『放哉と山頭火』渡辺利夫

渡辺利夫の略歴

渡辺利夫(わたなべ・としお、1939年~)
経済学者、作家。
山梨県立甲府第一高等学校を卒業。慶應義塾大学経済学部を卒業。慶應義塾大学大学院経済学研究科修士課程、博士後期課程を満期取得退学。後に経済学博士を取得。

尾崎放哉の略歴

尾崎放哉(おざき・ほうさい、1885年~1926年)
俳人。
本名は、尾崎秀雄(おざき・ひでお)。
鳥取県鳥取市の生まれ。鳥取高等小学校を修了、鳥取県立第一中学校を卒業。第一高等学校を卒業。東京帝国大学法科大学政治学科を追試験で卒業。
東洋生命保険(現在の朝日生命保険)を経て、朝鮮火災海上保険で勤務、後に免職。
荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい、1884年~1976年)が主宰する俳句誌「層雲」に参加。

種田山頭火の略歴

種田山頭火(たねだ・さんとうか、1882年~1940年)
俳人。
本名は、種田正一(たねだ・しょういち)。出家得度し、耕畝(こうほ)の名も。
山口県防府市の生まれ。松崎尋常高等小学校尋常科、高等科を修了。私立周陽学舎を首席で卒業。県立山口尋常中学校を卒業。私立東京専門学校高等学校予科を卒業。早稲田大学大学部文学科を中退。
荻原井泉水が主宰する俳句誌「層雲」に参加。

『放哉と山頭火』の目次

尾崎放哉
コスモスの花に血の気なく
青草かぎりなくのびたり
脱落
つくづく淋しい
一日物云わず
たつた一人になり切つて
禁酒の酒がこぼれる
障子あけて置く
墓所山
夜の白湯
春の山

種田山頭火
洞のごと沈めり
泥濘ありく
関東大震災
観音堂
炎天をいただいて
放哉墓参
波音遠くなり
何でこんなに淋しい
ほほけたんぽぽ
あるいてもあるいても
雲へ歩む

あとがき
尾崎放哉年譜
種田山頭火年譜

概要

2015年6月10日に第一刷が発行。ちくま文庫。289ページ。文庫書き下ろし。

同時代を生きた自由律俳句の俳人である尾崎放哉と種田山頭火。その二人の放浪の生涯を描いた伝記文学。

副題は「死を生きる」。

著者の渡辺利夫は、経済学者であるが、この作品の他にも『種田山頭火の死生』という書籍を出版している。

また福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち、1835年~1901年)については『士魂』後藤新平(ごとう・しんぺい、1857年~1929年)については『後藤新平の台湾』という著作もある人物。

冷静な視点で、尾崎放哉と種田山頭火の生き方、死に方が描かれた作品。

二人の詳細の年譜が掲載されているのも大きな特徴である。

感想

尾崎放哉と種田山頭火について、非常に上手くまとめ上げられている作品。

前半は、尾崎放哉で、後半は種田山頭火という二部構成。

物語的であり、とても読みやすく面白い。ただ、著者特有の言い回しや、漢字の使い方などに少し戸惑う事もあったけれど。

尾崎放哉。

やはり、大学卒業後の失恋が大きな挫折か。澤芳衛(さわ・よしえ、1886年~1963年)との結婚を反対されたこと。相思相愛のようだったけれど、芳衛の兄で医師でもある人物からの近縁の結婚の危険性による反対。

その後の仕事も、それなりに出来た感じ。ただ、厭世観が強い。感受性も強い。

鳥取県第一中学校第三学年の14歳の頃から俳句を始めていたのは、なるほど、と思った。

酒に飲まれて、辛辣な意見を相手に言い放ってしまう。生真面目的な部分の屈折した発露でもあるのか。

ただ、少し愛嬌が無いのが残念である。種田山頭火も、確かに抑鬱的で厭世観を持て余しているが、何となく愛嬌のある感じ。

種田山頭火。

やはり母親の自死である。

その後の学業への没頭。周陽学校第三年級を首席で卒業している。17歳の時。

俳句にいつ頃、興味を持ったのかわは分からないが、早稲田大学文学部文学科に入学しているから、それなりに関心は高かったのだろう。

山頭火は愛嬌は多少あるかもしれないが、放哉と同様に、酒癖と金銭感覚が逸脱している。

放哉も山頭火も、身近な人は、かなり厳しいと思う。

以下、興味を引いた文章など。

井泉水は、しかし、碧梧桐の率いる新傾向俳句には不満であった。新傾向俳句は、「自然の姿に肉迫していながら自然の心を捉えていない。……人生の姿に接近していながら人生の命を捉えていない。人生の力に触れていない」と批判した。そして自分たちの求める俳句は、「緊張した言葉を強いリズムをもって捉えた印象の詩でなければならない」と主張した。(P.66「一日物云わず」)

尾崎放哉の章。井泉水は、荻原井泉水のことで『層雲』を主宰し、尾崎放哉と種田山頭火の師でもある人物。

第一高等学校、東京帝国大学文科大学言語学科を卒業といった経歴。

碧梧桐とは、河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう、1873年~1937年)のこと。

愛媛県松山市生まれで、正岡子規(まさおか・しき、1867年~1902年)の高弟として、高浜虚子(たかはま・きょし、1874年~1959年)と並ぶ人物。

尾崎放哉は、上記の荻原井泉水の考え方に、共鳴した。

以下、種田山頭火について。

山口尋常中学校を卒業した明治三四年の五月に、後に早稲田大学の初代学長となる高田早苗が山口市内で行った「国民教育論」なる演説を聞き、早稲田の自由な精神を説く熱弁に感銘を覚えた。(P.180「洞のごと沈めり」)

種田山頭火が、早稲田を選んだ理由である。

高田早苗(たかだ・さなえ、1860年~1938年)は、東京大学文学部哲学政治学及理財学科を卒業した政治家、教育者、文芸批評家。

種田山頭火は、かなり学業が出来ていたので、尾崎放哉と同様に、一高や東京帝国大学に入ろうと思えば、入れたのではないか、と思っているけれど。

上記のような経緯があり、早稲田を選んだとのこと。なるほど。

窮地の中で思い浮かんだのは熊本だった。正一が層雲誌の他にもう一つ出句していたのが、同郷の兼崎地橙孫が熊本市で主宰する文芸誌『白川及新市街』だった。(P.189「泥濘ありく」)

正一とは、種田山頭火の本名。

兼崎地橙孫(かねざき・ぢとうそん、1890年~1957年)は、山口県山口市出身の俳人、書家、弁護士。本名は、理蔵。

熊本の第五高等学校、京都帝国大学法科を卒業している人物。

種田山頭火が何故、熊本に行ったのか分からなかったが、こういった理由だったのか。

実際、理由とも言えない理由ではあるけれど。

さまざまな内容が詳細に描かれているので、深い納得と満足を得られる作品である。

尾崎放哉や種田山頭火に興味のある人には非常にオススメ。

また、関連した人物にも踏み込んでいたり、写真などが豊富に掲載されていたりする『人間 種田山頭火と尾崎放哉』も続けて読むと、さらに楽しめると思う。

書籍紹介

関連スポット

尾崎放哉記念館

香川県小豆郡土庄町(しょうずぐんとのしょうまち)にある文化施設。尾崎放哉の終焉の地であり、南郷庵(みなんごあん)のあった場所。

公式サイト:尾崎放哉記念館

西光寺:尾崎放哉

香川県小豆郡土庄町にある高野山真言宗の仏教寺院。旧奥の院に、尾崎放哉記念館がある。

尾崎放哉は、『層雲』の同人でもある西光寺の第26世住職・杉本玄々子(すぎもと・げんげんし、1891年~1964年)、法名・宥玄(ゆうげん)の世話になる。

公式サイトは特に無い。

須磨寺:尾崎放哉

1924年に尾崎放哉は、兵庫県神戸市須磨区にある真言宗須磨寺派の寺院・須磨寺の大師堂の堂守となる。

公式サイト:須磨寺

常高寺:尾崎放哉

1925年に、尾崎放哉は福井県小浜市にある臨済宗妙心寺派の寺院・常高寺の寺男となる。

公式サイト:常高寺

興禅寺:尾崎放哉

鳥取県鳥取市にある黄檗宗の寺院。尾崎家の墓があり、尾崎放哉の墓も。句碑も建立されている。

公式サイトは特に無い。

山頭火ふるさと館

種田山頭火の生れた山口県防府市(ほうふし)にある文化施設。

公式サイト:山頭火ふるさと館

報恩寺:種田山頭火

1924年に種田山頭火が住み込んだ熊本県熊本市中央区にある曹洞宗の寺院。

種田山頭火が出家得度した耕畝の名前の句碑がある。実際に参拝したことがある。非常にコンパクトな寺院であり、コアなファン以外には積極的にはオススメはできないかも。

公式サイトは特に無い。

瑞泉寺・味取観音堂:種田山頭火

1925年に種田山頭火が堂守となった熊本県熊本市北区にある曹洞宗の寺院。

公式サイトは特に無い。

其中庵:種田山頭火

1932年に種田山頭火が移り住んだ山口県山口市小郡にある庵。近くには其中庵休憩所も。

実際に訪問したことがある。新山口駅から、のんびりと散歩に良い距離。小高い丘の上で、町並みを眺望できる場所。

公式サイト:其中庵

一草庵:種田山頭火

愛媛県松山市御幸にある種田山頭火の終焉の地。1939年に結庵、後に一草庵と呼ばれる。

公式サイト:一草庵