茨木のり子『うたの心に生きた人々』

茨木のり子の略歴

茨木のり子(いばらぎ・のりこ、1926年~2006年)
詩人。随筆家。
本名は、三浦のり子。旧姓は、宮崎のり子。
大阪府大阪市の生まれ。愛知県西尾市の育ち。西尾高等女学校(現在の西尾高等学校)を卒業。
帝国女子医学・薬学・理学専門学校(現在の東邦大学)の薬学部を卒業。

『うたの心に生きた人々』の目次

はじめに
与謝野晶子
1 堺そだちのむすめ
2 恋のうた
3 みだれ髪
4 君死にたもうことなかれ
5 妻として、母として
6 黄金の釘
高村光太郎
1 高村光雲のむすこ
2 パリでの人間開眼
3 父との対立
4 『智恵子抄』の背景
5 日本人の典型
山之口貘
1 ルンペン詩人
2 求婚の広告
3 貘さんの詩のつくりかた
4 ミミコの詩
5 沖縄へ帰る
6 精神の貴族
金子光晴
1 風がわりな少年
2 中退の青春
3 山師のころ
4 第一回の外遊
5 詩集『こがね虫』
6 海外放浪の長い旅
7 むすこの徴兵をこばむ
8 戦後になって
文庫版あとがき

与謝野晶子の略歴

与謝野晶子(よさの・あきこ、1878年~1942年)
歌人。作家。
本名は、与謝野志やう(やさの・しょう)。旧姓は鳳志やう(ほう・しょう)
堺県和泉国第一大区(現在の大阪府堺市堺区)の出身。
堺市立堺女学校(現在の大阪府立泉陽高等学校)を卒業。
歌人・与謝野鉄幹(よさの・てっかん、1873年~1935年)と結婚。

高村光太郎の略歴

高村光太郎(たかむら・こうたろう、1883年~1956年)
詩人。彫刻家。
本名は、高村光太郎(たかむら・みつたろう)。
東京の生まれ。東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)彫刻科を卒業。
父親は彫刻家・高村光雲(たかむら・こううん、1852年~1934年)

山之口貘の略歴

山之口貘(やまのくち・ばく、1903年~1963年)
詩人。
本名は、山口重三郎(やまぐち・じゅうさぶろう)。
沖縄・那覇の出身。沖縄県立第一中学校(現・沖縄県立首里高等学校)を中退。日本美術学校に入学するが後に中退。

金子光晴の略歴

金子光晴(かねこ・みつはる、1895年~1975年)
詩人。
本名は金子安和(かねこ・やすかず)。
愛知県海東郡越治村(現・津島市)生まれ。暁星中学校を卒業。早稲田大学高等予科文科、東京美術学校日本画科、慶應義塾大学文学部予科に学ぶも、いずれも中退。

『うたの心に生きた人々』の概要

1994年9月21日に第一刷が発行。ちくま文庫。295ページ。

1967年11月に、さ・え・ら書房より刊行されたものを文庫化。

晶子の髪はこわくて、油をつけると、いっそう、かたい感じに結いあがるのがいやだったのでしょう。晶子は油をほとんどつけないで髪を結いあげていました。そのためにほつれたり、みだれたりすることが多かったのです。(P.42「与謝野晶子」)

与謝野鉄幹は、与謝野晶子のそのようなみだれ髪さえ、愛しんで、歌にも詠んでいる。

秋風にふさわしき名をまいらせむ「そぞろ心の乱れ髪の君」(P.42「与謝野晶子」)

そのため、与謝野晶子は、第一歌集の題を『みだれ髪』としたという。

これは、全く知らなかった。何となく、もう少しエロティックなことなのかと思っていたから驚いた部分。まさか、与謝野晶子の髪質が由来だったとは。

これまでの日本の女のうたは、男性に愛される受け身の形が多かったのに、晶子はみずから愛し、愛されるという、もっと積極的な、豊かな、近代女性の解放を、三十一文字に託したといえましょう。(P.44「与謝野晶子」)

与謝野晶子の大きな特徴。これまでにも多くの女流歌人が、愛の歌をつくってきたが、与謝野晶子ほど、思いのままに大胆には、歌い上げていなかったという茨木のり子の指摘。

ちなみに、与謝野晶子の第一歌集『みだれ髪』は、1901年8月に出版。当時であっても、衝撃的であったことは、容易に想像できる。

現代であったとしても、なかなかセンセーショナルかもしれない。

詩は、ただ恋や星や、きらきらしたムードだけのものではありません。その生きた時代と深くかかわるとき、いのちがけのおそろしい仕事ともなるものです。(P.144「高村光太郎」)

詩についての深い考察が端的に述べられている。

ここでは第二次世界大戦中に戦争を賛美した「文学者の戦争責任問題」について記述が前部にある。

この点について、優れた評論を書いたのが、吉本隆明(よしもと・たかあき、1924年~2012年)と高村光太郎の二人だという。

二人とも詩人であったことは、特に注目すべきであると茨木のり子は言う。

博学と無学

あれを読んだか
これを読んだかと
さんざん無学にされてしまった揚句
ぼくはその人にいった
しかしヴァレリーさんでも
ぼくのなんぞ
読んでいない筈だ

博学をもって鳴ったフランスの詩人、ボウル・ヴァレリイでも、山之口貘の詩は読んではいまい。だったらかれも無学といえるんじゃないか。
まことにさっそうとした、胸のすくような、絶品の詩です。(P.180「山之口貘」)

山之口貘については、ほとんど知らなかった。この『うたの心に生きた人々』『詩のこころを読む』といった茨木のり子を通じて、知った人物。

茨木のり子は、山之口貘のたぐいまれなユーモアを指摘。国内外の詩からの影響は受けずに、自分の中から生まれた思想や言葉のみを使ったという。

「貧乏はしましたけれど、わたくしたちの生活にすさんだものはありませんでした。ともかく詩がありましたから……。」(P.195「山之口貘」)

上記は、山之口貘の妻である静江夫人の言葉。ここからも、山之口貘という詩人の人柄が伺える。また、その夫人の人柄も。

茨木のり子は、この言葉を、とても美しいと思うと書いている。確かに短い言葉の中に、美しさが詰まっている。

戦時中、自分の考えを曲げず、官憲にも屈服せずに生きぬいた人々は、文筆家だけにかぎってみると、詩人の金子光晴、秋山清、作家の永井荷風、宮本百合子、劇作家の久保栄など、ひとにぎりの、ごくごくわずかな人たちだけだったのです。(P.281「金子光晴」)

この文章の前には、太平洋戦争の終戦間際の金子光晴の描写。家族で、蓄音機を使いながらセント・ルイス・ブルースをかけて、踊り回ったという逸話。

山中湖畔に疎開していたフランス語学校アテネ・フランセの校長コット氏に対して、村人たちは外国人ということで手を差し伸べなかった。

だが、金子光晴夫妻は異国での放浪経験から、その心細さを知っていたので、身元引受人となったというエピソードも。

引用の中に出てきた人物を以下に解説。

秋山清(あきやま・きよし、1904年~1988年)は福岡出身の詩人。

永井荷風(ながい・かふう、1879年~1959年)は、東京出身の小説家・翻訳家。

宮本百合子(みやもと・ゆりこ、1899年~1951年)は、東京出身の小説家・評論家。

久保栄(くぼ・さかえ、1900年~1958年)は、北海道生まれ、東京育ちの劇作家。

『うたの心に生きた人々』の感想

詩人・茨木のり子が好きで、色々と読んでいる。
その中で読んだのが、今回の『うたの心に生きた人々』

この本は、与謝野晶子、高村光太郎、山之口貘、金子光晴の評伝。

分かりやすく丁寧な詩人の言葉で、茨木のり子が著している。漢字も少ないし、難しい言葉には括弧で簡易的な説明も付与している。配慮の行き届いた作品である。

今回の作品で、4人のざっくりとした生涯と作品に触れることができた。改めてじっくりと、それぞれの作品を読んでみたいと思った。

時代背景や家族関連の情報も豊富に記載して、その人物を浮かび上がらせている。作家が著述するノンフィクション的なものは、素晴らしい。

与謝野晶子に関しては、2019年に堺を訪れた際に、「さかい利晶の杜」に行ったり、生誕の地だか縁の地にも足を延ばしたりも。なかなか良かった。

詩が好きな人は、もちろんオススメである。また、詩とかよく分からないけれど、ちょっと興味があるといった人にもオススメの本。

書籍紹介

関連書籍

関連スポット

高村光太郎記念館

岩手県花巻市にある高村光太郎の記念館。高村光太郎は、1945年に岩手県花巻市に疎開。その後も生活した場所である。

公式サイト:高村光太郎記念館

三国路与謝野晶子紀行文学館

三国路与謝野晶子紀行文学館は、与謝野晶子がよく訪れていた群馬県利根郡に建てられた文学館。

公式サイト:三国路与謝野晶子紀行文学館

さかい利晶の杜

さかい利晶の杜は、堺にゆかりのある茶人・千利休(せんのりきゅう、1522年~1591年)と歌人・与謝野晶子をテーマに2017年に建てられた文化施設。

公式サイト:さかい利晶の杜

宮崎医院:茨木のり子

愛知県西尾市にある病院・宮崎医院。茨木のり子の父・宮崎洪(みやざき・ひろし、1897年~1963年)が開業。茨木のり子が育った場所。

公式サイト:宮崎医院

根府川駅:茨木のり子

神奈川県小田原市にある東海道本線の根府川(ねぶかわ)駅。詩「根府川の海」の題材。

浄禅寺:茨木のり子

山形県鶴岡市の浄土真宗本願寺派の寺院。公式サイトは特に無い。

夫・三浦安信(みうら・やすのぶ、1918年~1975年)と供に、茨木のり子のお墓がある。

ちなみに山形県鶴岡市は三浦安信の生まれ故郷。また鶴岡市の北側に隣接する東田川郡三川町は、茨木のり子の母であり、旧姓・大滝勝(おおたき・かつ、1905年~1937年)の生まれ故郷。

勝は鶴岡高等女学校(現・鶴岡北高等学校)を卒業している。