
- 勉強の真の価値:勉強は単なる知識の暗記ではなく、広い視野、客観的な観察力、予測力、想像力を養う知的トレーニングで、人生を豊かにする力。
- 没頭の喜び:研究への没頭を通じて、食事や睡眠を忘れるほどの「フロー状態」を経験。本当の勉強の楽しさや知的好奇心の極致についての事例も。
- 主体的な学び:勉強の第一歩は「何を」「どう」学ぶかを自分で決めること。他人に正解を求めるのではなく、主体的に考えるプロセスこそが本質。
- 他者比較からの自由:勉強の目的は他人に勝つことではなく、自分を高めること。競争や他者評価から自由になり、自分の内的な成長に価値を見出す。
森博嗣の略歴・経歴
森博嗣(もり・ひろし、1957年~)
小説家、工学者。
愛知県の生まれ。東海中学校・高等学校、名古屋大学工学部建築学科を卒業。名古屋大学大学院修士課程を修了。三重大学、名古屋大学で勤務。1990年に工学博士(名古屋大学)の学位を取得。1996年に『すべてがFになる』で第1回メフィスト賞を受賞しデビュー。
『勉強の価値』の目次
まえがき
第1章 勉強とは何か?
第2章 勉強は面白くない?
第3章 勝つために勉強するのではない
第4章 学校で勉強をする意味
第5章 教えてもらうことが勉強ではない
第6章 「覚える」と「気づく」の違い
第7章 本当の勉強はとんでもなく楽しい。
あとがき
『勉強の価値』の概要・内容
2020年11月25日に第一刷が発行。幻冬舎新書。239ページ。
『勉強の価値』の要約・感想
- 勉強によって得られる「本当の報酬」とは何か
- 天才作家が明かす「勉強嫌い」だった過去
- 常軌を逸した「没頭」が生む本当の楽しさ
- 「勝つ」ためではない、自分を高めるための勉強
- 息を止めるほど、真剣に「考えた」ことがあるか
- 学びの第一歩は「何を学ぶか」を自分で決めること
- まとめ:常識から自由になり、学びの喜びを取り戻すために
「なぜ、勉強なんてしなくてはいけないのだろうか」
この問いは、多くの人が人生で一度は抱く普遍的な疑問である。
学生時代には目前の試験のために、社会に出てからは業務に必要な知識やスキルを身につけるために、私たちは常に「勉強」という行為と向き合っている。
しかし、その本質的な価値や目的について、深く考える機会は意外と少ないのかもしれない。
今回取り上げる一冊は、そんな根源的な問いに対して、鋭く、そして独自の視点から光を当てる本である。
著者は、小説家であり工学博士でもある森博嗣(もり・ひろし、1957年~)。
彼は1996年に『すべてがFになる』で第1回メフィスト賞を受賞して作家デビューを果たし、緻密な論理で構築されたミステリィ小説で多くの読者を魅了してきた。
その一方で、名古屋大学で工学博士の学位を取得し、大学で教鞭を執った経験も持つ研究者でもある。
そんな彼が著した『勉強の価値』は、単なる学習テクニックや受験対策を語る本ではない。
むしろ、そうした枝葉末節を切り捨て、「勉強とは何か」「なぜそれは必要なのか」「そして、いかにして楽しむのか」という、学びの根幹にある哲学を解き明かす一冊だ。
この記事では、森博嗣が紡ぎ出す言葉の断片を拾い上げながら、彼が考える「勉強の価値」の深淵に迫ってみたい。
これまで「勉強はつまらないもの」「仕方なくやるもの」と感じていた人ほど、その常識が覆される知的な体験が待っているはずである。
勉強によって得られる「本当の報酬」とは何か
「勉強」という言葉を聞くと、多くの人は試験の点数や資格の取得、あるいは偏差値といった具体的な指標を思い浮かべるだろう。
もちろん、それらも勉強の一つの成果ではある。
しかし、森博嗣が説く勉強の価値は、もっと根源的で、人生を豊かにする力にある。
彼は、勉強がもたらす最も重要な報酬を次のように表現している。
勉強で自身を高めることができると、何が得られるのかといえば、それはまず「広い視野」であり、俯瞰による客観的な「観察力」、そしてまた、あらゆるものを遠望できる「予測力」、あるいは「想像力」である。(P.42「第1章 勉強とは何か?」)
ここで語られているのは、知識の量そのものではない。
知識を得るプロセスを通じて、世界をより解像度高く、多角的に捉えるための「能力」を獲得することこそが重要なのである。
「広い視野」とは、一つの物事を一つの側面からだけ見るのではなく、まるで丘の上に立って風景全体を見渡すように、その全体像や繋がりを把握する力だ。
それによって、私たちは偏った見方から解放され、より客観的な「観察力」を手にすることができる。
さらに、蓄積された知識と客観的な視点は、未来を「予測」し、まだ見ぬものを「想像」する力の土台となる。
これは、変化の激しい現代を生き抜く上で、極めて重要なスキルと言えるだろう。
つまり、勉強とは、単なる暗記作業ではなく、自分の精神をより高い場所、より見晴らしの良い場所へと引き上げるための知的トレーニングなのである。
この「見る」という行為に関して、森博嗣は自身の思考プロセスについても興味深い言及をしている。
思考は、すべて映像で行われる。現在は、文字を出力する作家という仕事をしているのだが、考えることは映像である。(P.56「第1章 勉強とは何か?」)
いわゆる「ビジュアルシンカー」と呼ばれる人々がいるが、彼もまた、思考を言語ではなく映像イメージで処理するタイプであるようだ。
このことは、彼の言う「観察力」や「想像力」がいかに彼の思考の根幹を成しているかを示唆している。
私たちも、何かを学ぶ際には、ただ文字を追うだけでなく、その内容を頭の中で映像化したり、図解したりする「イマジネーション」を働かせることが、より深い理解へと繋がるのかもしれない。
天才作家が明かす「勉強嫌い」だった過去
森博嗣ほどの知性を持つ人物であれば、子供の頃から勉強が好きで、何でもそつなくこなす神童だったのではないか、と想像する人もいるかもしれない。
しかし、本書で明かされる彼の過去は、そのような凡庸なイメージを鮮やかに裏切る。
彼は、特に暗記科目が苦手で、中学受験の際にはほとんど勉強をしていなかったという。
父親がコネを使って入学させようと画策したほどだった、と赤裸々に綴られている。
当然、両親は心配したし、父はコネで入学させようと考えたらしい。父はその学校の卒業生だった。父が中学生の時の担任が、その当時には校長になっていたので、「息子をよろしくお願いします」と電話をかけたようだ。そういうことは、昔は当然のように横行していた。特に、コネで入る場合には、設定された寄付金を納めなければならなかった。幸い、算数や理科ができたので、僕はこの寄付金を納めずに入学できた。(P.74「第2章 勉強は面白くない?」)
このエピソードから、彼の父親もまた同じ私学の出身であったことがわかる。
恵まれた家庭環境であった可能性も窺えるが、それ以上に興味深いのは、彼が「算数や理科ができた」という一点で、コネや寄付金といった俗なルートを回避したことだ。
彼の知性の萌芽は、暗記ではなく論理的思考を要する分野で早くから現れていたのである。
そんな彼が、苦手な暗記科目をどう乗り越えたのか。
その方法もまた、彼ならではの独創的なものだった。
その後は、自分なりに、暗記科目はすべて一夜漬けで乗り切る方法を見出した。授業は聴いていても、ほとんど頭には入らないから、前日に教科書の写真を頭の中に撮るつもりで覚えた。これは比喩ではなく、テストの最中には、頭の中で教科書のページをめくって、該当する文字を探す、という体験だった。記憶も映像だからである。(P.77「第2章 勉強は面白くない?」)
これは「写真記憶(フォトグラフィック・メモリー)」と呼ばれる能力に近い。
思考を映像で行うという彼の特性が、記憶という領域でも遺憾なく発揮されていたことがわかる。
結局のところ、彼は高校生になる頃には、その才能を完全に開花させていたようだ。
高校生になった僕は、だいたい学年で五百人中三十番くらいだった。順位は職員室の前に試験後に毎回張り出されるので、誰が何番なのかも一目瞭然だった。このような環境にいると、友達どうしてで変な勘ぐりもなく、極めて自然な人間関係になる、ということも学んだ。(P.78「第2章 勉強は面白くない?」)
学年で上位10%以内という優秀な成績である。
興味深いのは、順位が公開される環境を彼が肯定的に捉えている点。
個人の能力がオープンにされることで、それがその人の数あるパラメータの一つに過ぎないという共通認識が生まれ、かえって人間関係がフラットになる。
これは、能力差をことさらに隠したり、あるいは過度に気にしたりする現代の風潮に対する、一つの痛烈な批評とも言えるだろう。
彼の学力、特に数学における能力の高さと、それに裏打ちされた絶対的な自信は、大学受験のエピソードで頂点に達する。
数学の試験時間は三時間ほどだったけれど、僕も五問をすべて解くのにぎりぎりだったことを覚えている。あとで答合わせをして、全問正解できたことが確かめられたので、滑り止めの受けた私学(早稲田大学を受験した)には、入学金を納めなくても良い、と親に話した。(P.80「第2章 勉強は面白くない?」)
国立大学の試験で全問正解を確信し、滑り止めである早稲田大学の入学金を不要だと言い切る。
その明確な自信、そして、あっけらかんとした態度は、嫌味を通り越して清々しささえ感じさせる。
これは、彼が自分の能力を客観的に、そして正確に把握していたことの証左に他ならない。
常軌を逸した「没頭」が生む本当の楽しさ
そんな森博嗣が、人生で最も勉強したと語るのが、大学の助手になってからの日々だ。
その様相は、凄まじい、の一言に尽きる。
毎日十六時間大学で勉強をした。一年三百六十五日、休みなく勉強をした。助手になって最初の五年ほどは、取り憑かれたように研究に没頭していた。今思うと、よく死ななかったな、というのが正直な感想である。(P.86「第2章 勉強は面白くない?」)
1日16時間、365日。
これを5年間。
尋常ではない。
世の中には、これほどの集中力と持続力で物事に取り組む「怪物」が存在するのだという現実に、ただ圧倒される。
しかし、彼にとってそれは苦行ではなかった。
むしろ、至上の喜びであったことが、続く文章から伝わってくる。
就職して、僕は十五キロくらい痩せたし、酷いときは三日も食事をするのを忘れたこともあった。食事をしたり、トイレに行ったりするのも面倒なほど、勉強が楽しかったのだ。
これはもう「異常」に近いのかもしれない。(P.87「第2章 勉強は面白くない?」)
食事や睡眠すら忘れるほどの没頭。
彼は自らを「異常」と評するが、これこそが「本当の勉強」がもたらす最高の境地なのかもしれない。
やらされているのではなく、内から湧き出る知的好奇心に突き動かされ、時間を忘れて対象に没入する。
この「フロー状態」とも言える経験こそが、人生を豊かにする最高の贅沢なのだと、彼は身をもって示している。
このような彼の価値観は、どのようにして育まれたのだろうか。
その背景には、彼の父親からのユニークな教えがあった。
一番になったら、あとは落ちるばかりだ、という意味かな、と想像したが、今は、「一番になったところで、お前の価値が上がるわけではない」くらいの意味だったのだろう、と考えている。(P.93「第2章 勉強は面白くない?」)
これは、父親から理由も告げられずに言われ続けた「一番になるな」という教えに対する、大人になった森博嗣の解釈である。
「勝っても、負けても大差はない」「他人のことは気にするな」とも繰り返し教えられたという。
競争で勝つことや、他者からの評価を目的とするのではなく、あくまで自分自身の内的な成長に価値を見出す。
この哲学が、彼の人生の根幹を成しているようだ。
その父親もまた、ユニークな経歴の持ち主だった。
彼は、大学の工学部を出た理系の人だったけれど、若いときには文学が好きで、詩を書いたりしたそうだ。これは、母から聞いただけで、本人の話ではない。戦争になったので、少しでも徴兵を遅らせるために、急遽理系の大学に進学したとの事情だけは聞いたことがある。(P.95「第2章 勉強は面白くない?」)
文学を愛し、戦争という時代の波によって進路を変えざるを得なかった父親。
その姿は、文理の枠を超えて活躍する森博嗣自身の姿とも重なる。
また、母親から聞いた話と本人から聞いた話を明確に区別して記述する姿勢に、彼の持つ科学者としての客観性と冷静さが表れている。
そして、興味深いことに、その知性は次世代にも受け継がれている。
長男の方は一浪して予備校へ通っていたが、京大の工学部に合格し、長女は武蔵野美大に現役で合格した。僕の時代よりも受験は熾烈になっていたし、明らかに僕よりもレベルが高い大学に、二人とも合格したことを立派だと思っている。(P.98「第2章 勉強は面白くない?」)
長男は京都大学工学部、長女は武蔵野美術大学。
遺伝という要素を認めざるを得ない結果かもしれない。
しかし、ここで注目すべきは、彼が自分の子供たちを「明らかに僕よりもレベルが高い」「立派だ」と素直に評価している点である。
ここにも、他者(たとえ身内であっても)を客観的に評価し、尊重する彼のフラットな姿勢が貫かれている。
「勝つ」ためではない、自分を高めるための勉強
現代社会は、とかく競争を煽る。
受験戦争、就職活動、社内での出世競争。
私たちは常に誰かと比較され、勝ち負けの物差しで測られる環境に置かれている。
そんな社会において、「勉強」はしばしば他者に「勝つ」ための道具として捉えられがちだ。
しかし、森博嗣はそのような価値観に明確な否を突きつける。
「勝つ」とは、誰かを蹴落とすことだ。しかし、自分を高めることは、他者にも役に立つはず。それだけでも、社会にとって有用である。(P.123「第3章 勝つために勉強するのではない」)
勉強の目的は、他者を打ち負かすことではない。
あくまで自分自身を高めることにある。
そして、そのようにして高められた個人の能力は、巡り巡って他者のため、社会のために役立つことになる。
これは、競争をゼロサムゲーム(誰かの得が誰かの損になる)として捉えるのではなく、全ての参加者が成長し、社会全体が豊かになるプラスサムゲームとして捉える視点である。
もちろん、彼は競争そのものを否定しているわけではない。
競争は時として個人の能力を飛躍的に向上させる。
問題なのは、たった一つの競争の結果、たった一つの物差しだけで、人間の価値のすべてが決められてしまうことだ。
世界には無数の物差しがあり、多様な価値観が存在する。
そのことを知るためにも、やはり「広い視野」を養う勉強が必要なのである。
息を止めるほど、真剣に「考えた」ことがあるか
勉強の本質が「教わる」ことではなく、自ら「考える」ことにある、と森博嗣は繰り返し強調する。
その「考える」という行為の深さ、その極致について、彼は読者に鋭い問いを投げかける。
考えているときは、呼吸がとても大事で、ここぞという難しい思考をするときには、息を止めている。これは、百メートル走の選手と同じで、息を止めないと瞬発的な力が発揮できない。人間はそういうふうにできているようだ。思考も同じで、一番頭が回転する瞬間には、呼吸をしていない。皆さん、それくらい考えたことがありますか?(P.167「第5章 教えてもらうことが勉強ではない」)
息を止めるほどの集中と思考。
この一文を読んだ時、ドキリとした読者は少なくないだろう。
果たして自分は、呼吸を忘れるほど何かに没頭し、考え抜いた経験があっただろうか。
精密な作業をする時、私たちは無意識に息を詰めている。
思考もまた、それと同じレベルの集中力を要する身体的な営みである、と彼は言うのだ。
彼は教育者として、学生たちにこの「考える」体験をさせるために、ユニークな試みを行っていた。
なにか良い質問はないか、しかも講義に関する重要な点でなければならない。たった一行の質問をするために、講義をよく聴く結果にもなる。
最終的には、試験をやめて、僕はこの質問で成績をつけることにした。(P.195「第6章 「覚える」と「気づく」の違い」)
講義の後に、内容に関する「良い質問」を考えさせ、提出させる。
それを成績評価の対象とする。
これは画期的な方法だ。
良い質問をするためには、講義の内容を深く理解し、その本質や問題点を見抜く必要がある。
受け身で知識を吸収するのではなく、能動的に思考し、自分なりの論点を見つけ出す。
これこそが、彼が考える「本当の勉強」の姿なのである。
彼の指導者としての優秀さと、常に本質を追求する姿勢が窺えるエピソードだ。
そして、この「考える」力を育むためには、ある「時間」が不可欠だと彼は説く。
このように、どうしよう、と迷っている子供を、今の大人たちは放っておかない。「どうしたの?」「何が分からないの?」と寄り添ってしまうはずだ。だが実は、この「わからない」「迷っている」という状態をいかに長く体験させるかが、「勉強」なのである。僕の経験では、とにかく考え続けているうちに、ふと思いつくものがあったからだ。(P.203「第6章 「覚える」と「気づく」の違い」)
すぐに答えを与えない。
ヒントを出しすぎない。
「わからない」という宙吊りの状態に、子供を(あるいは自分自身を)耐えさせる。
これは、効率や時短がもてはやされる現代の風潮とは逆行する考え方かもしれない。
しかし、この「迷い、悩む」時間こそが、思考の筋肉を鍛え、安易な答えに飛びつくのではなく、粘り強く考え抜く力を養うのだ。
これは子供の教育に限らず、私たち大人が新しい課題に取り組む際にも、心に留めておくべき重要な指摘である。
学びの第一歩は「何を学ぶか」を自分で決めること
本書の終盤、森博嗣は勉強における最も重要な原則を提示する。
それは、究極の「主体性」についてのメッセージだ。
何を勉強したら良いのか、どんな方法が良いのか、という疑問を他者にぶつけないようにしもらいたい。それを考えることが、勉強の第一歩であり、その一歩を踏まないかぎり、勉強というものは進まない。(P.229「第7章 本当の勉強はとんでもなく楽しい。」)
おすすめの参考書、効率的な学習法、取るべき資格。
私たちはつい、そうした「正解」を他者に求めてしまいがちだ。
しかし、森博嗣はそれを真っ向から否定する。
「何を」「どう」学ぶかを考えること自体が、勉強の最も重要なプロセスなのだ、と。
なぜなら、それは他ならぬ自分自身の人生を、自分自身で設計する行為そのものだからである。
この第一歩を他人に委ねてしまう限り、本当の意味での勉強は始まらない。
そして、そうして自ら選び取った道を歩む先にある境地について、彼はあとがきでこう記している。
自分一人というのは、本当に自由だ。毎日、なにをしても良い。一人で土を掘る作業だって、もの凄く楽しい。わくわくすることが沢山ある。自分が幸せだな、とも感じる。この楽しさを誰かに伝えたい、というふうには考えない。(P.233「あとがき」)
この最後の一文は、特に現代を生きる私たちに深く突き刺さる。
SNSが普及し、誰もが「発信」し、「承認」を求める時代。
楽しい体験をすれば、すぐに誰かに伝えたくなる。
しかし、彼はその必要性を感じない。
楽しさは、自分の内で完結するものであり、他者の評価を必要としない。
この孤高のスタンスこそ、彼が他者比較から自由でいられる理由なのだろう。
自分の楽しさの基準を、自分の内側に持つこと。それが、真の自由と幸福に繋がる道なのかもしれない。
彼は読書家としても知られるが、そのスタイルもまた独特だ。
相変わらず、固有名詞は全く頭に入らないものの、歴史は大好きなので、たいてい一冊は常に読んでいる途中だ。(P.236「あとがき」)
固有名詞を覚える気がないのに、歴史の本を読む。
これは、彼が歴史を単なる事実の暗記ではなく、人間や社会の構造、物事の因果関係を理解するための壮大な物語として捉えていることを示している。
知識を情報として消費するのではなく、自らの思考を深めるための糧として活用する。
彼の知のあり方が、この一文に凝縮されているようだ。
最後に、彼の生き方の根幹をなす哲学とも言える言葉を引用したい。
僕は、自分の能力を他者と比較しない。自分の方が優れていても、また自分の方が劣っていても、僕自身には無関係なことだと考えている。だから、自慢や卑下をした経験がない。そういうものをする意味がわからないからだ。(P.237「あとがき」)
父親の教えを受け、それを自らの人生哲学として昇華させた究極の境地。
他者と比較せず、ただ淡々と自分のできること、すべきことに向き合う。
自らを過大評価すること(自慢)も、過小評価すること(卑下)もない。
そこにあるのは、自分自身に対する絶対的な客観性と、静かな自己肯定感だ。
まとめ:常識から自由になり、学びの喜びを取り戻すために
森博嗣の『勉強の価値』は、私たちの凝り固まった「勉強」のイメージを根底から覆す一冊だった。
それは、試験に合格するためのテクニック集ではない。
社会で成功するためのノウハウ本でもない。
本書が提示するのは、もっと普遍的で、人生そのものを豊かにするための「思考のフレームワーク」、いや「思考の柔軟性」のようなものかもしれない。
勉強とは、誰かに勝つためではなく、自分を高めるためのもの。
勉強とは、教わることではなく、自ら考え、気づくプロセスそのもの。
そして、本当の勉強とは、食事すら忘れるほど楽しく、刺激的な知的冒険である。
本書を読むと、頭が柔らかくなり、これまで囚われていた常識から解放されるような感覚を覚える。
そして、不思議なことに、無性に何かを学びたくなってくるのだ。
それは、子供の頃に持っていたはずの、純粋な知的好奇心が呼び覚まされるからかもしれない。
もし、あなたが日々の学びに意味を見出せずにいたり、知的な停滞感を感じていたりするのなら、ぜひこの本を手に取ってみてほしい。
森博嗣という稀代の知性が案内する「勉強」の世界は、あなたの価値観を揺さぶり、新たな学びの扉を開くきっかけを与えてくれるはずである。
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