
- 『人でなしの経済理論』は、経済学のトレードオフの概念を社会問題に適用し、解決策はなく一得一失と論じる。
- 人命の価値を無限大とせず、費用と便益のバランスで現実的に評価し、自動車安全策の例で説明。
- 安全対策がオフセット(相殺)行動を引き起こし、シートベルト義務化が逆に危険な運転を誘発するパラドックスを提示。
- 本書は常識を疑う思考トレーニングを提供し、合理的な視点で世界を理解する「人でなし」のフレームを身につけさせる。
ハロルド・ウィンターの略歴・経歴
ハロルド・ウィンター(Harold M. Winter)
アメリカの経済学者。
ニューヨーク州にあるロチェスター大学を卒業。博士号。
『人でなしの経済理論』の目次
はじめに――ぼくの世界へようこそ
謝辞
1 社会問題へのアプローチ
2 人命の価値っていかほど?
3 取引しようか?
4 おまえのものはオレのもの
5 持っているなら吸ってはいかが
6 人に迷惑をかけないとは?
7 規制と行動の変化
8 警告――製品に注意
9 解決策などない?
訳者あとがき
『人でなしの経済理論』の概要・内容
2009年4月18日に第一刷が発行。バジリコ株式会社。213ページ。ソフトカバー。127mm×188mm。四六判。
副題は「トレードオフの経済学」。
原題は『TRADE-OFFS:An Introduction to Economic Reasoning and Social Issues』で、2005年5月1日に刊行。
2013年2月25日に、セカンド・エディション、2023年9月29日に、サード・エディションが刊行されている。
訳者は、コンサルタント、評論家、翻訳家の山形浩生(やまがた・ひろお、1964年~)。
東京都の生まれ。麻布中学校・高等学校を卒業。東京大学工学部都市工学科を卒業、東京大学大学院工学系研究科都市工学専攻修士課程を経て、野村総合研究所の研究員に。
マサチューセッツ工科大学不動産センター修士課程を修了。
『人でなしの経済理論』の要約・感想
- 書籍の概要―経済学という名の思考ツール
- 「解決策などない」という過激な提言
- 人命の値段―不謹慎な問いへの経済学的回答
- 安全対策が逆に危険を招くパラドックス
- 常識を疑うための思考トレーニング
- 本書から得られる「人でなし」の思考法
『人でなしの経済理論』という、一度見たら忘れられない、実に挑戦的なタイトルの本がある。
経済学と聞くと、数式やグラフが並ぶ難解な学問、あるいは、どこか冷たく人間味のないイメージを抱くかもしれない。
しかし、本書を手に取れば、その印象は根底から覆されることになるだろう。
著者はアメリカの経済学者であるハロルド・ウィンター(Harold M. Winter)。
彼の導きによって、私たちは経済学が単なる数字の遊びではなく、現実の社会問題に鋭く切り込むための強力な「思考のメス」であることを知る。
この記事では、ハロルド・ウィンターが著し、評論家であり翻訳家としても名高い山形浩生(やまがた・ひろお、1964年~)が翻訳した『人でなしの経済理論』のエッセンスを、いくつかの重要な概念と共に深掘りしていく。
本書が提示するのは、心地よい理想論ではない。
むしろ、不都合な真実や厳しい現実を直視させるものだ。
しかし、その先には、感情論に惑わされず、物事の本質を見抜くための知的興奮が待っている。
常識を疑い、より深く世界を理解したいと願う、知的好奇心旺盛なすべての人に、この思考の旅への参加を勧めたい。
書籍の概要―経済学という名の思考ツール
まず、本書の基本的な情報を確認しておこう。
『人でなしの経済理論』は、2009年4月18日にバジリコ株式会社から刊行された。
原題は『TRADE-OFFS: An Introduction to Economic Reasoning and Social Issues』であり、「トレードオフの経済学」という副題が、本書の核心を的確に示している。
著者のハロルド・ウィンターは、ニューヨーク州のロチェスター大学で博士号を取得した経済学者である。
彼の文章は平易でありながら、核心を突く鋭さを持っている。
そして、日本語版の価値を飛躍的に高めているのが、訳者である山形浩生の存在だ。
彼は東京大学大学院、マサチューセッツ工科大学で学んだ経歴を持つ碩学であり、数多くの海外の重要文献を日本に紹介してきた。
彼の翻訳は、原文のニュアンスを損なうことなく、日本の読者にとって最も理解しやすい言葉を選び抜いており、本書の難解になりがちなテーマを、驚くほどスムーズに頭の中へと届けてくれる。
本書は全213ページと比較的コンパクトにまとまっているが、その内容は非常に濃密である。
社会問題へのアプローチから始まり、人命の価値、規制、自己責任といった、答えのない問いに対して、経済学の基本概念である「トレードオフ」を武器に、次々と切り込んでいく。
「解決策などない」という過激な提言
本書の根幹をなす思想は、最終章で紹介されるある言葉に集約されている。
かつてある経済学者が、こんな万能な政策提言を述べるのを聞いたことがある――「解決策などない、あるのはトレードオフだけだ」。(P.192「解決策などない?」)
これは、アメリカの著名な経済学者であるトーマス・ソウェル(Thomas Sowell、1930年~)の言葉である。
彼はノースカロライナ州の貧しい家庭に生まれ、高校中退を経てハーバード大学を卒業、シカゴ大学で経済学の博士号を取得した立志伝中の人物だ。
「解決策はない」とは、なんとも突き放した、絶望的な響きを持つ言葉だろうか。
しかし、ハロルド・ウィンターもトーマス・ソウェルも、決してニヒリズムに陥っているわけではない。
これは、経済学的な思考の出発点を示す、極めて重要な宣言なのである。
トレードオフとは、何かを得るためには、何かを犠牲にしなければならない、という関係性を指す。
日本語では「一得一失」や「二律背反」といった言葉が近いだろう。
この世に「完璧な解決策」など存在しない。
どのような政策や選択にも、必ずプラスの側面(便益)とマイナスの側面(費用)がある。
その両方を天秤にかけ、比較検討することこそが、経済学的なアプローチの神髄なのだ。
たとえば、「環境を守るために、工場の排気ガス規制を強化する」という政策を考えてみよう。
これは一見、誰もが賛成する「正しい」解決策に見える。
便益は明らかだ。
空気はきれいになり、人々の健康は増進し、自然環境は守られる。
しかし、トレードオフの視点を持つと、費用の側面が見えてくる。
規制に対応するため、工場は高価な設備を導入しなければならない。
そのコストは製品の価格に上乗せされ、最終的には消費者が負担することになるかもしれない。
企業の収益が圧迫されれば、従業員の賃金が抑制されたり、最悪の場合、失業者が生まれたりする可能性もある。
規制が厳しすぎれば、企業が海外へ移転し、国内の産業が空洞化するリスクすらある。
つまり、「環境保護」という便益を得るために、「経済的な豊かさ」や「雇用の安定」といった費用を支払っていることになる。
どちらが絶対的に正しいということはない。
問題は、私たちがどれだけの費用を支払って、どれだけの便益を得たいのか、そのバランスをどこに設定するかなのである。
ハロルド・ウィンターは、このトレードオフの考え方を、あらゆる社会問題に適用していく。
それは、私たちの日常的な思い込みや、メディアが垂れ流す単純な善悪二元論に、冷や水を浴びせる行為でもある。
「解決策などない、あるのはトレードオフだけだ」。
この言葉を心に刻むとき、世界はより複雑で、より奥深い姿を現し始めるだろう。
人命の値段―不謹慎な問いへの経済学的回答
トレードオフの思考が最も過激な形で現れるのが、「人命の価値」を巡る議論である。
私たちの社会では、「人の命は地球より重い」「命の価値は無限大である」といった言葉が、倫理的な正しさとして受け入れられている。
しかし、ハロルド・ウィンターは、こうした考え方を一刀両断にする。
すでに述べた通り、人命に無限の価値をおくのはばかげている。もしそんな極端な議論をしたら、自動車の本当にまともな安全策とは、一台も生産しないことになってしまう。(P.31「人命の価値っていかほど?」)
これは、決して彼が冷酷非道な人間であることを意味しない。
むしろ、極めて論理的で、現実的な指摘である。
もし本当に人命の価値が無限大ならば、交通事故による死者を一人でも減らすために、私たちはあらゆるコストを支払わなければならない。
自動車の最高速度を時速10キロに制限し、車体を分厚い装甲で覆い、すべての道路に衝撃吸収材を設置する必要があるだろう。
いや、それでも事故のリスクはゼロにはならない。
ハロルド・ウィンターが言うように、最も確実な安全策は「自動車を一台も生産しないこと」だ。
しかし、私たちはそうしない。
なぜなら、自動車がもたらす「移動の自由」や「経済活動の効率化」といった便益が、交通事故で失われる命のリスクという費用を上回ると、社会全体として暗黙のうちに判断しているからだ。
この「暗黙の判断」こそが、ポイントである。
実は、私たちは日常生活の様々な場面で、無意識のうちに人命のリスクを金銭価値に換算し、トレードオフの計算を行っているのだ。
例えば、より安全性の高い高級車ではなく、手頃な価格の大衆車を選ぶとき。
あるいは、少しでも早く目的地に着くために、安全な鉄道ではなく、事故のリスクが比較的高い自家用車で移動するとき。
高給だが危険を伴う仕事に就くことを選択するとき。
私たちは常に、安全性(=命の価値)と、他の便益(=金銭、時間、利便性)とを天秤にかけている。
政府が公共政策を決定する際、この計算はより明確な形で行われる。
新しい道路を建設する際に、ガードレールを設置するかどうか。
その判断は、「ガードレールの設置費用」と、「それによって防げるであろう交通事故死者の数(×一人当たりの統計上の命の価値)」とを比較することで下される。
ある医薬品を公的保険の適用対象とするかどうかも、「薬の費用」と、「それによって救われる命や改善される健康状態の価値」との比較考量である。
これは、倫理や道徳とは全く別の次元で行われる、極めて合理的な判断プロセスなのだ。
人命に値段を付ける行為は、一見すると不謹慎極まりない。
しかし、その計算を放棄することは、限られた社会の資源(お金、時間、人材)を非効率に使い、結果的により多くの命を救う機会を失うことにつながりかねない。
感情的な理想論を排し、冷徹なまでに費用と便益を分析すること。
それこそが、社会全体として最大の幸福を実現するための「人でなし」の作法なのである。
感情的な理想論を排し、冷徹なまでに費用と便益を分析すること。
それこそが、社会全体として最大の幸福を実現するための「人でなし」の作法なのである。
安全対策が逆に危険を招くパラドックス
経済学が明らかにするのは、単純な費用と便益の比較だけではない。
良かれと思って導入された制度や技術が、人々の行動を予期せぬ方向へ変化させ、意図とは全く逆の結果を生んでしまうことがある。
ハロルド・ウィンターは、その典型的な例として、自動車のシートベルトを挙げる。
この効果はオフセット行動と呼ばれる。シートベルトの持つ技術的な安全性は、ドライバーたちの運転が荒くなるという行動反応によって相殺(オフセット)されるということだ。(P.147「規制と行動の変化」)
シートベルトを着用すれば、事故に遭った際の死亡率や重傷を負う確率が劇的に低下する。
これは紛れもない事実だ。
だから、政府はシートベルトの着用を義務化し、自動車メーカーはより高性能な安全装置を開発してきた。
これで交通事故は減るはずだ、と誰もが考える。
しかし、ここには巧妙な罠が潜んでいる。
経済学では、人間はインセンティブ(誘因)に反応して行動する、と考える。
シートベルトの着用によって、「事故に遭っても大丈夫だ」という安心感が生まれることもある。
これは、ドライバーにとって「より危険な運転をする」というインセンティブとして働く可能性があるのだ。
つまり、シートベルトによって安全性が確保された分、人々は無意識のうちにスピードを上げたり、車間距離を詰めたり、無理な追い越しをしたりするようになる。
その結果、事故の発生件数自体は減らず、場合によっては増えてしまうことさえある。
そして、危険な運転の巻き添えを食うのは、ヘルメットをかぶっていない歩行者や自転車であるかもしれない。
安全面が向上した分、危険性も高まって、「オフセット(相殺)」されてしまう。
これが「オフセット行動」と呼ばれる現象だ。
この考え方は、私たちの身の回りの様々な事象に応用できる、非常に強力な分析ツールである。
例えば、手厚い失業保険制度を考えてみよう。
これは失業者を救済するための、人道的な制度である。
しかし、これもまた人々の行動を変えるインセンティブとなり得る。
「失業しても保険金がもらえる」という安心感が、働く意欲を削ぎ、再就職活動への真剣さを失わせてしまうかもしれない。
これは、制度の本来の目的とは逆の「オフセット行動」だ。
あるいは、火災保険や盗難保険も同様だ。
保険に入っているからという理由で、火の元への注意が散漫になったり、家の戸締りが甘くなったりする。
これもまた、リスクの低下が、リスクを増大させる行動を誘発する例と言えるだろう。
このように、ある問題に対する直接的な解決策が、人間の行動変化というファクターを考慮に入れていない場合、全く効果がないか、むしろ事態を悪化させることすらある。
物事の表面的な効果だけでなく、それが人々のインセンティブをどう変え、結果としてどのような行動(オフセット行動)を引き起こすかまでを予測する。
それこそが、経済学的な思考の深さなのである。
常識を疑うための思考トレーニング
本書が私たちに提供してくれるのは、単なる経済学の知識ではない。
それは、あらゆる物事を多角的に捉え、常識や通説を疑うための「思考の訓練」である。
訳者である山形浩生は、その点を「あとがき」で実に痛快に表現している。
トレードオフを「わかりきったこと」と言う人は、人に親切にするのがいかにろくでもないことかを縦横に論じ、無差別殺人のよい点を十個くらいすぐに並べられなくてはいけないんだけれど、それができる人はなかなかいない。本書は、それができるようにしてくれる(ある程度は)。(P.204「訳者あとがき」)
「人に親切にするのがろくでもないこと」「無差別殺人のよい点」。
常識的に考えれば、あり得ない暴論である。
しかし、本書を読んだ後ならば、この言葉が単なる悪ふざけではなく、知的訓練のための極端な思考実験であることが理解できるはずだ。
これは、ディベートの訓練にも似ている。
あるテーマについて、賛成の立場と反対の立場の両方から、論理的に主張を組み立てる訓練だ。
たとえ自分の本心とは異なる意見であっても、その立場の論理を構築することで、物事を複眼的に見る力が養われる。
例えば、「人に親切にする」という行為の費用(デメリット)を考えてみよう。
時間やお金、労力がかかる。
相手に過剰な期待を抱かせるかもしれない。
お節介だと思われるリスクもある。
自己満足に過ぎない偽善かもしれない。
このように、当たり前だとされている「善」にも、必ずトレードオフとなる費用が存在する。
これは、かつて京都大学で教鞭をとった瀧本哲史(たきもと・てつふみ、1972年~2019年)が、その著書の中で繰り返し説いていたディベート思考の重要性にも通じる。
また数学者である藤原正彦(ふじわら・まさひこ、1943年~)が主張する論理的思考力の限界にも通じるものがある。
どんな物事にも光と影、便益と費用がある。
その両面を冷静に見つめ、感情論や安易な道徳観に流されることなく、自分なりの判断軸を構築すること。
そのためには、時には社会的に「不謹慎」とされるような思考実験に身を投じる勇気も必要だ。
ハロルド・ウィンターの『人でなしの経済理論』は、まさにそのための最高のテキストである。
本書で提示される数々の事例は、私たちの凝り固まった常識を心地よく破壊し、世界をより解像度高く見るための新しい視座を与えてくれるだろう。
本書から得られる「人でなし」の思考法
『人でなしの経済理論』は、経済学の専門家を目指す人でなくとも、多くの知的な刺激と実用的な思考ツールを得られる一冊である。
本書で語られる内容は、時に難しく感じられる部分もあるかもしれない。
しかし、それは扱っているテーマが、私たちの社会が抱える根深い問題そのものであるからだ。
ハロルド・ウィンターの筆致と、山形浩生の巧みな翻訳のおかげで、その複雑なテーマが、驚くほど明快な論理で解き明かされていく。
読み進めるうちに、難解さが知的興奮へと変わっていくのを感じるはずだ。
本書は、単に知識をインプットするための本ではない。
これは、物事を経済学的に考える「思考のフレーム」を、自らの頭脳にインストールするための本である。
一度このフレームを身につけることができれば、ニュースで報じられる政策の裏側や、日常生活に潜む様々な選択の本質が、これまでとは全く違って見えてくるだろう。
世の中の安易な「正義」や「常識」を疑い、論理的な思考力を徹底的に鍛えたいと願う人。
社会問題の複雑な構造を、感情論ではなく合理的な視点から理解したいと考える人。
そして、凡庸な思考から脱却し、一段上のレベルで物事を捉える力を身につけたいと渇望するすべての人に、本書を強く推薦する。
「解決策などない、あるのはトレードオフだけだ」。
この「人でなし」の言葉を羅針盤として、複雑で厄介なこの世界を、より賢く、そして力強く生き抜いていくための知恵が、この一冊には詰まっている。
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