『山口青邨の世界』古舘曹人

古舘曹人の略歴

古舘曹人(ふるたち・そうじん、1920年~2010年)
俳人。
本名は、古舘六郎(ふるたち・ろくろう)。
佐賀県杵島郡の出身。唐津中学校、第五高等学校、東京大学法学部を卒業。山口青邨(やまぐち・せいそん、1892年~1988年)に師事。

山口青邨の略歴

山口青邨(やまぐち・せいそん、1892年~1988年)
俳人、鉱山学者。
本名は、山口吉郎(やまぐち・きちろう)。
岩手県盛岡の出身。岩手県盛岡中学校、第二高等学校、東京帝国大学工科大学採鉱科を卒業。
東京大学工学部助教授になり、後にベルリンに留学。帰国後、東京大学工学部教授。俳誌「ホトトギス」の同人であり「夏草」の主宰。

没後、蔵書は日本現代詩歌文学館に収蔵。長く住んだ「雑草園」の住居部分「三艸書屋」も同館の別館として移築・保存。墓所は、岩手県盛岡市の東禅寺。

『山口青邨の世界』の目次

青邨十章 古舘曹人
山口青邨作品二百句抄 斎藤夏風
青邨の文章 鳥羽とほる
『雑草園』『雪国』時代の青邨 深見けん二
こおろぎの一徹 小原啄葉
「雑草園文学」ということ 斎藤夏風
山口青邨著作目録 菅原多つを
山口青邨略年譜 菅原多つを
――「二百句抄」句集解題 菅原多つを
執筆者・資料協力者等一覧

概要

1991年6月5日に第一刷が発行。梅里書房。109ページ。ハードカバー。127mm×188mm。四六判。

より正確にタイトルを記述すると、『昭和俳句文学アルバム㉛ 山口青邨の世界』。複数の執筆者が参加し、古舘曹人が編集者という立場。

俳人・山口青邨の生涯を豊富な各種の画像と共に紹介している作品。200句の俳句も掲載。

執筆者は以下の通り。

斎藤夏風(さいとう・かふう、1931年~2017年)…俳人。東京生まれ。本名、斎藤安弘。早稲田大学法学部中退。1954年「夏草」に入会。

鳥羽とほる(詳細不明、1917年?~?)…俳人。長野県松本市出身の医師。大町病院の委員長。句誌「草の実」を主催。

深見けん二(ふかみ・けんじ、1922年~2021年)…俳人。福島県出身。本名は謙二。東京に転居し、府立第五中学校を経て、東京帝国大学工学部冶金科を卒業。

卒業後は東大冶金科研究室勤務を経て日本鉱業入社。日興エンジニアリング勤務。高校時代の1941年より俳人・高浜虚子(たかはま・きょし、1874年~1959年)に師事。1953年「夏草」に入会。1959年「ホトトギス」入会。

小原啄葉(おばら・たくよう、1921年~2020年)…俳人。岩手県紫波郡矢巾町出身。本名は小原重雄。自治大学校修了。1951年「夏草」入会。

菅原多つを(すがはら・たつを、1929年~)…俳人。詳細不明。

感想

ヨルシカの作詞・作曲を担当しているn-buna(なぶな、1995年~)の影響で、俳句にかなり興味を持つようになった。

ちなみに、楽曲「春泥棒」のミュージックビデオで、4分26秒頃に男性が句集を読んでいる場面がある。その時に読んでいるのが、山口青邨の句集『庭にて』。

その他に、ヨルシカでは、さまざまな作品や歌詞などに、俳句関連のオマージュがなされているという。

山口青邨が主宰していた俳誌は「夏草」。ヨルシカのファースト・ミニアルバムの題名は「夏草が邪魔をする」である。

ヨルシカを深く知る前にも、俳句や短歌にハマった時期はある。

寺山修司(てらやま・しゅうじ、1935年~1983年)、若山牧水(わかやま・ぼくすい、1885年~1928年)、石川啄木(いしかわ・たくぼく、1886年~1912年)、種田山頭火(たねだ・さんとうか、1882年~1940年)など。

n-bunaは、種田山頭火や尾崎放哉(おざき・ほうさい、1885年~1926年)についても言及している。

そんな流れで尾崎放哉の作品なども読む。

閑話休題。

いろいろと興味が湧いて、山口青邨の関連の書籍を探す。

そこで、見つけたのがこちらの作品である。

結論としては、とても興味深く、楽しく読めた。

俳句はそこまで詳しくないから深くは分析できないが、鉱物の研究者なので、その観察眼が鋭いのかもしれない。

硬質でありながら、温かみもある感じか。また、ドイツへの留学経験という異国での生活も大きなポイントかも。

加えていうならば、読めない漢字や分からない言葉も多かった。これは自分の勉強不足でしかないが。

海蠃(ばい)…ばいごま。べいごま。
蝌蚪(かと)…おたまじゃくし。
鶸(ひわ)…スズメ目アトリ科の鳥。

上記など。もっといろいろと俳句に触れて、知識を吸収していこうと思う。

以下、引用などを含めて。

【左】後列中央・岩県立盛岡中学校五年生の青邨。盛岡中学の四年先輩に石川啄木が、四年後輩に宮沢賢治がいる。(P.5「青邨十章――青邨評伝」)

これは、5ページの左上に掲載されている学生時代の青邨の写真に付記された解説文。

当時の中学校というのは、基本的には5年制であり、12歳から入学する。

つまり、4年先輩、また4年後輩であると、同じ場所で1年過ごしている。

先輩に歌人・石川啄木、後輩に詩人・宮沢賢治(みやざわ・けんじ、1896年~1933年)。

これは、かなり驚いた。どんな才能の集まりだよ、といった感じである。

知らない土地、初めての場所へ行ったら、少なくとも二晩は泊まりなさいと門下に奨めた青邨は、旅の滞在を喜んで紀行文・旅行記を残した。(P.71「【青邨の文章:三、紀行文と留学日記」)

俳句に限らず、短歌など、歌を詠む人は旅好きな人が多い。

自らの日常から離れて、芸術的な感覚に浸ることが旅上では容易いということか。

上記に関しては、具体的なアドバイスが素晴らしい。

私も若い時はそうでもなかったが、30代後半以降は、同じ場所に二泊くらいするようになった。

一泊だと、本当にただ泊まるだけ、二泊くらいから、やっと落ち着いて、周辺の散策が出来る感じ。

あとは、その辺りを歩くというのが、もろもろの風土などを体感して、理解出来るような気がする。

又学生時代から正岡子規、虚子等の輪講『蕪村句集講義』を読み、卒業後、古河鉱業、農商務省の技師を経て、東大の助教授に至る間の技術の研究と共に、大学同期の芥川龍之介の作品に傾倒、さらに「ホトトギス」の写生文を耽読して、文章家、批評家として一目も二目も置かれる中で、俳句に深く入って行ったのである。(P.78「『雑草園』『雪国』時代の青邨――初期句集をめぐって」)

かなり山口青邨の情報が詰まっている部分。

与謝蕪村(よさ・ぶそん、1716年~1784年)を高く評価した正岡子規(まさおか・しき、1867年~1907年)が、高浜虚子などと一緒に『蕪村句集』を読み論じた。

その内容をまとめたものが『蕪村句集講義』であり、山口青邨は、読み進めた。

あとは、割りとサラリと書かれているが、作家・芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ、1892年~1927年)と同期というのも驚いた。

この講演は種々の見方があるが、この中で青邨は、表面的な写生を難じ、内容と調べの完成を強調、特に内容を重視し、純真な心、造詣、人格の作品への反映を説き、そのため深く、広く、精細に物を観よと結んでいる。これは青邨の俳句観の吐露であり、自らの実行の宣言であったと受けとれる。(P.78「『雑草園』『雪国』時代の青邨――初期句集をめぐって」)

先述の引用の続きの箇所。この講演というのは、1928年9月に開催した「ホトトギス」の講演会のこと。「どこか実のある話」というタイトルが付いていたようだ。

その中で、俳人・山口青邨の俳句観というか、芸術観というか、観察眼が分かるような記述。

何となく、小説家で軍医の森鴎外(もり・おうがい、1862年~1922年)の眼を感じる。

森鴎外は医学者であり、山口青邨は鉱物学者でる。ドイツ留学も共通である。

冷静な視点を持っているという感じか。もしくは、芸術家というのは、そういう客観性を有しているということか。

面白いな。

というわけで、いろいろと想像を膨らませながら楽しめた作品。

山口青邨の初心者の方から詳しい人も満足できる内容で非常にオススメである。

書籍紹介

関連書籍

関連スポット

東禅寺

岩手県盛岡市北山にある臨済宗の寺院。山口青邨の墓がある。

公式サイトは特に無い。

日本現代詩歌文学館

日本現代詩歌(にほんげんだいしいか)文学館は、岩手県北上市本石町にある文化施設。文学館の隣に、東京都杉並区和田本町にあった山口青邨の旧宅を移築・復元してある。

公式サイト:日本現代詩歌文学館