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神川武利『大警視・川路利良 日本の警察を創った男』要約・感想

神川武利『大警視・川路利良 日本の警察を創った男』表紙

  1. 明治維新後の混沌の中で警察の創設
  2. 欧州視察に基づく制度設計
  3. 厳格なリーダーシップで組織を強化
  4. 国家への献身と非情な決断

神川武利の略歴・経歴

神川武利(かみかわ・たけとし、1932年~)
作家。元警察官。
広島県の出身。広島大学政経学部を卒業。警察庁に入庁、鹿児島県警察本部長などを歴任して退官。歴史小説を執筆。

川路利良の略歴・経歴

川路利良(かわじ・としよし、1834年~1879年)
警察官、陸軍軍人。日本の警察の創設者。「日本警察の父」とも呼ばれる。
鹿児島県鹿児島市の出身。禁門の変や戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦い、上野戦争に参戦。
司法省の西欧視察団8名の一員として欧州各国の警察を視察。
1874年、警視庁創設に伴い満40歳で初代大警視(現在の警視総監)に就任。
陸軍少将を兼任し、別働第三旅団司令長官として西南戦争に参戦。

『大警視・川路利良 日本の警察を創った男』の目次

第一章   赤坂喰違事件と警視庁創設
第二章   身分低く貧しい生まれの中で文武に励む
第三章   生麦事件と薩英戦争
第四章   蛤御門の変
第五章   江戸の捕物帳
第六章   血風すさぶ鳥羽、伏見
第七章   川路のだらり睾丸
第八章   東京府大属
第九章   棒を持った邏卒
第十章   パリの明治人
第十一章  警察制度改革の建議書
第十二章  征韓論の余波
第十三章  不眠不休の大警視
第十四章  『警察手眼』
第十五章  佐賀の乱と地方官会議
第十六章  高橋お伝の事件と監獄
第十七章  熊本神風連
第十八章  萩の乱と思案橋事件
第十九章  鹿児島私学校党の挙兵
第二十章  田原坂の抜刀隊
第二十一章 旅団司令長官
第二十二章 紀尾井坂事件とその後
あとがき
「川路利良」関係年表
参考文献
付録『警察手眼』

『大警視・川路利良 日本の警察を創った男』の概要・内容

2003年2月10日に第一刷が発行。PHP研究所。326ページ。

電子書籍は、2018年3月27日に発行。

『大警視・川路利良 日本の警察を創った男』の要約・感想

  • 明治維新直後の混沌と警察の夜明け
  • 欧州で見た近代警察と川路の理想
  • 初代大警視・川路利良のリーダーシップ
  • 西南戦争と川路利良の非情なる決断
  • 「警察の父」が現代に遺した功績
  • まとめ:今こそ読みたい『大警視・川路利良』

日本の警察は、いつ、誰によって、どのようにつくられたのか。

この問いに明確に答えられる人は、そう多くないかもしれない。

本書、神川武利(かみかわ・たけとし、1932年~)が著した『大警視・川路利良 日本の警察を創った男』は、その核心に迫る一冊である。

主人公は、川路利良(かわじ・としよし、1834年~1879年)。

薩摩藩の貧しい家に生まれながら、激動の幕末を駆け抜け、明治新政府において初代大警視(現在の警視総監)に就任し、近代日本の警察制度をゼロから創り上げた男だ。

この記事では、川路利良という一人の傑出した人物の生涯を追いながら、彼が何を考え、何と戦い、未来に何を遺そうとしたのかを解き明かしていく。

それは単なる歴史の解説ではない。

組織とは何か、リーダーの条件とは何か、そして国家の礎を築くとはどういうことか。

現代を生きる我々にとっても、示唆に富む多くの学びがここにはある。

明治維新直後の混沌と警察の夜明け

明治維新が成り、新しい時代が始まった。しかし、その光の裏では深い影が広がっていた。

江戸が東京と名を変えても、人々の暮らしがすぐに安定したわけではない。むしろ、旧幕府の下で保たれていた秩序は崩壊し、治安は悪化の一途をたどっていた。

当時の世相は、まさに混沌としていた。

仕事を失った武士や、時代の変化に乗じて悪事を働く者たちが横行し、人々は不安な日々を送っていたのである。

新政府にとって、帝都東京の治安回復は喫緊の課題だった。

政府は当初、各藩に兵を出させて警備にあたらせようとした。

しかし、各藩は自藩の有能な人材を差し出すことを渋り、代わりに浪人や素行の悪い者たちを送り込む始末。

これでは治安が良くなるはずもなく、むしろ悪化させる結果となった。

当然、この状況を憂慮したのが、政治家や知識人たち。

中でも、早くから西欧文明に触れていた福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち、1835年~1901年)は、近代国家における警察の重要性を深く認識していた一人である。

政府の参議であった広沢真臣(ひろさわ・さねおみ、1834年~1871年)から相談を受けた福沢は、その知見を活かし、西欧各国の警察制度をまとめた解説書を執筆する。

こうして明治四年の春、福沢は西欧の警察概要を『取締の法』としてまとめた。(No.1346「第八章 東京府大属」)

この『取締の法』は、フランス、イギリス、アメリカの三国の警察について、その歴史と現状を紹介するものであった。

福沢は特に、中央集権的で強力な権限を持つフランスの警察制度を高く評価し、日本が導入すべきモデルとして推奨した。

一見すると、これは純粋な国家的貢献に見えるが、福沢には慶應義塾を三田へ移転させるための便宜を得たいという思惑もあったというから、人間臭くて面白い。

そして、この新しい警察制度の創設を強力に推進したのが、薩摩の巨星、西郷隆盛(さいごう・たかもり、1828年~1877年)であった。

西郷隆盛は、日本警察の創唱者であった。(P.1373「第九章 棒を持った邏卒」)

西郷は、帝都の惨状を目の当たりにし、新政府にふさわしい警察制度の確立が急務であると考えていた。

彼はすぐさま盟友である大久保利通(おおくぼ・としみち、1830年~1878年)にその構想を打ち明ける。

大久保も即座に賛同し、政府高官の岩倉具視(いわくら・ともみ、1825年~1883年)に話を通した。

西郷は帝都不安の現状をみて、一日もすみやかに明治新政府にふさわしい警察制度をつくることを考えていた。大久保は、すぐに賛成して、即日これを参議の上席である岩倉具視にはかった。岩倉は熟考のうえ、翌々日の八月七日、大久保の宅に来て、ポリス制度を施行することは賛成であることを伝えた。こうして、ポリス即ち邏卒を置くことが、とんとん拍子にすすんだ。(No.1379「第九章 棒を持った邏卒」)

西郷から大久保、そして岩倉へ。

この迅速な意思決定こそ、維新期の日本が持つダイナミズムの象徴であった。

こうして、「邏卒(らそつ)」と呼ばれる、棒を持った警察官が東京の街に配置されることになったのである。

そして、この新しい組織を率いる人物として白羽の矢が立ったのが、同じ薩摩出身の川路利良であった。

わが国では古代、大和朝廷の時代、衛門府(宮廷の警備を司る府)に隼人司がおかれていた。薩摩の「ハヤヒト」(隼人)と呼ばれる勇猛にして迅速で、翔ぶような行動力のある者たちが、朝廷に交代で仕えて警固の任にあたっていた(外国でも宮廷の警備に代々特定の部族を用いた例がみられる)。(No.1393「第九章 棒を持った邏卒」)

古代より警護の任を担ってきた「隼人」の地、薩摩。

その血を受け継ぐ川路が、近代日本の警察を創るという大任を担うことになるのは、ある種の必然だったのかもしれない。

このような歴史的な経緯などを踏まえるのも面白い。

欧州で見た近代警察と川路の理想

邏卒制度が発足したものの、それはまだ場当たり的な対応に過ぎなかった。

本格的な警察制度を構築するため、明治政府は司法省の西欧視察団を派遣する。

川路利良もその一員に選ばれ、未知なる先進国の実態をその目で確かめるべく、長い船旅に出た。

当時の人々にとって、外国へ渡ることは命がけの冒険であり、故郷を離れることへの寂寥感は計り知れないものがあった。

視察団に同行した文人、成島柳北(なるしま・りゅうほく、1837年~1884年)は、その日誌『航西日乗』に、日本を離れる際の心情をこう記している。

日向、薩摩に近き海路を航す。開聞岳を望む。富岳に彷徨たり。此山を失えば全く本邦の地を離るるをもって、衆、皆悵然として回顧する久し。(No.1524「第十章 パリの明治人」)

薩摩の開聞岳が見えなくなったとき、いよいよ日本を離れるのだと、誰もが名残惜しそうに振り返っていた。

その視線の先には、自分たちがこれから築き上げるべき新しい国家の未来が託されていた。

約1年にわたる視察で、川路はヨーロッパ各国の警察、司法、監獄の制度を精力的に見て回った。

特に彼が感銘を受けたのが、福沢諭吉も推奨したフランスの警察制度であった。

パリの街の隅々にまで警察の目が行き届き、市民の安全を守っている姿は、川路にとってまさに理想の光景に映った。

帰国した川路は、この視察で得た知見を基に、日本の国情に合わせた警察制度改革の建議書を政府に提出する。

この建議書こそが、現代にまで続く日本の警察組織の設計図となったのである。

その中で川路が重視したのが、「行政警察」と「司法警察」という二つの概念であった。

司法警察とは、犯罪捜査や被疑者の逮捕といった刑事裁判をおこなうための準備、手続などを目的とする活動であり、現在の日本の警察では司法警察が主流であるように考えられている。行政警察とは、犯罪の発生を未然に防ぐことを目的とした活動で、昭和二十年以前の警察にはこの行政警察面に広範な権限が与えられていた。例えば、出版物に対する検閲や発禁処分、予防検束などである。(No.1798「第十一章 警察制度改革の建議書」)

簡単に言えば、「司法警察」は事件が起きた後に犯人を捕まえる活動であり、「行政警察」は事件が起きる前にそれを防ぐ活動である。

川路が手本としたフランスやドイツといった大陸法の国々では、この「行政警察」の役割が非常に重視されていた。

現代の日本では、第二次世界大戦後に英米法の影響を強く受けた結果、個人の人権を尊重する観点から行政警察的な活動は大きく制限されている。

しかし、驚くべきことに、本家フランスでは今もなお、この行政警察が力強く機能しているという。

フランスは、川路が手本にした警察の先進国であるが、現在でも行政警察はちゃんと生きている。人権概念発祥の地でありながら、犯罪を侵すおそれがあるというだけで、いまだ犯罪をおこしていなくても、予防拘束しているのである。フランスでは当然のように行政警察権が行使されている。(No.1815「第十一章 警察制度改革の建議書」)

人権思想発祥の地であるフランスが、犯罪予防のためには個人の自由を一定程度制限することを許容している。

この事実は、「個人の自由」と「社会の安全」という、決して簡単には答えの出ない普遍的な問いを我々に突きつける。

川路は、この二つのバランスをどう取るべきか、欧州の地で深く思索したに違いない。

彼の建議は、当時の司法卿であった江藤新平(えとう・しんぺい、1834年~1874年)によって高く評価され、採用されることとなる。

しかし、この江藤という人物、非常に頭脳明晰で実行力もあったが、その鋭すぎる気性が災いすることもあった。

実業家の渋沢栄一(しぶさわ・えいいち、1840年~1931年)は、江藤を的確に見抜いていた。

「江藤はきれ者だが、鋭気があり過ぎて中庸を欠く。言論もしくは立案の雄であっても、台閣に列して政情を安定させていく人ではない」(No.1864「第十一章 警察制度改革の建議書」)

渋沢の慧眼恐るべしである。

事実、江藤は後に政府と対立し、佐賀の乱を率いて非業の死を遂げることになる。

激動の時代は、有能な人材をも容赦なく飲み込んでいった。

初代大警視・川路利良のリーダーシップ

川路利良の建議に基づき、ついに日本の近代警察がその産声を上げる。

明治七年(一八七四年)一月十五日、この日が警視庁創設の日である。(No.50「第一章 赤坂喰違事件と警視庁創設」)

明治維新からわずか6年後。

この日、内務省のもとに首都東京の治安を専門に担う「警視庁」が創設された。

そして、そのトップである初代大警視に、満40歳の川路利良が任命されたのである。

大警視としての川路は、まさに不眠不休で職務に邁進した。

彼の住まいは東京の下谷龍泉寺町にあり、その広大な屋敷の一部は、現在の警視庁下谷警察署の敷地となっている。

現在の警視庁下谷警察署(現在の台東区龍泉町)はその時の川路宅の一部である。警察署の一隅には、警察の父川路をたたえた碑(川路大警視邸跡記念碑)がある。没後百年祭(一九八〇年)を記念したもので、それによると、川路は「明治のはじめ龍泉寺町よりこの地に及ぶ広大な邸宅を構える。面積一万五千坪にして池沼あり、鴨猟など催されたる由、爾来子孫益々栄え、昭和三十一年までこの地に連綿たり」とある。(No.1936「第十二章 征韓論の余波」)

一万五千坪という広大な敷地は、彼が政府内でいかに重要な地位にあったかを物語っている。

機会があれば、ぜひこの記念碑を訪れ、警察の父と呼ばれた男の息吹を感じてみたいものだ。

川路は、警察組織のリーダーとして、部下に対しては極めて厳格な姿勢で臨んだ。

特に規律を乱す者には、一切の情けをかけなかった。

ある時、津川顕蔵という上級幹部の同僚が酒に酔い、芸妓を巡査の合宿所に連れ込んで問題を起こした。

この報告を受けた川路は、津川を呼び出し、静かに、しかし毅然としてこう言い放ったという。

「私がお前を処罰するのではない。警察の規律がお前を処罰するのだ」(No.2162「第十三章 不眠不休の大警視」)

個人的な感情で罰するのではない。

組織のルール、すなわち「規律」が罰するのだ、と。

これは、私情を挟まず、公平無私に組織を運営するという川路の強い意志の表れである。

リーダーたる者、時に非情とも思える決断を下さなければならない。

その覚悟が、この一言に凝縮されている。

彼の思想は、自ら執筆した警察官のための教科書『警察手眼』にも色濃く反映されている。

この本は、警察官としての心構えから具体的な捜査手法までを網羅した、日本初の警察教本であった。

その中で、川路は精神論についても触れている。

「人の不平心は、身を害し、或いは世の禍となる」
――不平不満などいわないで、黙々と勤務に励め。そうでないと精神衛生にも悪い。(No.2349「第十四章 『警察手眼』」)

不平不満を口にすることは、自身の心身を損なうだけでなく、世の中に災いをもたらす原因にもなる。

現代の感覚からすれば、やや厳しい精神論に聞こえるかもしれない。

しかし、これは単に不満を我慢しろということではないだろう。

抱いた不満や問題意識は、それを解消するための具体的な行動、すなわち「勤務」にぶつけることで昇華させよ、というメッセージだと解釈できる。

そうでなければ、たしかに精神衛生上良くないのは、今も昔も変わらない真理である。

川路利良という人物の功績を辿る品々は、現在、警視庁の庁舎内にある参考室や、京橋の警察博物館に展示されているという。

日本のポリスを創った、明治の一大先覚者川路利良ゆかりの品々は、警視庁庁舎二階の参考室に展示されている(希望者は参観できる。別に京橋の警察博物館にも川路の展示品がある)。(No.44「第一章 赤坂喰違事件と警視庁創設」)

彼が遺したものを直接目にすることで、その人物像や時代の空気感をより深く理解できるに違いない。

これもまた、近いうちに訪れてみたい場所の一つである。

西南戦争と川路利良の非情なる決断

警視庁が創設された1874年(明治7年)頃は、日本にとって激動の時代であった。

前年の明治六年政変では、朝鮮への使節派遣を巡る「征韓論」が激化し、政府は分裂。

西郷隆盛や江藤新平らが政府を去り、下野した。

この出来事は、川路利良にとって人生最大の試練であったに違いない。

西郷隆盛は、彼を警察の世界に導いた恩人であり、同じ薩摩出身の敬愛する先輩であった。

その西郷が政府と袂を分かったのである。

多くの薩摩出身者が西郷に従って職を辞す中、川路は東京に留まり、大警視としての職務を全うする道を選んだ。

その時の彼の心中は、察するに余りある。

しかし、川路は私情を乗り越え、公人としての道を選んだ。

「私情まことに忍びがたいが、国家行政の活動は一日として休むことは許されない。大義の前に私情を捨て、あくまで警察に献身する」(No.4039「あとがき」)

国家の安寧という「大義」の前には、個人の感情は捨てなければならない。

この凄まじいまでの決断力と自己犠牲の精神こそが、川路利良を「日本警察の父」たらしめた根源であった。

西郷の下野後、不平を持つ士族による反乱が全国で相次ぐ。

明治7年の佐賀の乱、1876年(明治9年)の熊本神風連の乱、萩の乱。

川路率いる警視庁の警察官たちは、これらの鎮圧に奔走した。

そして1877年(明治10年)、ついに最大の内戦である西南戦争が勃発する。

川路は陸軍少将を兼任し、「別働第三旅団司令長官」として、自ら九州の戦地へと赴いた。

かつての恩人である西郷隆盛を、今度は敵として討たねばならない。その運命はあまりにも過酷であった。

この戦争で、警視庁から選抜された警察官たちで編成された「抜刀隊」の活躍は、今も語り草となっている。

彼らは、白刃を煌めかせ、西郷軍の兵士たちと壮絶な斬り合いを演じた。

死を覚悟して戦地に赴く隊員たちの間では、ある行動がみられたという。

戦時の特別手当をつぎ込んで、隊員たちがとても高価な時計をこぞって買ったのは、いずれも形見として遺族に残し、生活の糧にする意味があった。(No.3436「第二十章 田原坂の抜刀隊」)

生きて帰れぬかもしれない。だからこそ、自分が死んだ後、残される家族が少しでも困らないようにと、高価な時計を買い求めた。

その時計に込められた想いを想像すると、胸が締め付けられる。

彼らはまさに、命を懸けて新しい時代を守ろうとしていたのである。

司令長官である川路自身もまた、その覚悟を行動で示していた。

大警視陣中に毛布を着けずの逸話は、川路が諸葛孔明の管理論「将宛」を、重野安繹から学んでいたからではないかと思われる。(No.3587「第二十一章 旅団司令長官」)

多くの部下たちが満足な寝床もなく野原で雑魚寝している。

その状況を知りながら、自分だけが暖かい毛布にくるまって眠ることなどできない。

川路は、畳の上であったとはいえ、靴を枕にして毛布も使わずに寝たという。

食事も、すべての部下に行き渡ったことを確認してから、最後に握り飯を一つ手に取ったと伝えられている。

まさにリーダーの鑑というべき姿である。

戦況は一進一退を続けたが、物量に勝る政府軍が次第に西郷軍を追い詰めていく。

宮崎県延岡の北方で追いつめられた西郷軍は、決死の敵中突破を敢行する。その戦い方は、ある兵法の原理に基づいていた。

「追いつめられたときは、敵の手強いところを、気持の楽なときは、敵の弱点を狙う」
のが兵法の原理という。(No.3712「第二十一章 旅団司令長官」)

絶体絶命の窮地に陥ったときは、あえて敵の最も守りが固い場所を突破する。

関ヶ原の戦いでも、薩摩の島津軍は「島津の退き口」と呼ばれる敵中突破を行なっている。

薩摩の、ある種の伝統芸かもしれない。

これは、敵の意表を突くと同時に、自らの死中に活路を見出すための究極の選択である。

この原理は、ビジネスや人生における様々な局面でも応用できる、普遍的な知恵と言えるかもしれない。

「警察の父」が現代に遺した功績

西南戦争が終結した翌年の1878年(明治11年)5月14日、日本中を震撼させる事件が起きる。

政府の最高実力者であった大久保利通が、東京の紀尾井坂で不平士族によって暗殺されたのだ。

この報に接した川路の衝撃は、いかばかりであったか。

西郷に続き、もう一人の偉大な薩摩の先輩であり、盟友でもあった大久保まで失ってしまった。

しかし、彼は悲しみに暮れている暇はなかった。

大警視として、事件の捜査と事後処理の陣頭指揮を執らなければならなかった。

大久保は暗殺される直前、伊藤博文(いとう・ひろぶみ、1841年~1909年)と大隈重信(おおくま・しげのぶ、1838年~1922年)を前に、これからの国家運営について熱く語っていたという。

大久保は、伊藤博文と大隈重信を前にして、今まで薩摩が独立国の態をなしていたため、決行できないことが多かったが、いまや天下の形勢は一変した。これより、鋭意諸般の改革をすすめたいという意味のことを語った。(No.3744「第二十二章 紀尾井坂事件とその後」)

西南戦争によって、旧薩摩藩という大きな重しが取れた。

これからは、真の近代国家を目指し、あらゆる改革を断行するのだと。

大久保のこの遺志は、伊藤や大隈といった次の世代のリーダーたちに引き継がれていく。

しかし、その後の彼らの人生もまた、大隈は暗殺未遂で右足を失い、伊藤は暗殺されるなど、波乱に満ちたものであった。

明治という時代を生き抜くことは、それほどまでに苛烈だったのである。

川路利良が創り上げた警察制度と、その精神は、多くの優れた警察官たちによって受け継がれていった。

その一人が、佐賀県で「巡査大明神」として今も祀られている増田敬太郎(ますだ・けいたろう、1869年~1895年)巡査である。

「巡査大明神」として今日もなお住民から敬慕されている、佐賀県肥前町の増田神社(高串神社)の祭神増田敬太郎巡査である。(No.1603「第十章 パリの明治人」)

増田巡査は、当時猛威を振るっていたコレラの防疫活動に命がけで従事し、自らも感染して25歳という若さで殉職した。

その自己犠牲の精神に感銘を受けた住民たちが、彼の遺骨を祀って神社を建てたのである。

人々のために尽くし、その命を捧げた警察官が、神として崇められている。

これは、川路が目指した「人民の警察」の一つの理想形と言えるだろう。

ぜひ一度、お参りしてみたい場所である。

警察官の仕事は、いつの時代も危険と隣り合わせである。

それは、現代においても何ら変わらない。

海外へ成田から飛び立つ旅行者は、忘れてしまっているが、成田空港反対闘争の警備においても、尊い犠牲者を多く出した。(No.2899「第十八章 萩の乱と思案橋事件」)

多くの人が当たり前のように利用している成田空港。

その建設を巡る激しい闘争の中で、多くの警察官が負傷し、命を落としたという事実を、我々は忘れがちである。

平和で安全な社会は、こうした名もなき人々の尊い犠牲の上に成り立っていることを、改めて心に刻む必要がある。

川路利良は、西南戦争の激務がたたり、病に倒れる。

そして、大久保利通の死からわずか1年半後の1879年(明治12年)、欧州視察の途上で病状が悪化し、日本に何とか帰国するが数日後に亡くなってしまう。

享年45。

あまりにも早すぎる死であった。

まとめ:今こそ読みたい『大警視・川路利良』

神川武利による『大警視・川路利良 日本の警察を創った男』は、一人の男の生涯を描いた傑作評伝であると同時に、明治という時代の熱量を凝縮した一級の歴史ノンフィクションである。

本書の最大の魅力は、その圧倒的な読みやすさと分かりやすさにある。

複雑な時代背景や人間関係が、実に明快な筆致で描かれており、歴史に詳しくない読者でも、物語に引き込まれるように読み進めることができる。

それでいて、内容は非常に濃密であり、もっと長くても良いと感じるほどであった。

川路利良、西郷隆盛、大久保利通、福沢諭吉、渋沢栄一。

登場するのは、個人の人生だけでなく、国家そのものを背負って生きた巨人たちである。

彼らが何を考え、どのように未来を見据えていたのかを知ることは、現代を生きる我々にとって大きな刺激となる。

特に、本書を読んで大久保利通という人物の凄みを再認識し、彼についてさらに深く知りたくなった。

本書は、歴史好きはもちろんのこと、組織を率いる立場にある人、これから新しい何かを始めようとしている人、そして自らの仕事に誇りを持ちたいと願うすべての人にとって、必読の一冊と言えるだろう。

川路利良が遺した「警察」という巨大な組織。

その原点には、一人の男の揺るぎない信念と、国家への献身、そして未来への熱い想いがあった。

その魂に触れるとき、我々は明日を生きるための確かな力を得られるはずである。

書籍紹介

関連書籍

関連スポット

川路大警視邸跡:下谷警察署の前

東京都台東区下谷にある警視庁下谷警察署の前にある川路大警視邸跡。石碑が建立されている。

公式サイト:下谷警察署

川路利良像:鹿児島県警察本部の前

鹿児島県鹿児島市鴨池新町にある鹿児島県警察本部の前にある川路利良像。

公式サイト:鹿児島県警察

ポリスミュージアム「警察博物館」

東京都中央区京橋にあるポリスミュージアムは、日本警察の歴史的な資料を展示、紹介する施設。警視庁の創設者である川路大警視に関する資料も。

公式サイト:ポリスミュージアム「警察博物館」

警視庁本部見学

東京都千代田霞が関の警視庁本部では、予約制で「ふれあいひろば警視庁教室(映像視聴)」「通信指令センター(110番受理)」「警察参考室(資料展示)」を見学可能。川路利良の愛刀や裃などの展示も。

公式サイト:警視庁本部見学

増田神社:増田敬太郎巡査

増田神社(ますだじんじゃ)は、佐賀県唐津市肥前町高串地区にある神社。警察官を祭神とする日本で唯一の神社。御神体は、増田敬太郎巡査の木像。

公式サイトは特に無い。