- 川端康成の文章論:基本は簡潔・平明
- 文章は書き手の鏡:文は人、文は命
- 近代日本文学の功労者たち:創造、変化、自由
- 現代への示唆:普遍的な文章の価値
川端康成の略歴・経歴
川端康成(かわばた・やすなり、1899年~1972年)
小説家。
大阪府大阪市の出身。豊川尋常高等小学校(現・茨木市立豊川小学校)を卒業、茨木中学校(現大阪府立茨木高等学校)に首席で入学し、卒業。1920年に第一高等学校文科第一部乙類(英文科)を卒業、東京帝国大学文学部英文学科に入学、1922年に国文学科に転科、1924年に卒業。1968年にノーベル文学賞を受賞。
『新文章読本』の目次
まえがき
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
第九章
第十章
解説 伊藤整
※原文ママ。章の後には特に記載はない。
『新文章読本』の概要・内容
1954年9月30日に第一刷が発行。新潮文庫。112ページ。
もともとは、鎌倉文庫から出されていた雑誌「文芸往来」に、1949年2月から1950年11月まで連載されていたもの。
「まえがき」は、1950年10月に書かれたもの。
解説は、文芸評論家の伊藤整(いとう・せい、1905年~1969年)。
本名は、伊藤整(いとう・ひとし)。北海道松前郡松前町の出身。小樽中学(北海道小樽潮陵高等学校の前身)を経て、小樽高等商業学校(小樽商科大学の前身)を卒業。東京商科大学(一橋大学の前身)本科に入学するが後に中退。
『新文章読本』の要約・感想
文章を書く機会は、私たちの日常に溢れている。レポートや企画書、メール、ブログ、SNSへの投稿など、形は様々であるが、自分の考えや感情を言葉にして伝えるという行為は、現代社会において不可欠なスキルである。
しかし、いざ書こうとすると、「何から書けばいいのか分からない」「うまく言葉が出てこない」「伝わる文章になっているか不安だ」と感じる人も少なくないだろう。
そんな文章作成の悩みに、時代を超えて応え続けてきた一冊がある。それが、日本人初のノーベル文学賞受賞者である川端康成が著した『新文章読本』である。
本書は、単なる文章テクニックの解説書ではない。川端康成自身の文学観、人生観が色濃く反映された、文章の本質に迫る深い洞察に満ちた書物である。なぜ川端康成がこれほどまでに有名であり、評価され続けているのか。その理由の一端を、本書から垣間見ることができるだろう。
この記事では、『新文章読本』の内容を紐解きながら、川端康成が提示する文章術の核心を探っていく。古い時代の本ではあるが、そこで語られる言葉は、現代を生きる私たちにとっても、文章を書く上での確かな指針となるはずである。
川端康成『新文章読本』とは
『新文章読本』は、川端康成が自身の経験と深い思索に基づき、文章を書くということについて多角的に論じたエッセイ集である。
「まえがき」に始まり、第一章から第十章まで、章ごとにテーマを立てて文章論が展開される。最後には、文芸評論家であり小説家でもある伊藤整による優れた解説が付されている。
本書の特徴は、具体的な文章作法やテクニックに終始するのではなく、「文章とは何か」「良い文章とはどういうものか」といった、より根源的な問いを探求している点にある。川端は、古今の様々な作家の文章を引用し、自身の見解を交えながら、文章の持つ力や、書き手の姿勢について深く考察していく。
世には「文章読本」と名のつく本がいくつか存在する。例えば、同じく文豪である谷崎潤一郎(たにざき・じゅんいちろう、1886年~1965年)の『文章読本』や、戦後文学を代表する三島由紀夫(みしま・ゆきお、1925年~1970年)の『文章読本』などが有名である。
これらの文章読本と比較すると、川端の『新文章読本』は、より感覚的、内面的なアプローチが際立っていると言えるかもしれない。文章を単なる技術として捉えるのではなく、書き手の「命」そのものとして捉える視点は、本書ならではの深みを与えている。
本書を読むことで、私たちは文章表現の豊かさや奥深さに気づかされるだろう。そして、川端康成という作家が、いかに言葉と真摯に向き合ってきたかを知ることができる。
彼の代表作である『雪国』や『伊豆の踊子』といった有名な作品に流れる独特の美意識や感性は、この『新文章読本』で語られる文章観と深く結びついているのである。
文章の基本は「簡潔・平明」にあり
文章を書く上で、まず押さえるべき基本は何だろうか。川端康成は第二章で、その核心を突く言葉を記している。
先にのべたように、文章とは、感動の発する儘に、自己の思うことを素直に簡潔に解り易くのべたものを良しとする。古来文章の理範として「華を去り実に就く」といわれたのも、この所であろうか。
文章の第一条件は、この簡潔、平明ということであり、如何なる美文も、若し人の理解を妨げたならば、卑俗な拙文にも劣るかもしれない。(P.17「第二章」)
ここで川端が強調するのは、「簡潔」さと「平明」さ、つまり分かりやすさである。「華を去り実に就く」とは、飾り立てた言葉(華)を取り除き、中身(実)を大切にするという意味である。どれほど美しい言葉を連ねたとしても、それが読み手の理解を妨げるのであれば、それは良い文章とは言えない。むしろ、稚拙であっても分かりやすい文章の方が優れている、と川端は断言する。
これは、現代の文章作成においても極めて重要な指摘である。
情報が氾濫する現代社会では、いかに短時間で的確に情報を伝えるかが求められる。難解な言葉や持って回った表現は、読み手の負担となり、内容の理解を妨げてしまう。自分の考えや感動を、素直に、分かりやすく表現すること。これこそが、時代を超えて通用する文章の基本原則なのである。
また、川端はこの章で、時代によって名文とされるものは異なるとも指摘している。言葉は生き物であり、時代と共に変化していく。その変化を捉えつつも、分かりやすさという普遍的な価値を見失わないことが、良い文章を書く上での鍵となるだろう。
「文は人なり」:文章は書き手を映す鏡
文章は、単なる情報の伝達手段ではない。そこには、書き手の人となり、考え方、感情が色濃く反映される。
第三章で川端は、フランスの博物学者のジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォン(Georges-Louis Leclerc, Comte de Buffon, 1707年~1788年)の有名な言葉を引用し、この点を強調している。
文章は人間の命だと私は書いた。「文は人なり」といったビュフォンの言葉は有名である。(P.33「第三章」)
「文は人なり」とは、文章はその書き手自身を表す、という意味である。どのような言葉を選び、どのように文章を組み立てるか。その一つ一つの選択に、書き手の個性や内面が滲み出る。
正直な人が書く文章は実直さを感じさせ、思慮深い人が書く文章は深みを感じさせる。逆に、見栄を張ろうとしたり、何かを隠そうとしたりすれば、それもまた文章に表れてしまうものだ。
川端自身、「文章は人間の命だ」とまで述べているように、文章を書くという行為を、自己の存在証明そのものとして捉えていた節がある。だからこそ、彼は文章に対して極めて真摯であり、言葉の一つ一つを大切に紡ぎ出していったのだろう。
この章では、外来思想と異国の言葉、口語と文語(書き言葉)といった、異なる要素が混じり合う日本語の状況についても触れられている。多様な要素がせめぎ合う中で、自分自身の言葉を獲得し、表現していくことの難しさと重要性を示唆しているようにも読める。
私たちが文章を書くときも、「文は人なり」という言葉を心に留めておきたい。自分の言葉に責任を持ち、誠実な姿勢で書くこと。それが、読み手の心に響く文章を生み出す第一歩となるはずである。
文章は「命」であり「血」で描くもの
文章に対する川端康成の情熱は、第五章でさらに熱を帯びる。
彼は、同時代の作家であり、新感覚派の旗手として活躍した横光利一(よこみつ・りいち、1898年~1947年)の文章に触れながら、文章を書くことの真髄について語る。
横光氏の文章の歴史などをふりかえると、私はいまさらに、作者にとって文章は命である、との感は深い。命といってもよい程大切なものだ……という表面の意味ばかりではなしに、文章はペンで書くものではなく、命の筆先に血をつけて描く……といったなまぐさい子供っぽい形容さえしたい気持なのである。(P.52「第五章」)
「文章は命である」という言葉が、ここではさらに踏み込んで語られる。
「命の筆先に血をつけて描く」という表現は、少々生々しく、衝撃的でさえある。しかし、これは単なる比喩表現ではない。川端が言わんとしているのは、文章とは、書き手が自身の存在そのものを賭けて生み出すものであり、そこには生身の人間の情念や葛藤、喜びや悲しみが凝縮されているということだろう。
この川端の言葉は、文章を書くという行為がいかに真剣なものであるべきかを私たちに教えてくれる。小手先のテクニックや器用さだけでは、人の心を打つ文章は生まれない。
自分の内面と深く向き合い、そこから湧き上がるものを、熱い思いと共に言葉にしていく。その過程は、時に苦しみを伴うかもしれないが、それこそが本物の文章を生み出す道なのである。
文章は単なる文字の羅列ではない。それは、書き手の「命」の軌跡であり、「血」の通った表現なのだ。この川端の熱い思いを受け止めるとき、私たちの文章に対する意識もまた、変わらざるを得ないだろう。
近代日本文学を豊かにした作家たち
『新文章読本』の魅力の一つは、川端康成が同時代の作家たちの文章を具体的に取り上げ、その特徴や功績について論じている点である。
第六章では、近代日本の小説における文章の発展に貢献した作家たちの名前が挙げられている。
大まかな言い方をすれば、極く最近の、日本小説の、文章上の功労者を数えるならば、泉鏡花、徳田秋声、武者小路実篤、志賀直哉、里見弴、菊池寛、宇野浩二、横光利一の諸氏であろう。諸氏はそれぞれ新しい文体を創造し、現代文に変化と自由を与えた。それを豊かにし、その上に新風の芽生える沃土を耕してくれた。(P.57「第六章」)
ここに挙げられているのは、泉鏡花(いずみ・きょうか、1873年~1939年)、徳田秋声(とくだ・しゅうせい、1872年~1943年)、武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ、1885年~1976年)、志賀直哉(しが・なおや、1883年~1971年)、里見弴(さとみ・とん、1888年~1983年)、菊池寛(きくち・かん、1888年~1948年)、宇野浩二(うの・こうじ、1891年~1961年)、そして前章でも触れられた横光利一である。
いずれも、明治から昭和にかけて活躍した、日本近代文学を代表する錚々たる顔ぶれである。
川端は、これらの作家たちが、それぞれ独自の新しい文体を創造し、それまでの日本語表現に「変化と自由」をもたらしたと評価している。彼らの試みが、現代の私たちが使う文章の表現力を豊かにし、新しい表現が生まれるための素晴らしい土壌を作り上げてくれた、というのである。
例えば、泉鏡花の流麗で幻想的な文体、志賀直哉の簡潔で的確な描写、横光利一の斬新な感覚表現など、彼らの文章はそれぞれに際立った個性を持っている。これらの多様な文体が生まれたことで、日本語の表現の幅は格段に広がり、より複雑な感情や事象を描写することが可能になった。
この記述は、私たちにとって、これらの作家たちの作品に改めて注目するきっかけを与えてくれる。彼らがどのような新しい文体を創造し、それが現代の文章にどう繋がっているのかを探求することは、日本語表現への理解を深める上で非常に有益だろう。
川端が「功労者」として名を挙げた作家たちの作品を実際に読んでみることで、『新文章読本』の記述がより立体的に理解できるようになるはずである。
谷崎潤一郎と佐藤春夫:対照的な文体の魅力
第七章では、さらに具体的な作家比較が行われる。対象となるのは、谷崎潤一郎と佐藤春夫(さとう・はるお、1892年~1964年)という、共に近代日本文学を代表する二人の巨匠である。
谷崎潤一郎氏の文章が滔々たる大河とすれば、佐藤春夫氏の文章は水清らかな小川である。両氏共に想像が豊かで連想が賑かで、素点の細かい文章を書くが、谷崎氏が稍ゝ「説明的」であるとすれば、佐藤氏は稍ゝ「表現的」であるといえるかもしれない。(P.74「第七章」)
この対比は非常に興味深い。
谷崎潤一郎といえば、『痴人の愛』や『細雪』などで知られ、濃密で官能的な世界を、細部にわたる描写で構築する作家である。彼の文章は、まさに大河のように、読者をその豊穣な物語世界へと引き込んでいく力を持っている。
一方、佐藤春夫は詩人としても活躍し、叙情性豊かで洗練された文章を得意とした。『田園の憂鬱』などの作品には、繊細な感覚と知的な表現が光る。彼の文章は、清らかな小川のせせらぎのように、静かに心に染み入る趣がある。
「説明的」と「表現的」という対比も示唆に富む。谷崎の文章は、物語の状況や人物の心理を詳細に「説明」することで世界を立ち上げていく傾向があるのに対し、佐藤の文章は、言葉そのものの響きやイメージ喚起力によって、情景や感情を間接的に「表現」しようとする傾向があるのかもしれない。
面白いことに、この二人の作家は、文学上では先輩後輩であると同時に友人でもあり、さらには、いわゆる「細君譲渡事件」など複雑な関係にあった。その二人がこのように比較されているのも、面白い点である。
作家の生涯と文章の輝き
作家の創作活動は、その生涯を通じて変化していく。第十章で川端康成は、作家の芸術的生命と文章の関係性について、鋭い洞察を披露している。
傑れた作家は、独自の文章と文体を持つとは、前にしばしばのべて来たところであるが、また一人の作家の生涯を通じても似たことがいえそうである。
結論を先にすれば、美しい文章は、その作家の芸術的生命が高揚している時、その頂点をみるようである。(P.103「第十章」)
優れた作家が独自の文体を持つように、一人の作家の生涯においても、その文章は変化し、特にその作家の芸術的なエネルギーが最も高まっている時期に、最も美しい文章が生まれる、と川端は指摘する。これは、作家の内面的な充実度や創作意欲が、そのまま文章の質に反映されるという考え方である。
さらに川端は、興味深い指摘を続ける。「処女作の稚拙は美しい」という言葉である。これは、技術的には未熟であっても、処女作には作家の初期衝動や瑞々しい感性が凝縮されており、それが独自の魅力となっている、という意味であろう。続けて「文章の祕密は、技巧よりも情熱、姿よりも心といえるのであろう」とも述べている。文章の核心は、表面的なテクニックよりも、その根底にある書き手の情熱や真心にある、というのである。
そして、「処女作が頂点で、あとはそのバリエーションである場合が実に多い」という、やや厳しい見方も示される。これは、多くの作家にとって、最初に示した世界観や文体が、その後の創作活動の基盤となり、それを深化・変奏させていくことが多い、という指摘であろうか。
もちろん、生涯にわたって変貌し続ける作家もいるが、処女作にその作家の本質が最も純粋な形で表れている、と川端は考えていたのかもしれない。
これらの指摘は、私たちが文学作品を読む際に、作家の生涯や創作時期といった背景を知ることの重要性を示唆している。ある作品が書かれた時期の作家の状態を知ることで、その文章の持つ意味合いや輝きを、より深く理解することができるだろう。
また、文章を書く側にとっても、技巧を磨くだけでなく、常に情熱を持ち、真心を込めて書くことの大切さを再認識させてくれる言葉である。
『新文章読本』を読む際の留意点
ここまで『新文章読本』の魅力を紹介してきたが、本書を読む上で少し留意しておきたい点もある。それは、本書が書かれた時代の古さゆえの読みにくさである。
まず、本文には旧字体が多く使われている。現代の私たちにとっては馴染みの薄い漢字も少なくなく、読み進めるのに少し骨が折れるかもしれない。また、引用されている例文も、さらに古い時代のものが中心であり、当時の言葉遣いや表現に慣れていないと、意味を正確に捉えるのが難しい場合もあるだろう。
しかし、これらの読みにくさは、本書の価値を損なうものではない。
むしろ、少し時間をかけて丁寧に読み解くことで、当時の日本語の豊かさや、現代とは異なる表現の面白さに触れることができる。辞書を片手に、あるいは注釈を参照しながら読み進めることで、日本語に対する理解がより深まるという側面もある。
川端康成自身の文章も、現代の一般的な文章と比較すると、やや硬質で格調高い印象を受けるかもしれない。しかし、その端正な文体の中に込められた深い思索や鋭い感性は、読む者の心に静かな感銘を与える力を持っている。
本書を読む際は、焦らず、じっくりと言葉と向き合う姿勢が大切である。読みにくさを乗り越えた先には、文章の本質に触れる知的な喜びが待っているはずだ。
谷崎潤一郎、三島由紀夫の『文章読本』との比較
先に触れたように、「文章読本」と名のつく本は他にも存在する。特に有名なのが、谷崎潤一郎の『文章読本』と三島由紀夫の『文章読本』である。
谷崎潤一郎の『文章読本』は、日本語の語彙や文法、文体について、豊富な知識と独自の美意識に基づき、実践的なアドバイスを交えながら解説している。古典文学への深い造詣を感じさせる、格調高い内容が特徴である。
川端の『新文章読本』が、やや感覚的・内面的なアプローチであるのに対し、谷崎のものはより具体的で、日本語そのものへの考察が深いと言えるかもしれない。
一方、三島由紀夫の『文章読本』は、より現代的な視点から、論理的で明晰な文章を書くための技術を説いている。三島自身の怜悧な知性が反映された、シャープで実践的な内容が特徴である。
これら三冊の『文章読本』を読み比べてみることは、非常に興味深い体験となるだろう。
川端康成、谷崎潤一郎、三島由紀夫という、それぞれ異なる個性と美学を持つ三人の文豪が、文章というものにどのように向き合い、何を重要と考えていたのか。その違いを知ることで、文章表現の多様性や奥深さを、より立体的に理解することができるはずである。
それぞれの『文章読本』が、あなたの文章力を多角的に向上させるためのヒントを与えてくれるに違いない。
まとめ:現代に生きる『新文章読本』の価値
『新文章読本』が書かれたのは、現代から見ればかなり古い時代である。しかし、そこで語られている内容は、決して色褪せることなく、現代を生きる私たちにとっても重要な示唆を与えてくれる。
情報伝達のスピードが格段に上がり、誰もが発信者となりうる現代において、「簡潔・平明」であることの重要性はますます高まっている。川端が説くように、分かりにくい文章は、どんなに美辞麗句を並べても価値がない。相手に正確に、そして素早く意図を伝える能力は、あらゆる場面で求められる基本的なスキルである。
また、「文は人なり」という言葉も、SNSなどが普及し、個人の発信が社会的な影響力を持つようになった現代において、改めて噛みしめるべき言葉である。ネット上の匿名の書き込みであっても、そこには書き手の人格が反映される。自分の言葉に責任を持ち、誠実な姿勢で発信することの重要性は、ますます増していると言えるだろう。
本書で紹介されている泉鏡花や志賀直哉といった多くの作家たちの文章に触れることも、現代の私たちにとって有益な経験となる。彼らが切り拓いた豊かな日本語表現の世界を知ることで、私たちの語彙力や表現力は確実に向上するだろう。
本書の最後には、伊藤整による優れた解説が付されている。この解説は、本書の内容を整理し、川端康成の文章論の核心を的確に捉えており、読者の理解を助けてくれる。簡潔ながらも非常に深く、分かりやすい解説であり、本書の価値をさらに高めていると言えるだろう。
『新文章読本』は、単なる文章作成のハウツー本ではない。
それは、言葉と向き合い、自己と向き合うための思索の書であり、時代を超えて読み継がれるべき普遍的な価値を持った一冊なのである。本書を読むことで、文章を書くという行為の奥深さと、言葉が持つ力の素晴らしさを再発見できるはずだ。
川端康成が遺したこの珠玉の文章論を、ぜひ手に取ってみてはいかがだろうか。
書籍紹介
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川端康成文学館
川端康成文学館は、川端康成が幼少期を過ごした大阪府茨木市にある文学館。著書や遺品、書簡など約400点を展示。
公式サイト:川端康成文学館
湯沢町歴史民俗資料館・雪国館:川端康成
湯沢町歴史民俗資料館・雪国館は、新潟県南魚沼郡湯沢町にある文化施設。湯沢が舞台となった川端康成の小説『雪国』と雪国である湯沢の暮らしや歴史を中心とした展示をする。
公式サイト:湯沢町歴史民俗資料館・雪国館