後藤正治の略歴
後藤正治(ごとう・まさはる、1946年~)
ノンフィクション作家。
京都府京都市の出身。大阪府立四條畷高等学校、京都大学農学部を卒業。
1985年に『空白の軌跡―心臓移植に賭けた男たちー』で潮ノンフィクション賞。1990年に『遠いリング』で講談社ノンフィクション賞。1995年に『リターンマッチ』で大宅壮一ノンフィクション賞。2011年に『清冽 詩人茨木のり子の肖像』で桑原武夫学芸賞。
茨木のり子の略歴
茨木のり子(いばらぎ・のりこ、1926年~2006年)
詩人。随筆家。
本名は、三浦のり子。旧姓は、宮崎のり子。
大阪府大阪市の生まれ。愛知県西尾市の育ち。西尾高等女学校(現在の西尾高等学校)を卒業。
帝国女子医学・薬学・理学専門学校(現在の東邦大学)の薬学部を卒業。
『清冽 詩人茨木のり子の肖像』の目次
第一章 倚りかからず
第二章 花の名
第三章 母の家
第四章 根府川の海
第五章 汲む
第六章 櫂
第七章 Y
第八章 六月
第九章 一億二心
第十章 歳月
第十一章 ハングルへの旅
第十二章 品格
第十三章 行方不明の時間
あとがき
解説 梯久美子
『清冽 詩人茨木のり子の肖像』の概要
2014年11月25日に第一刷が発行。中公文庫。300ページ。
2010年11月に刊行された単行本を文庫化したもの。
詩人・茨木のり子の生涯を、丹念に取材して描かれた評伝。父親、二人の母、夫、弟、甥、文学仲間、担当編集者といった人物達。そこから浮かび上がる茨木のり子の肖像。
十三章から構成されていて、章題には、茨木のり子の詩や詩集のタイトルがメインに使われている。
『倚りかからず』、『歳月』、『ハングルへの旅』は、詩集のタイトルでもある。
解説は、ノンフィクション作家の梯久美子(かけはし・くみこ、1961年~)。熊本県熊本市の生まれ、北海道札幌市の育ち。北海道大学文学部国文学科を卒業の人物。
『清冽 詩人茨木のり子の肖像』の感想
夫、母親、甥、友人たちとの人間関係から浮かび上がる茨木のり子の生涯。
本名、宮崎のり子。結婚して、三浦のり子。
愛知県の吉良吉田で育ったこと。茨木というペンネームは、歌舞伎の曲目から名付けられたなど知らなかった。
母親も夫も、山形県の出身。庄内が夫、隣町が母親である。
鶴岡市の加茂にある浄禅寺に、茨木のり子は夫ともに眠る。
最期の時も、書かれている。くも膜下出血で一度倒れ、怪我をしながら、二階のベッドに潜り込み、脳動脈瘤破裂で、そのまま逝去されたとのこと。
それより以前から、遺書や身の回りの片付けを行なっていたという。
茨木のり子が尊敬していた詩人の石垣りん(いしがき・りん、1920年~2004年)、金子光晴(かねこ・みつはる、1895年~1975年)。
詩人の仲間たちである川崎洋(かわさき・ひろし、1930年~2004年)、岸田衿子(きしだ・えりこ、1929年~2011年)、谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう、1931年~)。
非常に濃密で読みごたえのある内容である。
茨木のり子の足跡を詳細に辿ってみたいと思った著者の後藤正治。
いろいろと戸惑いや躊躇いはあったが、茨木のり子の生涯を追うことで、詩の解読の助けになるだろうと考えた。
さらに、より大きな理由は、その作業がたとえ徒労に終わったとしても、彼女のもつ固有の清冽なる精神の一端にふれることはできるだろうという確かな予感であった。(P.13「第一章 倚りかからず」)
この作品のタイトルにもなる“清冽”という言葉も出てくる。
そして、その作業を開始したのは、茨木のり子が亡くなった2006年の翌年である2007年春からだったという。
甥の宮崎治は、茨木のり子の晩年に、諸々のことを頼まれていた。
遺書で、また口頭でも、死後の処理を託されていた。遺体はすぐ荼毘に付すこと……通夜や葬儀や偲ぶ会などは無用……詩碑その他も一切お断りするように……死後、日数を経て親しい人々に「別れの手紙」を差し上げてほしい……。(P.36「第一章 倚りかからず」)
すべてが茨木のり子の精神性を表している内容である。
この辺りに関しては、茨木のり子が随筆などでも、詳しく書かれていたり、関連本などで「別れの手紙」なども写真が掲載されていたりもする。
ただ改めて凛とした佇まいを伺える。
また、父親が医師であり、夫も医師、弟、二人の甥も医師であった詩人・茨木のり子。
医者がまわりに多い中、実は詩と関連のある人物が身近となっていた。
甥の宮崎仁(みやざき・ひとし)の妻・真素美(ますみ)である。
大学で教鞭を執り、現代詩、とりわけ戦後詩の中心山脈を形成した「荒地グループ」をテーマとしてきた。茨木の甥の夫人が戦後詩専攻の研究者であったのはたまたまの偶然である。(P.203「第十章 歳月」)
本論とはあまり関係ないが、かなり興味を抱いた部分でもある。
宮崎真素美は、1964年に愛知県に生まれた人物。筑波大学大学院博士課程の文芸・言語研究科を修了している。
なかなか面白い人間関係である。
また、茨木のり子の経済状況に関する記述も。
夫・三浦安信の遺族年金が月十万円程度あった。不足する生活費を文筆業の収入によってまかなうことを茨木は生涯維持した。純然たる詩人では稀有のことであろう。(P.251「第十二章 品格」)
この辺りも、興味深い点である。
芸術家というか、そもそも、多くの人が、どのような収入状況であるか、というのは、大きく公表することはないので、不明瞭である。
夫である三浦安信(みうら・やすのぶ、1918年~1975年)が医師であり、健在の時には、そこまで生活には困らなかっただろうとは思う。
だからと言って、関連本の日記などを見る限り、とても裕福であったという感じでもないけれど。
加えて、既に1958年、茨木のり子が32歳の時に自宅を購入していたのも、生活基盤としては大きいのかも。
茨木のり子の法名や、その墓というか、三浦家の墓について。
墓石に刻まれた文字は「三浦家之墓」とのみある。三浦のり子の法名は「詩鏡院釋尼妙則」。遺族からとくに希望はなく、西方住職が名付けたものである。(P.288「第十三章 行方不明の時間」)
山形県鶴岡市加茂にある浄土真宗の寺院・浄善寺。
三浦安信が亡くなった時には先代の住職・西方正雄が納骨と供養を執り行なった。
『歳月』の「お経」には、音痴のお経をあげるユーモラスな僧として登場。
茨木のり子の際には、息子の住職・西方信夫が執り行なった。
ちなみに「詩鏡院釋尼妙則」は、「しきょういんしゃくにみょうそく」と読む。
ノンフィクション作家である梯久美子の解説も素晴らしい。
彼女の詩を刻んだ碑が立つことはないだろう。そうしたことはしないでほしいと、死後の処理を託した甥の宮崎治氏に言い残したと本書にある。詩人には、石碑より紙碑のほうがずっとふさわしい。清潔でさりげなく、しかし硬い芯を隠し持ったこの評伝を、茨木のり子そのひとも喜んでいるのではないだろうか。(P.300「解説 梯久美子」)
解説の最後の文章である。
茨木のり子のファンの一人としては、詩碑があったり、記念館でもあったりしたら嬉しいとは思うけれど。
“石碑”と“紙碑”の組み合わせも素敵な表現である。
茨木のり子が好きな人には、非常にオススメというか、必携、必読の一冊。
あるいは、詳しく茨木のり子のことを知りたいという初心者の方にも、じっくりと堪能できるノンフィクション作品である。
書籍紹介
関連書籍
関連スポット
宮崎医院
愛知県西尾市にある病院・宮崎医院。茨木のり子の父・宮崎洪(みやざき・ひろし、1897年~1963年)が開業。茨木のり子が育った場所。
公式サイト:宮崎医院
根府川駅
神奈川県小田原市にある東海道本線の根府川(ねぶかわ)駅。詩「根府川の海」の題材。
浄禅寺
山形県鶴岡市の浄土真宗本願寺派の寺院。公式サイトは特に無い。
夫・三浦安信と供に、茨木のり子のお墓がある。
ちなみに山形県鶴岡市は三浦安信の生まれ故郷。また鶴岡市の北側に隣接する東田川郡三川町は、茨木のり子の母であり、旧姓・大滝勝(おおたき・かつ、1905年~1937年)の生まれ故郷。
勝は鶴岡高等女学校(現・鶴岡北高等学校)を卒業している。