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朝井まかて『眩』(くらら)あらすじ・感想:葛飾北斎の娘で絵師の葛飾応為の歴史小説

朝井まかて『眩』(くらら)表紙

書籍紹介

  1. 『眩』は、北斎と同様に独自の才能を持った娘・応為の視点から、父娘の芸術への執念と苦悩を描いた歴史小説。
  2. 北斎は「三流の玄人でも一流の素人に勝る」と語り、恥を忍んで未熟な作品を世に出し、次の仕事へ進むことこそ職人の条件だと示す。
  3. 半身不随になった北斎は、盟友・滝沢馬琴の痛烈な激励によって再起し、長寿を願って終わりなき修行を続ける。
  4. 北斎は自らの理想を目指して絵を描き続け、応為もまた芸術に身を投じた生き様が描かれる。

朝井まかての略歴・経歴

朝井まかて(あさい・まかて、1959年~)
小説家。
大阪府羽曳野市の生まれ。大阪府大阪市の在住。ペンネームは沖縄県出身の祖母・新里マカテの名に由来。
甲南女子大学文学部国文学科を卒業。 広告制作会社でコピーライターとして勤務、結婚とともに退職して企画制作会社「あんばい房」を設立。2006年より大阪文学学校で学ぶ。
2008年に『実さえ花さえ』で小説現代長編新人賞の奨励賞を受賞。
2014年に『恋歌』で第150回直木賞を受賞。
2014年に『阿蘭陀西鶴』で第31回織田作之助賞を受賞。
2016年に『眩』で第22回中山義秀文学賞を受賞。
2017年に『福袋』で第11回舟橋聖一文学賞を受賞。
2021年に『類』で第71回芸術選奨文部科学大臣賞、第34回柴田錬三郎賞を受賞。
2026年に『どら蔵』で第60回吉川英治文学賞を受賞。

葛飾応為の略歴・経歴

葛飾応為(かつしか・おうい、生没年不詳)
絵師。
葛飾北斎の三女。名は栄(えい)。お栄、阿栄、應栄、栄女(えいじょ)とも表記。
「月下砧打美人図」「三曲合奏図」「吉原格子先之図」などが有名。

葛飾北斎の略歴・経歴

葛飾北斎(かつしか・ほくさい、1760年~1849年)
絵師。
姓は川村で、後に中島とも伝わる。幼名は時太郎、後に鉄蔵。
号は、春朗、宗理、画狂人、為一、卍など30以上。
東京都墨田区(武蔵国葛飾郡本所)の生まれ。 「冨嶽三十六景」「富士越龍図」「北斎漫画」などが有名。

『眩』の目次

第一章 悪玉踊り
第二章 カナアリア
第三章 揚羽
第四章 花魁と禿図
第五章 手踊図
第六章 柚子
第七章 鷽
第八章 冨嶽三十六景
第九章 夜桜美人図
第十章 三曲合奏図
第十一章 冨士越龍図
第十二章 吉原格子先之図
解説 葉室麟
謝辞

『眩』の概要・内容

2018年10月1日に第一刷が発行。新潮文庫。454ページ。

2016年3月22日に刊行された単行本を文庫化したもの。

題名の読み方は、「眩」で「くらら」。

解説は、小説家の葉室麟(はむろ・りん、1951年~2017年)。福岡県北九州市小倉の生まれ。福岡県立明善高等学校、西南学院大学文学部外国語学科フランス語専攻を卒業。2012年に『蜩ノ記』(ひぐらしのき)で第146回直木賞を受賞している人物。

『眩』の要約・感想

  • 玄人と素人を隔てる残酷な境界線
  • 老いの絶望を打ち砕く盟友の言葉
  • 長寿への執着と終わりのなき修行道
  • 知の錯覚を超えて技術の極致へ
  • 世俗を捨て芸術の闇に身を投じる覚悟
  • 群像劇としての魅力と芸術への賛歌

江戸時代の日本が生み出した比類なき芸術である浮世絵は、現代に至るまで世界中の人々を魅了し続けている。

その頂点に君臨する絵師の一人について、我々はどれほどの深い理解を持っているだろうか。

この記事で取り上げるのは、朝井まかて(あさい・まかて、1959~)が魂を込めて紡ぎ出した傑作小説『眩』(くらら)である。

この作品は、天才絵師として名高い葛飾北斎(かつしか・ほくさい、1760~1849)の影に隠れながらも、自らも圧倒的な才能を秘めていた娘の葛飾応為(かつしか・おうい、生没年不詳)の生涯を描き出した歴史長編である。

江戸時代後期という時代は、出版文化が成熟し、木版画の技術が飛躍的な進歩を遂げた時期でもあった。

多色刷りの錦絵が大量に生産され、庶民の娯楽として広く流通する一方で、表現の自由に対する幕府の統制も徐々に厳しさを増していく時代背景が存在した。

そのような激動の時代において、己の芸術のみを追求し続けた父と娘の姿は、現代を生きる我々に対しても強烈な問いを投げかけてくる。

葛飾北斎の革新的な構図や色彩感覚は、海を渡り、フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh、1853~1890)や、クロード・モネ(Claude Monet、1840~1926)といった西洋の印象派の画家たちにも多大な影響を与えたことは広く知られている。

いわゆるジャポニズムである。

しかし、その偉大な業績の陰には、彼を支え、時には代筆すら行っていたとされる葛飾応為の存在があった。

彼女自身もまた、光と影の鮮烈なコントラストを用いた独自の画風を確立していたが、歴史の表舞台にその名が大きく刻まれることは少なかった。

本作は、そんな彼女の視点を通して、天才という特異な存在の狂気と、それに寄り添うことの喜びや苦悩を余すところなく描き出している。

物語の中には、創作活動における根源的な苦痛と歓喜が、緻密な時代考証に基づいた美しい言葉によって綴られている。

芸術家たちの剥き出しの感情や、極限まで高められた美意識の衝突は、読者の心を深く抉り、決して消えることのない余韻を残すだろう。

ここからは、作中の印象的な場面や台詞を引用しながら、登場人物たちが抱えていた葛藤や芸術への哲学について、より深く考察を巡らせていきたい。

玄人と素人を隔てる残酷な境界線

創作の世界において、プロフェッショナルであることの真の条件とは何だろうか。

才能の有無や技術の高さだけでは測れない、もっと泥臭く、残酷な基準が存在する。

物語の中で、葛飾北斎が弟子に向けて語る言葉には、職人としての過酷な生き様が凝縮されている。

「だが、たとえ三流の玄人でも、一流の素人に勝る。なぜだかわかるか。こうして恥をしのぶからだ。己がまんぞくできねぇもんでも、歯ぁ喰いしばって世間の目に晒す。やっちまったもんをつべこべ悔いる暇があったら、次の仕事にとっとと掛かりやがれ」(P.130「第四章 花魁と禿図」)

※花魁と禿図:おいらんとかむろず

この言葉は、永遠に真摯であり続ける玄人の職人の姿勢を如実に表している。

素人は、自分の満足のいく作品が完成するまで発表を遅らせることができるし、失敗を恐れて安全な場所に留まることも許される。

しかし、玄人は違う。

生活の糧を得るため、あるいは版元からの厳しい納期を守るために、未熟さを自覚しながらも作品を世に送り出さなければならない局面が必ず訪れる。

完璧主義の陥穽に陥ることなく、妥協と挫折の入り混じった自らの現在地を世間に晒す恐怖。

それこそが「恥をしのぶ」という行為の本質であり、玄人にのみ課せられた重い十字架である。

失敗を世間の目に晒すことで受ける批判や屈辱は、表現者にとって身を切られるような痛みをもたらす。

しかし、その痛みを直視し、己の不甲斐なさを噛み締めながら、次の仕事へと向かう推進力に変えていくことでのみ、技術と精神は鍛え上げられていくのだ。

悔やむ暇があれば次の仕事に掛かれという言葉の裏には、過去への執着を断ち切り、常に前だけを見据えて進むべきだという厳格な哲学が隠されている。

この姿勢は、江戸時代の絵師に限らず、あらゆる分野で価値を創造しようとする人間にとって普遍的な真理である。

自らの弱さや未熟さと対峙し続けるこの終わりのない作業こそが、三流の玄人を一流へと引き上げる唯一の道筋なのだと、この台詞は強烈に訴えかけてくる。

葛飾北斎が長きにわたって画壇の頂点に君臨し続けることができた理由は、天賦の才だけではなく、この異常なまでの自己研鑽の精神にあったと言えるだろう。

彼の背中を見つめながら育った葛飾応為もまた、この厳しい職人としての哲学を骨の髄まで叩き込まれ、やがて自らの道を切り拓いていくことになる。

真の芸術家とは、神がかり的なインスピレーションに恵まれた者ではなく、自らの醜さや不完全さを引き受けながら、泥這いずり回るようにして表現を続ける者のことなのかもしれない。

老いの絶望を打ち砕く盟友の言葉

人間は誰しも老いと病から逃れることはできず、肉体の衰えは芸術家にとって最も恐ろしい敵となる。

思い通りに筆を動かせなくなることは、彼らにとって死を意味するに等しい。

物語の中盤、老齢に達した葛飾北斎は病に倒れ、半身不随となって寝たきりの生活を余儀なくされる。

かつての溢れんばかりの創作意欲は失われ、ただ静かに死を待つだけのような日々が続いていた。

そんな彼の元に、長年の盟友であり、時には激しく反発し合った間柄でもある「曲亭」(きょくてい)こと滝沢馬琴(たきざわ・ばきん、1767~1848)が見舞いに訪れる。

そこで彼が放った言葉は、同情や慰めなどという生易しいものではなかった。

「儂はかような往生など、望まぬわ。その覚悟で卑しき物書きに身を落とし、家人を養うて参ったのだ。たとえ右腕が動かずとも、いや、この目が見えぬ仕儀に至りても、儂は必ずや戯作を続ける。まだ何も書いてはおらぬのだ。己の思うままに書けたことなど、ただの一度もござらぬ。その方もさようではなかったのか。児戯に等しき絵を書き散らしおって、これでもう満ち足りたか。これからが北斎画業の本領ではなかったのか。描きたきこと、挑みたきことはまだ山とあるのではなかったか」(P.190「第六章 柚子」)

※戯作:げさく…娯楽を目的にした通俗小説、読み物。

滝沢馬琴が葛飾北斎へ放ったこの言葉は、表面的には痛烈な侮蔑である。

要らざる欲を捨てて安穏に過ごし、世間が羨むような大往生を遂げることへの強烈な嫌悪感が示されている。

しかし、その真意は、同じ時代を駆け抜け、共に大衆文化の頂点を極めた同志に対する、これ以上ないほど熱い激励であった。

お前はそんなところで満足して終わるような男ではなかったはずだ、という魂の叫びが込められているのである。

肉体の機能が失われようとも、自分は決して書くことを諦めないという滝沢馬琴自身の凄絶な覚悟が、葛飾北斎の眠っていた闘争心に火をつける。

己の思うままに書けたことなどただの一度もない、という告白は、高みを目指し続ける者だけが抱く共通の絶望感であり、二人にしか理解し得ない孤高の共鳴であった。

滝沢馬琴は、不随に効果があるという柚子(ゆず)の食べ方を葛飾応為に教え、嵐のように去っていく。

その後、寝たきりだった葛飾北斎は身体を起こして、「養生はもう、飽いた」と呂律が回らないながらも宣言する。

この柚子の逸話は、冷酷な言葉の裏に隠された不器用な優しさを象徴しており、二人の絆の深さを静かに物語っている。

そして、柚子の効能もあってか、彼の身体は徐々に動くようになり、再び絵が描けるまでに回復していくのである。

絶望的な状況から芸術への執念によって再び立ち上がるこの一連の流れは、本作品において最も魂を揺さぶる屈指の名場面である。

老いという不可避の運命にすら抗い、命の炎を燃やし尽くそうとする彼らの生き様は、読む者に圧倒的な生命のエネルギーを与えてくれる。

肉体は滅びに向かおうとも、表現への渇望は永遠に枯渇することはないという、芸術家の業の深さがここに示されているのである。

長寿への執着と終わりのなき修行道

死の淵から生還した葛飾北斎の創作意欲は、衰えるどころか、かつてないほどの激しさで燃え盛り始める。

彼は自らの画号を「画狂老人卍」(がきょうろうじんまんじ)と改め、さらに高みを目指して果てしない修行の道へと突き進んでいく。

この時代において、彼が到達した年齢はすでに驚異的な長寿であったが、彼自身は現状に全く満足していなかった。

この世は生き残った者が勝ちだ。そのぶん、修行が続けられる。(P.268「第八章 冨嶽三十六景」)

生き残った者が勝ちだという言葉には、彼が本気で長寿を願っている凄まじい野望と欲望が表れている。

世俗的な栄達や名誉のためではなく、ただひたすらに自身の画業を極めるための時間が欲しいという、純粋かつ貪欲な願いである。

実際、彼の代表作の一つである「富嶽百景」(ふがくひゃっけい)のあとがきの跋文(ばつぶん)には、自身の年齢と画業の進歩に関する有名な記述が残されている。

七十歳までに描いたものは取るに足らないものであり、七十三歳でようやく動植物の骨格や出生を悟ることができたと彼は語る。

さらに、八十歳でますます進歩し、九十歳で奥意を極め、百歳になれば神妙の域に達し、百十歳になれば一点一画が生きているようになるだろうと予言しているのだ。

この文章からも明らかなように、彼にとって人生とは、絵の真理に近づくための終わりのない修行そのものであった。

長生きすればするほど、新しい技法を試し、新たな表現を獲得することができる。

それは苦しい修行であると同時に、未知の領域を開拓していく無上の喜びに満ちたものでもあったに違いない。

エネルギーの塊のような彼にとって、老いは衰退ではなく、経験と技術を蓄積し続けるための過程に過ぎなかったのである。

当時の平均寿命を考えれば、彼の年齢はすでに奇跡的であったが、彼の眼差しは遥か先の未来を見据えていた。

苦しいが楽しい修行を一日でも長く続けるために、彼は貪欲に生きることを選択した。

その狂気とも呼べる執念が、後世に語り継がれる数々の傑作を生み出す原動力となったことは疑いようがない。

彼が到達した「卍」(まんじ)という境地は、万物の流転や宇宙の真理を捉えようとする、哲学的でさえある壮大なヴィジョンを内包していたのかもしれない。

生きることは描くことであり、描くことは生きることである。

この究極の芸術至上主義は、凡人には到底理解できない領域にあるが、だからこそ我々はその作品の前に立ち尽くし、圧倒されるほかないのである。

知の錯覚を超えて技術の極致へ

技術を磨き、経験を積めば積むほど、見えてくる世界は複雑になり、自らの不足をより痛感するようになる。

これは、何かの道を極めようとする者が必ず直面する残酷なパラドックスである。

物語の終盤、更なる高みを目指し続ける葛飾北斎は、自らの芸術について深く内省するような言葉を口にする。

「だが、巧いことと絵の奥意を極めることとは別物だ。どうだ、巧いだろうってぇ絵には品がねぇし、わざと無心を装ったような絵も見られたもんじゃねえ。俺ぁな、描けば描くほど、絵がよくわからなくなる。ただ、それが苦しいからといって目指すところを低うしたら、己の目論見よりさらにひどいことにならあ。……つまり、描き続けるしかねぇんだ」(P.383「第十一章 冨士越龍図」)

※冨士越龍図:ふじこしのりゅうず

巧いことと奥意を極めることの決定的な違いへの言及は、芸術の深淵を覗き込んだ者にしか語れない真理である。

表面的な技術のひけらかしや、作為的な表現を排し、真に品格のある作品を生み出すことの困難さが浮き彫りになっている。

描けば描くほど分からなくなるという彼の告白は、現代の認知心理学における重要な発見を想起させる。

デヴィッド・ダニング(David Dunning、1950~)とジャスティン・クルーガー(Justin Kruger、1964~)の研究によって提唱された、いわゆるダニング・クルーガー効果の曲線構造である。

能力の低い者は自らの能力を過大評価する傾向がある一方で、能力の高い熟達者ほど、複雑な現実を理解しているがゆえに自信を喪失し、自らの能力を過小評価する傾向があるという心理的なメカニズムだ。

彼のような達人に近い人間ほど、己の至らなさを痛感し、より謙虚に技を極めていこうとする。

しかし、そこで絶望して歩みを止めるのではなく、分からないながらも前へ進んでいくしかないのである。

苦しいからといって目標を下げることは、芸術家としての死を意味する。

自分の目論見よりもさらにひどい結果を招くことを知っているからこそ、彼は苦悩を抱えたまま筆を握り続ける。

描き続けるしかねえんだという諦念にも似た決意は、己の運命を完全に受け入れた者の静かなる狂気を感じさせる。

完璧な到達点など存在しないことを理解しながら、それでもなお漸近線のように真理に近づこうとする姿勢。

それは、人間の認識の限界に挑み続ける、果てしなく孤独で崇高な戦いである。

彼は己の才能に溺れることなく、常に自己破壊と再構築を繰り返すことで、過去の自分を乗り越えようとした。

この尽きることのない探求心こそが、時代を超えて人々の心を打ち続ける圧倒的な作品群を生み出した源泉なのである。

知の錯覚を超え、絶望の先にあるわずかな光を求めて描き続けた彼の生涯は、芸術というものの恐ろしさと美しさを同時に我々に突きつけてくる。

世俗を捨て芸術の闇に身を投じる覚悟

天才的な芸術家は、往々にして世俗的な価値観から大きく逸脱した生き方を選ぶ。

葛飾応為もまた、父の血を色濃く受け継ぎ、常軌を逸した芸術への執着を持っていた。

巻末の解説において、葉室麟(はむろ・りん、1951~2017)は、彼女の特異な生き様を象徴する逸話の史料を紹介している。

――妾は筆一枝あらば衣食を得ること難からず何ぞ区々たる家計を事とせんや(飯島虚心『葛飾北斎伝』)(P.449「解説 葉室麟」)

これは、明治時代の美術史家である飯島虚心(いいじま・きょしん、1828~1900)が記した葛飾北斎の伝記『葛飾北斎伝』からの引用である。

妾(わらわ)とは女性の一人称であり、筆一本あれば食べていくのに困ることはないのだから、家計などの細々したことを気にしていられるか、という彼女の豪快な発言だ。

この物語でも描写されている彼女の破天荒な性格と、世間の常識をあっさりと捨て去る潔さがこの一言に凝縮されている。

女性に求められていた家事や家庭の運営といった役割を完全に放棄し、ひたすらに絵の具と筆に向き合う日々。

それは、片付けも掃除もせず、ゴミだらけの部屋の中で創作に没頭した父と全く同じ姿であった。

葉室麟は、「ものを作る者は闇を駆ける」と題されたこの解説の中で、彼らのような芸術家が抱える暗部について深く考察している。

世俗の幸福を犠牲にしてでも、表現の業に身を投じなければならない者たちの宿命。

その深い闇の中からしか、後世の人々の心を震わせるような圧倒的な光は生まれないのだという冷徹な事実を指摘しているのだ。

葛飾応為の才能は、父の影に隠れがちであったが、彼女が描いたとされる「吉原格子先之図」(よしわらこうしさきのず)などの傑作を見れば、その実力が父に勝るとも劣らないものであったことがわかる。

光と影を巧みに操り、人間の情念を浮き彫りにするその技術は、西洋のレンブラントにも比肩し得るものだ。

彼女は父の代筆を務める中で、自らの個性を押し殺す苦悩を味わいながらも、同時に父の神業を最も近くで吸収し続けた。

愛憎入り混じる父娘の関係性は、互いの芸術を高め合うための残酷なまでに純粋な土壌であったのかもしれない。

家計なんてやってられるかという発言は、単なる生活能力の欠如ではなく、自らの命を芸術の祭壇に捧げるという強烈な宣言なのである。

葉室麟の解説は、本編の物語に深い歴史的な文脈を与え、彼らの生き様をより一層鮮やかに輝かせている。

闇に生き、闇を描き、そして自らが光となるために生きた彼らの魂の軌跡を、我々はこの見事な解説を通じて再確認することができるのである。

群像劇としての魅力と芸術への賛歌

本作の大きな魅力の一つは、主人公の父娘を取り巻く脇役たちの卓越したキャラクター造形にある。

江戸の文化を彩る多様な人物たちが、物語に重層的な厚みとリアリティを与えている。

同業の絵師であり、葛飾応為と複雑な関係性を築く渓斎英泉(けいさい・えいせん、1791~1848)、通称・善次郎(ぜんじろう)の飄々とした生き方と人当たりの良さ。

そして何より、物語に強烈なスパイスを加えているのが、葛飾北斎の孫の時太郎(ときたろう、生没年不詳)という人物の存在である。

彼が物語に持ち込む世俗的な悪意や狡猾さ、弱さは、極めて優れた悪役としての機能を果たしているのである。

彼の存在によって生み出される緊張感が、物語の推進力を劇的に高め、読者を最後まで飽きさせることなく惹きつける。

朝井まかての他作品である『阿蘭陀西鶴』もまた、父と娘の関係性を軸にした優れた物語であったが、『眩』も全く異なるアプローチで父娘の情愛と葛藤を描き切った傑作である。

どちらも創作という行為に取り憑かれた人々の業を描いている点では共通しているので、気になる方は、そちらもぜひ。

やはり絵師、あるいは芸術家というものは、常人の理解を超えた凄まじい生き物なのである。

己の命を削り、生活を破綻させ、絵を完成させるためだけにすべてを注ぎ込む。

そのような異常なまでの集中と狂気があるからこそ、我々の想像を絶するような高み、極みに達することができるのだろう。

彼らが残した作品は、単なる紙と絵の具の集積ではなく、彼らの血肉であり、魂の叫びそのものである。

『眩』という小説は、そんな狂おしくも美しい芸術家たちの生き様を追体験させてくれる、至高の読書体験を約束してくれる。

歴史の闇に埋もれかけた一人の女性絵師の光を通して、我々は自らの人生において何を最も大切にすべきなのかを、静かに問い直されるのである。

書籍紹介

関連書籍

関連スポット

太田記念美術館

太田記念美術館は、東京都渋谷区にある浮世絵専門の美術館。実業家・5代目太田清蔵(おおた・せいぞう、1893年~1977年)のコレクションを基礎に、1980年に開館。
葛飾応為の「吉原格子先之図」などを所蔵。

公式サイト:太田記念美術館

東京国立博物館

東京国立博物館は、東京都台東区の上野恩賜公園内にある国立博物館。1872年に創設。
葛飾応為の「月下砧打美人図」などを所蔵。

公式サイト:東京国立博物館

メナード美術館

メナード美術館は、愛知県小牧市にある美術館。日本メナード化粧品の創業者の野々川大介(ののがわ・だいすけ、1921年~2019年)と、夫人の野々川美寿子(ののがわ・みつこ、1920年~1987年)が中心となって収集した美術コレクションをもとに1987年に開館。
葛飾応為の「夜桜美人図」(春夜美人図)などを所蔵。

公式サイト:メナード美術館

すみだ北斎美術館

すみだ北斎美術館は、東京都墨田区亀沢にある美術館。2016年に開館。

公式サイト:すみだ北斎美術館

北斎館

北斎館は、長野県上高井郡(かみたかいぐん)小布施町(おぶせまち)にある美術館。江戸時代末期に、高井鴻山(たかい・こうざん、1806年~1883年)の招聘により小布施に長期逗留した、葛飾北斎の肉筆画約40点を中心に、全体で約100点を展示、所蔵。1976年に開館。

公式サイト:北斎館