『蘭学者 川本幸民』北康利

北康利の略歴

北康利(きた・やすとし、1960年~)
作家、元銀行員。
愛知県の生まれ。大阪市立東我孫子中学校、大阪府立天王寺高等学校、東京大学法学部を卒業。
金融機関の勤務を経て執筆業に。2005年、『白洲次郎 占領を背負った男』で、第14回山本七平賞を受賞。

川本幸民の略歴

川本幸民(かわもと・こうみん、1810年~1871年)
蘭学者、医師。
兵庫県三田市(さんだし)の出身。科学技術分野に関する多数の書物を翻訳、執筆。後に三田藩から薩摩藩籍となる。東京大学の前身となる蕃書調所の教授に就任。
その業績から、日本化学の祖とも呼ばれる。

『蘭学者 川本幸民』の目次

忘れられた大学者
三田の神童
蘭学の目覚め
江戸行き
舎密との出会い
生き仏・坪井信道
生涯の友・緒方洪庵
静修堂開塾
不慮の禍
浦賀の月
蛮社の獄
一陽来復
度重なる大火
島津斉彬との出会い
愛弟子・松木弘安
師・信道との別れ
マッチの製作――万能科学者への道
九鬼隆国との別れ
黒船来航とビール
蕃書調所設置
薩摩藩籍
集成館事業と写真術
安政の大獄
「舎密」から「化学」へ
弘安の欧州歴訪
日本一の蘭学者
友・洪庵との別れ
薩英戦争
奇才・柳河春三
学問の火は消えず
心は故郷へ
暁雨歇む

補遺を兼ねた、とりとめもないあとがき
川本幸民関連年譜

概要

2008年7月2日に第一刷が発行。電子書籍は、2017年8月30日に発行。PHP研究所。339ページ。

幕末の時代に大きな功績を残した蘭学者の川本幸民。その波乱に満ちた生涯を辿る評伝。

副題は「近代の扉を開いた万能科学者の生涯」。

目次にもある言葉、舎密(せいみ)とは、オランダ語の“chemie”の音訳語で、化学を意味する。

日本で初めて、舎密の代わりに、化学という言葉を用いたのが川本幸民である。

その他にも多くの言葉を考案。また、ビールの試醸、マッチや写真機の製作なども、日本で初めて行なった人物。

この著作には、関連した肖像や資料などの各種の画像が豊富に掲載されいるのポイントである。

以下、目次にも登場する人物の情報を列挙。

坪井信道(つぼい・しんどう、1795年~1848年)…オランダの医学を修めた医師。蘭医。岐阜県揖斐郡の出身。川本幸民の師。

緒方洪庵(おがた・こうあん、1810年~1863年)…武士、医師、蘭学者。岡山県岡山市出身。大阪に適塾を開き、人材を育てる。日本の近代医学の祖とも呼ばれる。川本幸民の友人。

島津斉彬(しまづ・なりあきら、1809年~1858年)…大名。薩摩藩の第11代藩主。川本幸民を重用した名君。

松木弘安(まつき・こうあん、1832年~1893年)…政治家。後の寺島宗則(てらしま・むねのり)。鹿児島県生まれ。第4代の外務卿として活躍。日本の電気通信の父とも呼ばれる。

九鬼隆国(くき・たかくに、1781年~1853年)…大名。摂津三田藩の第10第藩主。外様大名でありながら幕政に参画。川本幸民の主であり、崇敬した人物。

柳河春三(やながわ・しゅんさん、1832年~1870年)…洋学者。愛知県名古屋市生まれ。蕃書調所の後身、開成所の教授。

その他に、多くの偉人たちの名前が登場するのも、作品の奥行きを出す魅力のひとつ。

感想

kindle unlimitedにあったので読む。

いやはや、北康利の著作は面白い。読みやすい。時々、知らない語彙が出てきて、言葉の勉強にもなる。

さらに、著者の思いも強いし、構成力、文章力も素晴らしい。

時々、個人の思いが出過ぎちゃっているのは、毎度の御愛嬌である。

川本幸民の事は、全く知らなかったが、周りの人物たちで有名人が沢山登場。

上述の緒方洪庵、島津斉彬の他にも、高野長英(たかの・ちょうえい、1804年~1850年)、渡辺崋山(わたなべ・かざん、1793年~1841年)、福沢諭吉(ふくわ・ゆきち、1835年~1901年)など。

白洲次郎(しらす・じろう、1902年~1985年)の祖父・白洲退蔵(しらす・たいぞう、1829年~1891年)とかも出てくる。

最初に、なぜ川本幸民の知名度が低いのかも言及している。シンプルに資料の焼失である。

年齢は関係なく、ある物事に熱中して、世の中のためになる、というのは幸福である。

この時代の人達は、それこそ自分の生まれ育った土地の人々のためであったり、日本全国のためであったりしたわけだけれど。

現代よりも、もっと逼迫した必要性が、生死を賭ける程、存在したという事である。

以下、引用など。

ほとんどの人はその名前をご存じないだろうが、われわれの使っている「化学」という言葉を日本で最初に使いはじめたのは(おそらくは「物理」という言葉も)、この川本幸民という人物なのだ。(No.43「忘れられた大学者」)

先述の通り、化学という言葉を初めて使った人物が川本幸民。

彼はその他にも、「時間」「午前」「蛋白」「分子」「大気」「空気」「水蒸気」「軽金属」「重金属」「ブドウ糖」「尿素」「合成」「化学変化」「気象」といった言葉を考案したという。

さらに、蒸気船、飛行船、製糖、製塩、電信、鉱山開削、兵器など、数多くの欧米の技術を、日本に紹介している。

業績が凄すぎて、情報が大渋滞である。

歴史上の人物の活躍に胸躍らせる経験は、今も変わらぬ若者の通過儀礼である。そのうち敬蔵は全十三巻というこの大著をどうしても自分の手元に置いておきたくなり、この膨大な著作の書写を決意する。(No.188「蘭学への目覚め」)

敬蔵とは、川本幸民の若かりし頃の名前。

全十三巻の大著というのは、儒学者・中井竹山(なかい・ちくざん、1730年~1804年)が著した『逸史』。

『逸史』は、徳川家康(とくがわ・いえやす、1543年~1616年)の事績をまとめたもの。

川本幸民は、この『逸史』を三カ月掛けて写し終えたという。

筆写といえば、博物学者の南方熊楠(みなかた・くまぐす、1867年~1941年)が思い出される。

必要性に迫れるという事情もあるが、何らかの知的偉人たちは、筆写することが多いようだ。

塾の名は「静修堂(せいしゅうどう)」に決めた。『三国志』で有名な諸葛孔明が自分の子に与えた訓戒書の中の一節に<君子の行いは静以つて身を修め、倹以て徳を養ふ>(『小学』「外篇嘉言(がいへんかげん)」)というのがある。(No.934「静修堂開塾」)

「静修」という言葉には「身や心をすみわたった状態にして学問や徳行をおさめる」という意味があるという。

川本幸民の学問に対する思いと重なって命名。

諸葛亮(しょかつ・りょう、181年~234年)の言葉を、川本幸民が使っているので、二重に大切な言葉となる。

感激よりも幻滅が先に立ったようで、弘安が唯一オランダに関して褒めているのは女性の美しさくらいであった。
このことは幸民にとってさほど驚くものではなかった。この二年前には、蕃書調所でも正課を蘭学から英学に変更する決定をしていた。それは英国とオランダの国力の差を意識してのものだったのだ。(No.3092「弘安の欧州歴訪」)

幕府初の遣欧使節団に選ばれた松木弘安、つまり後の寺島宗則。その彼からの手紙によるオランダの状況報告。

1862年の当時、既にオランダから英国へと世界の潮流は変わっていたという話。

川本幸民は、その変化に気付いていた、そして、松木弘安からの手紙が、さらに裏付けとなった。

ちなみ、川本幸民は、息子の川本清次郎を英語学者に育てている。

経緯としては、松木弘安は、先にフランスのパリ、そして、万国博覧会を開催していたイギリスのロンドンに渡り、それからオランダを見学したことから、さらに落差が激しかったのかもしれない。

ちなみに、福沢諭吉もこの遣欧使節団に通詞、つまり通訳として潜り込んでいた。

川本幸民が口癖のようにしていた言葉に「英才は彊力勉励する人の別名なり」(「英才」という言葉は生まれながらの能力をさすものではなく、一生懸命勉強し努力する人に与えられる称号なのだ)というものがる。彼ほど才能に恵まれた人でも、努力に勝るものはないことを実感していたのだ。(No.4093「暁雨歇む」)

彊は、“きょう”で、つよい、つとめる、という意味。

歇むは、“やむ”で、やめる、やむ、やすむ、という意味。

継続して努力をしなさいということ。

能力のある人間が努力をするのであるから、凡人はもっと着実に努力をしないといけないと自戒。

日本における化学や科学の歴史、あるいは幕末の歴史や海外との関係に、興味のある人には非常にオススメの作品。

歴史時代小説などが好きな人にも、良いと思う素晴らしい著作である。

書籍紹介

関連書籍

関連スポット

川本幸民顕彰碑

川本幸民の出身地である兵庫県三田市に顕彰碑がある。

照國神社:島津斉彬

照國(てるくに)神社は、鹿児島県鹿児島市照国町にある島津斉彬を御祭神として、1863年に創建した神社。
道路に面した大鳥居が壮観。無料で入館できる照国文庫資料館も。

公式サイト:照國神社