- 家族視点の新たな賢治像
- 光原社と賢治の縁
- 思想的影響と実践
- 作品継承と文化的影響
宮沢和樹の略歴・経歴
宮沢和樹(みやざわ・かずき、1964年~)
実業家。宮沢賢治の弟・宮沢清六の孫。宮沢清六の娘・潤子の息子。
岩手県花巻市の生まれ。宮城県仙台市の育ち。立正大学文学部哲学科を卒業。「光原社」の仙台支店に勤務。イギリスに渡り大英博物館で勤務。帰国後1994年に岩手県花巻市に「林風舎」を設立。賢治の事跡の伝承や作品・肖像を守ることを目的に活動。
宮沢清六の略歴・経歴
宮沢清六(みやざわ・せいろく、1904年~2001年)
宮沢賢治の弟。実業家。
岩手県花巻市の出身。岩手県立盛岡中学校(現在の岩手県立盛岡第一高等学校)を卒業し、家業を手伝う。
1926年、花巻で宮澤商会を開業。金物・建材・電導材・自動車部品を扱い、1942年まで営業。
宮沢賢治の略歴・経歴
宮沢賢治(みやざわ・けんじ、1896年~1933年)
詩人、童話作家。
岩手県花巻市の出身。花巻川口尋常小学校(後に花城尋常小学校へ改名)、岩手県立盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)、盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)に首席で入学、翌年特待生として授業料は免除に。卒業後は研究生に。
『わたしの宮沢賢治 祖父・清六と「賢治さん」』の目次
はじめに
伝え、残したいこと
含羞の人々第一章 「宮沢賢治」の実弟の孫
大伯父は「賢治さん」
イギリスとの深い縁
イギリスびいき
一族の一員という立場
縄文人の末第二章 賢治作品の守り人たち
曽祖父・政次郎
最大の理解者、祖父・清六
炎天下の「イギリス海岸」で
祖父と山に登る
高村光太郎さんと祖父
志を受け継ぐ人々第三章 「雨ニモマケズ」の読み方、読まれ方
願望としての「雨ニモマケズ」
「ヒドリ」論争
「賢治ブーム」のなかで
「行ッテ」のもつ深い意味
「行」の人第四章 ありのままの「賢治さん」像を伝えていく
大伯父がつなぐ縁
親子を超えた曽祖父の慈愛
詩と音楽の協演
私が好きな作品
ファンタジーではなくSF
「ほんとうの幸せ」とは
ライフワークとしての講演会宮沢賢治略年譜
「わたしの宮沢賢治」シリーズ刊行に寄せて
『わたしの宮沢賢治 祖父・清六と「賢治さん」』の概要・内容
2021年1月19日に第一刷が発行。ソレイユ社。216ページ。電子書籍は、131ページ表示。
「わたしの宮沢賢治」シリーズとして、さまざまな著名人が、宮沢賢治について自らのエッセイや歴史を綴ったもの。
以下にその他のシリーズを列挙。
『わたしの宮沢賢治 賢治との対話』
C・W・ニコル(Clive William Nicol、1940年~2020年)…ウェールズ生まれの作家、環境保護活動家。
『わたしの宮沢賢治 豊穣の人』
山下聖美(やました・きよみ、1972年~)…日本の近代文学研究者。
『わたしの宮沢賢治 賢治ことばの源泉』
王敏(オウ・ビン or ワン・ミン、1954年~)…中国出身の作家、研究者。
『わたしの宮沢賢治 法律家から見た賢治』
作花知志(さっか・ともし、1968年~)…弁護士。
『わたしの宮沢賢治 全盲の目に射す一条の光』
新井淑則(あらい・よしのり、1961年~2023年)…教師。
『わたしの宮沢賢治 兄と妹と「宇宙意思」』
山根知子(やまね・ともこ、1964年~)…日本の近代文学研究者。
『わたしの宮沢賢治 地球生命の未来圏』
毛利衛(もうり・まもる、1948年~)…宇宙飛行士、科学者。
『わたしの宮沢賢治 祖父・清六と「賢治さん」』の要約・感想
- 新たな賢治像と、その素顔に迫る旅
- 宮沢和樹と光原社、賢治命名の縁
- 宮沢賢治とイギリス、モリスからの影響
- 高村光太郎と賢治、清六の絆
- 「雨ニモマケズ」詩碑と賢治の「心象スケッチ」
- 「雨ニモマケズ」誕生秘話と意外な評価
- 「行ッテ」に込めた賢治の実践主義
- 賢治と国柱会、石原莞爾との接点
- 宮沢和樹の家族と賢治作品の継承
- 賢治と音楽、佐藤泰平の研究
- 宮沢和樹が好んだ星新一とブラウン
- 賢治が愛した芸術と「ほんとうの幸せ」
- 賢治と保阪嘉内の出会いの真実
- 『わたしの宮沢賢治 祖父・清六と「賢治さん」』から見える新たな賢治像
- 宮沢賢治の子孫の視点から描かれる人物像
- おわりに:宮沢家に、そして私たちに受け継がれるもの
新たな賢治像と、その素顔に迫る旅
国民的作家として、今なお多くの人々に愛され続ける宮沢賢治。
その作品世界は、宇宙や生命、そして人間存在の根源に触れるような深遠さを持ちながら、どこか温かく、読む者の心に寄り添ってくれる。しかし、その実像については、意外と知られていない側面も多いのではないだろうか。
本書『わたしの宮沢賢治 祖父・清六と「賢治さん」』は、賢治の最も身近な存在の一人であった実弟・宮沢清六の孫である宮沢和樹によって綴られた、貴重な一冊である。
著者は、大伯父にあたる賢治を「賢治さん」と呼び、家族ならではの視点から、賢治の人物像、作品の背景、そしてそれらを守り伝えてきた人々の姿を浮き彫りにしていく。
この記事では、本書を通して見えてくる新たな宮沢賢治像と、著者の個人的な体験や感想を交えながら、その魅力を深く掘り下げていきたい。
本書は、宮沢賢治の作品を愛する人々はもちろんのこと、その生涯や思想に興味を持つすべての人にとって、示唆に富む内容となっているはずである。
宮沢和樹と光原社、賢治命名の縁
第一章「「宮沢賢治」の実弟の孫 大叔父は「賢治さん」」では、まず著者・宮沢和樹と、宮沢賢治ゆかりの店「光原社」との関わりが語られる。光
原社は、賢治の代表作の一つである童話集『注文の多い料理店』を出版したことで知られる。
光原社は民芸運動で知られる柳宗悦(一八八九–一九六一年)ゆかりの焼物や、染色工芸家である芹沢銈介(一八九五–一八九四年)の作品などを扱ってきた店です。また、海外から輸入した手工芸品を扱う店でもあります。(P.15「第一章 「宮沢賢治」の実弟の孫:大叔父は「賢治さん」」)
宮沢和樹は大学卒業後、この光原社に就職し、仙台支店で勤務した経験を持つ。
民芸運動の父と称される柳宗悦(やなぎ・そうえつ/むねよし、1889年~1961年)や、型染の第一人者である芹沢銈介(せりざわ・けいすけ、1895年~1984年)の作品を扱っていたという事実は、光原社が単なる出版社ではなく、確固たる美意識を持った文化発信拠点であったことを物語っている。
本店は岩手県盛岡市に、支店は宮城県仙台市にあり、その歴史は深い。
驚くべきことに、光原社の設立は、賢治の盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)時代の同級生であった及川四郎(おいかわ・しろう、1886年~1974年)が、賢治の『注文の多い料理店』の原稿を読み、その出版を熱望したことに始まる。
そして、「光原社」という社名自体も、宮沢賢治自身が命名したというのである。
この事実は、賢治の文学的出発点において、友情がいかに重要な役割を果たしたかを教えてくれる。著者がそのような歴史を持つ場所で社会人としての一歩を踏み出したことは、非常に素晴らしいことである。
宮沢賢治とイギリス、モリスからの影響
宮沢賢治の作品や思想には、西洋文化からの影響も見て取れる。特にイギリスとの関わりは興味深い。
また、賢治さんは、「農民芸術概論」を思想的な拠りどころとして、農家の暮らしをよくするための「羅須地人協会」という私塾のようなものを設立したのですが、その根っこにはイギリスのデザイナーであり、詩人であり、マルクス主義者でもあった「モダンデザインの父」、ウィリアム・モリス(一八三四–一八九六年)があって、賢治さんもその著書を読んでいたりします。(P.16「第一章 「宮沢賢治」の実弟の孫:イギリスとの深い縁」)
賢治が理想とした農村共同体の姿や、芸術と労働の融合といった思想の背景に、19世紀イギリスでアーツ・アンド・クラフツ運動を主導したウィリアム・モリス(William Morris、1834年~1896年)の影響があったことは、賢治理解を深める上で重要な視点である。
モリスは、産業革命後の機械生産による粗悪な製品や、労働者の疎外といった問題に対し、手仕事の復興と生活の芸術化を訴えた人物だ。「モダンデザインの父」とも称される彼の思想は、賢治の「農民芸術」の理念と響き合う部分が多い。
著者である宮沢和樹自身もまた、イギリスに深い関心を寄せている。
高校3年生の時には、祖父・清六らに誘われて初めての海外旅行としてイギリスを訪れ、その後26歳の時には2、3年間イギリスに滞在した経験を持つ。
この渡英には、宮沢賢治研究で知られ、また早稲田大学政治経済学部の教員で詩人でもあった原子郎(はら・しろう、1924年~2017年)の勧めがあったという。
賢治が抱いたイギリスへの関心が、世代を超えて子孫である宮沢和樹にも影響を与えているように感じられるのは、非常に興味深いことである。
宮沢賢治の作品世界に広がる独特の風景描写や宇宙観の源泉を辿る上で、イギリス文化との接点は無視できない要素と言えるだろう。
高村光太郎と賢治、清六の絆
宮沢賢治の才能をいち早く見抜き、その作品を高く評価した人物として、彫刻家であり詩人でもあった高村光太郎(たかむら・こうたろう、1883年~1956年)の存在は欠かせない。
高村光太郎さんは、賢治さんの詩集『春と修羅』を読んで、高く評価してくださった最初の著名人でした。しかし、「宮沢賢治」とは一度も会っていません。光太郎さんは、『春と修羅』を読んでまわりの人に、「この作品は自分のものより後世に残るかもしれない」とまで言ったそうです。(P.38「第二章 賢治作品の守り人たち:曽祖父・政次郎」)
高村光太郎が『春と修羅』を読み、「自分のものより後世に残るかもしれない」とまで評したというエピソードは、賢治の作品が持つ普遍的な力を象徴している。
興味深いのは、高村光太郎と宮沢賢治が一度も会ったことがないという点である。詩人の草野心平(くさの・しんぺい、1903年~1988年)は二人が一度は会っていると語っていたとされるが、本書では、未対面説が採られている。
資料が豊富になり、研究が進んだ現代においては、この説がより有力視されているのかもしれない。
ちなみに草野心平の記事は、こちら「草野心平『宮沢賢治覚書』要約・感想」。
賢治の死後、その作品の普及に努めたのは弟の清六だったが、その活動は決して平坦なものではなかったようだ。
文壇や詩壇、学界や出版社にも縁のない祖父・清六にとって、第一章でもご紹介した高村光太郎さんは、一番の力でした。(P.48「第二章 賢治作品の守り人たち:高村光太郎さんと祖父」)
無名の存在であった宮沢賢治の作品を世に広めるためには、高村光太郎のような著名な文学者の後押しが不可欠だった。
清六は、兄の遺した作品群を前に、時に葛藤し、様々な困難に直面しながらも、高村光太郎の支援を得て、賢治作品の出版や普及に心血を注いだのである。
この高村光太郎と宮沢清六の強い絆なくして、今日の宮沢賢治像はあり得なかったと言っても過言ではないだろう。
「雨ニモマケズ」詩碑と賢治の「心象スケッチ」
高村光太郎の協力は、賢治作品の出版に留まらなかった。
光太郎さんは、その後、十字屋書店という東京の出版社から出された「宮沢賢治全集」の編集や装丁までを担当してくれました。 賢治さんが亡くなって三年後、「雨ニモマケズ」の詩碑を建てるとき、そこに揮毫してくれたのも光太郎さんです。(P.54「第二章 賢治作品の守り人たち:志を受け継ぐ人々」)
現在、岩手県花巻市に建つ「雨ニモマケズ」の詩碑の文字は、高村光太郎の揮毫によるものである。
この詩碑は、宮沢賢治の精神を象徴するものとして、多くの人々が訪れる場所となっている。その建立に高村光太郎が深く関わっていたことは、二人の精神的な繋がりの深さを物語っている。
宮沢賢治記念館などには行ったことがあるが、こちらはまだなので、いつかこの詩碑を訪れ、賢治の言葉と光太郎の書に触れてみたいものである。
宮沢賢治は自身の作品について、独特の表現を用いている。
賢治さんは、自分で『春と修羅』は「心象スケッチ」だと書いています。それは、自分はあくまでも「書かされている」だけ、「スケッチしている」だけ。自然からいろいろなものが入ってきて、自分を媒体として、自分がフィルターとなって言葉を出しているという意味のようです。(P.55「第二章 賢治作品の守り人たち:志を受け継ぐ人々」)
この「心象スケッチ」という言葉は、賢治の創作姿勢を理解する上で非常に重要である。
彼は、自らを創造主としてではなく、自然や宇宙からのメッセージを受け取り、それを写し取る媒体として捉えていた。
この謙虚な姿勢は、童話集『注文の多い料理店』の「序」にも見られる思想であり、賢治文学の根幹をなすものと言えるだろう。
ちなみに、この『注文の多い料理店』は、賢治の生前にはほとんど売れなかったという。時代を先取りしすぎた才能であったのかもしれない。
「雨ニモマケズ」誕生秘話と意外な評価
第三章「「雨ニモマケズ」の読み方、読まれ方」では、賢治の最も有名な詩の一つである「雨ニモマケズ」について、新たな視点が提示される。
ましてや当時は、この詩が賢治さんの代表作になるとも有名になるとも、誰ひとりとして思っていなかったというのが本当のところなのかもしれません。(P.75「第三章 「雨ニモマケズ」の読み方、読まれ方:「賢治ブーム」のなかで」)
今でこそ宮沢賢治の代名詞とも言える「雨ニモマケズ」だが、詩碑に刻む詩を選ぶ際、どの作品にするか、またどの部分にするかについては長い議論があったという。
そして驚くべきことに、当時はこの詩がこれほどまでに有名になるとは、関係者の誰も想像していなかったというのである。
この事実は、作品の評価というものがいかに時代や状況によって変化するかを示唆しており、非常に興味深い。
宮沢賢治の家族の間でさえ、その価値がすぐには定まらなかった作品が、時を経て国民的な詩へと成長していく過程は、文学の持つ不思議な力を感じさせる。
「行ッテ」に込めた賢治の実践主義
「雨ニモマケズ」の中で繰り返される「行ッテ」という言葉には、特別な意味が込められていたと著者は指摘する。
祖父によれば、賢治さんはこの「行ッテ」という言葉をよく口にしていて、それをとてもだいじにしていたというのです。 それはどういうことかといえば、賢治さんは、言葉として口にしたり書いたりすること以上に、「実践」する、「実行」することを重んじていたからにほかなりません。(P.76「第三章 「雨ニモマケズ」の読み方、読まれ方:「行ッテ」のもつ深い意味」)
宮沢賢治にとって、「行ッテ」という言葉は、単なる移動を意味するのではなく、現場に赴き、自ら行動し、実践することの重要性を象徴していた。
これは、彼が深く帰依した法華経の教えにも通じるものであり、知識や思想を現実の世界で具体的に生かしていくことの大切さを訴えている。まさに「行の人」としての賢治の生き様が、この言葉に凝縮されていると言えるだろう。
この「行ッテ」という言葉の深い意味について、さらに興味深い解釈を提示した人物がいる。
賢治さんが、「行ッテ」という言葉を、お曼荼羅のなかの四人の菩薩の名に結びつけていたことの意味をはじめて私に教えてくれたのは、じつは祖父ではなく、石川九楊さん(一九四五年–)という書家の方です。(P.78「第三章 「雨ニモマケズ」の読み方、読まれ方:「行ッテ」のもつ深い意味」)
書家である石川九楊(いしかわ・きゅうよう、1945年~)は、テレビ番組の企画で、賢治が亡くなる約2年前に書いたとされる手帳、通称「雨ニモマケズ」手帳の筆跡を書き写しつつ分析。
その中で、「行ッテ」が法華経の曼荼羅に描かれる四菩薩の上行(じょうぎょう)菩薩、無辺行(むへんぎょう)菩薩、浄行(じょうぎょう)菩薩、安立行(あんりゅうぎょう)菩薩の名と結びついている可能性を指摘したという。
この解釈は、賢治の宗教観や思想的背景をより深く理解する上で、新たな光を当てるものである。
また、手帳の文字が後半になるにつれて崩れていくことから、賢治が急いで書き留めようとしていたのではないかという推測もなされている。
賢治と国柱会、石原莞爾との接点
宮沢賢治の思想形成に影響を与えたとされる団体の一つに、田中智学(たなか・ちがく、1861年~1939年)が創設した国柱会がある。
じつは、そのころの国柱会には、のちに柳条湖事件や満州事変を起こした石原莞爾(一八八九–一九四九年)などもいたのですが、戦争はまだ影を落としてはいませんでした。(P.84「第三章 「雨ニモマケズ」の読み方、読まれ方:「行」の人」)
賢治が活動に身を投じた国柱会に、後に満州事変を主導することになる陸軍軍人・石原莞爾(いしわら・かんじ、1889年~1949年)も所属していたという事実は、あまり知られていないかもしれない。
もちろん、当時の国柱会が直接的に軍国主義的な活動をしていたわけではないが、同じ思想的空間に、後に全く異なる道を歩むことになる二人が存在したという歴史の皮肉は、深く考えさせられるものがある。
石原莞爾は山形県鶴岡市の出身で、『世界最終戦論』などの著作でも知られる軍事思想家であった。
宮沢和樹の家族と賢治作品の継承
第四章「ありのままの「賢治さん」像を伝えていく」では、著者・宮沢和樹の家族と宮沢賢治の作品との関わりが温かく描かれている。
ここには宮沢和樹の妻や娘とのエピソードも含まれており、宮沢賢治の子孫の現在の様子を垣間見ることができる。
私の家にも賢治さんが購入したバイオリンが一挺あって、いまは娘の香帆が弾いています。私も、賢治さんが好きだった曲を、大伯父自身が買い求めた楽器で、身内のひとりである娘が弾けたりするといいなと思ったのです。
現在、妻・やよいは高校の国語教師を務めているのですが、現行の教科書に賢治さんの詩「永訣の朝」が出てくるので、それを生徒たちの前で朗読しているといいます。(P.100「第四章 ありのままの「賢治さん」像を伝えていく:詩と音楽の協演」)
賢治が購入したバイオリンを、著者の娘である香帆(かほ)さんが弾いているというエピソードは、時を超えて受け継がれる家族の絆を感じさせる。
また、著者の妻であるやよいさんが国語教師として、賢治の詩「永訣の朝」を生徒たちの前で朗読しているという話も微笑ましい。
やよいさんはピアノも演奏されるそうで、YouTubeには著者と妻、娘さんによる音楽演奏の映像「宮沢賢治のヴァイオリン音楽会、再び」もある。
こうした家族ぐるみでの賢治作品との関わりは、賢治の精神が今も生き続けていることの証左であろう。
宮沢和樹の妻や子供たちの存在は、宮沢賢治の文学が家庭の中で自然に息づいていることを示しており、読者にとっても心温まる描写となっている。
賢治と音楽、佐藤泰平の研究
宮沢賢治と音楽との関わりは深く、その作品世界にも大きな影響を与えている。
これらは、長年にわたって賢治さんと音楽とのかかわりを研究して『宮沢賢治の音楽』(筑摩書房)などを出版している佐藤泰平さんの研究などを参考にさせていただいた話です。(P.101「第四章 ありのままの「賢治さん」像を伝えていく:詩と音楽の協演」)
オルガニストであり、宮沢賢治の音楽に関する研究の第一人者である佐藤泰平(さとう・たいへい)の研究は、賢治がどのような音楽に親しみ、それが作品にどう反映されたのかを解き明かす上で貴重な手がかりを与えてくれる。
賢治が愛したクラシック音楽や、自ら作詞作曲した歌などを知ることで、彼の豊かな感性に触れることができるだろう。
本書をきっかけに、佐藤泰平氏の研究書を手に取り、賢治と音楽の世界をさらに深く探求してみるのも一興である。
宮沢和樹が好んだ星新一とブラウン
著者の宮沢和樹自身の読書体験についても触れられている。中学生の頃、SF作家の星新一(ほし・しんいち、1926年~1997年)の作品に夢中になっていた著者に対して、祖父・清六が興味深い助言をしたという。
「〝ショートショート〟は、星新一が始めたことではないぞ。誰が始めたかというと、それはアメリカの作家、フレドリック・ブラウン(一九〇六–一九七二年)という人だから、こちらも読んでみなさい」(P.104「第四章 ありのままの「賢治さん」像を伝えていく:私が好きな作品」)
星新一のショートショートの源流として、アメリカのSF作家であり推理作家でもあるフレドリック・ブラウン(Fredric William Brown、1906年~1972年)を教えたという宮沢清六。
博識であった清六ならではのエピソードであり、孫の知的好奇心を巧みに引き出す教育者としての一面も垣間見える。ちなみに、星新一自身もフレドリック・ブラウンの作品を翻訳している。
このような祖父の導きが、著者の文学的素養を育んでいったのだろう。
賢治が愛した芸術と「ほんとうの幸せ」
宮沢賢治は文学だけでなく、上述したとおり音楽にも深い造詣を持ち、美術にも関心が高かった。
美術・芸術という観点からいえば、賢治さんはことのほかゴッホが好きでした。(P.111「第四章 ありのままの「賢治さん」像を伝えていく:「ほんとうの幸せ」とは」)
賢治がフィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh、1853年~1890年)を特に好んでいたという事実は、広く知られていることなのだろうか。
ゴッホの情熱的で生命力あふれる作風が、賢治の魂と共鳴したのかもしれない。また兄弟の関係性についても、感じるところはあったのだろうか。
音楽でいえば、バッハやベートーベンの曲をよく聴いていたのは、自然の風景を見ていると、どこからともなく音楽が聞こえてくるなど想像力がたくましくなって、豊かな気持ちにもなってくるからだったようです。それこそ、人が「幸せだ」と感じることの本体だと賢治さんは考えていたようです。(P.112「第四章 ありのままの「賢治さん」像を伝えていく:「ほんとうの幸せ」とは」)
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach、1685年~1750年)や、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven、1770年~1827年)の音楽を愛聴し、自然の風景と音楽を結びつけて豊かな感情を育んでいた宮沢賢治。
彼にとって、芸術に触れることは、人間が「ほんとうの幸せ」を感じるための重要な手段であった。この考え方は、現代社会に生きる私たちにとっても、示唆に富むものではないだろうか。
賢治と保阪嘉内の出会いの真実
宮沢賢治の生涯において、親友・保阪嘉内(ほさか・かない、1896年~1977年)の存在は非常に大きい。二人の出会いの時期について、本書では新たな情報が示されている。
一九一六(大正五)年 二〇歳
三月、授業料免除の特待生に選ばれる。京都・奈良への修学旅行のついでに、伊勢・箱根・東京を巡る。四月、親友となる保阪嘉内と出会う。(P.122「宮沢賢治略年譜」)
これまで私は、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)入学直後、つまり1年生の時に出会ったと思っていたが、本書の年譜によれば、2年生の4月に出会ったと記されている。
二人は同年齢だったので、同級生だと思っていたら、保阪の方が1年後輩だったのか。同じテーマの本を読み進めることで、自分の勘違いなどにも気づくことができる。と言い訳してみる。
『わたしの宮沢賢治 祖父・清六と「賢治さん」』から見える新たな賢治像
本書『わたしの宮沢賢治 祖父・清六と「賢治さん」』は、著者の個人的なエッセイのような趣も持ち合わせている。
時に、宮沢賢治や宮沢清六に関する記述よりも、著者自身の体験談が中心となる部分もある。しかし、それこそが本書のユニークな点であり、宮沢賢治の子孫という特別な立場から語られる言葉には、他では得られない温かみと説得力がある。
例えば、著者が宮沢賢治が関心を抱いていた法華経の影響で、日蓮宗系の立正大学に進学したというエピソードは、賢治の精神的遺産が世代を超えて受け継がれていることを象徴しているように思える。
宮沢賢治の子孫の視点から描かれる人物像
宮沢賢治の家族、そして宮沢賢治の兄弟関係、特に弟・清六との深い絆は、賢治文学を理解する上で欠かせない要素である。
本書を読むことで、そうした背景情報への関心が一層深まるだろう。
宮沢賢治の子孫の現在を知ることは、賢治という存在が今もなお、多くの人々に影響を与え続けていることを実感させてくれる。
宮沢清六の子孫である宮沢和樹が、このような形で賢治に関する情報を発信し続けることは、賢治研究にとっても、そして賢治を愛する人々にとっても、大きな意味を持つと言える。
家族ならではの愛情に満ちた筆致は、読む者の心にストレートに響く。
本書には、これまであまり語られてこなかった宮沢賢治や宮沢清六に関する新たな情報が散りばめられており、賢治ファンにとっては必読の一冊と言えるだろう。
おわりに:宮沢家に、そして私たちに受け継がれるもの
本書を読み終えると、宮沢賢治という人物が、単なる文学作品の作者としてではなく、より血の通った人間として立ち現れてくるのを感じる。
そして、賢治ゆかりの地、例えば「雨ニモマケズ」の詩碑や、賢治の墓所などを実際に訪れてみたいという気持ちに駆られる。宮沢和樹の言葉は、私たちを賢治の世界へと誘う確かな水先案内人となってくれる。
宮沢和樹著『わたしの宮沢賢治 祖父・清六と「賢治さん」』は、宮沢賢治という巨星の知られざる素顔や、その作品が後世に伝えられるまでの、受け継がれるまでの家族の物語を、温かく、そして誠実に描き出した貴重な記録である。
本書を通して、私たちは宮沢賢治の新たな魅力に触れるとともに、その作品世界への理解を一層深めることができるだろう。
宮沢賢治の家族の視点、特にその弟・宮沢清六の子孫という立場から語られるエピソードの数々は、これまでの賢治研究に新たな光を当てるものであり、賢治文学のファンだけでなく、広く多くの人々に読まれるべき一冊と言える。
きっと、あなたの心の中に、新たな「賢治さん」像が立ち上がってくるはずである。
書籍紹介
関連書籍
関連スポット
宮沢賢治記念館
宮沢賢治記念館は、宮沢賢治の出身地である岩手県花巻市にある記念館。
公式サイト:宮沢賢治記念館
身照寺
岩手県花巻市石神町にある日蓮宗の寺院。見延別院(みのぶべついん)。山号は遠光山。宮沢賢治の墓がある。
公式サイト:身照寺
雨ニモマケズ詩碑
岩手県花巻市桜町にある「雨ニモマケズ詩碑」。書は高村光太郎。
公式サイトは特に無いが観光協会のページがある:雨ニモマケズ詩碑
石川啄木記念館
岩手県盛岡市渋民にある石川啄木を記念した文学館。宮沢賢治にとって、石川啄木は盛岡中学校の先輩。
公式サイト:石川啄木記念館
高村光太郎記念館
岩手県花巻市太田にある高村光太郎の記念館。宮沢賢治の作品を評価し、弟・清六とも交流。
公式サイト:高村光太郎記念館
草野心平記念文学館
草野心平記念文学館は、草野心平の出身である福島県いわき市にある文化施設。草野心平は、宮沢賢治と生前に手紙で深く交流し、没後には全集なども編纂。
公式サイト:草野心平記念文学館