『鷗外と茂吉』加賀乙彦

加賀乙彦の略歴

加賀乙彦(かが・おとひこ、1929年~2023年)
小説家、精神科医、医学者(犯罪心理学)。本名は、小木貞孝(こぎ・さだたか)。
東京都港区三田の生まれ。大久保小学校、東京府立第六中学校、名古屋陸軍幼年学校に入学。終戦により東京府立第六中学校に復学。旧制都立高等学校理科に編入学し卒業。東京大学医学部を卒業。東大病院精神科、東大脳研究所、東京拘置所医務部技官を経て、フランスに3年間の留学。1967年『フランドルの冬』でデビューし、翌1968年に芸術選奨新人賞を受賞。

『鷗外と茂吉』の目次

森鷗外
『高瀬舟』と安楽死
ビールの利尿作用
毒パンとルードヴィヒ二世
ベルリンの下水道
悲哀と諦念の空車
脚気と陸軍の悲劇
コッホのお墨付き
鷗外と漱石の「猫の家」
テエベス百門の大都
『歴史其儘と歴史離れ』の意義
『かのように』
鷗外の墓
憤怒の文学
森於菟と「猫の家」
鷗外の雅号の由来

斎藤茂吉

鷗外と茂吉
「神経学雑誌」の文献抄録
緊張病
進行麻痺への情熱
茂吉の性格
精神科医と歌人
医学者と歌人
「実相に観入」

木下杢太郎

茂吉と杢太郎
癜風菌の培養
「パンの会」
名教授

水原秋桜子

茂吉と秋桜子
医師から俳人へ
学位論文と処女句集
「文芸上の真」と「実相に観入」
長寿の秘訣
医学の文章と文学の文章

上田三四二と藤枝静男

多忙な医師生活と閑暇
癌の告知
藤枝静男をしのぶ会
『イペリット眼』の眼力

チェーホフ

医学生チェホンテ
医学は正妻、文学は情婦
一匹の豚とサハリン島
駄目な医者と利口な患者
医者が患者になる話
医師の誇りと『弟子』批判

カロッサとデュアメル

よくはやる開業医の苦悩
軍医の文学
医師と芸術家
外科医の見た日本

ぼく自身のこと あとがきにかえて

概要

1997年7月5日に第一刷が発行。潮出版社。204ページ。ハードカバー。127mm×188mm。四六判。

P.201の「ぼく自身のこと あとがきにかえて」に書かれているが、雑誌「SCOOP」に「心と医と文」というタイトルで、1993年1月号から1996年12月号までの4年間にわたった連載を編集し直したもの。

以下、各章の人物について。

森鷗外(もり・おうがい、1862年~1922年)…小説家、陸軍軍医。本名は、森林太郎(もり・りんたろう)。島根県津和野町の出身。御典医の家系に生まれる。1872年に上京。東京大学医学部を卒業。

斎藤茂吉(さいとう・もきち、1882年~1953年)…歌人、精神科医。短歌結社誌『アララギ』の中心人物。山形県上山市の生まれ。1896年に上京。東京帝国大学医科大学を卒業。

木下杢太郎(きのした・もくたろう、1885年~1945年)…詩人、劇作家、翻訳家、皮膚科の医学者。本名は、太田正雄(おおた・まさお)。静岡県伊東市の出身。1898年に上京。東京帝国大学医科大学を卒業。

水原秋桜子(みずはら・しゅうおうし、1892年~1981年)…俳人、産婦人科の医師。本名は、水原豊(みずはら・ゆたか)。東京都千代田区神田の生まれ。産婦人科医の家庭に生まれる。東京帝国大学医学部を卒業。

上田三四二(うえだ・みよじ、1923年~1989年)…歌人、小説家、文芸評論家。結核を専門とする内科医。兵庫県小野市の出身。京都帝国大学医学部を卒業。

藤枝静男(ふじえだ・しずお、1907年~1993年)…作家、眼科医。本名は、勝見次郎(かつみ・じろう)。静岡県藤枝市の出身。成蹊学園から名古屋の旧制第八高等学校を経て、1936年に千葉医科大学(現在の千葉大学医学部)を卒業。静岡県浜松市で眼科医院を営みながら作家活動を継続。

アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(Anton Pavlovich Chekhov、1860年~1904年)…ロシアの劇作家、小説家、医師。ロシアのタガンログの出身。モスクワ大学医学部を卒業。アントーシャ・チェホンテの筆名も。

ハンス・カロッサ(Hans Carossa、1878年~1956年)…ドイツの小説家、詩人、開業医。ドイツのバイエルン州の生まれ。代々医者の家系。ミュンヘン大学、ヴュルツブルク大学、ライプツィヒ大学で医学を修める。

ジョルジュ・デュアメル(Georges Duhamel、1884年~1966年)…フランスの作家、詩人、医師。フランスのパリの生まれ。医学大学を卒業。第一次世界大戦では、野戦外科医に。

感想

出先の図書館の展示コーナーで見つけた『鷗外と茂吉』

もともと森鴎外は好きで色々と読んだり、東京と島根にある記念館に訪れたりしていた。

目次を見てみると、森鴎外のことを尊敬していた木下杢太郎についても書かれている。

木下杢太郎記念館に行ったばかりのタイミングで興味が湧く。

斎藤茂吉については、もちろん名前は知っていたが、あまり知識は無かった。

ただ、種田山頭火(たねだ・さんとうか、1882年~1940年)や、尾崎放哉(おざき・ほうさい、1885年~1926年)、その二人の師である荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい、1884年~1976年)に関連した本を読み終えていたので、俳人には関心が高まっていた。

水原秋桜子の名前もある。あとは、加賀乙彦の作品も始めてで、色々と面白うそうだ、ということで、購入して読んでみた、という流れ。

「もちろん、これはペッテンコーファーの水ですもの」と答えました。
ぼくはびっくりし、同時に心から嬉しく思いました。ペッテンコーファーとは鷗外の衛生学の先生だったからです。(P.13「森鷗外:ビールの利尿作用」)

加賀乙彦が、森鷗外の足跡を訪ねて、ドイツのバイエルン州の州都ミュンヘンの空港に近い宿で、水道水が飲めるかどうかを訊いた時のエピソード。

マックス・ヨーゼフ・フォン・ペッテンコーファー(Max Josef von Pettenkofer、1818年~1901年)は、ドイツ(バイエルン王国)の衛生学者、化学者。ミュンヘン大学にドイツ初の衛生学講座を設立してその教授を務め、「近代衛生学の父」「環境医学の父」「実験衛生学の父」とも呼ばれる人物。

その関連で出てくるのが森鷗外の孫で、医学博士の森眞章(もり・まくす、1919年~2000年)。

マックス・ヨーゼフ・フォン・ペッテンコーファーの「マックス」から「まくす」と森鴎外から名付けられている。

いやはや面白い。

私が鷗外のこの態度に関心をもったのは、海軍軍医であった私の母方祖父の古い日記を読んだときからです。日露戦争のあいだ装甲巡洋艦八雲の軍医であった祖父は克明な日記を残していました。(P.30「森鷗外:脚気と陸軍の悲劇」)

脚気の問題に対して、陸軍軍医・森鷗外はドイツ医学で一般的だった細菌感染によるものと考えていたと同時に、イギリスの実用主義的な医学を重んじる海軍への対抗意識があったのだろうと。

ここで出てくるのが、海軍軍医の高木兼寛(たかき・かねひろ、1849年~1920年)。海軍の食事を米食から西洋食に切り替えて、脚気の罹患者を激減させた人物。

陸軍は脚気の患者、及び死者も増加していったという時代背景。

加賀乙彦の祖父・野上八十八(のがみ・やそはち、1876年~没年不詳)も医師だったのか。

ちなみに、医師・細菌学者の野口英世(のぐち・ひでよ、1876年~1928年)と同時期に済生学舎(現在の日本医科大学)で学び、二人共1897年に医術開業試験に合格している。

さまざまな人物が意外と近場で絡んでいるのも興味深い。

森鷗外はテエベス百門の大都である。東門を入つても西門を窮め難く、百家おのおの其一両門を視て而して他の九十八九門を遺し去るのである。(P.41「森鷗外:テエベス百門の大都」)

木下杢太郎の『森鷗外』(1932年)からの引用している部分。あまりにも多くの分野で活躍した森鴎外を表現した言葉。

テエベス(テーベ)とは、古代エジプトの都市のこと。古代ギリシアの詩人・ホメロス(Homerus、紀元前8世紀頃)は『イリアス』で、テーベを「100の門を持つ」と、その繁栄を詩にしている。

その言葉を受けて、森鴎外については、多くの学者が、自分の専門分野だけで凄いと思っても、他の多くの分野が残っていて、ほんの一部しか理解できないことを示している。

森鴎外、マジで格好良い。そして、この表現をした木下杢太郎も。

茂吉は鷗外を深く尊敬し、その文業についても、いろいろな機会に言及しています。(P.71「斎藤茂吉:鷗外と茂吉」)

これは全く知らなかった。というか斎藤茂吉については、ほとんど知らなかったんだけれど。

そして、斎藤茂吉と、森鴎外の長男で医師の森於菟(もり・おと、1890年~1967年)が、同時期にドイツ留学していたのも、なかなかの偶然である。

その他に、斎藤茂吉は俳人・歌人の正岡子規(まさおか・しき、1867年~1902年)も尊敬していたという。

正岡子規の客観的な「写生」の基本を肯定しつつ、さらに主観を含めて「観入」する、つまり、対象に深く入り込んで、正しく認識することを説いている。

なかなか深い文章が多い。斎藤茂吉に関連した本も読み進めていきたいと思う。

とくに鷗外と茂吉のドイツ語の論文、杢太郎のフランス語の論文を、初めて読み通して、大きな啓発を受けました。(P.201「ぼく自身のこと あとがきにかえて」)

まぁ、森鴎外はドイツ語が非常に上手いのは聞いたことがった。斎藤茂吉についても、この本で知ったけれどドイツ留学しているし。

いや、そもそも、この当時の第一高等学校第三部がドイツ語主体で教育しているから、ドイツ語が出来て当然なのか。

木下杢太郎も1921年~1924年に米欧に留学、主にフランスで研究していたようだから、フランス語が出来るのか。

全員、凄すぎ。

でだ、加賀乙彦も、ドイツ語もフランス語も出来るのか。

全員、凄すぎ。

自分もせめて英語くらいは出来るようにしていきたいところ。日本語もギリギリだけど。

往復二時間の電車内で文庫本を読むのが日課でした。二時間で文庫本の小説を二百ページ読めます。これを医学生時代、医師になってからも十数年継続したところ、古今東西のめぼしい文学をほぼ読破することができました。(P.202「ぼく自身のこと あとがきにかえて」)

先述の部分と同様に、さらっと驚異的なことが書かれている。

旧制高等学校時代に、趣味として、文学への関心がわいたという加賀乙彦。

以降、上記の習慣を日々繰り返す。そして、30代の半ばで小説を書き出したという。

ざっくり、1時間で文庫本を100ページって、相当な速さのような気がするけれど。いや、これだけ頭の良い人を、自分の尺度で計ってはいけないか。自分が遅読なだけなのだろうか。

このように、著者が当たり前のように書いている箇所に、驚きがある。本人は自然のことだと思っているから、尚更、衝撃が大きいんだけれど。

全体を通して、とても内容が濃くて楽しめる。そこまで多くはないけれど、医学系の話は結構、難しい。

あとはチェーホフが医師だったことをすっかり忘れていた。また作品を読み返そうかな。

また加賀乙彦の文章がこれほど読みやすいとは思わなかった。職業柄、論理が明確であるからか。

というわけで、加賀乙彦をはじめ、森鴎外や斎藤茂吉、その他、各章の人物に興味のある方には、非常にオススメの本である。

書籍紹介

関連スポット

森鴎外記念館(観潮楼跡・東京都)

東京都文京区千駄木にある森鴎外の記念館。森鴎外が晩年を過ごした旧宅・観潮楼の跡地。

公式サイト:森鴎外記念館

森鷗外記念館(島根県)

島根県鹿足郡津和野町にある森鴎外の記念館。森鴎外の生まれ育った場所であり、森鴎外旧宅もある。

公式サイト:森鷗外記念館

斎藤茂吉記念館

山形県上山市北町にある斎藤茂吉の記念館。斎藤茂吉の生まれ育った場所。

公式サイト:斎藤茂吉記念館

木下杢太郎記念館

静岡県伊東市湯川にある木下杢太郎の記念館。木下杢太郎の生まれ育った場所で、生家も保存されている。

公式サイト:木下杢太郎記念館

藤枝市郷土博物館・文学館:藤枝静男

静岡県藤枝市若王子にある博物館と文学館。藤枝静男の生まれた場所であり、展示もある。

公式サイト:藤枝市郷土博物館・文学館

「A.P.チェーホフ」サハリン島文学記念館

ロシア・ユジノサハリンスク市ミーラ通りにあるチェーホフの文学記念館。チェーホフは1890年4月~12月にかけて、サハリン島を旅して『サハリン島』を出版。

公式サイトは不明。