小泉信三の略歴
小泉信三(こいずみ・しんぞう、1888年~1966年)
経済学者、教育者。
東京・三田の生まれ。御田小学校、慶應義塾普通部、慶應義塾大学部政治科を卒業。
母校で教員を務め、イギリス、ドイツ、フランスの大学に留学。
『わが文芸談』の目次
一 私の読書歴
二 鷗外の人と文学
三 鷗外と文章
四 鷗外と武士道
五 漱石の人と文学
六 漱石の道徳的勇気
七 露伴の文学
八 鏡花と滝太郎
九 久保田万太郎
『わが文芸談』の概要
1994年5月10日に第一刷が発行。ディスカヴァーebook選書。151ページ。2022年2月28日に電子書籍版が発行。
もともとは1966年9月に新潮社から刊行されたもの。
内容は、慶應義塾での実施した文学に関連した講義を書籍にまとめたもの。
目次にもある通り、以下の文学者たちなどを取り上げている。
森鴎外(もり・おうがい、1862年~1922年)…小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医。島根県の生まれ。東京大学医学部を卒業。1910年に、慶應義塾大学部の文学科顧問に就任。
夏目漱石(なつめ・そうせき、1867年~1916年)…小説家、英文学者。東京都新宿区の出身。東京大学文学部英文科を卒業。
幸田露伴(こうだ・ろはん、1867年~1947年)…小説家。東京都台東区の出身。東京師範学校附属小学校(現在の筑波大附属小)を卒業。東京府第一中学(現在の日比谷高校)正則科を中退。東京英学校(現在の青山学院大学)を中退。給費生として逓信省官立電信修技学校を卒業。
泉鏡花(いずみ・きょうか、1873年~1939年)…小説家。石川県金沢市の出身。金沢市内養成小学校を卒業。金沢高等小学校を中退。北陸英和学校を中退。
水上滝太郎(みなかみ・たきたろう、1887年~1940年)…小説家、評論家、事業家。東京都港区の生まれ。小泉信三の同期生として共に御田小学校、慶應義塾普通部、慶應義塾大学部理財科を卒業。文学科の講義も受ける。1911年『三田文学』に短編「山の手の子」を発表。後に『三田文学』の編集委員を務める。
永井荷風(ながい・かふう、1879年~1959年)…小説家。東京都文京区の生まれ。東京府尋常師範学校附属小学校高等科(現在の東京学芸大学附属竹早小学校)、高等師範学校附属尋常中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。高等商業学校附属外国語学校清語科(現在の東京外国語大学)を中退。1910年に慶應義塾大学文学部の主任教授に就任。
久保田万太郎(くぼた・まんたろう、1889年~1963年)…小説家、劇作家、俳人。東京都台東区浅草の出身。浅草尋常高等小学校(現在の台東区立浅草小学校)を卒業。東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)を中退。慶應義塾普通部、慶應義塾大学部文学科を卒業。1911年に小説「朝顔」、戯曲「遊戯」を『三田文学』に発表。
『わが文芸談』の感想
『読書論』が面白かったので、前々から気になっていた本。kindle unlimitedにあったので、読み始めた。講義をまとめたものなので、軽めの語り口で読みやすかった。『読書論』に比べて少しアッサリとした感じではあったけれど。文語と口語の違いかな。
上記にも記載したが、様々な文学者たちについて綴られている。ただしメインは、森鴎外と夏目漱石。その他の幸田露伴、泉鏡花、水上滝太郎、永井荷風、久保田万太郎が少々といった感じである。
森鴎外と夏目漱石についてはかなり面白かった。同時代を生きた人が書いているのは面白い。
しかしながら、内容とは関係がないが、ディスカヴァーebook選書の校正が全く駄目。というよりも取り敢えずOCRをやって終わりみたいな。誰も確認をしていないのかな。
例えば、「筆」という字が「箪」の表記になっていたり、「嫌」が「鎌」になっていたり、多々ある。一部には明らかにめっちゃ崩れているところもあるし。
内容がなかなか興味深いので、残念ではある。
それでは、本題に戻して本の内容について引用しながら見ていく。
鷗外は後に到って、「即興詩人」の文体からもっと自由な、楽な文体に変りましたけれども、「即興詩人」時代が、鷗外の凝りに凝った頂上です。(P.21「二 鷗外の人と文学」)
「即興詩人」は、デンマークの作家ハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen、1805年~1875年)が1835年に発表した長編の小説。
森鴎外は、ドイツ語訳を読んで、非常に気に入って、1892年~1901年にかけてドイツ語から日本語へと翻訳して、断続的に発表。1902年に書籍として刊行された。
「日本語と漢語とヨーロッパ語と、それから日本の俗語と文語と大和言葉と漢文調と、それを一つに調和して新しい日本の文章を作りたい」といった森鴎外の理想を表現する最高峰のものであると、小泉信三は大絶賛している。
さらに続いて「渋江抽斎」も素晴らしい作品であると褒めている。
渋江抽斎(しぶえ・ちゅうさい、1805年~1858年)は、江戸時代の医師、考証家、書誌学者。弘前藩の侍医の子供として、江戸の神田に生まれた人物。
佐藤春夫君は鷗外を尊敬して、死ぬ二、三年前に、わたくしが手紙で鷗外のことを書いてやったのに対して、「うた日記」は自分の詩の教科書だといって答えてきたことがある。(P.46「二 鷗外の人と文学」)
佐藤春夫(さとう・はるお、1892年~1964年)は、詩人で小説家。永井荷風を慕って、慶應義塾大学部文学科に入学している。後に中退をしてしまってはいるが。
そのような佐藤春夫は森鴎外を尊敬。特に1907年に刊行された日露戦争従軍の詩歌集「うた日記」を絶賛していたという。
佐藤春夫の詩や小説は、まだしっかりと読んだことがないのでいつか堪能したいと思っている。その弟子である太宰治(だざい・おさむ、1909年~1948年)や、柴田錬三郎(しばた・れんざぶろう、1917年~1978年)は大好きなので、かなり楽しみではある。
乃木は、鷗外と大変親しかった。陸軍における位置は、むろん乃木の方が上でありますけれども、鷗外のドイツ留学の時に、乃木もドイツにおったし、以後官界の履歴においても、鷗外は乃木と大変親しい関係にあった。(P.49「二 鷗外の人と文学」)
乃木というのは、陸軍軍人の乃木希典(のぎ・まれすけ、1849年~1912年)のこと。森鴎外は、乃木希典の殉死に衝撃を受けて、「興津弥五右衛門の遺書」を発表したのは知っていたけれど、深い交流があったのか。
森鴎外は、1884年10月~1888年7月まで、ドイツにいた。
乃木希典は、1887年1月~1888年6月まで、ドイツにいた。
二人のドイツ留学の時期が重なっているのか。両者ともに、陸軍だしな。しかも、ちょうど森鴎外のドイツ留学が終わりのタイミング。そりゃ、ドイツで仲良くなってから、日本に帰国したら、交流は続くよな。
そこまで仲が良いとは知らなかったので驚いた。
では、何故、乃木希典の殉死に森鴎外は衝撃を受けたのか。恐らく全く殉死の素振りを見せなかったのだろう。
少し調べてみたら、乃木希典はそれまでに二度の殉死を試みようとしていた。一度目は、西南戦争。この時は、上官によって止められている。二度目は、日露戦争。この時には、明治天皇によって止められている。
そして二度目の際に明治天皇から「どうしても死ぬのであれば朕が世を去った後にせよ」という趣旨の言葉があったとか。
このような複数の伏線がありつつ、明治天皇の崩御の後に、乃木希典は妻とともに殉死している。
鷗外はその議論を紹介してましてね、白人がそういう偏見的優越感を持っているということを、まず知らなきゃならん、人の侮りを退けるには、まず侮られているということを知らなきゃならんと言って、人種哲学の梗概を書いた。(P.60「四 鷗外と武士道」)
今からざっくり140年くらい前の話だから、なおさら白人による、有色人種への差別は激しかっただろう。白人から見れば、日本人も黄色い肌の単なる黄色人種でしかないのだから。
そのような偏見や侮りに対応するには、その事実をまずは知っておかなければならない。そこから対策が始められるというもの。
確か博物学者の南方熊楠(みなかた・くまぐす、1867年~1941年)も、イギリスで人種差別的な対応をされたことからトラブルになったみたいな話もあったな。
留学の先輩たちや同期の人達からも、さまざまな情報共有はされているのだろうから、各種の対処法などは広まっていたのかもしれない。
ちなみに梗概というのは、粗筋や大略、あらまし。
小泉信三は、森鴎外のあらゆる梗概についても高い評価をしている。
大多数まが事にのみ起立する会議の場に唯列び居り
会議の席に出ているけれども、多数の者はいつもまちがったことにのみ賛成して起立していると、多数者の愚かをあざけった歌です。(P.64「四 鷗外と武士道」)
場は「には」と読む。
めっちゃ森鴎外っぽいエピソードだな、と笑った。まぁ当時の超絶エリートだからな。仕方が無いよな。まわりがバカに見えていたのかもしれない。ちょっと面白い。
その後の人でも、たとえば菊池寛は漱石嫌いです。これに反し、志賀、武者小路、長与なんかは漱石を大変尊敬しています。(P.71「五 漱石の人と文学」)
こういった対立というか、好き嫌いみたいなのはあまり知らなかった。
菊池寛(きくち・かん、1888年~1948年)は、漱石を嫌いだったのか。確かに毛色が違うと言えば違うような気もするけれど、どういった理由なんだろうか。
まぁ、自分もそこまで夏目漱石の作品を読んでいないので、何とも言えないが。菊池寛の作品もそこまで読んでいないし。
森鴎外は結構読んでいるとは思うけれど。森鴎外は好きである。
志賀直哉(しが・なおや、1883年~1971年)や、武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ、1885年~1976年)、長与善郎(ながよ・よしろう、1888年~1961年)は、漱石好きだったのか。
だからと言って、この三人は夏目漱石の自宅で開かれていた会合、木曜会のメンバーというわけでもないしな。この辺りは、また頭の片隅に入れておいて、色々と文献を漁ってみよう。
佐久間船長はだんだん有毒ガスが充満して呼吸が困難になってくる、その間に遺書を書いたのです。(P.86「六 漱石の道徳的勇気」)
佐久間船長とは、海軍軍人の佐久間勉(さくま・つとむ、1879年~1910年)のこと。第六潜水艇艇長として事故で殉職し、修身科教科書にも掲載された人物。
夏目漱石は「文芸とヒロイツク」という短い評論で、死を目前にしながら冷静な遺書を残した佐久間船長についても触れている。
この佐久間船長のことも事故のことも知らなかった。何とも武士的な感じではある。
わたくしは漱石、鷗外、露伴の三人とも尊敬しているけれども、漱石は一度も見たことはない。鷗外は一度、会に出て顔を見ましたけれど、話したことはない。露伴は幸いにたびたび会っているんです。しかし、作品から言うと、露伴がいちばん親しくない。(P.104「七 露伴の文学」)
小泉信三と、三人の文豪たちとの実際に会った回数。そして、作品に触れた回数についても。
こういった人物たちと同時代に生きているというのは、面白いな。現在の作家でも、100年後に名前や作品が残っている人達がいて、評論家や関係者の残した文章が、凄い、ヤバイ、みたいな感じで受け止められるのだろうか。
むしろ、文章ではなく、映像とか。そんなことを考えるのも面白い。
というわけで、基本的に自分の好きな森鴎外に関する部分が多くなってしまったが、特に森鴎外や夏目漱石に興味のある人、もしくは幸田露伴、泉鏡花、水上滝太郎、永井荷風、久保田万太郎などに関心のある人にはオススメの本である。
書籍紹介
関連書籍
関連スポット
慶應義塾
1858年に福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち、1835年~1901年)が中津藩江戸藩邸で講師となった蘭学塾「一小家塾」が起源の学校法人。
公式サイト:慶應義塾
野球殿堂博物館
プロ・アマ問わず、国内外の野球に関する資料等を展示している東京都文京区にある博物館。
小泉信三は「学徒出陣壮行早慶戦」(1943年、通称「最後の早慶戦」)実施を評価されて、1976年に特別区分で殿堂入りしている。
公式サイト:野球殿堂博物館
森鴎外記念館(観潮楼跡・東京都)
東京都文京区千駄木にある森鴎外の記念館。森鴎外が晩年を過ごした旧宅・観潮楼の跡地。
公式サイト:森鴎外記念館
森鷗外記念館(島根県)
島根県鹿足郡津和野町にある森鴎外の記念館。森鴎外の生まれ育った場所であり、森鴎外旧宅もある。
公式サイト:森鷗外記念館
漱石山房記念館
東京都新宿区早稲田にある夏目漱石の記念館。晩年を過ごした場所。
公式サイト:漱石山房記念館
泉鏡花記念館
石川県金沢市下新町にある泉鏡花の文学館。生家跡に建つ邸宅を増築、改修した施設。
公式サイト:泉鏡花記念館