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猪瀬直樹『昭和23年冬の暗号』あらすじ・感想

猪瀬直樹『昭和23年冬の暗号』表紙

  1. 1948年12月23日のA級戦犯処刑と天皇誕生日の重なりと、戦後日本の流れ。
  2. 天皇制維持という戦略的判断で占領コスト抑制と、敗戦直後の政治的攻防。
  3. 東條英機の自殺未遂や、アメリカ人弁護士の法的論理など。
  4. 天皇の慰霊旅と歴史の重みを背負った覚悟と行動。

猪瀬直樹の略歴・経歴

猪瀬直樹(いのせ・なおき、1946年~)
作家。
長野県飯山市の生まれ、長野市の育ち。信州大学教育学部附属長野小学校、信州大学教育学部附属長野中学校、長野県長野高等学校を経て、信州大学人文学部経済学科を卒業。明治大学大学院政治経済学研究科政治学専攻博士前期課程で日本政治思想史を研究。
1987年に『ミカドの肖像』で第18回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。

『昭和23年冬の暗号』の目次

プロローグ
第1章 子爵夫人
第2章 奥日光の暗雲
第3章 アメリカ人
第4章 天皇の密約
第5章 四月二十九日の誕生日
第6章 退位せず
終章 十二月二十三日の十字架
文春文庫版のためのあとがき
参考文献
解説 梯久美子
予測できない未来に対処するために 文庫再刊によせて

『昭和23年冬の暗号』の概要・内容

2021年6月25日に第一刷が発行。文春文庫。296ページ。

文春文庫版では、巻末に「予測できない未来に対処するために 文庫再刊によせて」を増補、改題している。

2009年11月に文藝春秋から単行本『ジミーの誕生日』として刊行。

2011年12月に文春文庫『東条英機 処刑の日 アメリカが天皇明仁に刻んだ「死の暗号」』として文庫化。

解説は、ノンフィクション作家の梯久美子(かけはし・くみこ、1961年~)。

熊本県熊本市の生まれ。北海道札幌市の育ち。北海道札幌藻岩高等学校、北海道大学文学部国文学科を卒業。2006年に『散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道』で第37回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。

『昭和23年冬の暗号』の要約・感想

  • 奥日光に漂う敗戦の影
  • マッカーサーが天皇を残した本当の理由
  • A級戦犯は「ランクが高い」という誤解
  • 東條英機の誤算と指導者たちの責任
  • 東京裁判の矛盾を突いたアメリカ人弁護士
  • 天皇の慰霊に込められた凄味とは
  • 「残虐ではないが残忍」な支配システム
  • 歴史の暗号を読み解き未来に備える

12月23日。

この日付にどのようなイメージを持つだろうか。多くの日本人にとっては、平成の時代の天皇誕生日として記憶に新しいかもしれない。

しかし、この日付が持つもう一つの、そしてあまりにも重い意味を知る人は、決して多くはないだろう。

昭和23年(1948年)12月23日、巣鴨プリズンで東條英機(とうじょう・ひでき、1884年~1948年)ら7名のA級戦犯が処刑された日なのである。

作家である猪瀬直樹(いのせ・なおき、1946年~)の著作『昭和23年冬の暗号』は、この二つの出来事が奇妙に重なり合う歴史の深淵を、鋭い筆致で解き明かしていくノンフィクションである。

本書は、2009年に単行本『ジミーの誕生日』として刊行され、その後『東条英機 処刑の日』と改題、そして現在の書名へと変更されてきた経緯を持つ。

それぞれのタイトルが、本書の持つ多層的なテーマを象徴しているかのようだ。

本書は、単なる歴史の記録ではない。

GHQによる占領下の日本で、水面下で繰り広げられた政治的な駆け引き、そして後の平成の世にまで続く「暗号」の謎に迫る、一級の歴史ドキュメントだ。

なぜ、A級戦犯の処刑は、当時15歳であった皇太子明仁(あきひと、1933年~)の誕生日に執行されなければならなかったのか。

この問いを入り口に、我々は戦後日本の原点へと旅立つことになる。

奥日光に漂う敗戦の影

物語は、敗戦の色が濃くなった昭和20年(1945年)の夏、奥日光の静かな風景から始まる。

そこには、学習院の生徒たちが疎開していた。その中には、もちろん皇太子明仁の姿もあった。

戦争の喧騒から隔離されたかのような山間の地にも、確実に終焉の足音は近づいていた。

本書の冒頭で描かれるのは、終戦間際の皇太子とその周辺の人物たちの姿。

特に印象的なのは、側近たちの苦悩である。

彼らは、来るべき敗戦と、その後の日本の姿、そして何よりも皇室の未来を案じていた。

玉音放送が流れる8月15日。

その日を迎えるまでの数日間は、日本の歴史上、最も緊迫した時間だったと言えるだろう。

ポツダム宣言の受諾を巡り、政府と軍部は激しく対立。

一部の若手将校たちは、降伏を阻止すべくクーデター未遂事件(宮城事件)まで引き起こした。

この事件で、近衛師団長であった森赳(もり・たけし、1894年~1945年)中将らが殺害されている。

こうした混乱と犠牲の果てに、ようやく戦争は終わった。

しかし、それは新たな混乱の始まりに過ぎなかった。

猪瀬は、奥日光という限定的な空間から、敗戦という巨大な歴史の転換点を巧みに描き出す。

それは、来るべき占領期において、天皇という存在がいかに重要な意味を持つことになるかを予感させる、静かながらも緊張感に満ちた幕開けである。

マッカーサーが天皇を残した本当の理由

日本の敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の最高司令官として日本に降り立ったダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur、1880年~1964年)。

厚木飛行場に降り立った彼の姿は、サングラスにコーンパイプという、あまりにも有名なイメージで語られる。

彼の占領政策は、その後の日本の形を決定づける極めて重要なものだった。

その中でも最大の焦点の一つが、天皇制の存廃問題である。

本書では、マッカーサーが天皇制を維持するという決断に至った背景が、鋭く考察されている。

それは、単なる温情や日本文化への配慮といった感傷的なものではなかった。

極めて冷静で、合理的な計算に基づいた戦略的判断だったのである。

僕はどこかでマッカーサーは、確信したと思うんだ。天皇を温存すれば秩序が維持できる、日本占領のコストを下げることができる、とね(P.119「第3章 アメリカ人」)

この推察は、当時の状況を考えれば非常に的を射ている。

もし天皇制を廃止し、昭和天皇(しょうわてんのう、1901年~1989年)を戦犯として裁けば、日本国民の間に激しい抵抗と混乱が巻き起こることは必至だった。

そうなれば、占領統治は困難を極め、膨大なコストと人的資源を投入せざるを得なくなる。

マッカーサーは、天皇という存在が日本の社会秩序を維持するための「要石」であることを見抜いていた。

天皇を頂点とする既存の統治機構を利用することで、スムーズかつ低コストで日本を支配できる。

これこそが、彼の慧眼であり、占領政策の根幹をなすものだったのである。

驚くべきは、アメリカ本国ですら、日本の降伏がこれほど早いとは予測していなかったという事実だ。

アメリカのワシントンでも、またマッカーサー自身も、ついこの間まで、ヒトラーが自殺してナチス-ドイツが降伏したときにさえ、日本との戦争の終結はまだ先で戦闘は昭和二十一年(一九四六年)の秋までつづくものと見積もられていた。(P.120「第3章 アメリカ人」)

ナチス・ドイツの降伏後も、日本との戦争はさらに一年以上続くと考えられていた。

しかし、歴史は予想をはるかに超える速度で進む。

ニューメキシコ州の砂漠で原爆実験に成功したのは一九四五年七月十六日だった。その後の経過は予想をはるかに上回るスピードで進んだ。それでも日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏をするとしても真夏ではないとみられていた。(P.120「第3章 アメリカ人」)

1945年7月16日の原爆実験成功から、8月6日の広島、9日の長崎への投下まで、わずか1ヶ月にも満たない。

この圧倒的な破壊力の前に、日本はポツダム宣言を受諾し、戦争は終結した。

この急展開の中で、マッカーサーは即座に日本の統治システムの本質を理解し、天皇制の維持という最適解を導き出した。

彼の判断力と分析力の高さがうかがえるエピソードである。

A級戦犯は「ランクが高い」という誤解

東京裁判、正式には極東国際軍事裁判。

この裁判によって、日本の戦争指導者たちが裁かれた。

しかし、「A級戦犯」という言葉の響きから、多くの人が「B級やC級よりも罪が重い、ランクが高い犯罪者」という誤解を抱いているのではないだろうか。

本書は、その根本的な誤解を丁寧に解きほぐしてくれる。

A級戦犯に元首相や大将が多かったので、B級やC級よりランクが高いと誤解されているが、罪別に分類したにすぎない。「平和に対する罪」がA級である。B級は捕虜や非戦闘員に対する残虐行為で、これまでと同じである。フィリピンの「バターン死の行進」が捕虜の虐待にあたり、のちに山下大将や本間中将が処刑されることになる。C級はすべての民間人に対する残虐行為(ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺はこれにあたる。「人道に対する罪」という概念が生まれた)である。(P.189「第5章 四月二十九日の誕生日」)

つまり、A級、B級、C級というのは、罪の軽重によるランク付けではなく、単なる「罪状の分類」に過ぎないのである。

それぞれの定義を整理すると、以下のようになる。

  • A級戦犯:「平和に対する罪」。侵略戦争を計画、準備、開始、遂行した指導者層が対象。
  • B級戦犯:「通例の戦争犯罪」。捕虜の虐待など、従来の戦時国際法に違反する行為。
  • C級戦犯:「人道に対する罪」。ユダヤ人虐殺のような、民間人に対する大規模な残虐行為。

「平和に対する罪」や「人道に対する罪」という概念は、それまでの国際法には存在しなかった。

第二次世界大戦の惨禍を経て、ナチス・ドイツを裁くニュルンベルク裁判で初めて導入され、それが東京裁判にも適用されたのである。

これは、戦争そのものを犯罪と見なすという、画期的な考え方だった。

しかし、それは同時に「勝者による裁き」という側面を色濃く持つものであり、多くの法的な矛盾をはらむことになった。

東條英機の誤算と指導者たちの責任

A級戦犯の象徴として、多くの人がまず思い浮かべるのが東條英機だろう。

彼はGHQによる逮捕を前に、拳銃による自殺を図ったが、未遂に終わった。

この自殺未遂には、一つの皮肉な真相が隠されていた。

医師のつけたしるしは正確なもので、自殺未遂後の診断書によると、しるしをつけた部分は心臓の先端部を撃つのに適していたが、東條の心臓は細長く幅が狭かったばかりに、わずかに外れたと指摘されている。(P.156「第4章 天皇の密約」)

以前から自決の覚悟を決め、心臓の位置に墨でしるしをつけていたという東條。

しかし、彼の心臓が一般的な形状と異なっていたために、弾丸はわずかに逸れ、致命傷にはならなかった。

さらに、彼は左利きであったため、不慣れな右手で引き金を引いた際の反動で銃口がぶれたという説もある。

国家の命運を左右する指導者であった人物の最期としては、あまりにもお粗末な幕切れと言わざるを得ない。

しかし、この一件を単に東條個人の失態として片付けてしまうことはできない。

彼を首相の座に押し上げ、戦争へと突き進んでいった当時の指導者層。

そして敗戦が濃厚になると、全ての責任を彼一人に押し付けようとした者たちの存在を忘れてはならない。

歴史を振り返る時、一人の象徴的な人物に全ての罪を負わせるのではなく、その背景にある構造的な問題や、周囲の人間の醜悪さにも目を向ける必要があるだろう。

東京裁判の矛盾を突いたアメリカ人弁護士

「勝者による裁き」であった東京裁判。

その法廷で、裁判の本質的な矛盾を鋭く指摘した一人のアメリカ人弁護士がいた。

彼の名は、ベン・ブルース・ブレイクニー(Ben Bruce Blakeney、1908年~1963年)。

東郷茂徳(とうごう・しげのり、1882年~1950年)、梅津美治郎(うめづ・よしじろう、1882年~1949年)の弁護人を務めた彼は、法廷で衝撃的な発言を行う。

それから、「真珠湾爆撃による殺人罪を問うならば」と言い、かなり間をおいて、声を低めて、ゆっくりと右手の掌をうえにひろげてから衝撃的な発言をした。
「我われはヒロシマに原爆を投下した者の名をあげることができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前も我われは承知している」(P.224「第六章 退位せず」)

この言葉は、法廷に静まり返るほどの衝撃を与えた。

ブレイクニーが主張したのは、もし日本の指導者たちが「平和に対する罪」で裁かれるのであれば、同様に広島・長崎に原子爆弾を投下したアメリカの指導者たちも裁かれなければ、法の下の平等は成立しない、という純粋な法理論だった。

真珠湾攻撃が計画的な殺人であるならば、数十万人の非戦闘員を無差別に殺戮した原爆投下もまた、殺人ではないのか。

彼のこの弁論は、東京裁判が抱える根本的なダブルスタンダードを白日の下に晒した。

もちろん、この主張によって判決が覆ることはなかった。

しかし、戦勝国の論理で構築された裁判の中で、一人の弁護士が法の正義を問い続けたという事実は、記憶されるべきである。

皮肉なことに、ブレイクニーは戦後も日本に留まったが、1963年に自身が操縦するセスナ機の事故で、若くしてその生涯を閉じている。

天皇の慰霊に込められた凄味とは

本書は、昭和天皇、そして上皇となった明仁天皇の、戦没者慰霊の旅にも光を当てている。

その旅は、単なる形式的なものではなく、凄味すら感じさせるほどの覚悟に満ちたものだった。

解説を担当した梯久美子(かけはし・くみこ、1961年~)は、その一端を紹介している。

硫黄島とサイパンと沖縄では、天皇の慰霊のための行幸の道筋を実際にたどって取材をし、報道されていない事実がずいぶんあることを知った。たとえば沖縄では、有名なひめゆり学徒隊の陰に隠れ、ほとんど知る人のいない、ずゐせん学徒隊の生存者の声に応えて、小さなその慰霊碑を訪れている。(P.273「解説 梯久美子」)

沖縄戦と言えば、多くの人が「ひめゆりの塔」、「ひめゆり学徒隊」を思い浮かべるだろう。

しかし、同じように動員され、半数以上が犠牲になった「瑞泉(ずいせん)学徒隊」の存在を知る人は少ない。

天皇は、そうした歴史の陰に埋もれがちな人々の声に耳を傾け、その魂を慰めるために足を運んだ。

その慰霊の旅は、常に平穏なものではなかった。

皇室カメラマンとして長年慰霊の旅に同行し、皇太子時代の昭和五十年に沖縄のひめゆりの塔で火炎瓶を投げられたときも、皇后がバッシングのため声が出ない状態で硫黄島におもむいたときも現場にいた人は、慰霊に賭ける天皇の姿には、ある種の凄味があったと私に語った。(P.273「解説 梯久美子」)

皇太子時代に沖縄で火炎瓶を投げつけられるという衝撃的な事件。

それでもなお、翌日の日程を変更せず、ハンセン病療養所への訪問を続けたという。

この揺るぎない姿勢はどこから来るのだろうか。

自身の誕生日である12月23日に、東條英機らが処刑されたという事実。

この「暗号」として刻まれた宿命を、一身に背負い続けてきたことと無関係ではないだろう。

その慰霊の姿には、自らが背負う歴史の重みと向き合い続ける、悲壮なまでの覚悟が滲み出ているのである。

「残虐ではないが残忍」な支配システム

本書の終盤、猪瀬は視点を広げ、日本の置かれた状況を、英国の植民地支配と比較して考察する。

そこには、直接的な暴力とは異なる、より冷徹で残忍な支配の構造が浮かび上がる。

ここが肝心だが、システムの差なのである。階級社会を維持している英国は、長い植民地支配で自分より下等だと位置づけた植民地人を冷静に支配する管理技術を磨いてきた。
「ある見方からすれば、かれらは、たしかに残虐ではない。しかし視点を変えれば、これこそ、人間が人間に対してなしうるもっとも残忍な行為ではなかろうか」(P.284「予測できない未来に対処するために 文庫再刊によせて」)

この一文は、思想家・歴史家である会田雄次(あいだ・ゆうじ、1916年~1997年)の『アーロン収容所』からの引用である。

英国の捕虜収容所で体験した、暴力によらない、しかし人間性を徹底的に否定するシステム化された管理。

それこそが、最も残忍な支配の形ではないか、と会田は問う。

日本はあまりにも下手だった。

そして、マッカーサーによる日本占領も、見方を変えれば、この「システムによる支配」の一つの形だったのかもしれない。

天皇制という既存のシステムを巧みに利用し、日本人の精神構造を分析し尽くした上で、最も効率的に統治する。

それは、血を流さない、巧妙で洗練された支配技術であった。

この視点は、我々が「戦後民主主義」というものを考える上で、避けては通れない重要な問いを投げかけている。

歴史の暗号を読み解き未来に備える

猪瀬直樹の『昭和23年冬の暗号』は、読者に多くの「知らなかった事実」を突きつける。

A級戦犯の処刑日と天皇誕生日の一致。

マッカーサーの冷徹な戦略。

A級、B級、C級の本当の意味。

そして、天皇が背負い続けた慰霊の旅。

本書を読み終えた時、もしかしたら、全てがすっきりと解明されたという感覚にはならないかもしれない。

むしろ、提示された事実の断片が、さらなる謎を呼び、思考の迷路に誘い込むような感覚を覚えるかもしれない。

しかし、それこそが猪瀬の狙いなのではないだろうか。

歴史とは、単純な善悪二元論で割り切れるものではない。

複雑に絡み合った人々の思惑、偶然、そして必然が織りなす、巨大なタペストリーのようなものだ。

本書は、そのタペストリーに隠された「暗号」を読み解くための一つの鍵を与えてくれる。

断片的な知識を繋ぎ合わせ、歴史を一つの大きな物語として捉え直す視点。

それこそが、予測不可能な未来に対処するために、現代を生きる我々に最も必要とされている力なのかもしれない。

歴史の深淵に触れたいと願うすべての人に、手に取ってほしい一冊である。

書籍紹介

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