- 精読の推奨:質の高い読書体験を
- 日本語の文章の発展:韻文と散文
- 多様な文章の分析:小説、戯曲、評論、翻訳
- 言葉への真摯な姿勢:読むこと、書くこと
三島由紀夫の略歴・経歴
三島由紀夫(みしま・ゆきお、1925年~1970年)
小説家。本名は、平岡公威(ひらおか・きみたけ)。
東京都新宿区の生まれ。学習院初等科・中等科・高等科を経て、東京大学法学部法律学科を卒業後、大蔵省に入省。
『文章読本』の目次
第1章 この文章読本の目的
第2章 文章のさまざま
第3章 小説の文章
第4章 戯曲の文章
第5章 評論の文章
第6章 翻訳の文章
第7章 文章技巧
第8章 文章の実際―結語
附 質疑応答
解説 野口武彦
『文章読本』の概要・内容
1973年8月10日に第一刷が発行。中公文庫。189ページ。
「文章読本」の読み方は「ぶんしょうどくほん」。
「読本」単体では「とくほん」。意味は、教科書、また解説書や入門書。
「文章読本」の意味は、文章の解説書、文章のための入門書。
もともとは1959年1月に『婦人公論』の別冊付録で出て、6月に中央公論社から単行本で刊行されたもの。
解説は、文芸評論家の野口武彦(のぐち・たけひこ、1937年~2024年)。
東京都の出身で、東京都立戸山高等学校、早稲田大学第一文学部を卒業。後に東京大学文学部を卒業、東京大学大学院博士課程を中退。
『文章読本』の要約・感想
- 本書の目的:「普通読者」から「精読者」へ
- 精読のススメ:ゆっくり歩く読書体験
- 文章の源流を探る:和歌の詞書から散文へ
- 多様な文章の世界:小説から評論まで
- 評論の確立者:小林秀雄への敬意
- 翻訳文学への厳しい視線:読者の主体性
- 書くことの実際:速度と質の逆説
- 方言のリアリティ:『潮騒』制作秘話
- なぜ今、三島由紀夫『文章読本』を読むのか
- まとめ:言葉と深く向き合うために
文章とは、思考を伝え、感情を表現し、世界を記録するための根源的な道具である。より良く書きたい、より深く読みたいという願いは、言葉を扱うすべての人に共通するものであろう。
世には数多の文章指南書が存在するが、その中でも異彩を放ち、今なお多くの読者を惹きつけてやまない一冊がある。それが、三島由紀夫による『文章読本』である。
この書物は、単なる技術論に留まらず、文学、ひいては言葉そのものへの深い洞察に満ちている。三島由紀夫という稀代の作家が、どのような視点で文章を捉え、その文章力をどのように磨き上げてきたのか。その一端に触れることができる貴重な一冊と言えるだろう。
本稿では、この『文章読本』の内容を紐解きながら、その魅力と、現代においてなお読む価値のある理由を探っていく。三島由紀夫の美しい文章、美文や名文の源泉に迫る旅を始めよう。
本書の目的:「普通読者」から「精読者」へ
『文章読本』は、読者を文章の深淵へと誘う招待状である。三島由紀夫は本書の冒頭で、その執筆目的を明確に示している。
私はこの「文章読本」を、いままでレクトゥールであったことに満足していた人を、リズールに導きたいと思ってはじめるのであります。(P.10「第1章 この文章読本の目的」)
ここで示される「レクトゥール」と「リズール」という言葉は、フランスの文芸評論家のアルベール・ティボーデ(Albert Thibaudet、1874年~1936年)による分類であるという。
レクトゥールが「普通読者」、つまり、ただ物語の筋を追ったり、情報を得るために表層的に文字を追う読者を指すのに対し、リズールは「精読者」を意味する。三島由紀夫は、リズールについて「いわば小説の生活者」と呼び、小説の世界をあたかも実在のものとして深く味わい、生きる読者のことだと説明する。
これは、単に速く多く読むのではなく、一冊の本、一つの文章とじっくり向き合い、その細部に宿る豊かさを感じ取ることの重要性を示唆している。本書は、まさにそのような深い読書の読み方へと読者を導くことを目指しているのである。
精読のススメ:ゆっくり歩く読書体験
現代社会は速度と効率を重視する傾向にある。読書においても、速読術がもてはやされ、限られた時間でいかに多くの情報を吸収するかが問われる場面も少なくない。
しかし、三島由紀夫は『文章読本』において、そうした風潮とは一線を画し、むしろ「ゆっくり歩く」ような読書体験を強く推奨している。
私はこの「文章読本」でまず声を大にして、皆さんに、文学作品のなかをゆっくり歩いてほしいと申します。もちろん駆ければ十冊の本が読めるところが、歩けば一冊の本しか読めないかもしれません。しかし歩くことによって、十冊の本では得られないものが、一冊の本から得られるのであります。(P.35「第2章 文章のさまざま」)
これは、先に述べた「リズール」の姿勢と通底する考え方である。
量をこなすことでは決して得られない、質の高い読書体験。それは、文章の細やかなニュアンス、言葉の響き、文脈の深層にまで意識を向け、作者の意図や作品世界の本質に迫ろうとする能動的な行為である。
一見、非効率に見えるかもしれない「ゆっくり歩く」読み方こそが、真に豊かな知的・感性的収穫をもたらすのだと三島由紀夫は説く。この『文章読本』の読み方自体も、駆け足ではなく、一文一文を吟味しながら進むべきなのかもしれない。
文章の源流を探る:和歌の詞書から散文へ
本書の魅力は、単なる文章術の解説に留まらず、日本語の文章がどのように発展してきたかという、文学史的な視点にも及んでいる点にある。特に、散文の起源に関する考察は興味深い。
一方、散文の物語は和歌の詞書から発達したものと言われております。つまり詩の前に附された散文の注釈がだんだん発展して日記になり物語になってきたというのが、文学史の等しく言うところであります。(P.20「第2章 文章のさまざま」)
和歌の前に置かれ、その背景や状況を説明する「詞書」(ことばがき)。これが次第に独立し、発展していく中で、日記文学や物語文学といった散文形式が生まれてきたという説である。
詩、つまり韻文に対する散文という位置づけや、その発生の経緯を知ることは、日本語の文章表現の特質を理解する上で重要な示唆を与えてくれる。俳句における詞書の存在などを思い起こすと、この説には一定の説得力が感じられる。
こうした歴史的背景を踏まえることで、現代の我々が使う文章への理解も一層深まるだろう。
多様な文章の世界:小説から評論まで
『文章読本』は、その目次を見てもわかる通り、極めて多岐にわたる文章の種類を扱っている。
「第2章 文章のさまざま」に始まり、「第3章 小説の文章」「第4章 戯曲の文章」「第5章 評論の文章」「第6章 翻訳の文章」と、それぞれのジャンル特有の文体や表現について、三島由紀夫自身の鋭い分析と考察が展開される。
例えば、小説の文章では物語を語るための技巧が、戯曲の文章では台詞としての機能性が、そして評論の文章では論理と説得力が重視される。これらの多様な文章形式を比較検討することで、それぞれの持つ特性や可能性、そして限界が浮き彫りにされる。
読者は、自らが書こうとしている文章、あるいは読んでいる文章が、どのような性質を持つものなのかを客観的に捉える視点を得ることができるだろう。これは、文章を書く上でも、読む上でも、極めて実践的な知識となるはずである。
三島由紀夫の文体の多様性も、こうした幅広い文章形式への深い理解に基づいているのかもしれない。
評論の確立者:小林秀雄への敬意
多様な文章形式の中でも、三島由紀夫が特に注目し、高く評価しているのが「評論の文章」である。そして、その分野における金字塔として、ある人物の名を挙げている。
しかし一人の天才が日本における批評の文章というものを樹立しました。それが小林秀雄であります。(P.87「第5章 評論の文章」)
小林秀雄(こばやし・ひでお、1902年~1983年)。近代日本を代表する文芸評論家であり、その明晰かつ深遠な批評は、後世の多くの知識人や作家に影響を与えた。
三島由紀夫は、小林秀雄の登場によって、日本における「批評の文章」が初めて確立されたと断言しているのである。これは、単なる賛辞を超えて、三島由紀夫自身の批評観、ひいては文学観を示す重要な指摘と言えるだろう。
三島由紀夫より23歳年上の小林秀雄に対する深い敬意がうかがえる。三島由紀夫が感銘を受けた本は具体的に本書で語られてはいないものの、小林秀雄の著作群がその一つであったことは想像に難くない。
翻訳文学への厳しい視線:読者の主体性
グローバル化が進む現代において、翻訳文学に触れる機会はますます増えている。三島由紀夫は『文章読本』の中で、翻訳の文章に対しても独自の、そして極めて厳しい見解を示している。
一般読者が翻訳文の文章を読む態度としては、わかりにくかったり、文章が下手であったりしたら、すぐ放り出してしまうことが原作者への礼儀だろうと思われます。(P.94「第6章 翻訳の文章」)
これは一見、乱暴な意見にも聞こえるかもしれない。しかし、その真意は、質の低い翻訳によって原作者の意図や作品の魅力が損なわれることを容認すべきではない、という強い問題意識にある。
読者は翻訳に対して受け身であるべきではなく、むしろ主体的にその質を判断し、悪訳に対しては「放り出す」という断固たる態度を取るべきだ、というのが三島由紀夫の主張である。
これは、翻訳者に高い質を求めると同時に、読者にも主体性と批評眼を持つことを促す、潔いとも言える姿勢である。安易に情報を受け入れるのではなく、常に自らの判断基準を持つことの重要性を教えてくれる。
書くことの実際:速度と質の逆説
『文章読本』は、理論だけでなく、文章を書くという実践的な側面にも光を当てる。「第8章 文章の実際―結語」では、三島由紀夫自身の執筆活動にも触れられている。
私のことを聞かれると、平均して月百枚という以上には何も言えません。(P.147「第8章 文章の実際―結語」)
月平均100枚、1枚が400字詰め原稿用紙で換算ですると4万字、以上という執筆量。
これを多いと見るか少ないと見るかは人それぞれだろうが、注目すべきはその後に続く考察である。三島由紀夫は、必ずしも執筆速度が文章の質や読む際のスピード感に直結するわけではない、と指摘する。
むしろ、谷崎潤一郎(たにざき・じゅんいちろう、1886年~1965年)の『盲目物語』を引き合いに出し、一日一枚か二枚という遅々としたペースで書かれた文章が、読む際には実に流暢で圧縮された力を持つことがある、と述べている。
つまり、ゆっくりと時間をかけて練り上げられた文章ほど、読者にとっては凝縮された密度の高い、スピード感のある体験をもたらす可能性があるという逆説である。
これは、文章作成における時間と質の関係について、深く考えさせられる指摘である。三島由紀夫の文章力や、時に精緻で構築的と評される文体も、こうした執筆に対する意識から生まれているのかもしれない。『文章読本』には、このように谷崎潤一郎への言及も見られる。
方言のリアリティ:『潮騒』制作秘話
文章におけるリアリティの追求は、作家にとって永遠の課題の一つである。特に、地方を舞台にした作品における方言の扱いは、そのリアリティを大きく左右する要素となる。「附 質疑応答」の中では、方言の文章について興味深いエピソードが語られている。
谷崎氏は『卍』を書くに当っては、大阪生れの助手を使ったと言われますが、私の如きなまけ者は、『潮騒』という小説を書くときは、いったん全部標準語で会話を書き、それをモデルの島出身の人に、全部なおしてもらったのであります。(P.178「附 質疑応答」)
『文章読本』の著者である三島由紀夫が、自身の代表作の一つである『潮騒』の執筆において、方言の監修を依頼していたという事実は、作品のリアリティに対する彼の真摯な態度を示すものだろう。
谷崎潤一郎が大阪弁の作品『卍』で助手を起用した例を挙げつつ、自らを「なまけ者」と称しながらも、作品世界の言語的整合性を保つために、実際の島出身者に協力を仰いだのである。
作家がいかにして言葉を選び、磨き上げ、作品世界を構築していくのか。その舞台裏を垣間見ることができる貴重な証言である。三島由紀夫の作品が持つ説得力の一端が、こうした地道な作業に支えられていることがわかる。
なぜ今、三島由紀夫『文章読本』を読むのか
これまで見てきたように、三島由紀夫の『文章読本』は、単なる書き方の手引書ではない。それは、言葉と深く向き合うための哲学書であり、優れた文学作品を味わうための鑑賞ガイドでもある。
三島由紀夫自身の作品を多数読んだ経験のある読者にとっては、彼の文体や思考の源泉を探る上で、非常に興味深い一冊となるだろう。
川端康成(かわばた・やすなり、1899年~1972年)の『新文章読本』や、谷崎潤一郎の『文章読本』といった他の文豪の作品と比較しても、三島由紀夫のそれは、比較的口語的で、具体的な例文も豊富であり、読みやすいと感じる人もいるかもしれない。
一方で、三島由紀夫の文章は読みにくいと感じる向きもあるが、本書に関しては、その明晰な語り口によって、比較的スムーズに読み進められるのではないだろうか。
文章の読み方を変え、書くことへの意識を高めたいと考えるすべての人にとって、本書はおすすめの一冊である。様々な『文章読本』がある中で、本書が持つ独自の価値は色褪せない。
彼の文章力、その美しいと評される美文や名文が、どのような思想と背景から生まれてきたのか、その根幹に触れることができる。
「三島由紀夫がすごいのは?」と問われれば、本書で示されるような、古今東西の文学に対する深い造詣と、それを自身の創作へと昇華させる知性と感性、そして文章表現への飽くなき探求心にあると言えるだろう。
本書では、例えば日本文学に関して、森鷗外(もり・おうがい、1862年~1922年)のような理知的な文章、泉鏡花(いずみ・きょうか、1873年~1939年)のような感覚的な文章、その他に多くの作家たちの文章について言及している。
読者もここからさらに国内外を問わずに別の作家の作品に入っていくのも良いだろう。
なお、本書は著作権保護期間中であるため、青空文庫では公開されていない。新刊書店や古書店、図書館などで探す必要があるだろう。中公文庫から現在も刊行されており、入手は比較的容易である。
まとめ:言葉と深く向き合うために
三島由紀夫の『文章読本』は、発行から半世紀以上を経た今もなお、その輝きを失っていない。それは、本書が単なる技術論ではなく、言葉に対する普遍的な問いと洞察を含んでいるからに他ならない。
「レクトゥール」から「リズール」へ。表層的な読書から、深く味わう精読へ。そして、書くことにおいては、速度よりも質を、安易さよりも練り上げられた表現を。
三島由紀夫が示す道は、効率や即時性が求められがちな現代において、一見遠回りに見えるかもしれない。しかし、その道こそが、言葉の持つ真の豊かさに触れ、自らの思考や表現を深めるための確かな一歩となるはずである。
文章力を向上させたいと願う人、文学作品をより深く理解したいと考える人、そして何よりも、言葉というものに真剣に向き合いたいすべての人に、この『文章読本』を手に取ることを強く推奨したい。
三島由紀夫の導きによって、あなたの言葉の世界は、より広く、より深くなるに違いない。
書籍紹介
関連書籍
関連スポット
三島由紀夫文学館
山梨県南都留郡山中湖村にある三島由紀夫の文学館。山中文学の森公園にある。
公式サイト:三島由紀夫文学館