
書籍紹介
- 城山三郎は海軍特攻隊の経験と戦後の経済小説で昭和の矛盾と狂気を冷徹に描き、独自の作家として確立。
- ゲーム理論への違和感、恩師山田雄三との手紙のやり取りを通じて、人間性の温かさと現実直視の重要性を学ぶ。
- 妻との運命的な出会い、詩人・天野忠への傾倒は、硬質な物語の底に潜む詩的な繊細さと異端への共鳴を象徴。
- 情報は「時間とともに正しくなる」という哲学は、現代の情報過多社会で己を失わずに生きる羅針盤として有効。
佐高信の略歴・経歴
佐高信(さたか・まこと、1945年~)
評論家。
山形県酒田市の出身。山形県立酒田東高等学校、慶應義塾大学法学部法律学科を卒業。
城山三郎の略歴・経歴
城山三郎(しろやま・さぶろう、1927年~2007年)
小説家。本名は、杉浦英一(すぎうら・えいいち)。
愛知県名古屋市の出身。名古屋市立名古屋商業学校(現在の名古屋市立向陽高等学校)を経て、1945年に愛知県立工業専門学校(現在の名古屋工業大学)に入学。大日本帝国海軍に志願入隊し、海軍特別幹部練習生として、特攻隊である伏龍部隊に配属。
1946年に東京産業大学(現在の一橋大学)予科入学、1952年に一橋大学を卒業。
1957年に『輸出』で第4回文學界新人賞。
1959年に『総会屋錦城』で第40回直木賞。
1975年に『落日燃ゆ』で吉川英治文学賞、毎日出版文化賞。
『城山三郎の昭和』の目次
特攻は志願にあらず
音にこだわる
三島由紀夫批判
大岡昇平への傾倒
絶対に形の崩れない男
悪名の系譜
戦後余生への出発
生涯の師、山田雄三
「仁義なき戦い」との接点
夫人が泣いた「生命の歌」
原基としての父親
喜劇は続く
つまずいた人に惹かれる
「横光利一は田舎者です」
情報に振りまわされないために
革命児を描く
受難の背景
『大義』の著者の悲しい運命
おわりに
解説 世代をこえよ昭和体験 澤地久枝
城山三郎さんを悼む ―― 文庫版あとがきにかえて
『城山三郎の昭和』の概要・内容
2007年4月25日に第一刷が発行。角川文庫。269ページ。
2004年6月に刊行された単行本を文庫化したもの。
初出は「本の旅人」2002年8月号~2004年1月号連載。
解説は、ノンフィクション作家・社会活動家の澤地久枝(さわち・ひさえ、1930年~)。
東京都港区青山の出身。満州を経て、山口県立防府高等学校に編入、1947年に東京へ。1949年に中央公論社に入社しながら、東京都立向丘高等女学校(現在の向丘高等学校)の定時制に一年通った後、早稲田大学第二文学部国文科を卒業。
『城山三郎の昭和』の要約・感想
- 資本主義のノイズと自己修練の道
- 冷徹な経済理論と人間性の探求
- 極限状態における沈黙と美学の共鳴
- 知の集積地での劇的な邂逅と永遠の喪失
- 硬質な物語に潜む繊細な詩人の魂
- 合理性と情念の歴史的評価の交錯
- 既存の権威への違和感と異端への共鳴
- 情報の真価を見極めるための哲学
- まとめ:激動の時代を駆け抜けた魂の記録として
昭和という時代は、現代を生きる我々にとって単なる過去の歴史として片付けるにはあまりにも複雑であり、多様な矛盾と深い狂気を孕んだ特異な時代であった。
軍事技術の無軌道な発展がもたらした破壊の極致から、戦後の産業の驚異的な復興へと至るプロセスは、人間の無限の可能性と底知れぬ狂気を同時に証明している。
経済的な視点から歴史を振り返れば、それは国家による統制経済から自由主義経済への急激なパラダイムシフトであり、その激流の中で数多くの企業が生まれ、そして消えていった。
経営の観点からは、日本型雇用システムという独自の組織論が確立され、企業のために身を粉にして働く人々が世界市場を席巻した熱狂の時代でもある。
そして文学は、この急激な社会構造の変化の中で、歴史の波に翻弄される個人の内面を執拗に掘り下げ、人間の尊厳とは何かを問い続けてきた。
そのような多面的な昭和という時代を、徹底した実地調査と冷徹な分析力によって描き出し、経済小説という新たなジャンルを確立した一人の小説家が存在する。
それが、愛知県名古屋市に生まれ育った城山三郎(しろやま・さぶろう、1927年~2007年)である。
評論家として独自の視点を持つ佐高信(さたか・まこと、1945年~)が著した『城山三郎の昭和』は、この偉大な作家の精神の深層へと迫る、極めて優れた文学的・歴史的考察である。
2004年に単行本として刊行された後、2007年に角川文庫として文庫化され、より多くの読者の手に渡ることとなった本書は、昭和という時代の本質を理解するための重要な鍵を提供してくれる。
城山三郎は、本名である杉浦英一(すぎうら・えいいち)として生きた青年期、彼は大日本帝国海軍に志願入隊し、特攻隊である伏龍部隊に配属されるという過酷な運命を経験している。
自らの自由意志で国のために死を選ぶ特攻に志願したと信じ込まされていた純粋な青年が、やがてそれが時代という巨大な暴力によって巧妙に志願させられていたのだと気づく過程は、歴史の恐ろしさを克明に伝えている。
海軍という絶対的な階級社会の内部で経験した理不尽な暴力と深い幻滅こそが、彼を冷徹なリアリストでありながら、同時に温かい心を持った作家へと変貌させた最大の要因なのである。
歴史の巨大なうねりに巻き込まれながらも、最後まで自己の信念を貫き通した一人の人間の姿を通じて、この本が我々に何を語りかけているのかを、多角的な視点から深く読み解いていきたい。
資本主義のノイズと自己修練の道
現代の都市の急速な発展は、インフラストラクチャーの整備という巨大な恩恵を我々にもたらした一方で、環境ノイズという深刻な都市問題を生み出した。
資本主義経済の歯車が高速で回転するにつれて、街角には宣伝広告や音楽のためのスピーカーが溢れ、消費者の無意識を操作しようとする商業的な音が氾濫するようになった。
しかし、彼はこうした人為的に操作された音響空間に対して、生理的なレベルでの強い嫌悪感を抱き、音楽を掛けている店で買い物をするなと家族に命じるほどであった。
私は、城山は三つの「お」にこだわる作家である、と書いたことがある。『プレジデント』の一九九四年十一月号でだが、その三つは「音、男、己」であり、それは「静かさ、たくましさ、ひたむきさ」へのこだわりと形容することもできる。(P.22「音にこだわる」)
彼にとって、意図的に作られた騒音は単なる不快感にとどまらず、自立した個人の尊厳を脅かし、己を失わせる社会の構造的な暴力そのものであった。
己の精神を鍛え上げるために大人になってから空手の道場へ三年近くも通い詰め、ついには黒帯を取得したという逸話は、彼の不屈の魂を象徴している。
彼がこれほどまでに自己の喪失を恐れ、精神の独立を渇望した背景には、若き日に身を投じた海軍の狂騒と、全体主義的なスローガンによって個人の声が完全に圧殺された経験が横たわっているに違いない。
冷徹な経済理論と人間性の探求
学問というものは、時として人間の生身の感情や不合理な行動を切り捨て、論理的な整合性だけを追求する冷たい抽象論へと傾倒していく危険性を孕んでいる。
当時の経済学の最前線において、オスカー・モルゲンシュテルン(Oskar Morgenstern、1902年~1977年)とジョン・フォン・ノイマン(John von Neumann、1903年~1957年)によって構築されたゲーム理論は、経済行動を数学的なモデルで記述する画期的な手法であった。
この理論は、利害が対立する主体間の意思決定を合理的に分析するものであり、ミクロ経済学に革命をもたらしたが、そこに人間の体温を感じることは極めて難しい。
現実の社会における血の通った人間ドラマを描き出そうとしていた彼の魂にとって、その無機質な数式の体系はどうしても受け入れがたいものであり、次第に学問に対する情熱を失っていった。
彼は一橋大学での学びに、冷徹な計算式ではなく、人間への深い理解に基づくウォーム・ハートを求めていたのである。
自らの学問的な限界と深い違和感に苦悩した彼は、ついにゼミを辞める決意を固め、恩師である山田雄三(やまだ・ゆうぞう、1902年~1996年)にその旨を伝える率直な手紙を書き送った。
「わたしは別に教授を神格化しているのでも、絶対視しているのでもない。絶対とか絶対視とかは、教授のいちばん嫌いな観念である。わたしにとっての教授とは、その存在を意識すると、体の中を涼しい風が走り抜ける。ふだん生きている世界とはちがう世界からの風が、吹いてくる――そういう存在なのだ」(P.115「生涯の師、山田雄三」)
ゼミを去ろうとする教え子に対する山田の返信は、教育者としての並外れた度量と、経済学という学問の奥底に流れる深い愛情に満ちたものであった。
教授という権威を振りかざすことなく、一人の悩める青年に対して真摯に向き合うその言葉そのものが、彼が探し求めていたウォーム・ハートの確かな体現であった。
この劇的な手紙のやり取りによって再び学問への情熱を取り戻した彼は、ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes、1883年~1946年)の理論に関する優れた卒業論文を書き上げた。
作家として大成する以前、愛知学芸大学で景気論を講じる研究者としての道を歩み始めた彼の原点が、この師弟の温かい対話に凝縮されている。
極限状態における沈黙と美学の共鳴
戦争という極限状態の経験は、人間の精神の奥深くに、永遠に消えることのない深い刻印と拭い去れない虚無感を残すものである。
戦後の日本映画史に燦然と輝く傑作の脚本を数多く執筆した笠原和夫(かさはら・かずお、1927年~2002年)と彼の間には、決して直接交わることのなかった平行線のような、しかし確実な精神的共鳴が存在している。
彼らは共に海軍特別幹部練習生として志願し、特攻という絶対的な死の命令を前にして、青春のすべてを不条理な暴力に奪われた同世代の若者であった。
笠原は、吉田喜重の『戒厳令』で、北一輝が処刑される寸前、「陛下の万歳を三唱するか」と問われて、「私は死ぬ前に冗談を云わないことにしている」と答えた場面を引き、すべての登場人物の設定とその台詞は、この一瞬の劇的飛翔のために用意されている、と書く。(P.124「「仁義なき戦い」との接点」)
笠原が、映画監督の吉田喜重(よしだ・よししげ/きじゅう、1933年~2022年)の作品において、思想家の北一輝(きた・いっき、1883年~1937年)が処刑直前に発したこの沈黙の美学を高く評価したという事実は非常に興味深い。
死という究極の恐怖を前にして、一切の言い訳や未練を断ち切り、ただ静寂の中に自己の尊厳を保つことの崇高さに、戦争を生き延びた者だけが共有できる感覚がある。
彼の代表作である『落日燃ゆ』において、東京裁判で死刑判決を受けた広田弘毅(ひろた・こうき、1878年~1948年)が、最後まで沈黙を貫いて処刑台へと向かうあの圧倒的な描写もまた、これと完全に軌を一にするものである。
また最期の場面には似通った描写もあり、笠原和夫のこの発言、あるいは吉田喜重の作品の影響が感じられる。
知の集積地での劇的な邂逅と永遠の喪失
人生における決定的な出会いというものは、常に予測不可能な偶然の連続によってもたらされ、まるで周到に計算された物語のように展開していく。
膨大な郷土史の資料を読み解き、幕末以降の名古屋の経済人の足跡を追っていた若き日の彼にとって、図書館は唯一の心の聖域であり、知の探求のための静かな戦場であった。
卒業したら出身地の名古屋でできる特殊な研究をしようと思っていた城山は、幕末以降の名古屋の経済人の記録を調べに、暇を見つけては地元の図書館に通っていた。それで、ある時、名古屋公共図書館で彼女に出会う。臨時休館で同じように立ちすくむ彼女が「読書に明け暮れていた」城山の眼には「一瞬天使でも舞い降りた感じ」に見えた。(P.138「夫人が泣いた「生命の歌」」)
臨時休館という予期せぬ出来事によって立ちすくんでいた彼の前に、同じように本を求めてやってきた一人の少女が現れた瞬間の描写は、あまりにも純粋で美しい。
当時、大学の学生であった22歳の彼と、まだ高校生であった18歳の夫人となる容子(ようこ、1931年~2000年)との出会いは、運命という言葉以外では説明のつかない奇跡的な確率の上に成り立っている。
アルトン・グレン・ミラー(Alton Glenn Miller、1904年~1944年)が奏でる優雅なスウィング・ジャズの旋律を背景に、映画館で『グレン・ミラー物語』を観て過ごしたささやかな時間。
そして、大学を卒業して名古屋に戻った後、友人とともに訪れたダンスホールでの予期せぬ再会と、そこから紡がれていった二人だけの静かな歴史。
二人の間に交わされた言葉や感情の機微は、どんなに優れた恋愛小説にも勝るほどの魅力に満ちており、読む者の心を温かく包み込んでくれる。
しかし、この美しくも切ないエピソードの終着点には、愛する妻を癌という残酷な病によって失うという避けられない悲劇が待ち受けており、深い悲しみを誘う。
喪失の痛みを抱えながら、愛する者の記憶を胸に刻んで執筆を続けた作家の孤独な背中を思うと、人間の真の強さと愛の深さについて考えさせられずにはいられない。
硬質な物語に潜む繊細な詩人の魂
企業社会の熾烈な権力闘争や、経済の冷酷なメカニズムを冷徹な筆致で描き続けた彼の内側に、極めて繊細で叙情的な詩人の魂が宿っていたという事実は、新鮮な驚きを与える。
城山三郎の好きな天野忠という詩人がいる。(P.146「原基としての父親」)
彼が天野忠(あまの・ただし、1909年~1993年)という、市井の生活者の哀歓を静かに詠い上げた詩人を深く愛好していたことは、その文学的感性の根源を探る上で重要な手がかりとなる。
組織の論理に押し潰されそうになる個人の苦悩や、高度経済成長の影で忘れ去られていく人々の悲哀を描くとき、彼の文章の底流には常に詩的なリズムと深い哀惜の念が流れている。
彼自身もまた、言葉の極限まで無駄を削ぎ落とした詩作を試みており、その研ぎ澄まされた感性は散文の世界にも見事に昇華されているのである。
興味深いことに、名古屋という土地は、ハードボイルドの巨匠である大沢在昌(おおさわ・ありまさ、1956年~)や、工学的な論理構築を得意とするミステリー作家の森博嗣(もり・ひろし、1957年~)のように、独自の詩情を忍ばせる優れた作家たちを輩出している。
大沢在昌は最初は詩人になろうと思っていたというし、森博嗣は詩を読むのが好きであり、また詩集も出している。
緻密な現実認識に基づく論理的な骨格と、人間の内面をすくい上げる抽象的な詩の精神は、決して相反するものではなく、優れた文学を生み出すための不可欠な要素なのだ。
冷たい数字や理論だけでは語り尽くせない人間の業と悲哀を表現するために、彼は誰よりも鋭敏な詩人の眼差しを必要としていたのである。
合理性と情念の歴史的評価の交錯
人間の類型を「情報人間」と「倫理人間」に分類する彼の人間観察は、複雑化する現代の組織経営において、リーダーの資質を問うための極めて有効な分析装置となる。
純粋な理想主義に燃え、不都合な現実の情報を遮断して自らの倫理観だけで突撃していく人間は、一見すると美しく、大衆の熱狂的な支持を集めやすい。
城山は「情報人間」と「倫理人間」というタイプ分けをし、情報を遮断して飛んでしまう倫理人間より、情報人間を高く評価するのである。(P.185「つまずいた人に惹かれる」)
しかし、彼が真に評価し、その生き様に惹かれたのは、膨大な情報の海の中で泥まみれになりながら最適解を模索し、時には自らの手を汚してでも現実の課題を解決しようとする情報人間の方であった。
明治維新という日本史上最大のパラダイムシフトにおいて、西郷隆盛(さいごう・たかもり、1828年~1877年)の純粋な動機と悲劇的な最期が、多くの人々の心を捉えて離さないことは紛れもない事実である。
だが、近代国家としての確固たるインフラを整備し、冷徹な実務能力によって日本の資本主義の基礎を築き上げたのは、大久保利通(おおくぼ・としみち、1830年~1878年)の卓越した設計能力に他ならない。
現代の苛烈なビジネス環境において、数学的な確率論と緻密な消費者心理の分析を駆使するマーケターの森岡毅(もりおか・つよし、1968年~)が、大久保利通の合理的な組織運営能力を高く評価していることも、この洞察の鋭さを裏付ける見事な証左である。
歴史を動かし、社会を実質的に豊かにするのは、一時の感情的な熱狂ではなく、冷静な情報の分析と冷酷なまでの実行力を兼ね備えた実務家の泥臭い努力なのである。
彼は、華やかな表舞台で散っていく英雄よりも、批判を浴びながらも地道に国家の土台を構築していった不器用な人間たちの孤独な戦いに、深い共感と敬意を抱いていたのだ。
既存の権威への違和感と異端への共鳴
文学の評価というものは、時代精神や個人の感性によって大きく揺れ動くものであり、誰もが認める絶対的な基準などというものは存在しない。
同時代を生き抜き、綿密な取材に基づく記録文学の分野で金字塔を打ち立てた吉村昭(よしむら・あきら、1927年~2006年)との対談の中で明かされた、彼らの文学的嗜好の告白は非常にスリリングである。
近代日本文学の最高権威とも言える大作家の作品に対して、率直な違和感を表明できる背景には、既存の価値観に決して阿ることのない、徹底した個の独立精神がある。
ちなみに同じ年の吉村昭との対談では城山は、梶井基次郎が好きで「夏目漱石のよさがわからない」ところが自分たちは似ている、と語っている。(P.197「「横光利一は田舎者です」」)
国民的な大作家として神格化されている夏目漱石(なつめ・そうせき、1867年~1916年)が描く、知識人の観念的な苦悩や特権階級的な自意識の過剰さに対して、私もまた完全には没入しきれない違和感を抱えており、この告白には深い共感を覚えた。
彼らが教養主義的な文学の代わりに深い共鳴を寄せたのが、結核という死の影に怯えながら、独自の鋭敏な感覚世界を私小説的に描き出した梶井基次郎(かじい・もとじろう、1901年~1932年)であったという事実は非常に興味深い。
理路整然とした物語の構築や道徳的な教訓よりも、一瞬の感覚のきらめきや、生のエネルギーの爆発的な表現に文学の真髄を見出そうとするその姿勢は、彼らの内なる反骨精神の表れであろう。
社会の底辺でうごめく人間の情念や、死と隣り合わせの極限状況における命の輝きを描こうとした彼らにとって、安全な書斎で紡がれる知識人の悩みは、あまりにも現実味を欠いたものに映ったのかもしれない。
個性的で強烈な自我を持った人間の内面にこそ、そして予定調和を破壊するような異端の文学の中にこそ、彼は真の芸術の命脈を感じ取っていたに違いない。
情報の真価を見極めるための哲学
インターネットの爆発的な普及により、我々はかつてないほど膨大な情報に常時接続され、絶え間ないデータの奔流に飲み込まれそうになる社会を生きている。
情報の伝達速度が飛躍的に向上したことと引き換えに、我々は情報の真偽を確かめる時間を奪われ、常に扇情的なヘッドラインに感情を振り回される危険に晒されている。
高度情報化社会の到来を予見していたかのような彼の情報に対する哲学は、フェイクニュースが蔓延する現代を生きる我々にとって極めて実践的な教訓を含んでいる。
「<前略>。情報は、ある程度時間を置けば正しいものになっていく。スピードじゃないと思うんですよ。僕が作家だからということもありますが、情報はできるだけ正確なものを取るべきで、あわてて取ることはないと思います」(P.205「情報に振りまわされないために」)
情報の真の価値は、そのスピードの速さではなく、時間の試練に耐えうるだけの客観的な正確さと、発信者の責任感に裏打ちされた真実味によってのみ決まるのである。
無駄な情報に感情を波立たせず、静かに真理を見極めようとする彼の姿勢は、情報リテラシーの究極の形であり、我々が見習うべき知的態度である。
彼が『わたしの情報日記』の中で記した、真に価値ある情報についての以下のような深い思索も素晴らしい。
「心をこめて書かれた記事は、時間が経てば経つほど、くさり行く記事群の中で荒野の星のように光を増して行く」(P.207「情報に振りまわされないために」)
価値のない粗悪な情報は、消費されるそばから急速に腐敗し、歴史の闇へと無惨に消え去っていく運命にある。
限られた時間と認知資源の中で、何を吸収し、何を捨てるべきかを見極めることは、現代における最も重要な生存戦略の一つである。
情報過多の時代において真の知性を保つためには、戦略的に情報を遮断し、あえてやらないことを決めるという経営学的なリソース管理の思考が不可欠なのである。
まとめ:激動の時代を駆け抜けた魂の記録として
佐高信の鋭利な批評眼と、ノンフィクション作家である澤地久枝(さわち・ひさえ、1930年~)による深い時代認識に基づく解説によって立体的に構成された本書は、比類なき作家の全貌を見事に描き出している。
国家の存亡を賭けた戦争という巨大な狂気の渦の中で、純粋な青年がどのようにして時代という怪物に飲み込まれ、そしていかにしてそこから自己を再構築していったのか。
海軍という逃げ場のない組織の内部で経験した理不尽な暴力と深い幻滅は、彼の魂に回復不能な傷を負わせたが、同時にそれは現実を直視するための研ぎ澄まされた刃となった。
彼はその絶望の淵に沈むことなく、言葉という武器を用いて巨大な権力や組織の不条理と闘い続け、経済小説という未踏の領域を一人で切り拓いていったのである。
彼が丹念な取材の果てに描き出した昭和という時代は、決してノスタルジックな美しい思い出などではなく、血と汗と欲望にまみれた生々しい人間の戦場そのものであった。
その戦場の只中で、時代の歯車にすり潰されそうになる弱き者や、誠実に生きようとしてつまずいた者への温かい眼差しを、彼は生涯失うことがなかった。
歴史の波に翻弄されながらも、最後まで自己の信念を貫き通したこの孤独な作家の生き様は、読む者の心に消えない強い余韻を残す。
情報が溢れ、価値観が多様化する現代社会において、己を失わずに生き抜くための確固たる羅針盤として、本書は計り知れない価値を持っているのである。
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