夫(きた・もりお、1927年~2011年、本名・斎藤宗吉〔さいとう・そうきち〕)といった子供たちから見た斎藤輝子。
それぞれの違い。
斎藤茂吉については、『鷗外と茂吉』という本で、かなり関心が高まったけれど、もっと色々と読んでみたい気がしている。
尾崎放哉や種田山頭火の奥さんの話も良かった。なるほどな。
あとは、この書籍で一気に興味を持ったのが石橋秀野。ちょっと色々と調べてみよう。
それでは、引用なども含めて内容を見ていく。
夏目漱石は、生涯において俳句は二千四百数十句あるが、荷風にも六百句を越える句がある。漱石に及ばないとしても、小説家の俳句としてはかなりの量である。荷風も、漱石と同じに、自分のはけ口を俳句によって見つけたのかもしれない。(P.65「永井荷風 人形の妻たち」)
永井荷風の章ではあるが、夏目漱石の生涯における俳句の数が記載されている。その数、2,400句以上。
これは親友である俳人・正岡子規(まさおか・しき、1867年~1902年)の影響が、かなり大きいとは思うけれど。
そして、永井荷風も600句以上である。はけ口としての俳句。
石川啄木も石橋秀野も、小説家を目指していたが、それぞれ短歌と俳句で才能が開花している。
自己認識と他者評価のズレみたなものか。自分も気をつけないといけないな。
それはともかく、荷風はなんといっても、小林秀雄の言を借りるまでもなく現代随一の文章家である。(P.66「永井荷風 人形の妻たち」)
これはあんまり知らなかった。永井荷風の文章は素晴らしいとのこと。
文芸評論家・小林秀雄(こばやし・ひでお、1902年~1983年)も高評価していたという。
もちろん著者の永田龍太郎も。だが永田龍太郎は、小説よりも特に永井荷風の日記を愛読していたらしい。『断腸亭日乗』とか読んでみようかな。
あまり知らなかったけれど、永井荷風の師匠は森鴎外(もり・おうがい、1862年~1922年)のようだ。森鴎外の関連本は結構、読んでいるけれど、永井荷風が出てきたことはあまりなかったような気がする。
ただ鴎外記念館に、鴎外が発表した「沙羅の木」を永井荷風が揮毫している碑文があるのは知っていた。
永井荷風も掘っていこうと思う。
とくに、ヴァイオリンもピアノも弾き、英語をたしなんだ明朗で優しく、素直な近代的乙女であった節子のこれからを考えると、ただただ、胸の痛みを感ぜざるを得ない。(P.140「石川啄木 人生の闇を生き抜いた妻」)
石川啄木の妻、石川節子は盛岡女学校を卒業している。
家柄も良い。ただ上記のようにかなり教養の溢れる感じだったとは驚き。
プライドの高い石川啄木を、どのように扱っていたのだろうか。切ないね。
そう言えば、石川啄木は森鴎外とも交流を持っていた。という事は、永井荷風とも多少の面識はあったのだろうか。
確か荻原井泉水と石川啄木は交流があったみたいだけれど。
この辺りの人間関係も面白い。というよりも、森鴎外に関しては、森鴎外が偉人過ぎて交流がめっちゃ広いというのもあるかもしれないが。
智恵子が死んだ昭和十三年十月五日は、光太郎が五カ月ぶりに見舞いに行った日であった。(P.212「高村光太郎 智恵子という妻」)
「五カ月ぶり」というのは、間違いではなく、しっかりと記録に残っているとのこと。
「レモン哀歌」の<そんなにもあなたはレモンを待ってゐた>というのは、光太郎を待っていた、と永田龍太郎は解説。
悲し過ぎるでしょ。見舞いに行けない悲しみ、というか弱さも分かるような気もするし。
智恵子の来てほしい、見てほしくない、来てほしくないという気持ちも分かるような気もするし。
お互いの相反する気持ち。切ないね。
そんなおり、光太郎に十和田湖畔の記念像の話がもちあがった。十和田湖の国立公園指定十五周年を記念して、当時青森県知事の津島文治(太宰治の実兄)によって計画された。知事より相談を受けた谷口吉郎が佐藤春夫に相談し、佐藤春夫の意見で高村光太郎に依頼することになった。(P.216「高村光太郎 智恵子という妻」)
何だか情報が大渋滞である!
整理する。
「そんなおり」というのは、高村光太郎は、戦意高揚の文章を書いたことについて反省をして、戦後に田舎で自炊していた。そして依然として世間から非難を受けていた状況。
津島文治(つしま・ぶんじ、1898年~1973年)…実業家、政治家、地主。青森県五所川原市の出身。五所川原農学校、早稲田大学政治経済学部を卒業。太宰治の兄。
谷口吉郎(たにぐち・よしろう、1904年~1979年)…建築家。石川県金沢市の出身。第四高等学校を経て、東京帝国大学工学部建築学科を卒業。
佐藤春夫(さとう・はるお、1892年~1964年)…小説家、詩人。和歌山県新宮市の出身。新宮中学校を卒業、慶應義塾大学部文学科を中退。
佐藤春夫は、太宰治とも高村光太郎とも交流を持っていたから、かなりのキーパーソンということか。
ちなみに、佐藤春夫は永井荷風を師として仰いでいた。面白な。
話を十和田湖畔の記念像に戻す。
最初は、その依頼を断った高村光太郎。だが佐藤春夫の再三の説得によって受ける。
その時に、高村光太郎は「智恵子を彫る」と言ったという。
高村光太郎と智恵子のことで言えば、詩人で小説家の室生犀星(むろう・さいせい、1889年~1962年)の『我が愛する詩人の伝記』でも記載があった。
高村光太郎が益々好きになったな。
というわけで、掲載されている人物に関心のある人、文学者たちの夫婦論を知りたい人には非常にオススメの本である。
関連本などを探してみたら、面白そうなものが沢山あったので、読み進めていこうと思う。
書籍紹介
関連書籍
関連スポット
漱石山房記念館
東京都新宿区早稲田南町にある夏目漱石を記念した博物館。夏目漱石は新宿の生まれ育ちで、1916年に亡くなるまでの9年間を現在の新宿区早稲田南町で過ごした。
公式サイト:漱石山房記念館
田山花袋記念文学館
群馬県館林市城町にある田山花袋を記念した文学館。
公式サイト:田山花袋記念文学館
市川市文学ミュージアム:永井荷風
千葉県市川市鬼高にある文学博物館。永井荷風をはじめ市川市にゆかりのある文学者や作品などを紹介。
公式サイト:市川市文学ミュージアム
谷崎潤一郎記念館
兵庫県芦屋市伊勢町にある谷崎潤一郎の記念館。
公式サイト:谷崎潤一郎記念館
太宰治記念館「斜陽館」
青森県五所川原市金木町にある太宰治の生家を利用し記念館。
公式サイト:太宰治記念館「斜陽館」
小田原文学館:北村透谷
神奈川県小田原市南町にある文学館。北村透谷をはじめ、小田原にゆかりのある文学者や作品を紹介。
公式サイト:小田原文学館
石川啄木記念館
岩手県盛岡市渋民にある石川啄木を記念した文学館。
公式サイト:石川啄木記念館
斎藤茂吉記念館
山形県上山市北町にある斎藤茂吉の記念館。
公式サイト:斎藤茂吉記念館
高村光太郎記念館
岩手県花巻市太田にある高村光太郎の記念館。
公式サイト:高村光太郎記念館
智恵子記念館
福島県二本松市油井漆原町にある智恵子の記念館。
公式サイト:智恵子記念館
尾崎放哉記念館
香川県小豆郡土庄町(しょうずぐん・とのしょうまち)にある尾崎放哉の記念館。尾崎放哉の終焉の地であり、南郷庵(みなんごあん)のあった場所。
公式サイト:尾崎放哉記念館
山頭火ふるさと館
山口県防府市宮市町にある種田山頭火の記念館。
公式サイト:山頭火ふるさと館
妙像寺:荻原井泉水
妙像寺は、東京都港区六本木にある日蓮宗の寺院。山号は法輪山。荻原井泉水の墓がある。
公式サイトは特に無い。
無量寿院:石橋秀野
福岡県八女市本町にある浄土宗の寺院。石橋秀野や山本健吉の墓がある。山本健吉(本名・石橋貞吉)の父親・石橋忍月(いしばし・にんげつ、1865年~1926年)の出身地。
公式サイト:無量寿院
福岡県八女市立図書館・山本健吉資料室:石橋秀野
福岡県八女市立図書館にある山本健吉資料室。石橋秀野の遺品等も展示。
公式サイト:山本健吉資料室