- 日本の英語受容の歴史
- 英語教育の変遷と課題
- 傑出した先人たちの志と努力
- 日本語の重要性と学びの意義
斎藤兆史の略歴・経歴
斎藤兆史(さいとう・よしふみ、1958年~)
英文学者。
栃木県の生まれ。東京大学文学部英語・英米文学科を卒業。
東京大学大学院人文科学研究科英語英文学専攻修士課程を修了。米国インディアナ大学英文科修士課程を修了。英国ノッティンガム大学英文科博士課程を修了。
『英語襲来と日本人』の目次
プロローグ 福沢・新渡戸・夏目の英語受容史
第1章 江戸時代の英語
1 最初の英語話者ウィリアム・アダムズ
2 フェートン号事件の波紋
3 英語の礎を築いた通詞 森山栄之助の努力
4 ジョン万次郎、アメリカへ
5 黒船来航の衝撃
6 蕃書調所と開成所
7 幕末期の英語辞書・教科書を読む
8 エリートの英語、庶民の英語 1859年と明治初年第2章 明治時代の英語
1 英語漬けの時代
2 庶民の英語狂乱 都々逸から入門書まで
3 夏目漱石の苦悩 「変則英語」全盛期
4 明治後期の英語教育第3章 大正・昭和・平成の英語
1 外国語教授法が成立したとき
2 読解中心主義と岡倉由三郎
3 英語存廃論と第二次世界大戦
4 「カムカム英語」からコミュニケーション主義へ 戦後の英語教育第4章 これからの英語
1 明治の英語達人と平成の英語事情
2 日本の英語をどうするかエピローグ 日本人の学びの知恵
参考文献
日本英語受容史略年表
あとがき
新版あとがき
索引
『英語襲来と日本人』の概要・内容
2017年1月25日に第一刷が発行。中公文庫。213ページ。
副題は「今なお続く苦悶と狂乱」。
2001年11月1日に講談社から刊行された『英語襲来と日本人――えげれす語事始』に、「新版あとがき」を加え、サブタイトルを付けたもの。
『英語襲来と日本人』の要約・感想
- 斎藤兆史が解き明かす日本人の英語受容と格闘の歴史
- 斎藤兆史とは:英文学の泰斗にして教育への情熱
- 英語との遭遇:ウィリアム・アダムズの逸話
- オランダ語を介した日米交渉の舞台裏
- 幕末の英語教育機関:蕃書調所と開成所
- 15歳にして英語教師:黒沢孫四郎の驚異
- 新渡戸稲造の努力と大成:時代を超える偉人の姿
- エリート英語教育の成果と限界
- 小学校英語導入への疑問:語学の本質とは
- 読解中心主義と岡倉由三郎の功績
- エリートと大衆:英語教育史の「目の錯覚」
- 本書から得られるもの:英語史を超えた学び
斎藤兆史が解き明かす日本人の英語受容と格闘の歴史
本書を手に取った瞬間から、我々は日本の英語との長い格闘の歴史へといざなわれる。著者は、東京大学で教鞭をとり、英文学者として名高い斎藤兆史(さいとう・よしふみ、1958年~)である。
この書籍『英語襲来と日本人』は、単なる英語学習の指南書ではない。
江戸時代から平成に至るまで、日本人がいかに英語と出会い、格闘し、そして受け入れてきたのか、その壮大なドラマを丹念に描き出した労作である。
斎藤兆史の深い洞察と豊富な資料に基づいた筆致は、我々が英語という言語、そしてそれを取り巻く社会や文化について、改めて深く考えるきっかけを与えてくれる。
この本は、英語学習者はもちろんのこと、日本の近代史や言語文化に興味を持つすべての人にとって、示唆に富む一冊となるだろう。
斎藤兆史とは:英文学の泰斗にして教育への情熱
斎藤兆史は、1958年、栃木県宇都宮市に生まれた。
栃木県立宇都宮高等学校を経て、東京大学文学部英語・英米文学科を卒業、同大学院人文科学研究科英語英文学専攻修士課程を修了するという、まさに英語研究の王道を歩んできた人物である。
その後、米国インディアナ大学英文科修士課程修了、英国ノッティンガム大学英文科博士課程修了(Ph.D.取得)と、海外での研鑽も積んでいる。
東京大学で助手、専任講師、助教授、准教授、そして教授へとキャリアを重ね、2011年からは東京大学教育学部教育内容開発コース教授。
2020年からは東京大学教育学部附属中等教育学校の学校長も兼任するなど、長年にわたり日本の英語教育・研究の最前線に立ってきた。
斎藤兆史の著作は専門書や翻訳に留まらず、一般向けの啓蒙書も多く、その明晰な論理と鋭い指摘は、常に我々に新たな視点を提供してくれる。
本書『英語襲来と日本人』もまた、斎藤兆史の長年の研究成果と教育者としての問題意識が結実した書籍と言えるだろう。
彼の講義、そしていつか行われるであろう「最終講義」においても、本書で示されたような日本と英語の関わりについての深い考察が語られるに違いない。
英語との遭遇:ウィリアム・アダムズの逸話
日本人が初めて出会った英語話者の一人が、ウィリアム・アダムズ(William Adams、1564年~1620年)、日本名で三浦按針(みうら・あんじん)である。
しかし、彼が日本で生き延び、徳川家康(とくがわ・いえやす、1543年~1616年)の外交顧問として重用された背景には、興味深い事実がある。
そして、この通訳がポルトガル語の使い手であったというところが重要である。じつは、アダムズが日本で生き延びることができたのは、英語の母語話者だからではなく、船乗りとして、ポルトガル語、オランダ語、スペイン語など、当時の西欧列強の言語に通じていたからである。(P.14「第1章 江戸時代の英語:最初の英語話者ウィリアム・アダムズ」)
当時の日本における国際語はポルトガル語であった。
そのため、ほとんどの人間が理解できない英語のネイティブスピーカーであることよりも、多言語に通じていることの方が重要だった。
この事実は、言語の価値が相対的なものであることを教えてくれる。
ウィリアム・アダムズがもし英語しか話せなかったら、その運命は大きく異なっていたかもしれない。
この逸話は、現代においても、広範な知識の重要性や相対的な価値を示唆しているように思える。
オランダ語を介した日米交渉の舞台裏
黒船来航、すなわちマシュー・ペリー(Matthew Calbraith Perry、1794年~1858年)提督率いるアメリカ艦隊の来航は、日本の歴史を大きく動かした。
この歴史的な交渉の場で、意外な言語が重要な役割を果たした。
もっとも、オランダ語を介することで、少なくとも言語的にはある程度公平な交渉になっているところが興味深い。日米双方が母語からオランダ語への翻訳という負担を強いられるのだ。そこまで考えて日本側の通詞がオランダ語での通訳に徹したとすれば、これはなかなか賢明な判断である。(P.50「第1章 江戸時代の英語:黒船来航の衝撃」)
この交渉で中心的な役割を担った通詞(つうじ)、つまり通訳の一人が、堀達之助(ほり・たつのすけ、1823年~1894年)であった。
日米双方が、母語ではないオランダ語を介して交渉したという事実は、非常に興味深い。
これにより、言葉のハンディキャップが一方に偏ることを避け、ある種の公平性が保たれたと言えるだろう。
日本側の通詞が、そこまで戦略的に考えてオランダ語での通訳を選択したとすれば、それは見事な外交手腕と言える。
このエピソードは、コミュニケーション、あるいは交渉において、必ずしも直接的な言語のやり取りだけが最善ではないことを示している。
幕末の英語教育機関:蕃書調所と開成所
ペリー艦隊の来航は、日本人に英語学習の緊急性を痛感させた。
それまでは一部の通詞の専門分野であった英語が、国家の存亡に関わる重要なスキルとして認識されるようになったのである。この出来事を境に、日本の英語教育は新たな段階へと進むことになる。
幕府は、高まる外国語学習のニーズに応えるため、洋学の研究・教育機関として蕃書調所(ばんしょしらべしょ)を設立し、後にこれは開成所(かいせいじょ)へと発展した。
これらの機関では、英語を含む西洋の諸言語や科学技術が教えられ、多くの優秀な人材が育成された。近代日本の礎を築いた人々の多くが、これらの機関で学んだのである。
15歳にして英語教師:黒沢孫四郎の驚異
開成所で英語を教えていた若き教師、黒沢孫四郎(くろさわ・まごじろう、1850年~1894年)の英語力は驚くべきものであった。
彼はわずか15歳で教壇に立っていたという。
黒沢というこの若い教師がこれほどの英語力を身につけたのは、第1に徹底したエリート教育、第2に日本語と西洋語の間合いを意識し、文法・訓読を重視した蘭学の伝統、そして第3に職業倫理に促された学習意欲。いまの日本の英語教育に欠けている条件がすべてそろっている。(P.72「第1章 江戸時代の英語:幕末期の英語辞書・教科書を読む」)
斎藤兆史は、黒沢の卓越した英語力の背景として、徹底したエリート教育、蘭学の伝統に根ざした文法・訓読の重視、そして高い職業倫理に支えられた学習意欲の三点を挙げている。
そして、「いまの日本の英語教育に欠けている条件がすべてそろっている」と指摘する。
この言葉は重い。現代の英語教育が抱える課題を考える上で、この15歳の少年教師の逸話は多くの示唆を与えてくれる。
単に英語に触れる時間を増やすだけでなく、質の高い教育と、学ぶ側の強い動機付けがいかに重要であるかを物語っている。
新渡戸稲造の努力と大成:時代を超える偉人の姿
国際連盟事務次長や東京女子大学学長などを歴任し、『武士道』の著者としても世界的に知られる新渡戸稲造。彼の英語力と国際感覚は、明治の日本人の中でも際立っていた。
斎藤兆史は、新渡戸について次のように述べている。
そもそも新渡戸のような人間は、その伝記から明らかなとおり、大きな志を抱いてとてつもない努力をしたのであり、英語を学ぼうが学ぶまいが、どんな時代に生まれようが、偉人として大成する運命にあるのである。(P.107「第2章 明治時代の英語:英語漬けの時代」)
この言葉には、斎藤兆史の新渡戸稲造に対する深い尊敬の念が込められているように感じる。
確かに、新渡戸ほどの人物であれば、どのような分野に進んだとしても、その卓越した知性と努力によって大成したであろう。
英語は、彼にとって世界へ羽ばたくための翼の一つであったに過ぎないのかもしれない。この指摘は、英語学習を考える上で非常に重要である。
英語はあくまで道具であり、その道具を使って何を成し遂げるかという「志」こそが本質だということだ。
我々も、新渡戸のような「大きな志」と「とてつもない努力」を心掛けなければならないと、襟を正される思いがする。斎藤兆史が『努力論』を刊行した思いの根幹には、このような偉人たちの生き様があるのだろう。
エリート英語教育の成果と限界
明治時代の英語教育は、福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち、1835年~1901年)や、新渡戸稲造(にとべ・いなぞう、1862年~1933年)、夏目漱石(なつめ・そうせき、1867年~1916年)のようなトップエリート層においては、目覚ましい成果を上げた。
しかし、それはあくまで一部の限られた人々の中での話であった。
さらにいうならば、日本の英語教育の質的な変化を体現してきたのは、すでに見たとおり福沢や新渡戸や漱石などのトップ・エリートたちである。明治初年の極端な英語偏重カリキュラムにしても、相手が新渡戸たちだったからこそ高度な英語力として結実したという見方もできるのだ。つまり、日本英語受容史を通観しても、江戸から現在に至るまで、一般庶民の英語教育が成功したためしなどはないのである。(P.134「第2章 明治時代の英語:夏目漱石の苦悩 「変則英語」全盛期」)
この指摘は衝撃的である。
「一般庶民の英語教育が成功したためしなどはない」という言葉は、現代の我々にも重くのしかかる。
確かに、一部の特筆すべき成功例を除けば、多くの日本人が英語学習に苦労し、十分な成果を上げられずにいるのが現状かもしれない。
過去の「成功」と見える事例も、実は対象がトップエリートであったからこそ可能だったのだとすれば、一般向けの英語教育のあり方そのものを根本から見直す必要があるのかもしれない。
斎藤兆史のこの本は、そのような厳しい現実を我々に突きつける。
小学校英語導入への疑問:語学の本質とは
近年、小学校での英語教育が導入されたが、斎藤兆史はこれに対して批判的な立場を取っている。
小学校への英語導入を提案した人たちも、基本的には語学のできない人たちだろうと思う。語学の何たるかを心得た人なら、現在の日本の小学校に英語を導入することがいかに無益であるかを容易に見抜くことができる。(P.141「第3章 大正・昭和・平成の英語:外国語教授法が成立したとき」)
この辛辣な言葉は、多くの議論を呼ぶだろう。
しかし、数学者であり、アメリカやイギリスでの生活経験も豊富な藤原正彦(ふじわら・まさひこ、1943年~)が、外国語習得の前提として母語である国語の能力が重要であると繰り返し述べていることを考えると、斎藤兆史の主張の正しさが際立つように思う。
語学の本質を理解せず、ただ早期教育に走ることの危険性を指摘しているのだろう。
英語を今現在、学習している人をはじめ、英語教育に携わる人、そして子供を持つ親にとっても、深く考えさせられる問題提起である。
斎藤兆史のこの本を読むと、英語教育に対する根本的な問い直しを迫られる。
読解中心主義と岡倉由三郎の功績
明治から昭和にかけて活躍した英語学者、岡倉由三郎(おかくら・よしさぶろう、1868年~1936年)は、日本の英語教育に大きな足跡を残した人物である。
思想家・岡倉天心(おかくら・てんしん、1863年~1913年)の弟であり、夏目漱石の友人でもある。
近場であまりにも有名な人物たちが多いので、影に隠れてしまいがちであるが、岡倉由三郎も偉大な人物である。
彼は、精緻な読解を重視する英語教育を推進し、多くの優れた英語学習参考書を著している。
また、ラジオ英語講座や英和辞典の編纂、音声学研究、英文学研究など、多岐にわたって業績を残しているのである。
私もこの本を読んで、岡倉由三郎という人物とその業績に強い興味を抱いた。彼の提唱した学習法は、現代においても十分に通用する普遍性を持っているように感じる。
エリートと大衆:英語教育史の「目の錯覚」
斎藤兆史は、明治初期の英語教育とそれ以降の英語教育を比較する際に陥りがちな「目の錯覚」について指摘する。
幕末から明治初期の英語はエリートたちのものであり、明治後期以降、それは大衆のものとなった。一見、明治初期の英語教育が(おそらくは過剰なる)成功を収め、明治後期以降現在に至るまでの英語教育が停滞しているように見えるのは、まったくちがったもの同士を同じレベルで見ているがゆえの目の錯覚なのである。(P.146「第3章 大正・昭和・平成の英語:外国語教授法が成立したとき」)
これは、先述した134ページの福沢、新渡戸、夏目などのトップエリートたちの英語の指摘とも通じる、非常に重要な論点である。
対象とする層が全く異なるものを比較して、一方を成功、他方を失敗と断じるのは早計だということだ。
エリート層を対象とした教育と、大衆を対象とした教育では、目指すべき目標も、達成可能なレベルも自ずと異なってくる。
この視点を持つことで、日本の英語教育史をより冷静に、客観的に評価することができるだろう。斎藤兆史の書籍は、このような歴史認識の重要性を教えてくれる。
本書から得られるもの:英語史を超えた学び
斎藤兆史の『英語襲来と日本人』は、単に日本の英語の歴史を学ぶための本ではない。むしろ、英語という鏡を通して、日本人自身を見つめ直すための一冊と言えるだろう。
英語学習に対する新たな視点を与えてくれることは間違いない。なぜ英語を学ぶのか、どのような英語力を目指すべきなのか、といった根本的な問いに対して、歴史的な視点から考えるヒントが得られる。
そして、何よりも重要なのは、日本人である我々にとって、母語である日本語の重要性を再認識させてくれる点である。外国語を学ぶことは、自国語への理解を深めることにも繋がる。
しっかりとした日本語の基盤があってこそ、外国語の習得も実を結ぶのである。
また、本書で描かれる先人たちの努力や苦闘の物語は、学ぶことの本質を教えてくれる。新渡戸稲造や黒沢孫四郎のような人物の生き様は、現代の我々にとっても大きな励みとなる。
本書を読んで、岡倉天心の弟である英語学者、岡倉由三郎にも改めて強い興味を抱いた。
彼の著作を紐解き、より深く英語の世界に分け入ってみたいという気持ちにさせられた。そのためには、やはり地道な文法学習と語彙力の増強が不可欠であることを痛感する。
英語はあくまでコミュニケーションのための道具である。
しかし、その道具を使いこなせるようになることで、世界は格段に広がる。この本は、そのための知的な刺激とモチベーションを与えてくれる。
取り敢えず、ここからまた新たな学びを始めたい。そう思わせてくれる力強い一冊である。
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書籍紹介
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インディアナ大学:斎藤兆史
インディアナ大学(Indiana University)は、1820年に設立されたアメリカ合衆国インディアナ州にある大学。8つのキャンパスから成立するが、基本的にインディアナ大学と言った場合、インディアナ大学ブルーミントン校。
公式サイト:インディアナ大学
ノッティンガム大学:斎藤兆史
ノッティンガム大学(University of Nottingham)は、1881年に設立されたイギリスのノッティンガム市にある大学。
公式サイト:ノッティンガム大学