新田次郎の略歴
新田次郎(にった・じろう、1912年~1980年)
小説家。
本名は、藤原寛人(ふじわら・ひろと)で、気象学者。
長野県諏訪郡上諏訪町角間新田(かくましんでん)の生まれ。
旧制諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)、無線電信講習所本科(現在の電気通信大学の母体)、神田電機学校(現在の東京電機大学の母体)を卒業。
1956年に『強力伝』で直木賞、1974年に『武田信玄』等で吉川英治文学賞を受賞。
妻は、作家の藤原てい(ふじわら・てい、1918年~2016年)、次男は数学者の藤原正彦(ふじわら・まさひこ、1943年~)。
『芙蓉の人』の目次
芙蓉の人
あとがき
「芙蓉の人」は、1~15までに分かれている。
『芙蓉の人』の概要
2014年6月10日に新装版として第一刷が発行。文春文庫。283ページ。
題名の芙蓉の漢字は「ふよう」と読む。
1895年、富士山頂にて気象観測をするため、小屋を設けて籠もった野中到と妻・千代子の命を賭けた物語。
1971年4月に単行本として刊行。1975年5月に文春文庫として文庫化。
平凡社の『太陽』に1970年1月号から1971年3月号まで連載。
主要な登場人物は以下の二人。
野中到(のなか・いたる、1867年~1933年)…気象学者。福岡県生まれ。大学予備門を中退。中央気象台の協力を得て、富士山頂に観測所を建設。ペンネームとして「至」の漢字を使う場合も。『富士案内』を著す。
野中千代子(のなか・ちよこ、1871年~1955年)…野中到の妻。福岡県生まれ。夫を支えるために、富士山頂の観測小屋に一緒に籠もる。千代子の母・糸子は、到の父・勝良の姉。『芙蓉日記』、『芙蓉和歌集』を著す。
基本的には、野中千代子の視点が中心となる。
題名となる『芙蓉の人』は、野中千代子が残した『芙蓉日記』から。さらに千代子夫人にも由来。
小説の題名『芙蓉の人』は、千代子夫人の芙蓉日記からヒントを得たものだったが、千代子夫人の当時の写真を見ても、『芙蓉の人』と云われてもいいほどの美しい人であり、心もまた美しい人だったからこの題名にした。(P.283「あとがき」)
では、何故『芙蓉日記』であったのかは、富士山は、芙蓉の花になぞらえて、芙蓉峰(ふようほう)とも呼ばれるためかと推測。
この点に関しては、特に記述は無い。
ちなみに、芙蓉(ふよう)とは、アオイ科フヨウ属の落葉低木。学名では、Hibiscus mutabilisと表記される。漢名では、木芙蓉(もくふよう)。
現在では、野中到と野中千代子の著作が『富士案内 芙蓉日記』という合本として出版されている。
『芙蓉の人』の感想
新田次郎は、山岳小説と呼ばれるのは好まなかったらしいが、やはり、山に関する自然描写や人間の心理描写が素晴らしい。
新田次郎自身も、本名・藤原寛人として、気象学者であり、さらに富士山にも何度も登っている。
さらに、気象庁の職員として、富士山頂の気象レーダーの建設にも携わっている。
私は昭和七年から昭和十二年までの間に、年に三回ないし四回、一カ月間の交替で、富士山観測所に勤務した。通算滞頂日数は少なく見積っても四百日になるので、富士山の思い出は多いし、なんと云っても富士山観測所の産みの親ともいうべき野中宣誓についての関心は深かった。(P.278「あとがき」)
上記のように「あとがき」に詳しく書かれている。
昭和7年から昭和12年まで、つまり西暦では、1932年~1937年までの間に、富士山の山頂で、400日前後も過ごしているということ。
さらには、実際に野中到と一緒に富士山観測所で過ごしたり、また晩年を過ごしていた神奈川県茅ヶ崎市の住まいにも伺ったことがあるとのこと。
ただ、そのような実体験があったとしても、類まれな文才というか、筆力があるからこそでもあると思う。
「あとがき」にも書かれていたが、やはり、野中千代子をメインに描いたというのが、非常に大きな要素。
加えて、明治という時代背景。封建社会から変革。家や女性についての考え方など。
その当時の様子や状況なども、しっかりと描かれているため、より一層、物語に深みが出ているのかも。
いやはや、本当に素晴らしい。切ない場面や自然の脅威なども、とても胸に迫る。
『孤高の人』と同様にお気に入りの新田次郎の作品である。
新田次郎ファンや山岳小説好きな人だけではなく、物語や小説が好きな方々には、非常にオススメの作品。
書籍紹介
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関連スポット
野中到・千代子顕彰碑
静岡県御殿場市にある野中到と野中千代子の顕彰碑。