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草野心平『宮沢賢治覚書』要約・感想

草野心平『宮沢賢治覚書』表紙

  1. 草野心平と宮沢賢治の関係
  2. 宮沢賢治の文学の本質
  3. 宮沢賢治の名声の背景

草野心平の略歴・経歴

草野心平(くさの・しんぺい、1903年~1988年)
詩人。
福島県いわき市の出身。福島県立磐城中学校(現在の福島県立磐城高等学校)を4年生で中退、1920年に慶應義塾普通部3年生に編入するが半年で中退。正則英語学校、善隣書院で学ぶ。1921年に中国・広州の嶺南大学(現在の中山大学)に入学。1925年、大学の最終過程に在籍していたが、排日運動が激化し卒業せずに日本へ帰国。
1924年9月頃に日本から送られてきた宮沢賢治の詩集『春と修羅』に感銘を受ける。

宮沢賢治の略歴・経歴

宮沢賢治(みやざわ・けんじ、1896年~1933年)
詩人、童話作家。
岩手県花巻市の出身。花巻川口尋常小学校(後に花城尋常小学校へ改名)、岩手県立盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)、盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)に首席で入学、翌年特待生として授業料は免除に。卒業後は研究生に。

『宮沢賢治覚書』の目次

宮沢賢治覚書(二)
四次元の芸術
「春と修羅」に於ける雲
賢治文学の根幹
賢治詩の性格
「農民芸術概論」の現代的意義
宿命的言葉
無声慟哭(その解説)
オホーツク挽歌(その解説)
宮沢賢治・人と作品及び解説
二つの極
一つの韻律
宮沢賢治全集由来
人と作品 粟津則雄
年譜 深沢忠孝
著書目録

『宮沢賢治覚書』の概要・内容

1991年3月10日に第一刷が発行。講談社文芸文庫。308ページ。

1981年11月筑摩書房刊『草野心平全集』第六巻所収『わが賢治』を底本とし、多少ふりがなを加えたもの。

また「刊行の辞」「賢治に関する初期の断章」「宮沢賢治追悼に関して編集氏へ送る弁解」「余白一言」「可能性の倉庫」「賢治文学の一つの背景」「宮沢賢治の詩碑」「小岩井農場」「賢治の言葉のリアリティ」「一冊の本」「賢治の遺墨」「賢治詩抄」「横光さんと賢治全集」「賢治からもらった手紙」長谷川渉作成「賢治・心平交渉年譜」「心平の賢治に関する執筆・講演・放送総覧」「心平の賢治に関する編纂書総目次」、著者の「『わが賢治』覚え書」を割愛している。

「人と作品 草野心平」は、文芸評論家の粟津則雄(あわづ・のりお、1927年~2024年)。愛知県西尾市の生まれ。京都府立第一中学校、第三高等学校、東京帝国大学文学部仏文科を卒業。1960年代以降、草野心平と深く交流した人物。

草野心平の「年譜」は、詩人で教員の深沢忠孝(ふかざわ・ただたか、1934年~)。福島県須賀川市の生まれ。福島県立須賀川高等学校、東京学芸大学を経て、早稲田大学第一文学部国文科を卒業。草野心平研究会の代表でもある。

『宮沢賢治覚書』の要約・感想

  • 草野心平と宮沢賢治の関係、有名になったきっかけ
  • 詩と理論の狭間にある賢治の精神
  • 賢治の最期となる絶筆の歌
  • 「雨ニモマケズ」が書かれた場所
  • 理解者を求めた孤高の魂
  • 賢治を世に出し有名にした人々との繋がり
  • 草野心平の文体と賢治への愛
  • 時代を超えて響く宮沢賢治と草野心平の言葉

草野心平と宮沢賢治の関係、有名になったきっかけ

詩人の草野心平が、敬愛する宮沢賢治について綴った『宮沢賢治覚書』は、単なる評伝や研究書とは一線を画す、独特の光を放つ一冊である。

草野心平は、宮沢賢治が存命中は直接会う機会はなかったが、手紙のやり取りを通じて親交のある関係であり、賢治の死後、その作品を広く世に知らしめ、有名になる上で決定的な役割を果たした人物である。

本書は、草野心平の詩人としての鋭い感性と、賢治への深い共感が織りなす、極めて個人的でありながら普遍的な賢治像を描き出している。

本書を手に取る読者は、おそらく多かれ少なかれ宮沢賢治の作品に触れた経験があるだろう。「雨ニモマケズ」や『銀河鉄道の夜』から、さらに賢治の世界を深く知りたいと願う人々にとって、本書は新たな視点と深い洞察を与えてくれるに違いない。

草野心平という希代の詩人が、どのように同様に希代の詩人である宮沢賢治の言葉を受け止め、その本質を見抜こうとしたのか。その探求の軌跡を辿ることは、賢治文学の新たな扉を開くことに繋がるはずである。

草野心平は本書の中で、様々な角度から宮沢賢治の文学と人となりに迫っている。その筆致は、論理的であると同時に詩的であり、読む者を賢治の心象世界へと誘い込む力を持っている。彼が描く賢治像は、研究者による客観的な分析とは異なり、詩人から詩人への共感と理解に基づいているため、より血の通った、生きた賢治の姿を感じることができるのである。

詩と理論の狭間にある賢治の精神

本書冒頭の「宮沢賢治覚書(二)」には、賢治の言葉として以下が引用されている。

「詩は裸身にて理論の至り得ぬ堺を探り来る。そのこと決死のわざなり。イデオロギー下に詩をなすは、直観粗雑の理論に屈したるなり」(P.9「宮沢賢治覚書(二)」)

これは賢治の座右のメモだったというが、その言葉からは、詩という表現形式に対する賢治の峻厳な姿勢が伝わってくる。詩とは、理論やイデオロギーといった既成概念の枠を超え、裸の精神で未知の領域に分け入る決死の行為である、と賢治は考えていたのだ。

この言葉は、まるで尾崎放哉(おざき・ほうさい、1885年~1926年)の「入れ物がない両手で受ける」を、その師である荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい、1884年~1976年)が解釈したものにも通じる。

その解釈の主旨とは「入れ物がない=自由律俳句、両手で=全身全霊で、受け止める」である。それぞれ、己の身体一つを、そして、力強く真っ直ぐで直向きな精神を、想起させる。

賢治の詩作の根底には、常にこのような探求者の魂があったのである。草野心平は、この言葉を冒頭に置くことで、賢治文学の持つ本質的でラディカルな姿勢を読者に示唆しているのである。

賢治の最期となる絶筆の歌

「賢治文学の根幹」と題された章では、賢治作品の核心に迫る考察が展開されている。特に印象深いのは、賢治の絶筆とされる二首の短歌に言及している箇所である。

病のゆゑにもくちんいのちなりみのりに棄てばうれしからまし
方十里稗貫のみかも稲熟れてみ祭三日そらはれわたる(P.143「賢治文学の根幹」)

病(いたつき)によって朽ちゆく命であっても、それが実りのために捧げられるのであれば嬉しい――病床にあってもなお、自らの存在が他者や世界のために役立つことを願う賢治の祈りのような歌と、そして、病床から見えたであろう、豊かに実った稲と晴れ渡る空の下で行われる祭りの情景を詠んだ歌。稗貫(ひえぬき)は地名である。

草野心平は、この二首に賢治の生と死、そして彼が生涯愛した故郷・岩手への思いが凝縮されていることを見抜いている。これら二首は、私自身は本書を読むまで知らなかった歌であるが、賢治の最期の時における心境を垣間見ることができる、非常に胸を打つ歌であると感じた。

病によって肉体が衰えていく中でも、彼の精神は常に他者や自然、そして宇宙へと開かれていたことが、この歌からも伝わってくるのである。

「雨ニモマケズ」が書かれた場所

宮沢賢治の代表作の一つである「雨ニモマケズ」については、「宮沢賢治・人と作品及び解説」の章で興味深い指摘がなされている。

事実、例えば「雨ニモマケズ」のような作品は病床で書かれたのではあるが、それらはしかし「心象スケッチ」という賢治独特の詩法の世界からはズレた場所での制作であり、賢治にとっては天然の場ではなかった。(P.221「宮沢賢治・人と作品及び解説」)

「雨ニモマケズ」が病床で書かれたというのは、本書を読むまで知らなかった事実である。

そして草野心平は、この作品が賢治が追求した「心象スケッチ」という詩法とは異なる文脈で生まれたものであると指摘している。賢治の詩の多くは、内面世界の風景や出来事をありのままに描き出す「心象スケッチ」という手法で書かれているが、「雨ニモマケズ」はそれとは異なり、賢治自身の生き方や理想を力強く宣言した、ある種の「祈り」や「誓い」のような性格を持っている。

私自身、「雨ニモマケズ」は賢治が自分自身を鼓舞するために書いたものであり、その意味で非常に個人的な作品であると感じていたため、草野心平の指摘は腑に落ちるものがあった。これは、一般的に理解されている賢治像やその作品の受け止め方に対して、草野心平が独自の視点を提供している例の一つと言えるだろう。

理解者を求めた孤高の魂

「二つの極」の章では、賢治が死の前年に母木光(1909年~2001年、別名義・儀府成一)宛に送った手紙の一節が引用されている。

「……どうかもう私の名前などは土をかけて、きれいに風に吹かせて、せいせいした場処で、お互ひ考へたり書いたりしようではありませんか。こんな世の中に心象スケッチといふものを、大衆まめあてで決して書いてゐる次第ではありません。全くさびしくてたまらず、美しいものがほしくてたまらず、ただ幾人かの完全な同感者から『あれはそうですね』といふやうなことを、ぽつんといはれる位がまづのぞみといふところです。……」(P.255「二つの極」)

この手紙からは、宮沢賢治という人間が抱えていた深い孤独感と、それでもなお自らの芸術を追求せずにはいられなかった情熱が伝わってくる。

「心象スケッチ」は決して大衆に向けて書かれたものではなく、ほんとうに理解してくれるごく少数の「完全な同感者」に「あれはそうですね」と、ぽつりと共感されることこそが望みだったという言葉は、非常に切実で胸に迫るものがある。

孤高の芸術家であった賢治が、それでも誰かに自分の内面世界を理解してほしいと願っていた、その繊細な心情が赤裸々に吐露されている。この最後の文章に触れたとき、賢治もまた、私たちと同じように理解者を求める一人の人間であったのだということを強く感じた。

彼の作品の宇宙的な広がりや普遍性とは対照的に、このような個人的な苦悩や願いを抱えていたことに、彼の人間的な魅力と深みを感じるのである。

賢治を世に出し有名にした人々との繋がり

「宮沢賢治全集由来」の章では、賢治が没後に広く知られるようになるまでの経緯について、草野心平自身の関係を含めて語られている。ここで興味深いのは、草野心平は賢治と生前直接会ったことはなく、文通のみの交流、いわゆるペンフレンドだったという事実である。

高村さんは賢治と一回会ってはいるにしろ、それはアトリエの玄関での僅かの時間のたち話にすぎなかったし、賢治の家庭のことなど私たちは皆目知らなかったので、話題は恐らくは賢治の芸術に限られていたことだっただろう。(P.261「宮沢賢治全集由来」)

本書を読むまで、私は草野心平と宮沢賢治は何度も直接会って交流していたものだと漠然と思っていた。しかし、実際は手紙のやり取りだけだったということに驚かされた。当時は今ほど交通の便も良くなかっただろうから、そうした事情もあったのだろう。

また、引用にあるように、高村光太郎(たかむら・こうたろう、1883年~1956年)は賢治と一度だけ会ったことがあったというのも、本書で初めて知った事実である。草野心平、高村光太郎といった当時の主要な詩人たちが、早くから宮沢賢治の才能を見抜き、その作品を世に広めるために尽力していたことが、本書を通じてよく理解できるのである。

草野心平は、賢治が亡くなった翌年に刊行された追悼冊子『宮沢賢治追悼』について、その出版費の大部分は宮沢家が出し、百部限定で刊行されたことに触れている。

出版費の大部分は宮沢家で出し、八十三頁、部数は百部だったと記憶する。(P.265「宮沢賢治全集由来」)

この『宮沢賢治追悼』には、高村光太郎をはじめ、宮沢賢治の弟・宮沢清六(みやざわ・せいろく、1904年~2001年)や、尾形亀之助(おがた・かめのすけ、1900年~1942年)、萩原恭次郎(はぎわら・きょうじろう、1899年~1938年)、小野十三郎(おの・とおざぶろう、1903年~1996年)、辻潤(つじ・じゅん、1884年~1944年)、佐藤惣之助(さとう・そうのすけ、1890年~1942年)、高橋新吉(たかはし・しんきち、1901年~1987年)、竹内てるよ(たけうち・てるよ、1904年~2001年)といった錚々たる顔ぶれが寄稿している。

このことからも、賢治は生前からある程度の詩人たちの間ではその存在を知られていたことがわかる。草野心平の宣伝活動もさることながら、多くの人々が賢治の才能を認め、追悼の意を表していたのである。

そして、賢治の作品が広く読まれるようになった決定的なきっかけは、『宮沢賢治全集』の刊行であったという。

けれども売れたことの直接原因としては、全集の刊行と並行して賢治に関する紹介や批評が次々と出たことであった。(P.273「宮沢賢治全集由来」)

全集の刊行と同時に、様々な形で賢治の紹介や批評が行われたことが、彼の作品が多くの人々に読まれる直接的な原因となった。草野心平をはじめとする詩人や研究者たちの地道な努力が、宮沢賢治という稀代の文学者を世に知らしめ、その不朽の作品群を後の世代に伝えることに繋がったのである。

草野心平が宮沢賢治を世に出す上で果たした役割は極めて大きいと言えるだろう。彼自身の熱烈な賢治愛と、それを伝えるための行動力がなければ、賢治の作品が今ほど広く読まれることはなかったかもしれないのだ。

また、賢治の妹である宮沢トシ(みやざ・とし、1898年~1922年)の存在は賢治文学において極めて重要であることは広く知られており、本書でも「無声慟哭(その解説)」や「オホーツク挽歌(その解説)」、「宮沢賢治・人と作品及び解説」で触れられている。

草野心平の文体と賢治への愛

本書全体を通して感じるのは、草野心平の文体の素晴らしさである。詩人らしい研ぎ澄まされた感性と、批評家としての知性が融合した文章は、読む者を飽きさせない。明晰かつ深みのある筆致である。

彼は宮沢賢治の作品や生涯について、表面的な理解に留まらず、その深層にあるものを見抜こうとしている。生前の面識は文通のみだったにも関わらず、これほどまでに深く賢治を理解し、語ることができるのは、草野心平自身の詩人としての力量と、賢治への強い共感と愛情ゆえだろう。

彼は賢治の言葉の裏に隠された真意や、作品に込められた魂の叫びを、自身の詩的な感性をもって受け止めているのである。本書は、草野心平が何をした人なのかを知る上でも非常に重要な手がかりを与えてくれる。彼は単に詩人であっただけでなく、他の作家の才能を見出し、その作品を世に広めることにも情熱を燃やした、文学の伝道者でもあったのだ。

時代を超えて響く宮沢賢治と草野心平の言葉

『宮沢賢治覚書』は、宮沢賢治のファンはもちろんのこと、草野心平という詩人に興味を持つ人々、そして文学というものがどのように生まれ、どのように受け継がれていくのかに関心がある人々にとって、非常に示唆に富む一冊である。

本書を読むことは、単に賢治の作品についての知識を得ることに留まらない。そこには、一人の詩人が別の詩人の魂と深く共鳴し、その光を世に伝えようとした熱い思いが宿っている。草野心平の筆を通じて賢治の世界に触れることで、私たちは自身の内なる感性を呼び覚まされ、文学の持つ力、言葉の持つ深遠さを改めて感じることができるだろう。

本書は、宮沢賢治と草野心平という二人の偉大な詩人の魂が響き合う、珠玉の覚書なのである。

書籍紹介

関連書籍

関連スポット

草野心平記念文学館

草野心平記念文学館は、草野心平の出身である福島県いわき市にある文化施設。

公式サイト:草野心平記念文学館

宮沢賢治記念館

宮沢賢治記念館は、宮沢賢治の出身地である岩手県花巻市にある記念館。

公式サイト:宮沢賢治記念館

高村光太郎記念館

岩手県花巻市太田にある高村光太郎の記念館。

公式サイト:高村光太郎記念館