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村上護『放哉評伝』要約・感想

村上護『放哉評伝』表紙

  1. 波乱の人生と自由律俳句
  2. 鳥取の出自と家族の誤解
  3. 一高・帝大での出会いと挫折
  4. 流浪と南郷庵での終焉

村上護の略歴・経歴

村上護(むらかみ・まもる、1941年~2013年)
文芸評論家。
愛媛県大洲市の生まれ。愛媛大学教育学部を卒業。

尾崎放哉の略歴・経歴

尾崎放哉(おざき・ほうさい、1885年~1926年)
俳人。
本名は、尾崎秀雄(おざき・ひでお)。
鳥取県鳥取市の生まれ。鳥取高等小学校を修了、鳥取県立第一中学校を卒業。第一高等学校を卒業。東京帝国大学法科大学政治学科を追試験で卒業。東洋生命保険(現在の朝日生命保険)を経て、朝鮮火災海上保険で勤務、後に免職。
荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい、1884年~1976年)が主宰する俳句誌「層雲」に参加。

『放哉評伝』の目次

鳥取
尾崎家
学窓
一高
東京帝大
サラリーマン
蹉跌
外地
一燈園
再会
須磨寺
小浜・京都
小豆島
終焉
尾崎放哉年譜
あとがき
参考文献

『放哉評伝』の概要・内容

1991年6月20日に第一刷が発行。春陽堂・俳句文庫。225ページ。

『放哉評伝』の要約・感想

  • 尾崎放哉の原点:鳥取での幼少期
  • 家族との関係性と井泉水の「誤解」
  • 一高時代:才能の萌芽と出会い
  • 東京帝大から社会人へ:順風と蹉跌
  • 俳句への回帰と種田山頭火との接点
  • 流浪の始まり:一燈園から須磨寺へ
  • 安住の地を求めて:小浜、京都
  • 終焉の地・小豆島:南郷庵での日々
  • 『放哉評伝』を読むということ

尾崎放哉の実像に迫る『放哉評伝』徹底解説

本書『放哉評伝』は、文芸評論家である村上護が、俳人・尾崎放哉の生涯を丹念に追った評伝である。

彼は定型に縛られない自由律俳句の世界で、種田山頭火(たねだ・さんとうか、1882年~1940年)と並び称される存在であるが、その人生は波乱に満ちたものであった。エリート街道を歩みながらも社会に適合できず、職を転々とし、家族と離れ、孤独のうちに放浪の生活を送り、短い生涯を終えた。

本書は、豊富な資料、特に関係者への取材や書簡の分析を通して、これまで断片的に語られがちだった放哉の人物像を立体的に描き出すことに成功している。なぜ現代において、尾崎放哉の人生が我々の心に響くのだろうか。それは、彼の抱えた孤独や社会との軋轢、表現への渇望が、時代を超えて普遍的な人間の悩みと重なるからかもしれない。

この記事では『放哉評伝』の内容を紐解きながら、尾崎放哉という俳人の魅力とその壮絶な人生、そして代表作が生まれた背景に迫っていく。多くの読者にとって、彼の生き様や言葉が何かしらの示唆を与えることであろう。

尾崎放哉の原点:鳥取での幼少期

尾崎放哉の生涯を理解する上で、その出自と幼少期の環境を知ることは欠かせない。放哉は1885年1月20日、鳥取県鳥取市に生まれた。尾崎放哉生まれの地は、当時の日本の地方都市の一つである。父は尾崎信三、鳥取地方裁判所の書記官を務める人物であった。一方、母・なかは、比較的恵まれた家系の出身であったようだ。『放哉評伝』には、母・なかの出自について次のように記されている。

母なかは安政三年(一八五六)に邑美郡桶屋町に生まれている。そこは鳥取城下四十八町の一町、ここに屋敷を構えた池田藩の御殿医福間道敬の次女。福間家は士族の中でもいわゆる名家だったが、新時代の影響でか明治六年、なかは十七歳のとき小身の尾崎家へと嫁した。おそらく信三の将来性を見込んだ親の計らいであったろう。(P.24「尾崎家」)

母なかの実家、福間家は池田藩の御殿医であり、士族の中でも名家とされている。当時の医師という職業が持つ社会的地位や、名家としての文化的な蓄積は、いわゆる社会資本や文化資本として、放哉の生育環境に少なからず影響を与えた可能性がある。

父親が地方裁判所の書記官であったことも考え合わせると、尾崎家は当時の地方都市において、比較的安定した知識層の家庭であったと言えるだろう。このような環境が、後の放哉の知性や感性を育む土壌となったことは想像に難くない。

彼は鳥取高等小学校を修了後、鳥取県立第一中学校(現在の鳥取西高等学校)へと進学する。この時期までの放哉は、学業優秀な少年として順調な道を歩んでいた。しかし、この恵まれた環境と、彼が後に歩むことになる破滅的な人生との間には、大きな隔たりが存在する。その後の人生で彼が経験する苦悩の根源を探る上で、この鳥取での日々は重要な意味を持つのである。

家族との関係性と井泉水の「誤解」

尾崎放哉の人物像を語る上で、しばしば「家族や故郷を嫌っていた」という側面が強調されることがある。特に、彼の師であり、自由律俳句の指導者であった荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい、1884年~1976年)によって伝えられた放哉像の中には、そうした印象を強める記述も見受けられた。

しかし、『放哉評伝』は、放哉の初恋の人物・沢芳衛(さわ・よしえ、1886年~1963年)の証言を引用し、この通説に一石を投じている。

芳衛は「追憶」という一文を草している。その冒頭は「放哉が親せきの人や故郷の人を大変きらっておるという事で、父母兄姉がわるい人のように伝わっておる事は事実と全く反対なので、現在たゞ一人生存しております彼の姪が、とても残念がり、私に井泉水先生に是非誤解をといて頂くようお話してくれたとたのんでおりますし、私にしましてもそれをおもうのでございます」と書き出している。(P.29「尾崎家」)

この芳衛の言葉からは、放哉が家族を一方的に憎んでいたわけではない、むしろ家族側は放哉に対して複雑な思いを抱きつつも、世間に流布するイメージとのギャップに心を痛めていた様子がうかがえる。

井泉水は放哉の才能を高く評価し、彼の俳句活動を支えた恩人であるが、一方で放哉の晩年の生活や心情を伝える上で、ある種のフィルターがかかっていた可能性も否定できない。放哉自身、エリートコースから脱落し、社会生活に適合できずに苦しむ中で、故郷や家族に対して複雑な感情を抱いていたことは事実であろう。

しかし、それを単純な「嫌悪」として片付けてしまうのは、彼の内面の葛藤を見過ごすことになるかもしれない。家族との微妙な距離感、期待と失望、そして愛情と反発。こうしたアンビバレントな感情こそが、後の放哉の孤独感を深め、彼の俳句に独特の陰影を与える一因となったのではないだろうか。

本書は、こうした多角的な視点から放哉と家族の関係性を描き出すことで、より人間味のある放哉像を提示しているのである。

一高時代:才能の萌芽と出会い

鳥取での中学時代を経て、尾崎放哉は第一高等学校へと進学する。当時の日本において、一高は東京帝国大学への登竜門であり、全国から秀才が集まるエリート養成機関であった。この一高時代は、放哉の才能が多方面で花開くとともに、後の人生に大きな影響を与える様々な出会いがあった時期である。

特筆すべきは、後の妻となる板根馨(いたね・かおる、1892年~1930年)との縁が、この時期に既に始まっていたことだ。馨は、放哉が東京で世話になっていた板根家の次女であった。板根家の夫人・寿は、放哉の母・なかと遠い親戚関係にあり、鳥取の母から放哉のことを頼まれていたという。

放哉が中学生のころは、芳衛を訪ねるのが日課のようになっていた。東京でも芳衛に会うため、垣根家を訪ねることもあったらしい。実はこの家の夫人板根寿は、放哉の母なかと遠い親戚で、秀雄のことをよろしく、と頼まれていたという。これは後に書くことだが、放哉と結婚する馨は板根利貞、寿夫婦の次女で当時十一歳と幼かった。(P.52「一高」)

この時点ではまだ幼かった馨と放哉が、後に夫婦となる運命を誰が予想できただろうか。尾崎放哉の妻となる馨との最初の接点は、このような形であった。

また、一高時代は、放哉が人生や死について深く思索するきっかけとなる出来事もあった。同級生であった藤村操(ふじむら・みさお、1886年~1903年)の自殺である。藤村は華厳の滝に身を投じ、「巌頭之感」という遺書を残して世間に衝撃を与えた。放哉はこの藤村の死に大きな影響を受け、三天坊というペンネームで「俺の記」という文章を校友会雑誌に発表している。

長々引用してしまったが、藤村操がいかにも凝った死に方をしたことに対しての、反措定の文ではなかろうか。放哉と藤村は一高第一部で文科、法科混成の二の組だから、もちろん顔見知りであった。寮でも一緒だから、日頃の彼もよく知っていたろう。(P.56「一高」)

村上護は、放哉の「俺の記」が、藤村の劇的な死に対するアンチテーゼであった可能性を指摘している。放哉は藤村の死を通して、死の観念性や装飾性を批判し、むしろ生身の人間の持つ死の現実性、どこででも容易に訪れる死というものを見つめようとした。これは、後の彼の俳句にも通底する死生観の萌芽であったと言えるだろう。

そして、放哉の俳句人生において最も重要な出会いの一つが、この一高時代にあった。既に上述しているが、荻原井泉水との出会いである。井泉水は放哉の一級上に在籍しており、当時盛んだった新派俳句の活動を通じて知り合った。

丁度明治卅五年頃の事と覚えて居ります。其頃、井師も私も共に東京の第一高等学校に居りました。井師は私よりも一級上級といふわけで、其頃は俳句――新派俳句と云つた時代です――が非常に盛で、其結果『一高俳句会』といふものが出来、句会を開いたものでした。(P.60「一高」)

放哉自身の回想によれば、明治35年、つまり1902年頃、根津神社(根津権現)の境内で開かれていた句会などを通じて、井泉水らと交流を持ったようだ。高浜虚子(たかはま・きょし、1874年~1959年)や河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう、1873年~1937年)といった大家の名前も挙がっており、当時の俳句熱の高さを物語っている。

さらに、一高時代の放哉を取り巻く環境は、驚くほど豪華なものであった。

放哉と同期には藤村操のほか、安倍能成、小宮豊隆、中勘助、野上豊一郎らがおり、斎藤茂吉も同年の入学だが理科三部だったから面識はなかった。一級上には井泉水のほか阿部次郎、岩波茂雄、一級下に富安風生、鶴見祐輔ら。またロンドン留学から帰ってきた夏目漱石が教鞭をとっており、放哉も漱石の講義をうけたという。(P.64「一高」)

安倍能成(あべ・よししげ、1883年~1966年)、小宮豊隆(こみや・とよたか、1884年~1966年)、中勘助(なか・かんすけ、1885年~1965年)、岩波茂雄(いわなみ・しげお、1881年~1946年)、富安風生(とみやす・ふうせい、1885年~1979年)、そして教師として夏目漱石(なつめ・そうせき、1867年~1916年)。錚々たる顔ぶれである。

このような知的な刺激に満ちた環境が、放哉の文学的素養や思考力を鍛え上げたことは間違いない。しかし同時に、こうしたエリート集団の中で、彼が後の人生で経験するような挫折や疎外感の種も、既に内包されていたのかもしれない。

東京帝大から社会人へ:順風と蹉跌

第一高等学校を卒業した尾崎放哉は、エリートコースの王道である東京帝国大学法科大学政治学科へと進学する。卒業は追試験であったという逸話も残るが、当時の最高学府で学んだことは、彼の知的な基盤を確固たるものにした。この学生時代にも、彼は俳句を嗜んでいたようである。

すき腹を鳴いて蚊が出るあくび哉(P.66「東京帝大」)

これは、彼が本郷の西片町に下宿していた明治40年、1907年頃の作とされている。若き日の放哉の、やや自嘲的でありながらもユーモラスな一面が垣間見える句である。どこか後の種田山頭火の句を思わせるような、日常の些細な場面を捉えた描写が印象的だ。

大学卒業後、放哉は東洋生命保険(現在の朝日生命保険の前身の一つ)に就職する。まさに順風満帆な人生の滑り出しに見えた。当時の生命保険会社は、安定した優良企業であり、帝大卒のエリートが入社することは、輝かしい未来を約束されたも同然であった。しかし、この社会人としての生活が、放哉にとって最初の大きな蹉跌、躓きとなる。

組織の中で働くこと、上司や同僚との人間関係、会社というシステムへの適応。これらが、放哉の繊細で不器用な性質とは相容れなかったようだ。『放哉評伝』では、この時期の放哉の苦悩についても触れられている。彼は社内で孤立し、酒に溺れることもあったという。

結局、東洋生命保険でのキャリアは続かず、彼は新たな道を求めて朝鮮火災海上保険(後に日本の東京海上火災保険に吸収される)へと転職する。当時、外地と呼ばれた朝鮮半島での勤務であった。しかし、ここでも彼は組織に馴染むことができず、最終的には免職という形で職を失うことになる。

輝かしい学歴を持ちながら、社会人としては挫折を繰り返す。この経験は、放哉の自尊心を深く傷つけ、彼の人生に暗い影を落とすことになった。エリートとしての期待と現実とのギャップ、理想と現実の乖離。

こうした苦悩が、彼を再び俳句の世界へと引き戻していくことになるのである。社会からのドロップアウトは、彼にとって苦痛であると同時に、既存の価値観から解放され、自己の内面と深く向き合う契機ともなったのかもしれない。

俳句への回帰と種田山頭火との接点

社会人としての挫折を経験し、エリートコースから外れた尾崎放哉は、再び俳句の世界に心の拠り所を求めるようになる。学生時代に親しんだ俳句であったが、社会に出てからは遠ざかっていた。

しかし、大阪での勤務時代などに感じた孤独や疎外感が、彼の内なる表現欲求を再び呼び覚ました。特に、一高時代の先輩であり、既に俳壇で自由律俳句運動の中心人物となっていた荻原井泉水が主宰する俳誌「層雲」の存在は大きかった。

井泉水は、俳句を作る上で最も重要なのは、技巧や外面的な描写ではなく、自己の心から湧き出る何か、すなわち内面の真実を探求することであると説いた。

井泉水はいう。俳句を作るとき必要なものは、自己の心から湧き出る何かだと。その何かをさぐることは、自己の心を深く掘りさげることになる。それは出された課題によって外面の自然を詠むのとは自ずと違う。すなわち自己の心を深く掘ることで、自己の中に自然が脈打ち、自然の中に自己の生命が息づいているのだ、と。(P.98「蹉跌」)

この井泉水の思想は、社会との適合に苦しみ、自己の内面と向き合わざるを得なかった放哉にとって、強く響くものであっただろう。「層雲」への投句は、彼にとって自己救済の道であり、自身の存在を確認する手段でもあった。

『放哉評伝』によれば、放哉の「層雲」への投句数は、大正4年(1915年)12月号に1句掲載されたのを皮切りに、大正5年(1916年)には69句、大正6年(1917年)には87句と増加していく。その後、大正7年(1918年)42句、大正8年(1919年)24句と続き、一時句作から遠ざかる時期もあるものの、彼の俳句活動が本格的に再開されたことを示している。

興味深いことに、この時期、「層雲」にはもう一人の重要な自由律俳人、種田山頭火も投句していた。放哉と山頭火の投句時期は重なっており、山頭火が大正2年(1913年)に2句、大正3年(1914年)に73句、大正4年(1915年)に176句、大正5年(1916年)に89句などを投句している。

そして、さらに驚くべき事実が明らかにされている。

その間、山頭火が「層雲」選者の一人になった時期、放哉の数句を選んでいるのは注目すべきだろう。たとえば山頭火が選者となり大正五年七月号で、まず選した俳句は、

谷底に只白く見ゆる流れなる   放哉

その後も山頭火は大正五年九月と、翌六年四月、七月、十月に放哉の投句から各一句ずつ採っている。(P.99「蹉跌」)

山頭火が「層雲」の選者であったこと、そして放哉の句を選んでいたという事実は、あまり広く知られていないかもしれない。これは、二人の自由律俳人の間に、直接的な交流はなくとも、俳句を通じた間接的な繋がりがあったことを示す貴重な証拠である。

しばしば比較される尾崎放哉と種田山頭火の違いは、その境遇や作風の点で見られるが、共に社会の周縁を生き、自由律という形式で自己の内面を表現しようとした点では共通している。

山頭火が放哉の句を選んだという事実は、二人の魂がどこかで響き合っていたことを示唆しているようで、非常に興味深いエピソードである。この俳句への回帰と「層雲」への参加は、放哉の人生の転機となり、後の漂泊の俳人としての道を決定づけることになったのである。

流浪の始まり:一燈園から須磨寺へ

職を失い、妻・馨とも別居状態となり、社会的な繋がりを断ち切られた尾崎放哉は、精神的な救済と安住の地を求めて、文字通りの流浪の生活へと入っていく。その最初の試みの一つが、西田天香(にしだ・てんこう、1872年~1968年)が京都で創設した共同体「一燈園」での生活であった。

一燈園は、無所有・奉仕の精神を掲げ、托鉢や労役によって生計を立てる生活共同体であった。放哉はここで、世俗的な価値観から離れた生活を送り、自己の内面と向き合おうとした。しかし、ここでの生活も長くは続かなかった。

一燈園を出た後、放哉は知人の紹介などを頼り、いくつかの寺を転々とする。その中で、比較的長く滞在したのが、神戸にある須磨寺であった。ここで彼は寺男として働きながら、孤独の中で静かに句作に励むことになる。

須磨寺での生活は、彼にとって精神的な安定をもたらすとともに、その俳句表現を深化させる重要な時期となった。特に、師である荻原井泉水が称賛したとされる句が、この時期に生まれている。

そして、放哉が物いわずに過ごせる大師堂の心境を次のように国したときは、もろ手をあげて賛美した。

一日物云はず蝶の影さす

沈黙の池に亀一つ浮上する

これは井泉水が声高に提唱し、たどり着こうとしていた世界であった。それを放哉は須磨寺において逸早く把持したわけである。(P.155「須磨寺」)

「一日物云はず蝶の影さす」。

この句は、放哉の俳句の中でも尾崎放哉の代表作の一つとして挙げられることも多い。言葉を発せず、静寂の中でただ自然の移ろいを見つめる。蝶の影という微細な動きに、自己の存在を重ね合わせるかのような、深い内省が感じられる。井泉水が目指した、自己の内面と自然とが一体となる境地を、放哉は見事に表現してみせたのである。

この尾崎放哉の俳句には、静謐で深い味わいがある。須磨寺での孤独な生活は、彼にこうした内省的な視点と、それを的確に捉える言葉を与えた。俗世の喧騒から離れ、自己と向き合う時間を持つことで、彼の俳句はより純粋で、研ぎ澄まされたものへと変化していったのである。

安住の地を求めて:小浜、京都

須磨寺での生活も、放哉にとって終の棲家とはならなかった。彼はさらなる安住の地、自己の内面と静かに向き合える場所を求めて、再び旅に出る。須磨寺を離れた放哉は、福井県小浜市にある常高寺の寺男となる。ここでも彼は、寺の雑務をこなしながら、孤独な生活を送った。

その後、京都に移り、知人の世話になりながら一時的に滞在することもあった。この流転の日々の中で、放哉は師である荻原井泉水や、数少ない友人たちに手紙を書き送っている。その手紙は、彼の日々の暮らしぶりや心境を知る上で、貴重な資料となっている。小浜の常高寺での生活について、井泉水に宛てた手紙の中で、彼は自らの生活を次のように表現している。

小生、オ寺ニ来テ以来、毎日ゝゝ同ジ事ヲ、クリカヘシテ居ル、実ニ、シンプルライフ(P.177「小浜・京都」)

「シンプルライフ」というカタカナ表記が、何とも言えず軽妙な響きを持っている。毎日同じことの繰り返し。それは単調で退屈な生活とも言えるが、見方を変えれば、余計なものから解放された、簡素で落ち着いた生活とも捉えられる。

この言葉には、現状を受け入れようとする放哉の、ある種の諦念や、ささやかな安らぎのようなものが感じられなくもない。しかし、その一方で、彼の内面には常に満たされない渇望や、社会から隔絶された孤独感が渦巻いていたことも、他の手紙の内容などからうかがい知ることができる。

彼は常に、物質的な豊かさや社会的な成功とは無縁の場所で、ただ静かに自己の魂を見つめ、それを言葉にすることだけを求めていた。しかし、そのための最低限の生活基盤すら、彼にとっては不安定なものであった。

小浜や京都での生活は、彼にとって終の棲家探しの、長い旅路の一コマに過ぎなかったのである。この時期も、彼の俳句作は続けられており、その一つ一つが、流浪の俳人の孤独な魂の記録となっている。彼の俳句一覧を見ると、この時期にも心に残る作品が散見される。

終焉の地・小豆島:南郷庵での日々

長い流浪の末、尾崎放哉はようやく終焉の地を見出すことになる。大正14年(1925年)8月、彼は荻原井泉水らの尽力により、香川県の小豆島にある西光寺の奥の院、南郷庵(みなんごあん)に入ることができた。周囲に民家もなく、瀬戸内海を見下ろす高台に建つ小さな庵。ここで彼は、生涯最後の約8ヶ月間を過ごすことになる。

南郷庵での生活は、彼が長年求め続けた、孤独の中で自己と向き合い、句作に専念できる環境であった。彼はこの地で「新生活様式」と称し、一日を静かに過ごし、俳句を作ることに没頭した。しかし、この孤独な生活の中で、彼の表現への欲求は、俳句だけでなく、手紙という形でも噴出することになる。

新生活様式と銘打ち、放哉が南郷庵で独居して、一日黙って暮し、悠々と天命を果たそうと決意するのは大正十四年(一九二五)年九月一日のこと。それから翌年四月七日の臨終までに、各所の俳友たちに出した手紙の数はおびただしい。現在公表されている分だけでも、四百二十通ほどもあり、その一通一通が長文で自らを述懐するものも多く、独自の書簡文学を成している。(P.199「終焉」)

わずか8ヶ月ほどの間に書かれた手紙が420通以上。これは驚くべき数である。

口を開けば、俗世との軋轢を生んでしまう不器用な彼にとって、手紙は自己を表現するための重要な手段であった。孤独であればあるほど、他者との繋がりを求め、自らの思いを伝えたいという欲求が強まったのかもしれない。これらの手紙は、放哉の晩年の心境や生活を知る上で欠かせないだけでなく、それ自体が文学的な価値を持つものとして評価されている。

その手紙の中には、かつて「層雲」誌上で間接的な接点を持った種田山頭火への言及も見られる。福岡県柳川市出身の医師であり、放哉、山頭火の双方と交流のあった木村緑平(きむら・りょくへい、1888年~1968年)に宛てた手紙の中で、放哉は山頭火を気遣う言葉を記している。

ムヅカシイ御挨拶はぬきにして……山頭火氏ハ耕畝と改名したのですか、観音堂に居られるのですネ、……「山頭火」ときく方が私には、なつかしい気がする、色々御事情がおありの事らしい、私ハよく知りませんが、自分の今日に引キ比べて見て、御察しせざるを得ませんですよ、全く、人間といふ「奴」はイロゝゝ云ふに云はれん、コンガラガツタ、事情がくつ付いて来ましてネ、……イヤダゝゝ呵々。(P.202「終焉」)

この手紙は、著者である村上護が1990年の秋に発見したもので、当時の全集には未収録だった貴重なものである。放哉が山頭火の境遇を「自分の今日に引キ比べて見て、御察しせざるを得ませんですよ」と慮っている点に、同じ自由律俳人としての共感や、人生の困難を知る者同士の優しさが感じられる。

南郷庵での生活は、放哉にとって安息の地であると同時に、死と向き合う場所でもあった。彼の体は既に病魔に侵されており、死期が近いことを自覚していた。井泉水は彼の身を案じ、京都の病院への入院を勧めるが、放哉はそれを拒否する。

……放哉は勿論、俗人でありますが、又、同時に『詩人』として、死なしてもらひたいと思ふのでありますよ……(P.212「終焉」)

この井泉水宛の手紙に記された言葉は、尾崎放哉の最期の覚悟を示すものとして、非常に重い響きを持つ。

彼は、病院で延命治療を受ける「俗人」として死ぬのではなく、この南郷庵という孤独な場所で、「詩人」として自らの人生を全うしたいと願ったのである。

彼の代表作として最も有名な句の一つ、「咳をしても一人」も、この小豆島での孤独な生活の中で生まれたとされる。「咳をしても一人」という短い言葉の中に凝縮された、絶対的な孤独感。それは、彼が生涯を通じて抱え続けたものであり、南郷庵での日々がそれをさらに深く彼に刻み込んだ結果であっただろう。

そして、大正15年(1926年)4月7日、尾崎放哉は南郷庵にて、41歳という短い生涯を閉じた。尾崎放哉の死去の報は、井泉水ら俳句仲間たちに深い悲しみをもたらした。彼の望み通り、彼は詩人として、その終焉の地で息を引き取ったのである。

『放哉評伝』を読むということ

村上護氏による『放哉評伝』は、尾崎放哉という複雑で魅力的な俳人の生涯と文学を理解する上で、欠かすことのできない一冊である。本書の最大の魅力は、著者の丹念な調査と客観的でありながらも温かい眼差し、そして巧みな構成にあると言えるだろう。

単に時系列に沿って事実を並べるだけでなく、各時代の背景や関連人物との関わり、そして放哉自身の内面の変化を丁寧に描き出すことで、読者は放哉の人生を追体験するかのような感覚を覚える。特に本書において数多く引用されている放哉自身の手紙は、彼の肉声に触れるような臨場感を与えてくれる。

不器用で、世間との折り合いが悪く、孤独でありながらも、表現することへの渇望を捨てなかった一人の人間の、率直な言葉がそこにはある。これらの手紙を読むことで、俳句だけでは捉えきれない、放哉の人間的な側面、弱さや苦悩、そして時折見せるユーモアや他者への配慮などを深く理解することができる。

本書は、尾崎放哉の代表作や俳句一覧を知りたい読者にとっても、非常に有益である。単に句を羅列するのではなく、それぞれの句がどのような状況で、どのような心情のもとに詠まれたのか、その背景が詳しく解説されている。例えば「一日物云はず蝶の影さす」が須磨寺での静謐な生活から生まれたこと、「障子あけて置く海も暮れきる」が小豆島での生活の中から生まれたことなどを知ることで、句の持つ意味合いはより一層深まる。

尾崎放哉の俳句も、その背後にある彼の人生を知ることで、単なる素晴らしさや面白さだけでなく、哀しみや諦観といった複雑な感情が織り込まれていることに気づかされるだろう。

『放哉評伝』を読むことは、単に一人の俳人の生涯を知るだけにとどまらない。エリートから漂泊の俳人へという、あまりにも振幅の大きな人生。社会との不適合、孤独、病、貧困といった苦難の中で、なおも自己表現を追求し続けた放哉の生き様は、現代を生きる我々にも多くのことを問いかけてくる。

人生における成功とは何か、社会との関わり方、孤独との向き合い方、そして表現することの意味。本書は、こうした普遍的なテーマについて深く考えさせてくれるのである。

書籍紹介

関連書籍

関連スポット

尾崎放哉記念館

香川県小豆郡土庄町(しょうずぐんとのしょうまち)にある文化施設。尾崎放哉の終焉の地であり、南郷庵(みなんごあん)のあった場所。敷地内には多くの句碑なども。また近くには、尾崎放哉の墓も。

公式サイト:尾崎放哉記念館

西光寺

香川県小豆郡土庄町にある高野山真言宗の仏教寺院。旧奥の院に、尾崎放哉記念館がある。

尾崎放哉は、『層雲』の同人でもある西光寺の第26世住職・杉本玄々子(すぎもと・げんげんし、1891年~1964年)、法名・宥玄(ゆうげん)の世話になる。

境内には、尾崎放哉と種田山頭火の句碑も。

公式サイトは特に無い。

須磨寺

1924年に尾崎放哉は、兵庫県神戸市須磨区にある真言宗須磨寺派の寺院・須磨寺の大師堂の堂守となる。境内には尾崎放哉の句碑をはじめ、多くの句碑が建立されている。

公式サイト:須磨寺

常高寺

1925年に、尾崎放哉は福井県小浜市にある臨済宗妙心寺派の寺院・常高寺の寺男となる。

公式サイト:常高寺

興禅寺

鳥取県鳥取市にある黄檗宗の寺院。尾崎家の墓があり、尾崎放哉の墓も。句碑も建立されている。

公式サイトは特に無い。