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ジェフリー・S・ローゼンタール『それはあくまでも偶然です』要約・感想

ジェフリー・S・ローゼンタール『それはあくまでも偶然です』表紙

  1. 本書は、運や偶然を統計学で解明し、迷信や人生の意味を考察したエッセイ。
  2. 人間は物語欲求から認知の罠に陥りやすいため、確率で現実を直視する必要がある。
  3. 統計学は冷徹に見えても、犯罪予測や事実に基づく判断で命を救う。
  4. 超自然現象は無くても、世界は素晴らしく、統計的思考で人生をより豊かに。

ジェフリー・S・ローゼンタールの略歴・経歴

ジェフリー・S・ローゼンタール(Jeffrey Seth Rosenthal、1967年~)
カナダの統計学者。
カナダのオンタリオ州スカーボロの出身。トロント大学で数学、物理学、コンピュータ・サイエンスの理学士号を取得。ハーバード大学で数学の博士号を取得。

『それはあくまでも偶然です』の目次

第一章 あなたは運を信じていますか?
第二章 ラッキーな話
第三章 運の力
第四章 私が生まれた日
第五章 私たちは魔法好き
第六章 射撃手の運の罠
第七章 運にまつわる話、再び
第八章 ラッキーなニュース
第九章 この上ない類似
第一〇章 ここらでちょっとひと休み――幽霊屋敷の事件
第一一章 運に守られて
第一二章 統計上の運
第一三章 繰り返される運
第一四章 くじの運
第一五章 ラッキーな私
第一六章 ラッキーなスポーツ
第一七章 ラッキーな世論調査
第一八章 ここらでちょっとひと休み――ラッキーなことわざ
第一九章 正義の運
第二〇章 占星術の運
第二一章 精神は物質に優る?
第二二章 運の支配者
第二三章 ラッキーな考察
謝辞
用語集
訳者あとがき
文庫版のための訳者あとがき
解説/石田基広(徳島大学 社会産業理工学研究部教授)
注と情報源

『それはあくまでも偶然です』の概要・内容

2022年8月15日に第一刷が発行。ハヤカワ文庫。552ページ。

副題は「運と迷信の統計学」。

2021年1月に刊行された単行本を文庫化したもの。

原題は『Knock on Wood: Luck, Chance, and the Meaning of Everything』で2018年に刊行されたもの。

監修は、計量言語学、データ分析、Text Miningを専門とする大学教授の石田基広(いしだ・もとひろ、1962年~)。
東京都の出身。1989年、東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程を修了。1991年、東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程を中退。

翻訳は、翻訳家の柴田裕之(しばた・やすし、1959年~)。
東京都の生まれ。早稲田大学、アメリカのアーラム・カレッジ(Earlham College)を卒業。翻訳書に『サピエンス全史』など。

『それはあくまでも偶然です』の要約・感想

  • 人生の荒波を静かに受け入れる知恵
  • 歴史を分けたわずかな雲のいたずら
  • 物語を欲しがる脳が陥る認知の罠
  • 冷徹な数字こそが救える魂がある
  • 願望という霧を晴らして事実を見る
  • 運の計算式と二項分布の魔法
  • 自ら幸運をたぐり寄せるための作法
  • 信仰の有無が慈善活動に与える影響
  • 超自然なしでも世界は驚異に満ちている
  • 物語を欲する本能を自覚するということ
  • 偶然の海を航海するためのコンパス

私たちは日々、数えきれないほどの「偶然」に囲まれて生きている。

朝、たまたま目覚まし時計が鳴る前に目が覚めること。

通勤電車で、たまたま隣に座った人が自分と同じ本を読んでいたこと。

あるいは、たまたま宝くじが当たったり、不運にも事故に遭ったりすること。

こうした出来事を、私たちは「運が良い」とか「縁起が悪い」という言葉で片付けがちである。

しかし、その背後にあるメカニズムを、数学や統計学の視点から冷静に見つめ直したことはあるだろうか。

カナダの統計学者であるジェフリー・S・ローゼンタール(Jeffrey Seth Rosenthal、1967年~)は、著書『それはあくまでも偶然です』において、私たちの人生を支配しているかのように見える「運」の正体を、鮮やかに解き明かしている。

本書の副題は「運と迷信の統計学」である。

2021年に単行本として刊行されたものが、2022年にハヤカワ文庫として装いを新たに登場した。

原題は『Knock on Wood: Luck, Chance, and the Meaning of Everything』

欧米では幸運を祈る際や不吉なことを避けるために木を叩く習慣がある。

そのタイトルの通り、本書は迷信や偶然、そして人生の意味を統計学的に考察する壮大なエッセイとなっている。

ローゼンタールはトロント大学で数学、物理学、コンピュータ・サイエンスを学び、ハーバード大学で数学の博士号を取得した一流の学者である。

そんな彼が、迷信や幸運といった一見すると非科学的なテーマを、これほどまでに平易に、かつ深く論じている点は驚きに値する。

監修を務めたのは石田基広(いしだ・もとひろ、1962年~)。

翻訳は『サピエンス全史』などの翻訳で知られる柴田裕之(しばた・やすし、1959年~)が担当している。

この盤石の布陣によって、専門的な統計学の概念が、血の通った物語として私たちの手元に届けられている。

人生の荒波を静かに受け入れる知恵

本書の導入部である第二章で、ローゼンタールはある有名な祈りの言葉を引用している。

私はこれまでずっと、いわゆる「静穏の祈り」に深い感銘を受けてきた。それは、「自分に変えられないことを静穏に受け入れる力と、変えられることを変える勇気と、両者の違いを知る知恵をお与えください」と神に願う祈りだ。(P.35「第二章:ラッキーな話」)

この「静穏の祈り(Serenity Prayer)」は、アメリカの神学者であるラインホルド・ニーバー(Reinhold Niebuhr、1892年~1971年)によるものとされる。

ローゼンタールは、体調や精神状態が良好なときには、この祈りの通りに生きようと努めているという。

彼がここで強調したいのは、私たちの人生には、自分の意志や努力ではどうにもならない「コントロールできない領域」が確実に存在するということである。

それはランダムな運であったり、予期せぬ自然災害であったり、あるいは遺伝的な要因であったりする。

この「変えられないこと」を無理に変えようと抗うのではなく、統計学的な確率の海に漂う一部として静かに受け入れる姿勢。

そして、自分が介入できる「変えられること」に対しては、勇気を持って取り組む姿勢。

この両者を区別する知恵こそが、統計学的な思考が人生に与えてくれる最大の恩恵なのかもしれない。

運という言葉を「コントロールできないランダムな事象」と置き換えても、この祈りの本質は変わらない。

私たちは、世界のすべてを支配することはできない。

しかし、確率の存在を認めることで、不必要な焦りや後悔から解放され、より健やかに生きることができるのである。

これは、数学という冷徹な学問を極めたローゼンタールが提示する、非常に温かみのある人生哲学だと言える。

歴史を分けたわずかな雲のいたずら

「もし、あのとき雨が降っていなければ」

「もし、あのとき信号が赤でなければ」

歴史の歯車は、しばしば信じられないほど小さな偶然によってその向きを変える。

第三章で語られるエピソードは、私たち日本人にとって決して忘れてはならない、しかし意外にも知られていない事実を含んでいる。

とうとう燃料が少なくなり、敵の迎撃機もやって来たので、小倉の爆撃は中止され、かわりにパイロットは最寄りの第二目標で、一六〇キロメートルほど南西にある長崎の町へ向かった。(P.43「第三章:運の力」)

1945年8月9日、原子爆弾を積んだ爆撃機の第一目標は、長崎ではなく小倉であった。

だが、護衛の戦闘機が一機行方不明になり、合流のために小倉到着が遅れるというトラブルが生じる。

さらに、当日の小倉上空は雲に覆われ、視界が極めて悪かった。

三度も投下コースに入りながらも、雲に遮られて目標を確認できなかったパイロットは、ついに小倉を諦め、第二目標である長崎へと向かったのである。

この歴史的事実は、統計学的に見れば、単なる気象条件のランダムな重なりに過ぎない。

しかし、その結果がもたらしたあまりにも巨大な惨禍を前にして、これを単なる「運」という言葉で片付けることには抵抗を感じるかもしれない。

だが、ローゼンタールはここで善悪の判断を差し挟まない。

起きてしまった出来事は、ランダム性の結果であり、宇宙の気まぐれな揺らぎの一つであると淡々と述べる。

小倉の人々にとっては九死に一生を得た「幸運」であり、長崎の人々にとっては回避不能な「不運」であった。

しかし、そこには神の意志も、個人の責任も介在しない。

世界は、私たちが思う以上に冷徹な確率の原理で作動している。

その事実を直視することは、感情的には困難であっても、論理的には正しい態度なのである。

物語を欲しがる脳が陥る認知の罠

なぜ私たちは、これほどまでに偶然を受け入れられないのだろうか。

第八章では、人類学的な知見を交えて、その理由が考察されている。

オックスフォード大学の人類学准教授であるアレグザンドラ・アルヴァーニェ(Alexandra Alvergne)の言葉を、ローゼンタールは次のように引いている。

私たち人間は、いつもわくわくするような話を好む。目にしたことを、何か意味のあることで説明したがる。そして、目にしたことが偶然やランダム性の結果だという考え方は、どうしても、それほど面白くはない。(P.148「第八章:ラッキーなニュース」)

私たちの脳は、パターン認識の達人である。

何の関係もない二つの事象の間に、強引に因果関係を見つけ出し、一つの「物語」としてパッケージ化することを好む。

「一緒に住んでいる女性たちの月経周期が一致する」という俗説も、その一例である。

上述の発言は、この俗説に対するもの。

実際には統計学的なランダム性で説明がつく現象であっても、私たちはそこに「共鳴」や「絆」といった情緒的な意味を付与したがるのだ。

これは、生存戦略としては有利に働いたのかもしれない。

茂みが揺れたときに「風のせい(ランダム)」と考えるよりも、「肉食獣がいる(意味のある因果)」と考えた個体の方が生き残る確率は高かっただろう。

しかし、複雑化した現代社会において、この「物語愛好性」は危険な認知の歪みを生む。

結論をあらかじめ決めておき、それに都合の良い証拠だけを集めて論理を組み立てる。

あるいは、単なる偶然の重なりを「宿命」と呼んで盲信する。

こうした行為は、私たちの知的判断を曇らせ、誤った道へと導く。

私たちは、自分たちの思考が常に「面白い話」へと流れていこうとする重力を持っていることを自覚しなければならない。

論理的であろうとすることは、この本能的な欲求に抗い、退屈な「確率論」を忍耐強く受け入れることを意味する。

冷徹な数字こそが救える魂がある

統計学や定量分析という言葉を聞くと、どこか冷たい印象を受ける人は多い。

第十一章では、犯罪統計を扱う著者のもとに届いた、ある批評家の厳しい意見が紹介されている。

それは、定量分析は犠牲者の感情を無視した「冷たい」ものであり、何の慰めにもならないという批判であった。

人を慰めるのが定量分析の役割なのだろうか? もしそうなら、どうすれば慰められるのか?(P.203「第一一章:運に守られて」)

ローゼンタールはこの問いに対し、深く沈思する。

確かに、家族を亡くした遺族に向かって、統計学的な確率を説くことは残酷に見えるかもしれない。

しかし、感情的な慰めを与えることだけが、救済の形ではないはずである。

客観的な分析によって犯罪の発生率を予測し、適切な対策を講じることで、将来の犠牲者を一人でも減らすこと。

これもまた、一種の「慰め」であり、救いなのではないか。

定量分析は、個別の悲劇を冷遇するためにあるのではない。

むしろ、個人の感情という主観的なフィルターを外し、社会全体にとっての最善を導き出すためにある。

統計学の役割は、目の前の涙を拭うことではない。

しかし、その涙が流される理由を根本から絶つための地図を提示することはできる。

冷徹な数字の裏側には、実は多くの命を救いたいという静かな情熱が秘められているのである。

私たちは「共感」という情緒的な反応だけでなく、データに基づいた「実効的な慈悲」の価値を認めるべきだろう。

願望という霧を晴らして事実を見る

人生の重大な局面、特に健康や安全に関わる判断を下すとき、私たちの目は往々にして曇ってしまう。

第十二章でローゼンタールが贈る助言は、厳しいが極めて誠実なものである。

耳にした逸話や、事実であってほしいと自分が期待していたり願っていたりすることではなく、事実であると明確に証明されていることに基づいて判断をしてほしい。それであなたの命が助かるかもしれないから。(P.230「第一二章:統計上の運」)

医療現場や経済的な投資、あるいは日常の危機管理において、私たちは「自分だけは大丈夫だ」という根拠のない期待や、「奇跡が起きてほしい」という切実な願望を抱く。

そうした感情を持つこと自体は、人間として自然なことである。

しかし、その願望を「事実」と混同してはならない。

「知り合いの誰かが、この民間療法で治ったと言っていた」という個別具体的なエピソードは、統計学的にはサンプルサイズが1の、信頼性に欠けるデータでしかない。

一方で、数千人を対象とした臨床試験の結果は、退屈で無機質な数字の羅列かもしれないが、生存確率を上げるための最も強力な武器である。

私たちは、自分の期待というレンズを通して現実を歪めて見ていないか、常に自問自答する必要がある。

希望は生きるエネルギーになるが、判断の基準にはなり得ない。

現実をあるがままに見る勇気を持つこと。

そのためには、統計学という「解像度の高い眼鏡」を使いこなす訓練が必要なのである。

運の計算式と二項分布の魔法

統計学が単なる精神論に終わらないのは、そこに数学という強固な土台があるからである。

第十三章では、ある現象が「まぐれ」で起きる確率を算出する具体的な手法が語られる。

これは、「二項分布」を使って計算できる。(P.238「第一三章:繰り返される運」)

二項分布(binomial distribution)とは、成功か失敗かの二択の結果が出る試行を、独立に何度も繰り返したときに、特定の成功回数が得られる確率分布のことである。

例えば、コイン投げで表が出る回数や、ダイスで特定の目が出る確率、あるいは新薬の効果を検証する際の有意性の検定などに広く用いられる。

ここで重要なのは、私たちが「奇跡だ!」と驚くような出来事も、この二項分布の式に当てはめれば、驚くほど高い確率で起こり得ることがわかる点である。

例えば、一人の人間が何度も宝くじに当たる確率は天文学的に低いが、世界中の何十億人という人間が宝くじを買い続けていれば、誰か一人が二回当たることは、統計学的には「必然」に近い確率で発生する。

私たちが目撃する「奇跡」の多くは、単なる試行回数の暴力によって引き起こされた、数学的な帰結に過ぎない。

この事実は、神秘主義を愛する人々を失望させるかもしれない。

しかし、世界の混沌を数式によって整理できるという知的な快感は、宗教的な法悦にも劣らないほど刺激的である。

不確かな「運」を計算可能な「確率」へと還元すること。

それこそが、人類が獲得した最強の魔法なのである。

自ら幸運をたぐり寄せるための作法

さて、ここまで「運はランダムなものだ」と説いてきたが、第十八章では少し異なるニュアンスの知恵が紹介される。

それが、有名な格言「Make your own luck.(運は自分でつかめ)」である。

Make your own luck.(運は自分でつかめ)このことわざは、運は(多くの場合)外からやって来る魔法のような力ではないことを意味する。むしろ、幸運に思えることは、勤勉や周到な計画、適切な用心、苦労して伸ばした技能などの結果である場合が多い。(P.337「第一八章:ここらでちょっとひと休み――ラッキーなことわざ」)

一見すると、これまでの統計学的なランダム性の話と矛盾するように聞こえるかもしれない。

しかし、これもまた確率の観点から説明が可能である。

幸運とは、しばしば「チャンスと準備が重なった瞬間」に生まれる。

試行回数を増やすこと(勤勉)、リスクを最小化すること(用心)、そしてチャンスが来たときに確実にそれを捉える力(技能)。

これらの要素を整えておくことは、数学的に言えば「成功確率 p 」の値を底上げする行為に他ならない。

何もせず、ただ宝くじが当たるのを待つのは、極めて低い確率に身を任せるギャンブルである。

一方で、自らの技能を磨き、多くの機会に挑戦し続けることは、統計学的な期待値を自らの力で最大化する知的な戦略である。

「運も実力のうち」という言葉は、あながち間違いではない。

幸運な人生を送っているように見える人は、実はその裏で、膨大な「下準備」という名の試行を繰り返しているのである。

運という不確かなものを、自分の努力によって「必然」へと近づけていくプロセス。

それこそが、私たちがこの不条理な世界で唯一行使できる主体性なのかもしれない。

信仰の有無が慈善活動に与える影響

私たちはしばしば、宗教や信仰を持つことが道徳的な行動を促進すると信じている。

しかし、第二十二章で紹介される分析結果は、その通念に一石を投じるものである。

それどころか、ある分析の結果によると、もし信徒の組織や宗教団体への寄付を除けば、信仰を持たない人のほうが信仰を持つ人よりも、じつは多くのお金を慈善目的で寄付しているという。(P.441「第二二章:運の支配者」)

これは非常に興味深い指摘である。

特定の信仰を持つ人々は、自分たちのコミュニティ内での助け合いには熱心だが、その外側に対しては必ずしもそうではない場合がある。

一方で、特定の宗教に縛られない人々は、より広い視野で「社会全体にとって何が善か」を考え、純粋な善意に基づいて行動する傾向があるというのだ。

これは、信仰という枠組みが、時として人々の思考を硬直化させ、特定の対象にしか向けられない「限定的な利他主義」を生んでしまう弊害を示唆している。

それに対して、特定の物語を持たない「世俗的な人々」は、よりシンプルで柔軟な倫理観を維持しやすいのかもしれない。

もちろん、これは特定の宗教を否定するものではない。

しかし、「信仰があるから善人である」という単純な因果関係が、統計学的なデータの前では必ずしも成立しないという事実は、私たちが謙虚に受け止めるべき教訓である。

善意とは、特別な教義から生まれるものではなく、人間が本来持っている共感や理性から自然に湧き出してくるものなのだ。

超自然なしでも世界は驚異に満ちている

統計学や確率を突き詰めていくと、世界から神秘性が失われ、無味乾燥なものになってしまうのではないかという懸念を抱く人もいるだろう。

しかし、ローゼンタールはその反対の結論を提示している。

第二十三章の締めくくり近くにある言葉は、深く心に響く。

私たちが暮らす世界は、たとえ超自然的現象が一つもないとしてもなお、すでに喜びと驚異的なもので満ちあふれていると思う。(P.459「第二三章:ラッキーな考察」)

幽霊や神の奇跡、あるいは占星術といった超自然的な説明を持ち出さなくても、私たちの目の前にある現実は、それ自体で十分に魅力的で不思議なものである。

何億年という進化の果てに私たちがここに存在していること。

愛する人と出会い、共に笑い、悲しむこと。

優れた映画や文学に触れて、魂を震わせること。

こうした日常のすべてが、気の遠くなるような確率の連鎖の上に成り立っている「驚異」そのものなのである。

統計学は、世界の輝きを奪うものではない。

むしろ、不確かな迷信の霧を払い、この世界がどれほど精緻で、かつダイナミックな確率のバランスの上に成立しているかを教えてくれる。

「それはあくまでも偶然である」という認識は、絶望ではなく、ある種の解放感をもたらす。

偶然だからこそ、一瞬一瞬がかけがえのないものになり、私たちの人生は誰にも予測できない無限の彩りを持つようになるのである。

物語を欲する本能を自覚するということ

最後に、訳者あとがきに記された重要な洞察に触れておきたい。

私たちはなぜ、これほどまでに思い込みの罠に陥りやすいのか。

私たちは、どうして思い込みや運の罠に陥りやすいのか? 著者によれば、一つには、「人間は、なぜ物事が起こるのかを説明し、その理由を見つけ、何かしら道理にかなったものにしたいという、本能的な欲求を持っている」から。(P.466「訳者あとがき」)

この「本能的な欲求」こそが、私たちが理性的であろうとする際の最大の障壁である。

私たちは退屈な日常に耐えられず、そこに何かしらの意味や重要性、あるいは「宿命」といった特別なレッテルを貼りたがる。

物語は、私たちを安心させ、孤独から救ってくれるからである。

しかし、この本能を自覚することは、自分自身を守るだけでなく、他者とのコミュニケーションにおいても強力な武器となる。

相手がどのような物語を欲しているのか、どのような説明に安心するのか。

それを理解することは、マーケティングや交渉、あるいはリーダーシップの発揮において不可欠な視点である。

人間は論理で動くのではなく、自分が納得できる「物語」で動く生き物なのだ。

私たちは、自分の内側に潜む「物語を欲する自分」を、常に統計学的な冷徹な視点で監視し続けなければならない。

そして、時にはあえてその欲求を利用し、自分や他者の人生をより良い方向へと導く「健全な物語」を紡ぐことも必要だろう。

偶然の海を航海するためのコンパス

本書『それはあくまでも偶然です』を読み解く旅は、膨大なページ数と格闘する時間のかかる作業であった。

内容としては、ローゼンタールの前作に比べてややエッセイ的な色合いが強く、人によっては評価が分かれるかもしれない。

しかし、全体を通してみれば、本書は統計学や確率という武器を、私たちの人生を豊かにするための強力なツールとして提示することに成功している。

特に、著者の母親にまつわるエピソードなどは、数学的な冷静さの中に深い愛情と切なさが滲み出ており、感動を与えてくれる。

私たちは、運という不確かなものに翻弄されるだけの存在ではない。

統計学的な思考というコンパスを手にすれば、このランダム性の荒波を、より冷静に、より賢明に渡り歩くことができる。

自分の期待や願望で現実を歪ませることなく、事実を事実として受け入れる強さを持つこと。

そして、自分が変えられる領域に全力を注ぎ、人生の期待値を高めていくこと。

本書が提示する知恵を有効に活用すれば、私たちの人生は今よりもずっと自由で、豊かなものになるはずである。

それは決して、魔法や奇跡を信じることよりも劣るものではない。

むしろ、目に見える現実を深く理解しようとする意志こそが、真の意味で私たちの人生を輝かせるのである。

統計学の知見を、単なる学問としてではなく、生きていくための「哲学」として昇華させた本書は、これからの時代を生きるすべての人にとって、必読の一冊と言えるだろう。

この長い読書体験が、あなたの人生という名の不確かな航路において、一筋の明かりとなることを願ってやまない。

書籍紹介

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トロント大学トリニティ・カレッジ

トロント大学(University of Toronto)は、カナダのオンタリオ州にあるトロントに本部を置く州立大学。1827年の創立。

公式サイト:トロント大学

ハーバード大学

ハーバード大学(Harvard University)は、アメリカのマサチューセッツ州ケンブリッジにある1636年に創立の私立大学。

公式サイト:ハーバード大学