『海の旅路 中也・山頭火のこと他』中原呉郎

中原呉郎の略歴

中原呉郎(なかはら・ごろう、1916年~1975年)
医師。詩人の中原中也(なかはら・ちゅうや、1907年~1937年)の弟。中原家の五男。
山口県山口市の出身。山口中学校、長崎医科大学を卒業。陸軍軍医中尉。長崎大学風土病研究所で細菌学を学ぶ。日本郵船で船医として勤務。1959年5月から1961年6月まで、東京都の多磨全生園に、1963年1月から2年間、静岡県の駿河療養所に勤務。

『海の旅路 中也・山頭火のこと他』の目次


故郷の中原中也
三代の歌
フク女覚書

京鹿子娘道成寺
小説まで
宗谷の歌
桃庵覚書
紫陽花
蘭学のころ
ヨハネ伝第八章注釈補遺

旅人とわが名呼ばれん
海の旅路
俳人山頭火のこと他
四日間

概要

1976年6月12日に第一刷が発行。昭和出版。302ページ。ハードカバー。127mm×188mm。四六判。

タイトルは『海の旅路』。副題は「中也・山頭火のこと他」。

中也と山頭火については、以下に。

中原中也(なかはら・ちゅうや、1907年~1937年)…詩人。開業医の長男。山口県山口市の生まれ。旅順、広島、金沢を経て、山口の下宇野令小学校に入学。山口師範附属小学校に転校。山口県立山口中学校に入学。京都の立命館中学校に転校。日本大学予科、アテネ・フランセ、中央大学予科を経て、東京外国語学校専修科仏語部を修了。詩集『山羊の歌』『在りし日の歌』。訳詩集に『ランボオ詩集』

種田山頭火(たねだ・さんとうか、1882年~1940年)…俳人。本名は、種田正一(たねだ・しょういち)。出家得度し、耕畝(こうほ)の名も。山口県防府市の生まれ。松崎尋常高等小学校尋常科、高等科を修了。私立周陽学舎を首席で卒業。県立山口尋常中学校を卒業。私立東京専門学校高等学校予科を卒業。早稲田大学大学部文学科を中退。

目次にある通り、三部構成。Ⅰが中原中也について、Ⅱが中原呉郎の随筆と小説、Ⅲが種田山頭火について、となっている。

目次には記載がないが「後記」として、中原呉郎の妻の中原ふさえが文章を書いている。その中にも書かれている通り、この本の完成時には亡くなっている。というよりも、遺作集といった形である。

装画は、愛媛県大洲市出身の彫刻家・イラストレーターである村上保(むらかみ・たもつ、1950年~)。

以下、中原家の主要人物たち。

中原謙助(なかはら・けんすけ、1876年~1928年)…軍医・開業医。中原中也の父。山口県宇部市の生まれ。出生時の姓は、小林。後に、野村、柏村、中原と変わる。棚井小学校を卒業。上京し、母親の実家・藤井家の従兄である眼科医・藤井幸八の世話になる。東京医学専門学校・済生学舎で実地試験を受け、医師資格試験に合格、医師免許を取得。1896年、最年少の20歳で合格。

中原フク(なかはら・ふく、1879年~1980年)…中原中也の母。神奈川県横浜市の生まれ。山口県山口市の育ち。横浜市の老松小学校から良城尋常小学校に転入、卒業。良城高等小学校、山口県立高等女学校を卒業。1900年に謙助と結婚。

中原助之(なかはら・すけゆく、1849年~1886年)…中原フクの父。中原中也の母方の祖父。山口県山口市の生まれ。長男。幼名、寿之助。ジュノさんと呼ばれる。郷校・憲章館で学ぶ。上京し、三田塾の教師の家に書生として住み込み英語を学ぶ。工部省に就職。通訳、翻訳になど、外国語、外国人に関わる仕事を担当。1875年に結婚。1876年に生まれた長女・昇(ショウ)は、2歳で逝去。1879年に、次女・フクが生まれる。1886年に助之は横浜の病院で亡くなる。

引頭スエ(いんどう・すえ、1857年~1932年)…中原フクの母。中原中也の母方の祖母。山口県山口市の生まれ。剣一筋の小野家に生まれる。次女。長井忠左衛門の寺子屋で学ぶ。1875年に助之と結婚。1886年に助之が逝去し、山口に戻る。1891年9月10日に次女・フクを、政熊の養女に。1891年10月23日、旧毛利萩本藩士・引頭祐一(いんどう・ゆういち、1843年~1901年)の後妻となる。税務署長を歴任した人物。祐一が無くなった後、地元・山口の吉敷に戻り、1907年3月8日に山口県立山口高等女学校の舎監に招かれ、嘱託教員に。孫・中原中也が生まれ、11月3日に謙介が家族で任地の満州・旅順に向かうため、10月末で女学校を辞めて、子守りとして船に乗り、11月6日に旅順に。

感想

中原家の四男である中原思郎(なかはら・しろう、1913年~1983年)の『兄中原中也と祖先たち』を読んで、他にも兄弟が中原中也について、本を出していることを知る。

しかも中原中也だけではなく、俳人の種田山頭火とも交流があったという。というわけで、購入したのがこの『海の旅路 中也・山頭火のこと他』

「風景を眺める時、すぐに描写しようとしてはならない。体に感じていれば好い」(P.8「故郷の中原中也」)

文学に興味を持っていた弟・呉郎に対しての中原中也の言葉。兄弟の中では、一番気が合っていたとも著者が書いている。

詩想を練っている感じなのだろうか。詩人の鋭敏な感覚、感受性が窺い知れる。

「本物の言葉は誰にも理解出来るものなんだよ。芭蕉が分かる様にね」(P.11「故郷の中原中也」)

中原中也に関する文章で、俳諧師・松尾芭蕉(まつお・ばしょう、1644年~1694年)が出てきた記憶があまりない。

分かりやすさ、という点で松尾芭蕉を評価していたのか。まぁ、松尾芭蕉なら当然か。徘聖とも呼ばれるし。

正岡子規(まさおか・しき、1867年~1902年)くらいか、松尾芭蕉を批判したのは。

現代でも愛されて続けている中原中也の言葉だけに、かなりの信憑性がある。

とまれ兄の生涯を思って何時も心に教えられるのは、妥協せず誤魔化さず、まっしぐらに生きろということである。(P.11「故郷の中原中也」)

文学者や評論家ではなく、身内のさらに文学に興味のある、ロジックもしっかりした医者でもある、著者の文章は味わい深く、また読みやすい。

文学者や評論家とは少し異なる視点も新鮮。

兄・中原中也への愛情というか、温かい眼差し、尊敬、畏敬というものも感じられる。

もちろん、中原中也のメッセージも熱いものがある。

小学校は抜群の成績であった。謙助は、湯田が色町で環境が悪いと言って、学校から帰った中也を、一歩も外へ出さなかった。中也はついに自転車にも乗れず、泳ぎも出来なかった。(P.35「三代の歌」)

父親の謙助は、中原中也に期待を掛け、そして束縛していた。

自転車に乗れず、また泳ぎが出来なかったのは知らなかった。その代わりに、家の中で可能な学校の勉強、習字、絵などが得意だったのだろう。

実際に、山口中学ニ年生の時に習字で書いた「中原家累代之墓」という中原中也の文字は、墓石に刻まれて現在も残っている。

また室内で、自由に自分の空想を羽撃かせていたのかも。まぁ、色々と屈折するものがあったんだろうな。

どうしても一人は医者にしたいと思い、三男は日本医大の予科に入れた。頭の良かった四男は自由に楽に勉強して高校の文科から京都の法科に入った。三男は余り頭の好い方ではなかったが、フクに似て努力家で、一生懸命勉強して医科に入ったのであった。(P.62「フク女覚書」)

中原中也は、山口中学に入学するが、既に文学に目覚めていて、また医者になるつもりもなく、学業が疎かになっていく。そして、三年時に落第。1923年のこと。

その後、1928年にはフクの夫であり、中原中也の父親で医者の謙助が亡くなる。

医者の家柄ということもあり、フクは子供の中から誰かを医者にしたいと願う。ちなみに、ここで次男ではなく三男が出てくるのは、次男・亜郎(つぐろう、1910年~1915年)は夭逝しているため。

三男が無事に日本医大の予科に入学するが、三男・恰三(こうぞう、1911年~1931年)も、1931年の学生の時に亡くなってしまう。

五男は文科志望であった。フクにいわれるままに理科に入って見て、数学や物理に弱く、それらの勉強はつらかった。小学校の五年頃から小説を読み、頭が少し毒されていたのかも知れない。(P.63「フク女覚書」)

まるで他人事のように書いているが、この五男とは、筆者である中原呉郎のこと。もともと文学などが好きだったが、医者を目指すことになる。

実際に長崎医科大学を卒業して、医者になっているのも凄いけれど。

基本的に、家系全般、頭が良いというのもあり、高学歴であるというのも見逃せない点。

次に種田山頭火の部分から。

青春の一時期を共に暮らした種田山頭火の影響が私の肌には深く浸み込んでいるようであた。山頭火の俳句の生涯には、一貫した放浪の精神が流れていたようであった。旅に生き、旅に死んだ俳人山頭火を、私は常に自分の行動に意識して生きて来た。(P.244「旅人とわが名呼ばれん」)

俳人・種田山頭火に対する物凄い入れ込みよう。共感と崇敬といった感じ。

著者は開業医として働いていたが、さまざまな問題に直面して、心に多くの澱が淀んでいたような時期の話の合間にある文章。

私は山陽線小郡駅の小郡町の山ふところの、其中庵の終り頃から、山口市湯田温泉にあった風来居の終りまで、山頭火さんの五十四歳の夏から五十五歳の秋までを、ほとんど毎日と言ってもよいほど、大学時代の夏休みや春休みの頃には行って、多くの場合、ともに酒を飲んだ。(P.283「俳人山頭火のこと他」)

1936年~1937年くらいの話。

著者は、種田山頭火の俳句よりも、種田山頭火という人間の魅力に惹き込まれていたという。

確かに種田山頭火は、人間的な魅力があるように感じる。

自由律俳句の俳人として、種田山頭火と対比される尾崎放哉(おざき・ほうさい、1885年~1926年)。尾崎放哉と比べるならば、種田山頭火の方が、人が集まってくる気はする。人柄や、その作品からも何となく窺える。

ただ種田山頭火は尾崎放哉のことが好きで、尊敬していたけれど。

著者は医学を学びながら、種田山頭火と接していたのか。なかなか面白いエピソード。

シンプルに、詩人・中原中也の弟が、俳人・種田山頭火と交流しているのが凄いけれど。

「日本語の最高・最上・最善の表現をするのです」(P.285「俳人山頭火のこと他」)

種田山頭火の言葉のようだ。めちゃくちゃ格好良い。

酒は本当に好きだったみたいだな。尾崎放哉は、ただただ心の鬱憤を紛らわすために酒を飲んでいた感じだけど。

種田山頭火の方が、幸福になるために飲んでいた比重が大きそう。もちろん、鬱憤を紛らわす側面もあったのだろうけれど。

その他に続いて、種田山頭火がその昔、ロシア人の評論を翻訳したことがあったという話も。

種田山頭火って、ロシア語とかも出来るのか。この辺りは真偽不明だけれど、種田山頭火なら本当っぽいな。

中原中也と種田山頭火が好きな人には非常にオススメの本である。

書籍紹介

関連スポット

中原中也記念館

山口県山口市湯田温泉にある中原中也記念館。近くには中原中也誕生之地の石碑も。

公式サイト:中原中也記念館

中原中也の墓(中原家累代之墓)

山口県山口市吉敷中東にある「中原家累代之墓」と書かれた墓。その刻まれた文字は、中原中也が山口中学ニ年生の時に書かれたもの。

寿福寺:中原中也

寿福寺は、神奈川県鎌倉市扇ヶ谷にある臨済宗建長寺派の寺院。中原中也は境内の借家に一時住んでいた。墓地には、俳人・高浜虚子(たかはま・きょし、1874年~1959年)や、作家・大佛次郎(おさらぎ・じろう、1897年~1973年)の墓も。

公式サイトは無い。

妙本寺:中原中也

妙本寺は、神奈川県鎌倉市大町にある日蓮宗の本山。中原中也と文芸評論家・小林秀雄(こばやし・ひでお、1902年~1983年)が、断絶していた関係を修復した場所。小林秀雄の『作家の顔』にある「中原中也の思い出」にも描かれている。

公式サイト:妙本寺

中原中也父謙助生誕之地

中原中也の父・中原謙助(なかはら・けんすけ、1876年~1928年)の生誕した場所である山口県宇部市棚井に建立された石碑。厚東郷土史研究会によるもの。

山頭火ふるさと館

種田山頭火の生れた山口県防府市(ほうふし)にある文化施設。

公式サイト:山頭火ふるさと館

報恩寺:種田山頭火

1924年に種田山頭火が住み込んだ熊本県熊本市中央区にある曹洞宗の寺院。

種田山頭火が出家得度した耕畝の名前の句碑がある。実際に参拝したことがある。非常にコンパクトな寺院であり、コアなファン以外には積極的にはオススメはできないかも。

公式サイトは特に無い。

瑞泉寺・味取観音堂:種田山頭火

1925年に種田山頭火が堂守となった熊本県熊本市北区にある曹洞宗の寺院。

公式サイトは特に無い。

其中庵:種田山頭火

1932年に種田山頭火が移り住んだ山口県山口市小郡にある庵。近くには其中庵休憩所も。

実際に訪問したことがある。新山口駅から、のんびりと散歩に良い距離。小高い丘の上で、町並みを眺望できる場所。

公式サイト:其中庵

一草庵:種田山頭火

愛媛県松山市御幸にある種田山頭火の終焉の地。1939年に結庵、後に一草庵と呼ばれる。

公式サイト:一草庵