田中淳夫の略歴
田中淳夫(たなか・あつお、1959年~)
森林ジャーナリスト。
大阪府の生まれ。静岡大学農学部林学科を卒業。出版社、新聞社等を経て、フリーに。
土倉庄三郎の略歴
土倉庄三郎(どくら・しょうざぶろう、1840年~1917年)
林業家。
奈良県吉野郡川上村の生まれ。明治期における吉野林業および日本林業の先覚者、指導者。政治家・板垣退助(いたがき・たいすけ、1837年~1919年)の支援者で、西欧視察の洋行費用を持つ。教育にも関心が高く、同志社大学や日本女子大学の創設の際に、多額の寄付を行なう。
『樹喜王 土倉庄三郎』の目次
はじめに
序章 吉野川源流の村へ、五社峠を歩く
第一章 自由民権運動を駆け抜ける
第二章 まつろわぬ山の民の歴史
第三章 大和の国を改造する
第四章 「日本の林学の父」と明治の林政
第五章 土倉家の六男五女と還暦事業
第六章 逼塞と晩年の輝き
第七章 庄三郎なき吉野の行方
終章 残り火――吉野ダラーと大滝ダム
土倉庄三郎関連年表
あとがき
参考文献
『樹喜王 土倉庄三郎』の概要
2016年6月6日に第一刷が発行。芳水塾。254ページ。ソフトカバー。127mm×188mm。四六判。
日本の林業に大きな功績を残した土倉庄三郎の生涯を描いた評伝。林業をはじめ、奈良や吉野の歴史、自由民権運動や教育など、多岐に渡る内容。
2012年10月に洋泉社から刊行された『森と近代日本を動かした男 山林王・土倉庄三郎の生涯』の改定複製版。
『樹喜王 土倉庄三郎』の感想
全く知らなかった人物、土倉庄三郎。
実業家・出口治明(でぐち・はるあき、1948年~)の『戦前の大金持ち』で出てきて興味を持つ。
いろいろと調べてみたら、『樹喜王 土倉庄三郎』というこの著作を見つけて購入。
購入もスムーズだった。
著者・田中淳夫がさまざまな文献や現地を調査して書かれた作品で、とても楽しめた。
林学者で造園家の本多静六(ほんだ・せいろく、1866年~1952年)も登場。
この辺りも面白かった。
さらに、奈良にいながら、グローバルな視点を持っていた土倉庄三郎。
情報収集能力が凄かったり、自らの子供たちには海外で教育を受けさせたりも。
何となく、和歌山を拠点にしながら世界とつながりを持っていた博物学者・南方熊楠(みなかた・くまぐす、1867年~1941年)を思い浮かべた。
どのような時代、どのような場所でも、素晴らしい人はいるもんだ。
また、シンプルに構成や文章も巧みで分かりやすく、読みやすい作品でもある。
以下、引用などをしながら紹介。
義経千本桜、あるいは秀吉の花見など、吉野のサクラは昔から有名だった。西行法師の歌にも詠まれるように、平安時代より吉野山全域にサクラが植えられたのは事実である。吉野山がサクラの名所となったのは、一三〇〇年前に役行者が金峯山寺を開くときに蔵王権現をサクラの木に刻んだことから、ご神木として保護されるようになったとされる。(P.72「第二章 まつろわぬ山の民の歴史」)
情報量が濃密である。それぞれ分解していく。
「義経千本桜」は、人形浄瑠璃や歌舞伎の演目のひとつ。1747年に初演されたもの。
源平合戦の後の源義経(みなもとのよしつね、1159年~1189年)の都落ちから、平家の武将たちなどの悲劇が描かれ、吉野山も舞台のひとつ。
1594年には豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし、1537年~1598年)が、総勢約5,000人を伴って吉野で花見を実施。
では、そもそも、なぜ吉野家がサクラで有名になったのかと言えば、山岳修行者・役行者(えんのぎょうじゃ、634年?~701年?)が発端というもの。
それほど、吉野山の桜には歴史があるということ。
庄三郎との関係は、次のように記している。
「吉野の造林法と、ドイツの造林学との学理に拠りて、漸く日本の造林学を構成せり。而して、其の吉野の造林法とは、実に土倉翁に就て学び得たるものなり」(P.118「第三章 大和の国を改造する」)
ここは、林学者で造園家の本多静六が、土倉庄三郎について語っている部分。
本多静六は、帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)を首席で卒業、ドイツへ留学して、林学の博士号を取得した人物。
実際に、土倉庄三郎が実地でいろいろと学ばせてくれたというエピソードが続く。
本多静六については、以前から知っていた。土倉庄三郎との関係性は、全く知らなかったので、とても驚いた。
政子は留学中に新渡戸稲造と知り合った。新渡戸は、メリー・エルキントンと結婚するが、その結婚式に政子は唯一の日本人として出席している。(P.163「第五章 土倉家の六男五女と還暦事業」)
ここでは、土倉庄三郎の次女、土倉政子(どくら・まさこ、1871年~1946年)の話。
土倉政子は、同志社女学校を卒業し、アメリカのペンシルバニア州にあるブリンマー大学(Bryn Mawr College)に留学。
日本初の女子留学生の一人であり、女子英学塾(後の津田塾大学)の創設者でもある津田梅子(つだ・うめこ、1864年~1929年)も、二度目の留学でブリンマー大学に通っていた。
二人には交流もあったとか。
そして、さらに驚くのが上記の引用の部分。
教育者・思想家の新渡戸稲造(にとべ・いなぞう、1862年~1933年)との交流。しかも、結婚式に出席しているくらいの緊密な距離感。
ちなみに、土倉庄三郎は、娘・政子の留学を、すんなりと許可している。
当時の一般的な価値観からしたら、かなり先進的というか進歩的というか、といった感じに思える。
還暦祝いは盛大に行われた。村の住民はもちろん、各界から多くの来客があり、全国から祝電が届いた。山縣有朋から、還暦の祝状とともに号が贈られた。「樹喜王」である。(P.184「第五章 土倉家の六男五女と還暦事業」)
村民にも慕われ、また全国の有力者たちからも敬われていた土倉庄三郎。
その功績が称えられて、この本のタイトルにも記載されている「樹喜王」(じゅきおう)の号が山縣有朋(やまがた・ありとも、1838年~1922年)から贈られたというエピソード。
長男の正治は、熊本の第五高等学校に進学する。彼の同期には後の宰相・佐藤栄作がいて親友だった。同じ寮に入り寝食をともにしたという。その寮を「臥竜窟」と称していた。その後京都大学に進学するが一九二四年に卒業してすぐに病で亡くなった。(P.203「第六章 逼塞と晩年の輝き」)
土倉庄三郎の長男は、土倉鶴松(どくら・つるまつ、1867年~1942年)で、その鶴松の長男が、正治。
つまり、土倉庄三郎にとっては、孫である。
佐藤栄作(さとう・えいさく、1901年~1975年)と正治は親友であったが、早逝してしまう。
佐藤栄作は「彼が生きておれば、オレなんか遠く及ばん。どんな大仕事をやっていたか」と目を潤ませて述懐した、という話も。
土倉庄三郎は、自らが学問がなかったために、子供たちや孫たちには充分な教育を施そうとした。
実際に多くの子供たちや孫たちが高学歴。
その中でも、後にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作に、上記のような発言させるという正治の人物像。
とても切ない物語である。
その他にも、さまざまな人物たちのエピソードも数多く語られる。
土倉庄三郎や吉野の歴史、林業などに興味のある人には非常にオススメの本である。
書籍紹介
Amazon等で扱われている『森と近代日本を動かした男 山林王・土倉庄三郎の生涯』と、同一内容の改定複製版『樹喜王 土倉庄三郎』が上記のサイトから「2,000円+税+送料」で購入可能。
関連書籍
関連スポット
吉野山
吉野山は数千本の桜で有名な奈良県吉野郡にある山。2004年には吉野山・高野山から熊野にかけての霊場と参詣道が『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録。
公式サイト:吉野山観光協会
土倉庄三郎像
奈良県吉野郡川上村に建てられいる土倉庄三郎の像。
土倉翁造林頌徳記念・岸壁碑文
奈良県吉野郡川上村の吉野川の対岸壁に刻まれた碑文。
土倉庄三郎の業績を称えるもの。親交のあった本多静六が発起人となり協力者を得て、1921年に完成。碑文の全長は、約23.6メートル。
公式サイト:川上村役場「土倉翁造林頌徳記念」岸壁碑文
龍泉寺
鳴貝山(なるかいさん)龍泉寺(りゅうせんじ)は、奈良県吉野郡川上村大滝にある浄土宗の寺院。土倉家の菩提寺。
公式サイト:龍泉寺