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森博嗣『読書の価値』要約・感想

森博嗣『読書の価値』表紙

  1. 森博嗣の読書遍歴は、詩や漫画に感動する意外性を持ち、真の理解が読解の本質だと指摘。
  2. 本の選び方は自分で判断し、お金を出して買うことが重要で、無作為の選択によりオリジナリティーを鍛える。
  3. 知的生活は、集中力と視点シフトの能力で支えられ、効率的な文章作成や持続可能な知的活動が鍵。
  4. 読みやすさの追求は思考力を衰えさせるため、難解な本に挑戦し、主体的な読書で独自の価値を創造すべき。

森博嗣の略歴・経歴

森博嗣(もり・ひろし、1957年~)
小説家、工学者。
愛知県の生まれ。東海中学校・高等学校、名古屋大学工学部建築学科を卒業。名古屋大学大学院修士課程を修了。三重大学、名古屋大学で勤務。1990年に工学博士(名古屋大学)の学位を取得。1996年に『すべてがFになる』で第1回メフィスト賞を受賞しデビュー。

『読書の価値』の目次

まえがき
第1章 僕の読書生活
第2章 自由な読書、本の選び方
第3章 文字を読む生活
第4章 インプットとアウトプット
第5章 読書の未来
あとがき

『読書の価値』の概要・内容

2018年4月10日に第一刷が発行。NHK出版新書。222ページ。

『読書の価値』の要約・感想

  • 森博嗣の意外な読書遍歴と創作の源流
  • オリジナリティーを鍛える本の選び方
  • 知的生活を支える文字との向き合い方
  • 読みやすさの罠と価値ある読書の未来
  • 森博嗣の思考から学ぶ、これからの読書の価値

情報が洪水のように押し寄せる現代において、「読書」という行為の価値を、我々は見失ってはいないだろうか。

ただ文字を追うだけの作業に成り果ててはいないか。

世間の評価に流され、読むべき本を他人に委ねてはいないか。

あるいは、積読の山を前にして無力感を覚えたり、「速読」や「多読」といった言葉の圧力に、本来の楽しみを見失ってはいないだろうか。

そんな、現代人が抱える読書に対する漠然とした、しかし根深い悩みに、鋭く、そして冷静な視点で切り込む一冊がある。

作家であり、工学博士でもある森博嗣(もり・ひろし、1957年~)が著した『読書の価値』である。

森博嗣という人物は、ミステリィ作家として広く知られているが、その本質は多面的だ。

国立大学の工学部助教授として教鞭をとり、研究者としての日々を送る傍ら、膨大な数の小説を執筆。

さらには、自身の庭に鉄道を敷設し、精緻な模型を製作するなど、その興味と活動の範囲はとどまるところを知らない。

彼の思考の根底には、常に工学者としての論理的かつ構築的な視点が存在する。

本書は、そんな類い稀なる知性が、自身の読書体験を通して「知」といかに向き合い、思考を鍛え上げてきたかの記録である。

また、我々が情報を受け取る姿勢そのものを問い直す、知的挑戦の書なのである。

この記事では、『読書の価値』で語られる森博嗣の思考の核心に、より深く迫っていく。

彼の言葉を手がかりに、我々の読書、ひいては学びのあり方をいかに変革し、情報過多の時代を主体的に生き抜くための知恵を探求していく。

森博嗣の意外な読書遍歴と創作の源流

我々は文章を読むとき、まず文字を視覚的に認識し、その連なりを追い、そして最後にその文章が持つ意味を理解する、という直線的なプロセスを無意識に想定している。

しかし、森博嗣はその常識的な順序に、根本的な疑問を投げかける。

つまり、文章を読んでも、本当の意味は理解できない。むしろその逆だといえる。意味が理解できたとき、初めて文章が読めたことになる。(P.28「第1章 僕の読書生活」)

これは、単なる言葉遊びではなく、読解という行為の本質を突いた深い洞察である。

「わかる」から「読める」のであり、その逆ではない。

この逆説的な真理は、我々の経験に照らし合わせても理解できる。

例えば、自分の専門外の学術論文を読もうとしても、単語一つひとつの意味は辞書で引けばわかるかもしれないが、文章全体が何を主張しているのかは全く頭に入ってこない。

それは、その分野における基本的な知識や文脈、いわば思考の枠組みとなる「スキーマ」が自分の中に構築されていないからだ。

そのスキーマがあって初めて、我々は文章を単なる文字の羅列ではなく、意味のある情報として「読む」ことができる。

この指摘は、表面的な読解、わかったつもりになることの危険性を示唆し、真の理解を求めることの重要性を我々に突きつける。

彼の読書遍歴は、一般的な「文学好き」が思い描くであろう王道とは、明らかに一線を画す。

世間的な評価や権威に全く頓着しないその姿勢は、近代日本文学の巨匠に対する評価にも如実に表れている。

ファンの人には申し訳ないが、僕は、夏目漱石の作品が面白いと思ったことは一度もない(森鷗外は比較的好きだ)。(P.44「第1章 僕の読書生活」)

夏目漱石(なつめ・そうせき、1867年~1916年)を面白いと思わない、という断言。

これは単なる個人的な好みの表明に留まらない。

漱石の作品が持つ、人間の内面や心理の機微をウェットに描く作風と、森博嗣のドライで論理的な感性との間に存在する距離を示唆している。

一方で、森鷗外(もり・おうがい、1862年~1922年)を好むのはなぜか。

鷗外の、特に後期の史伝作品に見られるような、怜悧な知性によって構築された客観的で簡潔な文体。

そこには、感情の過剰な発露を排し、事実を淡々と積み重ねていく工学的な思考との強い親和性が感じられる。

この一文は、彼が世間の評価というフィルターを通さず、あくまで自らの思考の物差しで作品の価値を判断していることの力強い証明なのである。

さらに我々を驚かせるのは、その論理的な思考の主が、詩という最も非論理的とも思えるジャンルに対して深い親和性を持っていたという事実である。

詩に関しては、意外にも相性が良かった。最初は、石川啄木を読み、その後、ランボーとかゲーテを読んだ。ポーなども、ミステリィ小説よりも詩が良いと感じた。これらは世界名作全集が家にあったから読めたものだ。日本人では、そのあと、三好達治とか中原中也を読んで、面白いと思った。(P.45「第1章 僕の読書生活」)

石川啄木(いしかわ・たくぼく、1886年~1912年)の生活感あふれる短歌から、アルチュール・ランボー(Jean Nicolas Arthur Rimbaud, 1854年~1891年)の幻視的な世界。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe, 1749年~1832年)の格調高い詩情、そして中原中也(なかはら・ちゅうや、1907年~1937年)の魂の叫びまで。

一見すると、彼の怜悧なイメージとは結びつかない。

しかし、詩とは、言葉を極限まで削ぎ落とし、その配列や響きによって情報の密度を極限まで高めた表現形式である。

そこには、無駄を排し、本質的な構造だけで世界を構築しようとする、美しい数式や優れたプログラムにも通じる構築美が存在する。

論理の飛躍や凝縮されたイメージの中に、彼は別の形の「論理」や「構造」の美しさを見出していたのかもしれない。

この事実は、彼の感性が、単なる理系・文系という枠組みでは到底捉えきれない、広範で奥深いものであることを物語っている。

彼の卓越した知性は、大学受験という現実的なエピソードからも、疑いようもなく窺い知ることができる。

もう一つ、早稲田大学は電気工学科を志望して受験した。
結局、どちらも合格したが、名古屋大学は建築学科になってしまったのである。(P.48「第1章 僕の読書生活」)

難関の国立大学と私立大学。

その両方に軽々と合格してしまう学力。

興味深いのは、名古屋大学では本人の第一志望だった電気工学科ではなく、建築学科に振り分けられたという点だ。

この偶然とも言える出来事が、後の彼のキャリア、特に空間認識能力や構造的思考が作品世界に色濃く反映されることになる作家としてのキャリアに、重要な影響を与えたことは想像に難くない。

彼の人生は、高い知性を基盤としながらも、時に偶然性を取り込みながら、独自の軌跡を描いてきたのである。

そんな彼の人間性が垣間見える、実に彼らしい、辛辣でユーモラスな逸話も紹介されている。

高校二年生の時、病気で入院した際に、三人の友人が毎日交代で授業のノートを届けてくれた時のことだ。

三人とも、僕よりも成績が悪く、うだつの上がらない奴だったのが、これほどノートに文字を書いていてもあの成績か、と驚いたほどだ。(P.53「第1章 僕の読書生活」)

友人の親切に対する感謝の念を心の内に秘めつつも、その観察眼は極めて冷静かつ客観的である。

労力の量と成果が必ずしも比例しないという現実を、友人たちのノートを通して冷徹に分析してしまう。

この、物事の本質を飾らずに直視する正直さと、どこか突き放したような客観性が、彼の作品世界を貫く独特の魅力の源泉となっているのだろう。

そして、この入院生活は、彼の創作の世界を大きく広げる、決定的な転機となった。

それまでミステリー小説ばかりを読んでいた彼が、全く異なるジャンル、漫画の世界に足を踏み入れたのだ。

僕がこのとき読んだ漫画は、萩尾望都の『ポーの一族』だった。今でも思い出すだけで背筋がぞっとするほど感動した。鮮明な記憶である。(P.54「第1章 僕の読書生活」)

萩尾望都(はぎお・もと、1949年~)という稀代の才能との出会い。

「背筋がぞっとするほど感動した」という、彼の著作では滅多に見られないほどの強い感情表現。

それは、論理や理屈を超えた、魂を直接揺さぶるような強烈な体験だったのだろう。

文字と絵が融合し、緻密に構築された世界観の中で、人間の根源的な情動を描き出す『ポーの一族』

この作品との出会いが、後の作家・森博嗣が、論理的な謎解きと、哲学的思索や登場人物たちの深い孤独とを融合させた唯一無二の世界を構築する上で、重要なインスピレーションの源泉となったことは、想像に難くない。

オリジナリティを鍛える本の選び方

本書の議論の中核を成し、最も読者が衝撃を受けるであろう部分が、この「本の選び方」に関する哲学である。

森博嗣は、読書の価値の大部分は、読むという行為そのものよりも、その前段階である「選ぶ」という行為にこそある、と断言する。

人から聞いたから読むとか、誰かがすすめていたから読むとかではなく、自分の判断で選ぶこと。これがもの凄く重要なのだ。もう、本書のテーマはこの一点だと思っていただいてもかまわない。(P.82「第2章 自由な読書、本の選び方」)

この主張は、SNSの「おすすめ」やネット書店のアルゴリズムによるレコメンデーションが読書の入り口として主流となった現代において、極めて重い意味を持つ。

他人の評価やAIの提案に読書を委ねることは、一見効率的に見えるが、それは自らの思考の枠を強化し、興味の範囲を狭める「フィルターバブル」の中に自らを閉じ込める行為に他ならない。

自分の頭で考え、自分の基準で本を選ぶこと。

それは、受け身の消費活動から脱却し、自らの知性を能動的に構築していくための、最初の、そして最も重要な一歩なのである。

そして、その選択という行為を、さらに意味深く、価値あるものにするために、もう一つの避けては通れない重要な原則を提示する。

さて、その次に大事なことは、その本を手に入れるために、自分の金をだすことである。(P.83「第2章 自由な読書、本の選び方」)

これは、単なる精神論ではない。

自らの労働の対価である資産を投じるという「痛み」を伴う行為が、その本に対する我々の向き合い方を根本的に変えるのだ。

図書館で借りた本や、読み放題のサブスクリプションサービスで手軽に読める本は、確かに我々の知的好奇心を広く満たしてくれる。

しかし、そこには「失敗してもいい」という気軽さが常に付きまとう。

一方で、自腹を切った本には、投資を回収しなければならないという切実さが生まれる。

その結果、一文一文をより真剣に読み、著者の思考と格闘しようという認知的なコミットメントが格段に高まるのだ。

本を選ぶことが、読書の大半の価値だと書いたが、金を出して交換しようと決意した瞬間が、その焦点となる。まさに真剣勝負と言っても過言ではないだろう。(P.84「第2章 自由な読書、本の選び方」)

書店で無数の本に囲まれ、その中から一冊を手に取り、限られた時間と情報の中で、自分の貴重な時間と金を投資する価値があるかを判断する瞬間。

その知的緊張感を伴う「真剣勝負」の積み重ねこそが、選書眼を養い、ひいては自分自身の価値観を鍛え上げていくプロセスなのである。

さらに森博嗣は、自分の興味や専門性の枠を意図的に破壊し、思考の硬直化を防ぐための、極めてユニークな読書術を実践していたことを明かす。

また、僕は雑誌フリークなのだが、毎月一冊は、まったく初めてのジャンルの雑誌を買うことにしている(これは、二年まえまでで、今は書店が遠いのでできなくなってしまった)。(P.99「第2章 自由な読書、本の選び方」)

これは、自分のコンフォートゾーンから強制的に抜け出すための訓練である。

例えば、普段文学ばかり読んでいる人が、あえて農業専門誌や鉄道模型の雑誌を手に取ってみる。

そこに書かれていることのほとんどは理解できないかもしれない。

しかし、その未知の分野の専門用語や、そこで常識とされている価値観に触れること自体が、自らの思考の偏りを自覚させ、新たな視点をもたらすきっかけとなるのだ。

この「無作為」の選択法は、それなりに効果がある。好きなものを選ぶ、という選択では、既に自分の頭の中にあるものに支配されていることと同じで、いわば不自由なのだ。無作為ならば、その支配から解放される。(P.99「第2章 自由な読書、本の選び方」)

自分の好き嫌いや既存の知識という「支配」から、意図的に自由になること。

この「意図された偶然性」の導入は、セレンディピティ(幸運な偶然を捉える能力)を誘発し、硬直した思考に風穴を開ける。

これは、読書に限らず、あらゆる創造的な活動においてオリジナリティを生み出すための重要な方法論である。

そして彼は、本というメディアがいかに優れたツールであるかを、人間関係という、より複雑でコストのかかるものとの比較を通して鮮やかに描き出す。

人間は、ランダムに選んで勝手に知合いになるわけには行かない。できるかもしれないけれど時間と労力がかかるし、ときには費用も馬鹿にならない。けれど、本は、幸い短時間で簡単に手に入り、しかも、もの凄く広範囲に、果てしなく多様なものが用意されているのだ。こんな商品はほかに例がない。本だけが特殊なのだ。それは、人間の知恵がいかに広くさまざまなものに及んでいるのか、あるいはいたのか、ということの証でもある。(P.101「第2章 自由な読書、本の選び方」)

プラトン(Plato、前427年~前347年)や、アリストテレス(Aristotelēs、前384年~前322年)から、現代の最先端の科学者まで。

古今東西の偉大な知性に、我々はわずか数千円で、いつでも好きな時にアクセスすることができる。

この圧倒的なコストパフォーマンスと、人類の叡智を網羅するほどの多様性は、他のどんなメディアにも代えがたい、本という媒体だけが持つ特殊な価値なのである。

このような主体的な読書を通して最終的に得られるもの、それこそが、情報が均質化していく現代において最も価値を持つ資産、「オリジナリティー」である。

研究者としても作家としても、常に他者とは違う独自性を求められてきた森博嗣だからこそ、その言葉には圧倒的な説得力がある。

自分だけが読んだものならば、それだけで人よりも優位に立てる可能性がある。人よりも早く気づくことができ、早く新しい価値へと展開できるだろう。僕がこう考えるのは、研究者も作家も、第一に求められるのがオリジナリティだったからだ。(P.103「第2章 自由な読書、本の選び方」)

誰もが読むベストセラーや話題の本を読むだけでは、他者との思考の差別化は図れない。

それは、共通の話題を持つためには必要かもしれないが、新たな価値を生み出す源泉にはなり得ない。

他人とは違う、自分だけの読書の地図を描き、誰もまだ足を踏み入れていない知の領域を孤独に探求すること。

そこにこそ、人よりも早く新しい価値の鉱脈を発見するチャンスが眠っているのだ。

では、世間を賑わすベストセラーとは、完全に関わるべきではないのか。

彼は、それを頭ごなしに否定するような、偏狭な読書家ではない。

もちろん、ベストセラは、それなりに面白さがあるからベストセラになるので、それを頭ごなしに否定するものではない。一年に三冊くらいなら、今はこれが売れているのか、という興味で手にすることはある。(P.104「第2章 自由な読書、本の選び方」)

ここでも彼の姿勢は一貫して冷静である。ベストセラーを読む目的は、流行を追いかけることではない。

あくまで「今、社会では何が求められ、どのようなものが受け入れられているのか」を分析するための市場調査として、冷静な距離を保って接する。

主体は常に自分自身にあり、決して世間の評価に思考を委ねることはない。

この知的独立性こそが、独自の思考を維持するためには不可欠なのである。

知的生活を支える文字との向き合い方

森博嗣の驚異的な知的生産性を支えているのは、驚くべき集中力と、自らの時間を完全にコントロールする主体性である。

大学の研究者時代、彼は自らの純粋な知的好奇心に従い、膨大な時間を研究室で過ごしたという。

と言っても、研究室でずっとパソコンに向かっていたともいえない。適度に休み、屋上へ出てぼうっと海を眺める時間もあった。院生室へ行って漫画雑誌を読んだりもした。それに、コンピュータ関係の雑誌を何冊も研究室で購入していたから、これらの記事も読んでいた。(P.114「第3章 文字を読む生活」)

1日16時間、土日も祝日もなく研究室にいたという生活。

文字だけを見れば、それは過酷な労働のように思える。しかし、重要なのはその時間の「質」である。

誰かに強制されたわけではなく、自らの意思で選択したその時間には、集中して研究に没頭する時間だけでなかった。

海を眺めてぼうっとする弛緩の時間、漫画や雑誌を読む息抜きの時間も含まれていた。

現代の「タイムパフォーマンス」至上主義とは対極にある、豊かで主体的な時間の使い方。

これこそが、創造性を枯渇させることなく、持続可能な知的活動を可能にする秘訣なのである。

理系の研究者でありながら、彼は言語というものに対しても、その成り立ちや構造に対して深い興味と敬意を抱いていた。

事実、たとえば、中学や高校の授業にあった文法や古文、あるいは漢文などは好きな科目だった。(P.120「第3章 文字を読む生活」)

これは一見意外に思えるが、彼の思考の根幹を理解すれば当然のこととも言える。

彼が興味を抱いたのは、個々の作品の文学的な価値以上に、言語の背後にある普遍的な法則性や、時代と共に変化していくシステムの構造だった。

それは、自然科学者が世界の背後にある法則を探求する姿勢と、本質的に同じものである。

吉田兼好(よしだ・けんこう、1283年頃~1352年頃)の『徒然草』に、時代を超えた人間の普遍的な性質を捉えたユーモアを見出す。

一方で、『源氏物語』には面白さを感じなかったというのも、彼の論理的で構造的な感性が色濃く反映された結果であろう。

効率性を常に追求する工学者としての一面は、文章を作成する物理的なプロセス、すなわちタイピングに関する考察にも表れている。

現在、僕は一時間に六千文字を打つ作家として知られているけれど、平仮名入力だったら、一時間に一万文字は軽く打てるはずである。(P.134「第3章 文字を読む生活」)

過去に、より効率的なひらがな入力に切り替える機会を逸したことへの、ある種の後悔の念。

これは、彼が現状に決して満足することなく、常に最適な方法、より効率的なシステムを模索し続ける思考の持ち主であることを示している。

この姿勢は、知的生産のあらゆる場面において、我々が見習うべき重要な点である。

では、彼が考える「上手い文章」とは、一体どのようなものなのか。

彼は、美辞麗句を並べることや、難解な語彙を操ることではないと断言する。

その本質は、驚くほどシンプルだ。

文章が上手いというのは、つまりは、自分の書いた文章を客観的に読み直せるかどうか、であり、それは結局「視点」のシフト能力なのだ。自分以外の誰かになったつもりでそれが読める、架空の人物の視点で文章を読める、ということである。(P.139「第3章 文字を読む生活」)

文章の上手さの本質は、技術ではなく、認知のあり方にある。

書き手として没入している主観的な視点から一度離れ、その文章を初めて読むであろう、何も知らない他者の視点へと、意識的に切り替える能力。

これこそが、独りよがりではない、真に「伝わる」文章を書くための鍵となる。

時間をおいて読み返す、声に出して読んでみる、プリンタで印刷して客観視する。

これらの古典的な推敲方法が有効なのは、それらが物理的に「視点のシフト」を助けてくれるからに他ならない。

これは文章作成に関わるすべての人にとって、心に深く刻むべき金言である。

これほどまでに精力的な知的活動を長年にわたって続ける彼は、さぞかし頑健な肉体の持ち主だろうと誰もが想像するだろう。

しかし、事実はその逆である。

しかし、躰が丈夫ではないので、あまり体力を消耗する作業に向いていない。(P.146「第3章 文字を読む生活」)

この意外な告白は、我々に大きな勇気を与えてくれる。

彼の驚異的なアウトプットは、恵まれた体力や根性論に頼ったものでは決してない。

それは、自らの体質を冷静に受け入れた上で、無駄を徹底的に排した知的な効率性と、自らの活動を完全にコントロールできる環境。

そして何よりも「好きだからやる」という純粋で強い意志によって成り立っているのだ。

彼の生き方は、知的活動における「持続可能性(サステナビリティ)」の、一つの理想的なモデルを示しているのである。

読みやすさの罠と価値ある読書の未来

現代社会は、あらゆる場面で「わかりやすさ」「簡単さ」「手軽さ」を追求する。

ビジネス書には「これだけ読めばわかる」「たった5分で」といったキャッチコピーが溢れ、情報は図解や漫画で消化しやすく加工される。

しかし、森博嗣はその風潮に、静かだが断固とした態度で警鐘を鳴らす。

彼は、プロの作家として、読者が求める「読みやすい」作品をビジネスとして書きながらも、自らがインプットとして求める本には、全く異なる基準を設けている。

本は、読みやすい方が売れるから、僕は(ビジネスとして)そういう作品を書いているけれど、自分が読む本には、読みやすさは求めない。むしろ読みにくい本、読み甲斐がある本の方が面白い確率が高い。(P.197「第5章 読書の未来」)

「すっと入ってくる」わかりやすい文章を、彼は「流動食」にたとえる。

抵抗なく栄養を摂取できるが、そればかりを続けていては、自らの歯で固いものを噛み砕き、消化する力、すなわち「思考する力」は確実に衰えていく。

本当に価値のある読書体験とは、簡単には理解できない難解な文章と対峙し、何度も立ち止まり、考え込み、時には他の文献を参照しながら、自分自身の力でその意味を能動的に掴み取ろうとする、骨の折れるプロセスの中にこそ存在するのだ。

安易さに流され、誰もが同じような「わかりやすい」情報ばかりを摂取していては、社会全体の知性は確実に低下し、人々の思考は均質化・画一化していく。

その結果生まれるのは、複雑な物事を単純な二元論でしか捉えられず、自らの頭で考えることを放棄し、権威や情緒的なスローガンに盲従する、没個性的な大衆である。

だからこそ、森博嗣は「読みにくい本」「読み甲斐がある本」に挑戦することの重要性を説く。

それは、思考の筋力を鍛えるための、孤独で苦しい、しかしこの上なく重要なトレーニングなのである。

森博嗣の思考から学ぶ、これからの読書の価値

本書『読書の価値』を通して、我々の前に浮かび上がってくるのは、森博嗣という人物が、極めて優れた「ビジュアルシンカー」であり、鋭利な論理的思考と、詩や漫画にも感動する豊かな感性を矛盾なく両立させた、稀有な天才であるという事実だ。

彼の思考プロセスは、おそらく頭の中にまず、世界の構造や物事の関係性を表す三次元的なモデルや設計図を構築し、それを後から言語という一次元の情報に変換・出力するという形を取っているのだろう。

だからこそ、彼の文章は無駄がなく、極めて構造的でありながら、時に読者の意表を突くような飛躍を見せるのだ。

1日に16時間もの時間を、苦役としてではなく、自らの純粋な喜びとして研究に没頭できたのは、彼が「やらされる」のではなく、自ら「選択」し、その環境を完全に「コントロール」していたからに他ならない。

この徹底した「自己選択」と「自己コントロール」こそが、彼の驚異的な知的生産性の源泉であり、我々が現代を生きる上で最も学ぶべき姿勢である。

『読書の価値』は、我々に読書のあり方を、そして知性との向き合い方を根本から問い直させる。

本を選ぶとは、他人の評価に流されず、自分の人生の方向性を自ら決めること。

自分のお金で本を買うとは、その選択に主体的な責任を持つこと。

そして、難解な本と格闘するとは、安易な道を選ばず、自らの思考力を不断に鍛え上げるという決意の表明である。

情報がこれほどまでに民主化され、誰もが瞬時にあらゆる知識にアクセスできるようになった現代だからこそ、逆説的に、その他大勢と同じ情報に埋没し、思考停止に陥る危険性はかつてなく増している。

そんな時代に、自分だけの価値を創造し、代替不可能なオリジナリティーを発揮するためには、一体何が必要なのか。

その答えは、森博嗣が本書で指し示したように、自らの意思で、整備された観光地ではない、まだ誰も足を踏み入れていない知の荒野へと一人で踏み出すこと。

そして、自分だけのコンパスを頼りに、自分だけの地図を描いていく、という能動的で孤独な、しかしこの上なく豊穣な「読書」という営みの中にある。

本書は、そのための勇気と知恵を与えてくれる、確かな羅針盤となる一冊である。

書籍紹介

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