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中島隆信『経済学ではこう考える』要約・感想

中島隆信『経済学ではこう考える』表紙

  1. 『経済学ではこう考える』は、経済学的思考を日常の「なぜ?」に適用し、世界を多角的に見る道具として紹介。
  2. B1グランプリの経済効果は富の移転に過ぎず、刑務所のコスト改善は再犯防止で社会全体の利益を生む例を示す。
  3. 相撲の給与やプロ野球のファン固定、仏教の思想、公共財の概念を通じて伝統文化や宗教を経済学的に分析。
  4. 弱者支援での有料化の利点や少欲知足の教えを挙げ、経済学が人間の合理性を活かした生きた学問だと結ぶ。

中島隆信の略歴・経歴

中島隆信(なかじま・たかのぶ、1960年~)
経済学者、大学教授。専門は、応用経済学。博士(商学)。
神奈川県の出身。栄光学園高等学校、慶應義塾大学経済学部を卒業。慶應義塾大学大学院経済学研究科修士課程を修了し、博士課程を単位取得退学。

『経済学ではこう考える』の目次

はじめに
第1章 経済学的思考のススメ
第2章 伝統文化、その生き残りの秘密
第3章 宗教という経済活動
第4章 経済学で考える「弱者」
第5章 経済学は懐の深い学問
あとがき
参考文献

『経済学ではこう考える』の概要・内容

2014年5月15日に第一刷が発行。慶應義塾大学出版会。218ページ。ソフトカバー。127mm×188mm。四六判。

2006年8月10日に、ちくま新書として刊行された『これも経済学だ!』を大幅に改稿したもの。

『経済学ではこう考える』の要約・感想

  • 世界を見る解像度を上げる「経済学的思考」
  • B1グランプリの経済効果、その本当の姿
  • 関心が薄い刑務所のコストと社会の関係
  • 見えている情報がすべてではない危険性
  • なぜ横綱の給料は意外と安いのか
  • 一度ファンになると抜け出せない仕組み
  • 欲しくなくても消費させられる「公共財」
  • お墓の引っ越しに350万円という現実
  • 苦しみと共存する仏教の思想
  • 無料と有料がもたらす意識の違い
  • すべての座席が優先席という発想
  • 実用性以外の価値で生き残る道
  • 多くを求めず、足るを知る「少欲知足」
  • おわりに:経済学は人間を理解するための学問である

経済学と聞くと、どのような印象を持つだろうか。数式やグラフが並び、専門家だけが理解できる難解な学問。

あるいは、株価や金融政策といった、自分たちの生活とは少し離れた世界の出来事。そういったイメージを持っている人は少なくないはずである。

しかし、もし経済学が、私たちの日常に潜む「なぜ?」を解き明かし、世の中をより深く、より面白く見るための「道具」だとしたらどうだろうか。

今回紹介する一冊、慶應義塾大学教授である中島隆信(なかじま・たかのぶ、1960年~)の著書『経済学ではこう考える』は、まさにそのような「道具」としての経済学の魅力を存分に伝えてくれる良書である。

本書は、伝統文化、宗教、弱者問題といった、一見すると経済とは無関係に思えるテーマを、経済学というレンズを通して鮮やかに分析していく。

その語り口は驚くほど平易で、高校生でも理解できるよう配慮されているにもかかわらず、内容は示唆に富み、物事の本質を鋭く突いてくる。

この記事では、『経済学ではこう考える』の中から特に興味深いトピックをいくつか取り上げ、その内容と魅力を深掘りしていきたい。

本書を手に取ることで、あなたの世界を見る解像度が一段も二段も上がることを約束しよう。

世界を見る解像度を上げる「経済学的思考」

本書の根幹をなすのが「経済学的思考」という考え方である。

これは、単に金銭的な損得勘定をすることではない。物事の裏にあるインセンティブ(誘因)やコスト、人々の合理的な行動原理を見抜くための思考のフレームワークである。

著者は、この思考法を身につけることの重要性を次のように述べている。

社会現象への感受性を高める方法のひとつは、経済学的なものの考え方を見につけることです。経済学的思考は情報をキャッチするためのアンテナの役割を果たします。ピンと立っていれば他の人が見過ごしがちな現象にも注意が向き、興味ある研究対象となりうるのです。(P.10「第1章 経済学的思考のススメ」)

まさに、経済学的思考は世界を読み解くための一つのアンテナなのである。

これまで何気なく見ていたニュースや、日常の出来事の裏側にある「仕組み」が見えてくる。

このアンテナを持つことで、私たちは一つの視点に縛られることなく、物事を多角的に捉える力を養うことができるのだ。

では、そのアンテナは具体的にどのような情報をキャッチするのだろうか。

本書で挙げられている例を見てみよう。

B1グランプリの経済効果、その本当の姿

地域振興イベントとして有名な「B1グランプリ」。

ニュースではしばしば「経済効果は数十億円!」といった華々しい見出しが躍る。

これを聞くと、私たちは単純に「イベントのおかげで地域が潤ったのだな」と考えてしまいがちである。

しかし、経済学のアンテナを立てると、まったく異なる景色が見えてくる。

でも、ここでひとつの疑問がわいてきます。B1グランプリに来場した人たちは普段は食事をしないのでしょうか。そんなことはありません。B1グランプリが開催されなくてもどこかで必ず食事はします。ということは、イベントでご当地グルメを食べるためにお金を落とせば、別のところでお金が落ちなくなるわけです。要するに、日本全体で見ればイベントの経済効果などというものはほとんどないことがわからいます。(P.24「第1章 経済学的思考のススメ」)

これは衝撃的な指摘ではないだろうか。

仮に経済効果が80億円あったとしても、それはゼロから80億円が生み出されたわけではない。

もともと日本国内のどこか別の場所(例えば、来場者の地元の飲食店やスーパーマーケット)で使われるはずだった80億円が、イベント開催地に「移動」したに過ぎない、というのである。

もちろん、開催地にとっては大きなプラスであることに変わりはない。

しかし、国全体というマクロな視点で見れば、富の総量はほとんど変わっていない。

富の「創造」ではなく、富の「移転」が起きているだけなのだ。

私たちは「経済効果」という言葉の響きに、ついポジティブなイメージを抱いてしまう。

しかし、そのお金がどこから来て、どこへ行かなかったのか、という視点を持つだけで、現象の捉え方は大きく変わる。

これも経済学的思考がもたらす洞察の一つである。

関心が薄い刑務所のコストと社会の関係

次に著者が光を当てるのは、多くの人が普段あまり意識することのない「刑務所」の問題である。

刑事事件が発生すれば、犯人逮捕や裁判の行方には注目が集まる。

しかし、その後のことはどうだろうか。

一般的に多くの国民は刑事事件が起きたとき、犯人が捕まり、裁判で罰が下されるところまでは注目します。でも、受刑者が刑務所でどのように過ごし、更生し、社会復帰するかについてはほとんど関心を払いません。これはとても不思議なことです。なぜなら、私たちが関心を払わない刑務所での処遇と更生保護こそが社会全体のコストを考えるうえで決定的に重要だからです。(P.26「第1章 経済学的思考のススメ」)

確かに、受刑者が社会復帰した後のことまで継続的に関心を払う人は少ないかもしれない。

しかし、それは紛れもなく、私たちの生活に直結する問題なのである。

なぜなら、そこには莫大な「コスト」が発生しているからだ。

刑事事件というのはとても費用がかかります。事件が起きれば、警察の捜査に始まり、検察の取り調べや裁判などで多くの公務員が動員されます。刑務所に入れば、年間に受刑者一人あたり三〇〇万円ほどの費用がかかります。しかも最近では受刑者の待遇も改善され、栄養士によってカロリー計算がなされた食事の提供や単独室(個室)の充実など、生活環境の点でもかなり恵まれた状態になっているのです。(P.26「第1章 経済学的思考のススメ」)

警察官や検察官、裁判官といった人々の人件費。

そして、受刑者一人あたり年間300万円という費用。

これらの原資は、言うまでもなく私たちが納めた税金である。

犯罪者に対して手厚い処遇をすることに、感情的な抵抗を覚える人もいるかもしれない。

しかし、これも経済学的に考えれば、極めて合理的な判断であることがわかる。

劣悪な環境でただ懲役期間を過ごさせるだけでは、出所後の再犯リスクを高めるだけである。

再犯すれば、再び捜査や裁判、収監のコストが発生する。

この負のループは、社会全体にとって大きな損失となる。

刑務所での処遇を改善し、更生プログラムを充実させることは、再犯率を低下させ、長期的に見て社会全体のコストを削減することに繋がる。

つまり、受刑者への投資は、未来の犯罪を防ぎ、安全な社会を維持するための「費用対効果の高い投資」と捉えることができるのだ。

感情論だけでは見えてこない、社会全体の利益。

これも経済学が教えてくれる重要な視点である。

見えている情報がすべてではない危険性

私たちは、アンケート結果や統計データといった「目に見える情報」を判断の根拠にしがちである。

しかし、そのデータが収集された背景を考えなければ、本質を見誤る危険性がある。

本書では、大学の授業アンケートを例に、その罠を解説している。

なぜなら、アンケートに答えているのが授業を面白いと感じている出席者ばかりだとするなら、アンケート結果に高評価が出るのは当然だからです。経済学では、目に見える情報だけを用いることで判断に偏りが生じることをサンプル・セレクション・バイアスといいます。(P.38「第1章 経済学的思考のススメ」)

ある教授の授業アンケートで「大変満足」という評価が9割を占めたとする。

これだけ見れば、誰もが「素晴らしい授業なのだろう」と考えるだろう。

しかし、その裏側には、授業をつまらないと感じた学生たちが早々に授業に出席しなくなり、アンケートの対象にすらなっていない、という可能性があるのだ。

つまり、アンケートに回答している時点で、すでにその授業に対して好意的な学生という「偏った(バイアスのかかった)サンプル」が選ばれてしまっているのである。

これを「サンプル・セレクション・バイアス」と呼ぶ。

これは、ビジネスや日常生活の様々な場面で起こりうる問題である。

例えば、ある商品のレビューサイトで高評価が並んでいたとしても、それは商品に満足した人だけが積極的にレビューを書き込んでいる結果かもしれない。

不満を持った大多数の顧客は、何も言わずに静かに去っていくだけなのだ。

目に見えるデータや聞こえてくる声だけを鵜呑みにせず、「そこにはいない人々の声」「見えていないデータ」を想像する。

この批判的な思考こそが、サンプル・セレクション・バイアスの罠から私たちを救ってくれるのである。

なぜ横綱の給料は意外と安いのか

日本の国技である相撲。

その頂点に君臨する横綱は、誰もが羨む名誉と富を手にしている、と思いきや、その給与事情は少し意外なものらしい。

実際、角界第一人者の横綱といっても、他のプロスポーツと比べて驚くほど少ない給与しかもらっていません。横綱の月給は二八〇万円に過ぎません。それでも彼らが文句を言わないのは、引退後に年寄として協会に残れる可能性が高いからです。(P.67「第2章 伝統文化、その生き残りの秘密」)

横綱の月給が280万円、年収にすると3,360万円。

もちろん高給取りであることに違いはないが、数億円を稼ぐことも珍しくないプロ野球選手などと比べると、見劣りするかもしれない。

しかし、力士たちが受け取る報酬は、現役時代の給与だけではない。

横綱まで上り詰めた力士は、引退後に「年寄」として相撲協会に残り、後進の指導にあたる道が拓かれている。

これは、安定した収入と地位が長期的に保証されることを意味する。

つまり、彼らにとっての報酬は、目先の給与(フロー)だけでなく、引退後の安定した地位(ストック)も含めて考える必要があるのだ。

現役時代の給与が多少低くても、将来的な保証という大きなメリットがあれば、十分に魅力的な職業であり続けることができる。

現在のお金以外のインセンティブが、うまく機能している例と言えるだろう。

一度ファンになると抜け出せない仕組み

伝統文化だけでなく、プロ野球のような現代的なエンターテインメントにも、経済学の面白い視点が適用できる。

特定の球団を長年応援し続けている人は多いだろう。

たとえチームが弱い時期でも、簡単にはファンをやめられない。

そこには、どのようなメカニズムが働いているのだろうか。

プロ野球の場合、いったんある特定の球団のファンになってしまうと、そこから抜け出したくても抜けられなくなるのが普通です。経済学ではこうした状況のことをロックインと呼びます。(P.72「第2章 伝統文化、その生き残りの秘密」)

「ロックイン」とは、ある特定の商品やサービスに利用者が固定化され、他社への乗り換えが困難になる状況を指す。

携帯電話のキャリア契約や、特定のOSのスマートフォンなどがその典型例である。

プロ野球のファンであることも、一種のロックイン状態と見なせる。

長年応援してきた歴史、集めたグッズ、ファン仲間との繋がり。

これらすべてが「乗り換えコスト」となり、他の球団のファンになることを心理的に難しくしているのだ。

ビジネスの観点から見れば、このロックイン状態を作り出すことは極めて重要である。

顧客との長期的な関係性を築き、継続的に収益を上げるための鍵となるからだ。

単に商品を売るだけでなく、コミュニティを形成したり、独自のポイント制度を導入したりと、企業は様々な方法で顧客を「ロックイン」しようと試みている。

ファンづくり、固定客の育成は、まさにこのロックイン戦略そのものなのである。

欲しくなくても消費させられる「公共財」

経済学には「公共財」という概念がある。

これは、私たちの生活に欠かせないが、少し特殊な性質を持つ財やサービスを指す言葉である。

経済学でいうところの公共財とは、治安や美化のように、いったん供給されると消費者がそれを欲していようといまいと強制的に消費させられる(欲していない人を排除できない)財・サービスのことをいいます。(P.74「第2章 伝統文化、その生き残りの秘密」)

例えば、警察による治安維持サービス。

私たちはその恩恵を受けているが、「自分は利用しないからお金は払わない」と拒否することはできない。

また、特定の個人だけをそのサービスから排除することも困難である。

これが公共財の大きな特徴である。

本書では、この後、メディア(特にテレビや新聞)も公共財化しやすい傾向がある、という興味深い指摘が続く。

私たちは情報を得るためにメディアに接するが、同時に、特定の価値観やイデオロギーを、知らず知らずのうちに「消費させられている」側面はないだろうか。

公共財の定義を知ることで、メディアとの付き合い方についても考えさせられる。

お墓の引っ越しに350万円という現実

人生の終焉に関わる問題も、経済学の視点から見ると新たな側面が見えてくる。

現代社会では、少子化や核家族化に伴い、お墓の維持が難しくなるケースが増えている。

そこで選択肢となるのが「改葬」、つまりお墓の引っ越しである。

しかし、それには想像以上のコストがかかる。

そして、役所に改葬届を提出します。NHKの調べによればこうした諸々の手続きに要する費用は三五〇万円ほどになるといいます。(P.102「第3章 宗教という経済活動」)

現在のお墓から遺骨を取り出す費用、墓石を撤去・処分する費用、新しいお墓の土地代や墓石代(あるいは墓石の輸送費)、永代供養料など。

これらを合計すると、350万円という大きな金額になることもあるという。

しかも、市区町村の役所に「改葬許可申請」を行う必要もある。

お墓の問題が、単なる感情や慣習の問題ではなく、具体的な手続きと費用を伴う経済活動であることがよくわかる。

苦しみと共存する仏教の思想

宗教を経済活動として捉える視点は、さらに仏教の教えそのものにも及ぶ。

人生には悩みや苦しみがつきものである。

私たちは、その苦しみの原因を取り除こうと躍起になるが、仏教は異なるアプローチを提示する。

貧しい時代であっても豊かになっても、それぞれの状況に応じた苦しみというものがあるのです。仏教の発想は、悩みや苦しみの源を取り去ることに執着するのではなく、その存在を受け入れ、共存するというものです。(P.126「第3章 宗教という経済活動」)

これは非常に深い思想である。問題の完全な解決を目指すのではなく、その存在を許容し、受け入れた上でどう付き合っていくかを考える。

これは、現代社会が抱える多くの問題にも通じる考え方ではないだろうか。

すべてをゼロか百かで判断するのではなく、不完全さや矛盾を抱えながらも前に進んでいく。

仏教のこの思想は、合理性や効率性を追求する経済学とは対極にあるように見えて、実は人間の幸福を考える上で非常に重要な示唆を与えてくれる。

無料と有料がもたらす意識の違い

「弱者」をどう支えるか、というテーマは、社会にとって非常に重要である。

その際、サービスを無料で提供することが必ずしも最善とは限らない、と著者は指摘する。

そこには、受益者のコスト意識が関係している。

このように考えてみると、弱者といえども自己負担をしないことの弊害が見えてきます。料金に見合うだけのサービスが提供されているのかチェックが甘くなるのです。たとえ商学であっても自己負担をすることで、弱者にもサービスを購入する顧客としての自覚が生まれるでしょう。質の低いサービスに対しては堂々と抗議ができるのです。そして、施設もそれに見合った対応を要求されることになります。(P.160「第4章 経済学で考える「弱者」」)

この指摘の前に、大学の授業料に関する興味深い考察がある。

高い授業料を払っているにもかかわらず、授業が休講になると喜ぶ学生がいるのはなぜか。

それは、自分が支払ったお金と、提供されるサービス(授業)との関係性が希薄になっているからである。

本来であれば、お金を払っているのにサービスが提供されないのだから、怒るべき状況のはずだ。

弱者支援の文脈でも同じことが言える。

サービスが完全に無料だと、提供されるものの質に対するチェック機能が働きにくくなる。

「無料なのだから仕方ない」という意識が生まれ、質の低いサービスが温存されてしまう可能性があるのだ。

たとえ少額であっても自己負担を導入することで、受益者は「顧客」としての意識を持つようになる。

正当な対価を払っているのだから、質の高いサービスを要求する権利がある、と考えるようになるのだ。

そして、提供者側もその要求に応えようとサービスの質を向上させる努力をする。

無料と有料の違いは、単なる金銭的な負担の有無だけでなく、当事者の意識や関係性をも変える力を持っているのである。

すべての座席が優先席という発想

電車内の優先席。

善意に基づいた制度であるが、その実効性については様々な意見がある。

本書では、少し変わった事例について注に記載されている。

注(3)私の知る限り、優先席がないのは横浜市営地下鉄ぐらいです。横浜市交通局はこれに関して「すべての座席が優先席」との見解を示しています。(P.174「第4章 経済学で考える「弱者」」)

これは非常に興味深い取り組みである。

モラルのない人が気にしないで優先席に座っている場合もある。

たまたま優先席の前に老齢の人が立っていても「情は不要」「年寄扱いしないでほしい」という場合もあるだろう。

そういった事情で、優先席が機能していないことも。

優先席を設けることで、かえって「そこ以外では席を譲らなくてもよい」という意識が生まれてしまう、という弊害も。

だからといって、優先席がないならないで、利用者からの苦情もありそうである。

横浜市営地下鉄のアプローチが唯一の正解というわけではないだろう。

しかし、制度のあり方一つで、人々の行動や意識がどう変わるのかを考えさせられる、示唆に富んだ事例である。

実用性以外の価値で生き残る道

現代社会は、あらゆるものが効率性や実用性で評価される競争社会である。

その中で、歌舞伎や能、茶道といった伝統文化は、どのようにして生き残っていけば良いのだろうか。

こうした競争から逃れるためには、実用性以外の価値を見出すことが必要です。たとえば、現代人のニーズとして、ストレス解消、心の安息、精神修養といった精神面での安定があります。伝統文化はこれに応えることで生き残ることができるのです。(P.181「第5章 経済学は懐の深い学問」)

伝統文化が提供できる価値は、直接的な利便性や実用性ではない。

日常の喧騒から離れ、心を落ち着かせたり、精神的な豊かさを得たりすること。

そうした「実用性以外の価値」にこそ、生き残りの鍵があるというのである。

これは、伝統文化に限らず、現代の多くのビジネスやサービスにも当てはまる視点である。

人々が本当に求めているのは、単なるモノや機能だけでなく、そこから得られる体験や心の充足感なのかもしれない。

多くを求めず、足るを知る「少欲知足」

そして著者は、仏教のキーワードを引用し、経済学の懐の深さを示す。

とりわけ、仏教には「少欲知足」という興味深いキーワードがあります。(P.182「第5章 経済学は懐の深い学問」)

「少欲知足(しょうよくちそく)」とは、欲を少なくして、足ることを知る、という意味である。

これは、無限の欲望を肯定し、成長を追求し続ける現代の経済システムの思想とは、ある意味で対極にある考え方かもしれない。

しかし、物質的な豊かさが必ずしも幸福に直結しないことが明らかになってきた現代において、この「少欲知足」という思想は、極めて重要な意味を持つ。

際限なく満足を追い求めるのではなく、自らの欲をコントロールし、今あるものに感謝する。

この精神的な態度は、持続可能な社会や個人の幸福を考える上で、大きなヒントを与えてくれるだろう。

おわりに:経済学は人間を理解するための学問である

本書を読み終えて強く感じるのは、経済学とは、決して冷たく無機質な数字の学問ではなく、極めて人間臭い、生きた学問であるということだ。

著者は「あとがき」で、経済学の目指すところを次のように語っている。

人間の合理性もそれと同じです。普段からは意識していませんが、人間行動のかなりの部分はこれに支配されています。そうだとしたら合理的行動の仕組みを解明し、それを社会のために有効活用しようという発想が生まれてきてもおかしくありません。経済学の目指すところはそこにあるのです。(P.211「あとがき」)

自然現象に法則があるように、人間の行動にも一定の法則性、すなわち「合理性」が隠されている。

その仕組みを解き明かし、より良い社会を築くために役立てていく。それが経済学の使命なのである。

『経済学ではこう考える』は、その使命を見事に体現した一冊である。

B1グランプリの経済効果から刑務所のコスト、宗教や伝統文化のあり方まで、多岐にわたるテーマを「経済学的思考」という一本の串で貫いている。

本書の最大の魅力は、著者の驚くほど読みやすい語り口にあるだろう。

専門用語は丁寧に解説され、具体例も身近でわかりやすい。

それでいて、導き出される結論は鋭く、私たちの常識を心地よく揺さぶってくれる。

本書で紹介されている各テーマは、それぞれが著者の専門的な著作でさらに深く掘り下げられているという。

本書を入り口として、より専門的な世界に足を踏み入れてみるのも面白いだろう。

世の中の仕組みを深く理解したい、物事を多角的に見る視点を手に入れたい、そして何より、知的好奇心を満たしたい。

そう考えるすべての人に、本書を強く推薦したい。

あなたの日常が、これまでとは少し違って見えるようになるはずだ。

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