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宮沢清六『兄のトランク』要約・感想

宮沢清六『兄のトランク』表紙

  1. 弟・清六による賢治の素顔の記録
  2. 手紙に込められた賢治の精神
  3. 音楽と創作の深い結びつき
  4. 遺志を運んだトランクと原稿の奇跡

宮沢清六の略歴・経歴

宮沢清六(みやざわ・せいろく、1904年~2001年)
宮沢賢治の弟。実業家。
岩手県花巻市の出身。岩手県立盛岡中学校(現在の岩手県立盛岡第一高等学校)を卒業し、家業を手伝う。
1926年、花巻で宮澤商会を開業。金物・建材・電導材・自動車部品を扱い、1942年まで営業。

宮沢賢治の略歴・経歴

宮沢賢治(みやざわ・けんじ、1896年~1933年)
詩人、童話作家。
岩手県花巻市の出身。花巻川口尋常小学校(後に花城尋常小学校へ改名)、岩手県立盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)、盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)に首席で入学、翌年特待生として授業料は免除に。卒業後は研究生に。

『兄のトランク』の目次


虫と星と
麓の若駒たち
曠野の饗宴
最初の手紙
映画についての断章
兄とレコード
録音に寄せて
十一月三日の手紙
肥料設計と花壇設計
兄のトランク


『春と修羅』への独白
「修羅の渚」にて
「イギリス海岸」への独白


燻浄された原稿
花巻から山小屋までの高村先生
焼け残った教材絵図について
早春について
極東ビヂテリアン大会秘録
イタリヤの友より
銀河鉄道の車掌さん
賢治の世界
ナッパ先生の実験


「臨終のことば」から
兄賢治の生涯

あとがき
初出一覧
解説 宮沢清六さんのこと 入沢康夫

『兄のトランク』の概要・内容

1991年12月4日に第一刷が発行。ちくま文庫。275ページ。

1987年9月29日に筑摩書房から刊行された単行本を文庫化したもの。

解説は、詩人でフランス文学者の入沢康夫(いりさわ・やすお、1931年~2018年)。島根県松江市の出身。東京都立西高等学校、東京大学文学部仏文学科を卒業。宮沢賢治の研究などでも有名。

『兄のトランク』の要約・あらすじ・感想

  • 弟・宮沢清六が明かす宮沢賢治の実像と創作の源泉
  • 曠野の饗宴:軍隊生活の弟へ送られた手紙
  • 兄とレコード:音楽、特にベートーヴェンからの影響
  • 兄のトランク:賢治の遺志を運んだ鞄
  • 燻浄された原稿:『春と修羅』第一集原稿の舞台裏
  • 兄賢治の生涯:弟が見た兄の人生
  • 中学生時代:啄木からの影響と学友
  • 家出:創作への凄まじい情熱
  • 宮沢賢治の家系・子孫について
  • 『兄のトランク』を読むということ

弟・宮沢清六が明かす宮沢賢治の実像と創作の源泉

宮沢賢治という名は、多くの日本人にとって特別な響きを持つであろう。その作品は、世代を超えて読み継がれ、今なお我々の心に深く訴えかける普遍的な力を持っている。

しかし、その短い生涯や孤高のイメージから、どこか神秘的なベールに包まれた存在として捉えられがちでもある。今回紹介する書籍、宮沢清六『兄のトランク』は、賢治の実弟である著者だからこそ描き得た、人間・宮沢賢治の素顔に迫る貴重な記録である。

本書は、賢治研究の基礎資料として高く評価されているが、単なる記録や評伝にとどまらない魅力を持っている。そこには、兄を敬愛し、その才能を誰よりも理解していた弟の、温かく、時に切実な眼差しが貫かれている

。本書を読むことで、賢治作品の背景にある思想や生活、そして創作の秘密に触れることができるであろう。この記事では、『兄のトランク』のあらすじや内容に触れながら、賢治の知られざる一面、特に家族との関係や創作の源泉となったであろう体験について深く掘り下げていきたい。

賢治の作品を愛する者はもちろん、人間としての賢治に興味を持つ者にとっても、新たな発見に満ちた一冊となるはずである。

曠野の饗宴:軍隊生活の弟へ送られた手紙

本書の中でも特に印象的なのが、清六が軍隊生活を送っていた際に賢治から受け取った手紙に関する記述である。「曠野の饗宴」の章で紹介されるこの手紙は、1925年(大正14年)、清六が津軽半島の山田野で行われた陸軍演習に参加していた時期に送られたものだ。

兄・賢治は、わざわざ演習地まで面会に訪れ、その後、この手紙を寄越したのである。

いろいろな暗い思想を太陽の下でみんな汗といつしよに昇華さしたそのあとのあんな楽しさはわたくしもまた知つてゐます。われわれは楽しく正しく進まうではありませんか。苦痛を享楽できる人はほんたうの詩人です。もし風や光のなかに自分を忘れ世界がじぶんの庭になり、あるいは惚として銀河系全体をひとりのじぶんだと感ずるときはたのしいことではありませんか。もし四月まで居るやうならもいちどきつと訪ねて行きます。九月廿一日(P.32「Ⅰ:曠野の饗宴」)

この手紙の言葉は、平易でありながら、読む者の心に深く染み入る力を持っている。

「苦痛を享楽できる人はほんたうの詩人です」という一節には、賢治自身の生き方や創作への姿勢が凝縮されているように感じられる。

また、「風や光のなかに自分を忘れ世界がじぶんの庭になり、あるいは惚として銀河系全体をひとりのじぶんだと感ずるとき」という表現には、賢治特有の広大で透明感のある宇宙観、自然観が示されている。厳しい訓練の中にいる弟を励まし、同時に自らの思想を伝えようとする兄の思いが伝わってくる。

この手紙には、単なる言葉以上のものがある。それは、自然や宇宙との一体感を志向し、苦悩さえも創作の糧として昇華させようとする賢治の精神そのものである。

太陽の下で汗と共に暗い思想を昇華させるという表現は、肉体的な労苦を通じて精神的な浄化がもたらされるという、賢治の実感に基づいたものであろう。そして、その後の楽しさを「わたくしもまた知つてゐます」と語ることで、弟との共感を深めようとしている。

「われわれは楽しく正しく進まうではありませんか」という呼びかけは、単なる楽観主義ではなく、苦難を乗り越えた先にある真の喜びと、正しい道を進むことへの強い意志を示している。

そして、「銀河系全体をひとりのじぶんだと感ずる」という壮大なスケールの感覚は、後の『銀河鉄道の夜』などの作品世界にも通じる、賢治の根源的なヴィジョンを窺わせる。

さらに興味深いのは、賢治が手紙の約束通り、再び演習地を訪れ、その後、仙台で清六と共に記念撮影をしていることである。その写真は本書の冒頭にも掲載されており、軍服姿の凛々しい清六と、柔らかながらも真面目な表情の賢治が並んで写っている。

この一枚の写真からも、兄弟の絆の深さが伝わってくる。この写真は、宮沢賢治の家族写真としても貴重な一枚であろう。

兄とレコード:音楽、特にベートーヴェンからの影響

賢治の創作活動において、音楽、特にクラシック音楽が重要な役割を果たしていたことは、本書を通じて明らかにされる。「兄とレコード」の章では、賢治がレコードを通じて西洋音楽に深く親しんでいた様子が描かれている。

当時、レコードは非常に高価なものであったが、宮沢家は岩手県花巻市で古着商・質店を営む「宮沢商会」であり、比較的裕福であったため、賢治は様々なレコードを聴くことができた。特に、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven、1770年~1827年)の音楽に深く感銘を受けていたことが、清六の筆によって生き生きと伝えられている。

やがてしっかりとした解説書といっしょに英国盤の「月光」や「運命」の組物が入って来たときの兄の歓びは大したもので、「この大空からいちめんに降りそそぐ億千の光の征矢はどうだ。」「繰り返し繰り返し我らを訪れる運命の表現の素晴らしさ。おれも是非共こういうものを書かねばならない。」と言いながら書き出したのが『春と修羅』である。(P.54「Ⅰ:兄とレコード」)

ベートーヴェンのピアノソナタ「月光」や交響曲第五番「運命」を聴いた賢治の感動は、単なる音楽鑑賞にとどまらず、自らの創作意欲を強く刺激するものであった。

「光の征矢」という表現は、「月光」ソナタの第一楽章が喚起する静謐で幻想的なイメージと、第三楽章の激しい情熱が結びついた、賢治独自の感覚的な捉え方を示しているのかもしれない。ちなみに、征矢(そや)は、「戦場で使う矢」を意味する。

「運命」が持つ執拗なまでの力強さを、「繰り返し繰り返し我らを訪れる運命の表現」と捉え、それに匹敵するような力強い表現を文学で実現したいという熱い思いが、「おれも是非共こういうものを書かねばならない」という言葉に表れている。

そして、この感動が直接的な契機となって、詩集『春と修羅』の執筆が開始されたという事実は、極めて重要である。

清六は、この時期に書かれた賢治の長い詩篇が、交響曲のような構成や表現を目指したものではないかと考察している。確かに、『春と修羅』に収められた作品群、例えば表題作「春と修羅」や「小岩井農場」などは、そのスケールの大きさ、イメージの変転、感情の起伏において、音楽的な構成を思わせるものがある。

ベートーヴェン以外にも、ピョートル・チャイコフスキー(Pyotr Tchaikovsky、1840年~1893年)、フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn、1732年~1809年)、リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss、1864年~1949年)、クロード・ドビュッシー(Claude Debussy、1862年~1918年)といった作曲家のレコードも聴いていたという。

これらの多様な音楽体験が、賢治の言語感覚や作品世界に豊穣な影響を与えたことは想像に難くない。音楽が喚起するイメージや感情、構造的な展開といった要素が、賢治の詩や物語の中に、独自の形で昇華されていったのであろう。

本書を読むと、改めてベートーヴェンをはじめとするクラシック音楽を聴き、賢治が感じたであろう感動を追体験したくなる。

兄のトランク:賢治の遺志を運んだ鞄

本書のタイトルにもなっている「兄のトランク」は、単なる物としての鞄ではなく、賢治の生涯と作品、そしてその遺志を象徴する存在として描かれている。このズック製のトランクは、賢治の生前、様々なものを詰め込まれ、彼の活動と共に行動を共にしていた。

賢治が亡くなった後、このトランクは新たな役割を担うことになる。それは、賢治が遺した膨大な未発表原稿を運び、後世に伝えるという使命であった。

そてもあのズックのトランクは、石灰岩の製品をぎっしり詰めこまれたまま、又も三年の間蔵の二階に投げられていたのだが、兄の死後五カ月目には、草野心平氏や高村光太郎氏、横光利一氏の御尽力で、全集出版の運びとなり、今度は清書された原稿をぎっしりつめ込まれ、三度上京することになり、新宿モナミの追悼会のテーブルに置かれる光栄を、担うことになったのである。……(P.93「Ⅰ:兄のトランク」)

この一節は、賢治の死後、その作品がいかにして世に出ることになったのか、その経緯の一端を物語っている。注目すべきは、全集出版に尽力した人物として、詩人の草野心平(くさの・ しんぺい、1903年~1988年)、彫刻家であり詩人でもあった高村光太郎(たかむら・こうたろう、1883年~1956年)と並んで、小説家の横光利一(よこみつ・りいち、1898年~1947年)の名前が挙げられている点である。

横光利一は、川端康成(かわばた・やすなり、1899年~1972年)らと共に新感覚派の旗手として活躍した作家であり、一般的には賢治との直接的な接点はあまり知られていないかもしれない。

しかし、この記述によれば、横光もまた賢治の才能を高く評価し、その作品を世に出すために力を貸した一人であったことがわかる。どのような経緯で横光が賢治の作品を知り、関わるようになったのか、詳細は本書では語られていないが、同時代の文学者たちが賢治の重要性を認識していたことを示す、興味深い証言である。

あるいは、文芸誌などを通じて、その存在を知っていたのかもしれない。横光利一の作品にも触れてみたいと思わせるエピソードだ。

賢治が生前に詰め込んだ石灰製品の見本に代わり、死後は清書された原稿がぎっしりと詰め込まれたトランク。それは、賢治の理想と現実、そして彼の死によって託された文学的遺産を象徴しているかのようである。

そして、そのトランクが東京での追悼会のテーブルに置かれたという事実は、賢治の作品が多くの人々の努力によって受け継がれ、後世へと繋がれていく過程を劇的に示している。このトランクは、まさに賢治の魂を運び続けた存在と言えるだろう。

燻浄された原稿:『春と修羅』第一集原稿の舞台裏

『春と修羅』は、賢治が生前に唯一自費で出版した詩集である。その印刷にまつわるエピソードは、地方の小さな印刷所と賢治との関わりを伝えており、興味深い。

尤も、兄の生前に私はその原稿を見せてもらった訳ではなかったが、この詩集が印刷されたのは花巻駅に近い相生町の大正活版所という小さな印刷所で、ここに持って行かれた肉筆の原稿がこの印刷所のどこかに残っているだろうという推定で、兄の死後その所在が私共の間でいつも話題となっていたものである。(P.169「Ⅲ:燻浄された原稿」)

花巻の「大正活版所」という小さな印刷所で『春と修羅』が印刷されたという事実は、知らなかった。

その印刷所の主人・吉田忠太郎という人物が、賢治の死後、持ち込まれたはずの「春と修羅の第一集」の肉筆原稿を探したが見つからなかったという話は、失われたかもしれない貴重な資料への思いを掻き立てる。

「春と修羅の第二集」以降の原稿の多くは幸運にも大部分は残っていた。だが「春と修羅の第一集」の原稿が見つからない。戦争となり「春と修羅の第二集」以降の原稿は防空壕で無事だった。

宮沢家の家の建物は戦火で灰となってしまうが、土蔵だけは焼け残った。だが「鼠の穴から火が入って、中が三日間も焼け続けていた」のである。

中の物の半分は焼失。残りも真っ黒に焦げていたり、消化の水が掛かったり。だが、その中からひょここりと見つからなかった「春と修羅の第一集」の校正原稿が出てきたのである。原稿用紙もインクも、火によって変化していたが読める状態で。

「燻浄された」という表現は、火災の危機を何とか免れたことと同時に、ある種の浄化作用を経たかのような、不思議な響きを持っている。これらの原稿が、後に清六らによって整理され、貴重な資料にもなったのである。

兄賢治の生涯:弟が見た兄の人生

第四部は、賢治の生涯を、誕生から臨終まで、弟の視点から辿る構成となっている。

家族だからこそ知り得た具体的なエピソードが豊富に盛り込まれており、人間・賢治の姿を浮き彫りにする。ここには、宮沢賢治の兄弟関係や家族構成、宮沢家の様子を知る上で重要な情報が含まれている。

賢治には、本書の著者である弟・清六のほかに、早くに亡くなった妹・宮沢トシ(みやざわ・とし、1898年~1922年)、妹・宮沢シゲ(みやざわ・しげ、1901年~1987年)、妹・宮沢クニ(みやざわ・くに、1907年~1980年)がいた。

特に妹のトシの死は、賢治の人生や作品に大きな影響を与えている。

中学生時代:啄木からの影響と学友

賢治の感受性が豊かであった少年時代のエピソードも興味深い。特に、盛岡中学校時代に、先輩である石川啄木(いしかわ・たくぼく、1886年~1912年)の歌集『一握の砂』から影響を受けていたという指摘は重要である。

1910年12月1日に、『一握の砂』は出版される。

そして二年生の三学期には、先輩の石川啄木の歌集『一握の砂』が出版され、啄木が世話になった金田一京助博士の令弟他人氏が同級生であったことからも、その歌集の影響を強く受け、そのために賢治の短歌は三行、四行、五行に書くような新しい型のものも試みられ始めたと考えられる。(P.245「Ⅴ:兄賢治の生涯・中学生時代」)

啄木の短歌、特に三行書きの形式は、当時の短歌の世界に新風を吹き込むものであった。

賢治がこの新しい形式に触発され、自らも同様の試みを始めたということは、彼の文学的出発点において、啄木の存在が無視できないものであったことを示している。

また、言語学者として名高い金田一京助(きんだいち・きょうすけ、1882年~1971年)の弟、金田一他人(きんだいち・おさと、1895年?~1920年)が同級生であったという事実も、当時の文化的な人的ネットワークの一端をうかがわせる。

若き日の賢治が、同時代の文学や学問の動向に敏感に反応していた様子が伝わってくる。

ちなみに金田一他人は、非常に秀才であり盛岡中学校を卒業後、第一高等学校、東京帝国大学法学部へと進む。一高、帝大では、我妻栄(わがつま・さかえ、1897年~1973年)や、岸信介(きし・のぶすけ、1896年~1987年)と親しくしていたという。このような時代や人物の繋がりも面白い。

家出:創作への凄まじい情熱

1921年(大正10年)、賢治は家業を継ぐことへの反発などから家出同然で上京する。

この時期の賢治の行動と、創作への爆発的なエネルギーは、常軌を逸していると言っても過言ではない。清六は、この時期に賢治が小学校時代の恩師・八木英三に語ったとされる言葉を紹介している。

「人間の力には限りがあります。仕事をするのには時間がいります。どうせ間もなく死ぬのだから、早く書きたいものを書いてしまおうと、わたしは思いました。一カ月の間に、三千枚書きました。そしたら、おしまいのころになると、原稿のなかから一字一字とび出して来て、わたしにおじぎをするのです。……」(P.253「Ⅴ:兄賢治の生涯・家出」)

「一カ月の間に、三千枚書きました」という言葉は、その真偽はともかくとして、賢治の創作に対する凄まじいまでの集中力と情熱を物語っている。

仮に400字詰め原稿用紙だとすれば120万字、200字詰めだとしても60万字、100字詰めでも30万字という、まさに異常な量である。死期を意識し、残された時間で自らの文学世界を構築しようとする切迫感がひしひしと伝わってくる。

「原稿のなかから一字一字とび出して来て、わたしにおじぎをする」という幻覚のような体験は、極度の集中と疲労の中で、賢治が創作の世界に完全に没入していたことを示している。

この時期、賢治は東京で謄写版印刷の原紙を書いて生活しながら、日蓮宗系の宗教団体・国柱会に身を寄せ、街頭布教なども行ない、図書館でも勉強をしていた。その合間に、相当な量の原稿を書いていたのである。

まさに爆発的なエネルギーである。

宮沢賢治の家系・子孫について

本書の著者である宮沢清六は、兄・賢治の遺志を受け継ぎ、その作品の保存と普及に生涯を捧げた。

清六自身も、兄に関する著作や原稿を残している。そして、その思いはさらに次の世代へと受け継がれている。宮沢清六の子孫、特に孫にあたる宮沢和樹(みやざわ・かずき、1964年~)は、祖父・清六や大叔父・賢治に関する講演や執筆活動を行っている。

「宮沢清六の孫は誰ですか?」という問いには、宮沢清六の娘の子供である、宮沢和樹の名前が挙げられる。宮沢賢治には直接の子孫はいないが、宮沢清六を通じて、その血筋と精神は現在にも繋がっているのである。

宮沢賢治の家系や子孫の現在に関心を持つ人々にとって、清六や和樹の存在は、賢治の世界をより身近に感じるための鍵となるだろう。宮沢和樹の著作『わたしの宮沢賢治:祖父・清六と「賢治さん」』も、合わせて読んでみると良いだろう。

『兄のトランク』を読むということ

宮沢清六著『兄のトランク』は、弟という最も身近な存在であった著者だからこそ書き得た、人間・宮沢賢治の記録である。本書を読むことで、賢治の作品世界の背景にある、彼の生活、思想、家族との関係、そして創作の秘密に触れることができる。

本書に対して、「宮沢賢治を神格化、偉人化しすぎているのではないか」という感想を持つ向きもあるかもしれない。確かに、兄への深い敬愛の念が本書の根底にあることは事実である。

しかし、それは単なる美化にとどまらず、賢治の苦悩や葛藤、人間的な弱さをも含めて、ありのままに受け止めようとする視線に基づいているように思われる。

本書の価値は、これまで知られていなかった賢治に関する多くの新しい発見を提供してくれる点にもある。石川啄木からの影響、ベートーヴェンをはじめとするクラシック音楽との深い関わり、横光利一ら同時代の文学者との意外な接点、『春と修羅』の原稿を巡るエピソード、家出時代の凄まじい創作活動の実態など、宮沢賢治をより多面的に、深く理解するための貴重な情報が満載である。

『兄のトランク』は、賢治の作品を読む上での副読本として最適であると同時に、一人の人間がどのように生き、何を目指し、何を遺したのかを考える上で、多くの示唆を与えてくれる一冊である。

本書を読んだ後、改めて賢治の詩や物語を手に取れば、あるいはベートーヴェンの交響曲に耳を傾ければ、そこには以前とは違った、より豊かで深い世界が広がっていることに気づくであろう。

宮沢賢治という稀有な才能の内面に触れ、その作品世界の源泉を探る旅へといざなう、必読の書と言えるだろう。

書籍紹介

関連書籍

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宮沢賢治記念館

宮沢賢治記念館は、宮沢賢治の出身地である岩手県花巻市にある記念館。

公式サイト:宮沢賢治記念館

石川啄木記念館

岩手県盛岡市渋民にある石川啄木を記念した文学館。

公式サイト:石川啄木記念館

高村光太郎記念館

岩手県花巻市太田にある高村光太郎の記念館。

公式サイト:高村光太郎記念館

草野心平記念文学館

草野心平記念文学館は、草野心平の出身である福島県いわき市にある文化施設。

公式サイト:草野心平記念文学館