『兄中原中也と祖先たち』中原思郎

中原思郎の略歴

中原思郎(なかはら・しろう、1913年~1983年)
詩人・中原中也(なかはら・ちゅうや、1907年~1937年)の弟。中原家の四男。
石川県金沢市の生まれ。山口県山口市の育ち。京都帝国大学法学部を卒業。宇部興産に勤務。

『兄中原中也と祖先たち』の目次

口絵(中原中也肖像・系図ー家譜)
はしがき
兄 中原中也
乙女峠
乳母車
長兄
山羊
サン・グラス
父方・母方
原級
帰郷
阿武川
結婚
屋根
空気銃

聖体
詩碑
祖先たち
草創時代
庄屋時代
武家時代と中原五族
本宗中原家
下殿中原家
田中中原家
萩中原家
新家中原家
維新前後
近い祖先
中原助之
引頭スエ
中原政熊
中原コマ


あとがき

概要

1970年7月15日に第一刷が発行。審美社。235ページ。ハードカバー。128mm×182mm。B6判。

この本は、二つの篇からなりたっている。「兄中原中也」と「祖先たち」の二つである。
前者は回想文らしく、後者は史誌らしく書いた。(P.Ⅰ 「はしがき」)

本のタイトル、目次、また上記の「はしがき」にある通り、二部構成の本書。

「兄中原中也」(11~84ページ)に関しては、中原中也の生涯や、さまざまなエピソードが詳細に語られる。

「祖先たち」(87~233ページ)については、本当に史料といった感じで、中原家の周辺の人々が細かく紹介されている。

以下、登場人物たちの紹介。

中原中也(なかはら・ちゅうや、1907年~1937年)…詩人。開業医の長男。山口県山口市の生まれ。旅順、広島、金沢を経て、山口の下宇野令小学校に入学。山口師範附属小学校に転校。山口県立山口中学校に入学。京都の立命館中学校に転校。日本大学予科、アテネ・フランセ、中央大学予科を経て、東京外国語学校専修科仏語部を修了。詩集『山羊の歌』『在りし日の歌』。訳詩集に『ランボオ詩集』

中原謙助(なかはら・けんすけ、1876年~1928年)…軍医・開業医。中原中也の父。山口県宇部市の生まれ。出生時の姓は、小林。後に、野村、柏村、中原と変わる。棚井小学校を卒業。上京し、母親の実家・藤井家の従兄である眼科医・藤井幸八の世話になる。東京医学専門学校・済生学舎で実地試験を受け、医師資格試験に合格、医師免許を取得。1896年、最年少の20歳で合格。

中原フク(なかはら・ふく、1879年~1980年)…中原中也の母。神奈川県横浜市の生まれ。山口県山口市の育ち。横浜市の老松小学校から良城尋常小学校に転入、卒業。良城高等小学校、山口県立高等女学校を卒業。1900年に謙助と結婚。

中原助之(なかはら・すけゆく、1849年~1886年)…中原フクの父。中原中也の母方の祖父。山口県山口市の生まれ。長男。幼名、寿之助。ジュノさんと呼ばれる。郷校・憲章館で学ぶ。上京し、三田塾の教師の家に書生として住み込み英語を学ぶ。工部省に就職。通訳、翻訳になど、外国語、外国人に関わる仕事を担当。1875年に結婚。1876年に生まれた長女・昇(ショウ)は、2歳で逝去。1879年に、次女・フクが生まれる。1886年に助之は横浜の病院で亡くなる。

引頭スエ(いんどう・すえ、1857年~1932年)…中原フクの母。中原中也の母方の祖母。山口県山口市の生まれ。剣一筋の小野家に生まれる。次女。長井忠左衛門の寺子屋で学ぶ。1875年に助之と結婚。1886年に助之が逝去し、山口に戻る。
1891年9月10日に次女・フクを、政熊の養女に。1891年10月23日、旧毛利萩本藩士・引頭祐一(いんどう・ゆういち、1843年~1901年)の後妻となる。税務署長を歴任した人物。祐一が無くなった後、地元・山口の吉敷に戻り、1907年3月8日に山口県立山口高等女学校の舎監に招かれ、嘱託教員に。孫・中原中也が生まれ、11月3日に謙介が家族で任地の満州・旅順に向かうため、10月末で女学校を辞めて、子守りとして船に乗り、11月6日に旅順に。

中原政熊(なかはら・まさくま、1854年~1921年)…開業医。中原助之の弟。親戚に医者が多く、また郷校・憲章館で英学、蘭学によって医学の基礎を学んでいたことから医学を志す。大内の伊藤生民(いとう・せいみん、1832年~没年不詳)の伊藤医院の門に入り、書生となって医術と漢学を学ぶ。大歳の山下医師、防府の福田医師のもとで更に研修をしたとされる。医家書生時代が約8年続き、1878年の春頃に、大阪で文部省の医師検定試験を受けて合格し、医師に。

中原コマ(なかはら・こま、1863年~1935年)…中原政熊の妻。吉敷郡大内氷上の真光院の寺臣(てらざむらい)の田辺助作の長女として生まれる。1879年に政熊と恋愛結婚。伊藤医院の頃に出会ったと推測。カトリック信者。後に夫にも勧めて、入信させる。14歳の時に、助作の弟で医師の玄齢(1826年頃~1900年)の元で、修行している。

感想

中原中也が好きである。

もともと知ったのは、ブルーハーツというバンドのギタリスト・真島昌利(ましま・まさとし、1962年~)が、中原中也の大きな影響を受けたということを知ったから。

ちなみに、真島昌利は一時期、中原中也の「宿酔」(ふつかよい)の詩と、顔が描かれたTシャツを着ていたこともある。

そんなわけで、中原中也に入っていった。詩集やら評論などを読み、山口県山口市の中原中也記念館に行ったり、神奈川県鎌倉市の妙本寺に訪れたりも。

さらに深く色々と知りたいと思って、調べたら見つけたのがこの『兄中原中也と祖先たち』

中也は私たち弟に対して一段高いところにいる兄であった。それにはそれだけの理由がある。中也は中原家の次代の投手として、大人たちから目的意識をもった長兄教育をうけていたのである。(P.22「兄中原中也:長兄」)

当時の家族制度というか、家を継ぐ者としての長兄教育。さらに家柄としては、医師の家系。さらに、実際に中原中也は成績優秀で、神童として評判が良かった。

この辺りは、陸軍軍医であり、小説家でもあった森鴎外(もり・おうがい、1862年~1922年)と同様といった感じか。

ちなみに、中原中也と森鴎外は、直接的な関係性はないが、実は父親・中原謙助は森鴎外と多少の交流はあったようだ。

中原謙助は、軍医学校に通って、陸軍軍医にもなっている。軍医学校に通っていた当時の校長は、森鴎外である。

また文学関連にも興味を持っていた中原謙助は、森鴎外の生家がある島根県鹿足郡津和野町にも訪れている。

山口と島根は、そこまで遠くはない、という距離感もあったかも。

結局、私たち兄弟のうち、資質に恵まれていた中也だけが習字をものにし、弟は全部だめで普通以下の悪筆である。(P.28「兄中原中也:長兄」)

祖母のスエは、寺子屋で手習いを覚えた。そして、中原中也の両親に熱く書道を奨励。当然に、孫たちにも。

そして、何故か父親は不愉快なことがあると、子供たちに習字をさせた。

中也だけが素質があったのか上手い。中原家累代之墓の文字は中原中也の筆跡というのは、凄い。

湯田温泉の町が、色街であったり、遊びが盛んな場所であったから、中原中也は学校から帰ると家から出てはいけないとなっていた。そのため、家の中で出来ることが得意になったというのもある。

私はもちろん初対面の人ばかりで、賢そうな人たちが難しい話をするので小さくなっていた。小林さんから「貴様」とか「てめえ」とかいわれえ縮みあがった記憶がある。結局、「田舎にけえって月給取にでもなれ」と宣告された。中也に不肖の弟と看破されたわけで、その眼力には敬服する。(P.77「兄中原中也:死」)

文芸評論家・小林秀雄(こばやし・ひでお、1902年~1983年)が登場。

といっても、この著者である中原思郎は、この時は京都帝国大学法学部の学生である。賢さは同等だとは思うが、芸術や文学の話だったから、そのような発言になったのかも。

中原中也の弟で言えば、家庭環境というか、血筋というか、全員それなりの、というか、結構な高学歴である。

次男・亜郎(つぐろう、1910年~1915年)は、早逝のため除外するとしても。

三男・恰三(こうぞう、1911年~1931年)は、日本医科大学予科に入学している。

四男・思郎(しろう、1913年~1983年)は、京都帝国大学法学部を卒業。

五男・呉郎(ごろう、1916年~1975年)は、長崎医科大学を卒業し医師に。

六男・拾郎(じゅうろう、1918年~2003年)は、早稲田大学を卒業。

母親のフクも学業に関して非常に優秀で、山口県立高等女学校を卒業しているといった当時の女性としては、かなりの高学歴であるのもポイントかもしれない。

この本には、写真や資料が豊富なのも面白い。成績表なども掲載されている。

医師の系譜、キリスト教カトリック、などの周辺環境も、なかなか興味深い。母方の祖父は、英語の通訳をしている。この辺りも凄いな。何らかの語学的遺伝的影響とかも考えてしまう。

家系図があるのも、由緒ある家柄を伝えている気がするし。他にも、兄弟ならではの話があったり、小林秀雄や小説家・大岡昇平(おおおか・しょうへい、1909年~1988年)の話も少しだけ出てきたり。

ついでに書いておくと、大岡昇平は後に野間文芸賞受賞の評論『中原中也』を書いている。

「空気銃」の舞台となった、神奈川県鎌倉市の寿福寺の話とかも良かった。思わず、直ぐに行ってしまったからな。

中原中也に少し興味のある人というよりは、ガッツリと中原中也について知りたい、コアなファンなら楽しめる本というが妥当なところかな。

中原中也が大好きという人には、非常にオススメの一冊である。

書籍紹介

関連スポット

中原中也記念館

山口県山口市湯田温泉にある中原中也記念館。近くには中原中也誕生之地の石碑も。

公式サイト:中原中也記念館

中原中也の墓(中原家累代之墓)

山口県山口市吉敷中東にある「中原家累代之墓」と書かれた墓。その刻まれた文字は、中原中也が山口中学ニ年生の時に書かれたもの。

寿福寺

寿福寺は、神奈川県鎌倉市扇ヶ谷にある臨済宗建長寺派の寺院。中原中也は境内の借家に一時住んでいた。墓地には、俳人・高浜虚子(たかはま・きょし、1874年~1959年)や、作家・大佛次郎(おさらぎ・じろう、1897年~1973年)の墓も。

公式サイトは無い。

妙本寺

妙本寺は、神奈川県鎌倉市大町にある日蓮宗の本山。中原中也と文芸評論家・小林秀雄が、断絶していた関係を修復した場所。小林秀雄の『作家の顔』にある「中原中也の思い出」にも描かれている。

公式サイト:妙本寺

中原中也父謙助生誕之地

中原中也の父・謙助の生誕した場所である山口県宇部市棚井に建立された石碑。厚東郷土史研究会によるもの。