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石寒太『山頭火』要約・感想

石寒太『山頭火』表紙

  1. 山頭火の由来と父親
  2. 波乱に満ちた人生
  3. 山頭火の俳句の魅力
  4. 現代の人々への教訓

石寒太の略歴・経歴

石寒太(いし・かんた、1943年~)
俳人。本名は、石倉昌治。
静岡県田方郡の生まれ。静岡県立韮山高等学校、國學院大學文学部を卒業。1969年「寒雷」入会、加藤楸邨(かとう・しゅうそん、1905年~1993年)に師事。1989年「言葉にも心にも片寄らず、炎のような情熱と人の環を大切にする」をモットーに「炎環」を創刊、主宰。

種田山頭火の略歴・経歴

種田山頭火(たねだ・さんとうか、1882年~1940年)
俳人。本名は、種田正一(たねだ・しょういち)
山口県防府市の出身。松崎尋常高等小学校尋常科、私立周陽学舎(三年制中学。現・山口県立防府高等学校)を卒業、山口尋常中学(現・山口県立山口高等学校)の四年級へ編入し卒業。東京専門学校高等予科を卒業、早稲田大学大学部文学科を中退。

『山頭火』の目次

はじめに
山頭火の生涯 日記でたどる放浪の軌跡
山頭火の俳句 自由律俳句としぐれの系譜
作品鑑賞 人生が読み込まれた三百五十句
種田山頭火略年譜
主な参考文献
文庫版のためのあとがき
山頭火俳句索引
参考図版
種田家家系図
本州・四国行乞図
九州行乞図
自由律俳人の系譜

『山頭火』の概要・内容

1995年4月10日に第一刷が発行。文春文庫。318ページ。

『山頭火』の要約・感想

  • 山頭火の由来は? 父親は?
  • 山頭火の生涯をたどる
  • 山頭火の俳句とその魅力
  • 『山頭火』の読みどころ
  • 山頭火の生き方が現代に教えてくれること
  • 山頭火の人生と俳句を知るための最適な一冊

種田山頭火は、日本を代表する自由律俳人として知られ、その放浪の人生と心象を映し出した俳句は、今なお多くの人々の心を打ちます。

石寒太の著書『山頭火』は、山頭火の生涯や俳句、さらには彼の精神性を丁寧に掘り下げた一冊です。

この記事では、山頭火の人生や代表作、彼の俳句の魅力、そして本書の内容を基に、山頭火の生き方や作品が現代の私たちに何を教えてくれるのかを探ります。

放浪の俳人、山頭火の軌跡をたどりながら、彼の言葉が持つ深い響きを感じてみましょう。

山頭火の由来は? 父親は?

種田山頭火は、山口県防府市に生まれ、自由律俳句の旗手として独自の詩的世界を築いた人物です。

本名は、種田正一。号の山頭火の読み方は「さんとうか」で、この号は彼が放浪の旅の中で自ら名乗ったものです。山頭火の意味と由来については、納音(なっちん)と言われています。

納音は、十二支(じゅうにし)と十干(じっかん)に陰陽五行説となどを組み合わせたもの。諸説ありますが、山頭火は生年などとは関係なく字面や音で「山頭火」に決めようです。

山頭火の父親は、種田竹次郎(たねだ・たけじろう、1856年~1921年)という地元の名士でした。

大地主であり、政治などにも関わり、女性関係も派手だった竹次郎。この結果、心労が重なり母親のフサ(ふさ、1860年~1892年)は自ら死を選んでしまいます。

山頭火の人生は順風満帆とは程遠く、事業の失敗、家庭の不和、さらには酒への依存など、数々の苦難に直面します。

それでも彼は、放浪の旅を通じて自己と向き合い、俳句にその心情を刻みました。

山頭火は何をした人かと言えば、自由律俳句を通じて、人生の悲喜こもごもを表現し、漂泊の詩人として後世に名を残した人物となります。

山頭火の生涯をたどる

山頭火の人生は、幼少期から波乱に満ちたものでした。

ただし勉学に励み、学業では優秀な成績を残します。山口県の名門校で学び、将来を嘱望された若者だったのです。

本書では、彼の青春時代から放浪の旅、そして晩年までが詳細に描かれています。

その後、周陽学舎を首席で卒業し、県下の随一の名門校山口尋常中学の四年級に編入した。この学校は県立中学で、高校への進学率では長く全国トップを保っていた。スパルタ教育でならし、後の、社会思想家河上肇や日産コンツェルン鮎川義介が学び、岸信介・佐藤栄作兄弟などの政治家を輩出するほか、文学では国木田独歩、嘉村礒多、中原中也などが出ている。(P.15「山頭火の生涯」)

社会思想家・河上肇(かわかみ・はじめ、1879年~1946年)や、日産コンツェルンの創始者・鮎川義介(あゆかわ・よしすけ、1880年~1967年)、政治家の岸信介(きし・のぶすけ、1896年~1987年)、佐藤栄作(さとう・えいさく、1901年~1975年)の兄弟など。

文学関連では小説家・国木田独歩(くにきだ・どっぽ、1871年~1908年)、小説家・嘉村礒多(かむら・いそた、1897年~1933年)、詩人・中原中也(なかはら・ちゅうや、1907年~1937年)なども。

山口尋常中学は、錚々たる人物を輩出した名門校でした。山頭火がこのような環境で学んだことは、彼の感受性や文学的素養に影響を与えたのでしょう。

中学を終えた時期に、高田早苗(たかた・さなえ、1860年~1938年)の演説会があり、感銘を受けて、東京専門学校(現在の早稲田大学)高等予科に進学。

高等予科を卒業し、早稲田大学大学部文学科に入学するが後に神経衰弱により退学し、山口の実家に戻ります。

事業の失敗や家庭の破綻、自身の内面的な葛藤から、彼は次第に放浪の道へと歩んでいきます。

1919年には単身上京。1923年の関東大震災の後に熊本へ。

1930年、48歳の時に熊本から新たな旅に出た山頭火は、これまでの日記や手帳を焼き捨て、心機一転を図ります。

旅のあけくれ、かれに触れこれに触れて、うつりゆく心の影をありのままに写さう。私の生涯の記録としてこの行乞記を作る。(P.29「山頭火の生涯」)

この一節は、山頭火の旅の決意を象徴しています。彼の行乞記は、単なる旅行記ではなく、心の動きをそのままに記録した詩的日記です。

この時期、山頭火は宮沢賢治(みやざわ・けんじ、1896年~1933年)の『春と修羅 心象スケッチ』に似た、心象をスケッチするような表現を試みていました。

宮沢賢治と山頭火の直接的な交流は記録されていませんが、同時期に自由な詩的表現を追求していた二人の精神性には、どこか通じるものがあるのかもしれません。

また、1935年の旅では、山頭火の複雑な心情が垣間見えます。

彼は「死場所をさがしつゝ私は行く!」と記しながらも、実際には俳友たちに歓迎され、楽しい時間を過ごしていました。

今回の旅は、孤独な旅ではなかった。あらかじめ各地の俳友たちに手紙で連絡してあったのだ。どこへ行っても大歓迎され、厚いもてなしを受けた。「弁天島へ一路ドライブする。かへりみてブルジョアすぎる。松月旅館に送りこまれて、酒、酒、酒、いよゝゝブルジョアすぎる」(四月二日・浜松)、などと書きながら、また次の地でも、同じことを繰り返した。とても自殺志願者の旅とは、思えない。(P.42「山頭火の生涯」)

この記述からは、山頭火の陽気さと同時に、どこか悲しみを抱えた複雑な心情が伝わります。

著者のユーモラスな指摘も、読者に山頭火の人間らしさを強く印象づけます。彼の旅は、単なる放浪ではなく、自己と向き合い、人々との交流を通じて生きる意味を見出す過程だったのです。

さらに、1939年の四国への旅では、自由律俳人野村朱鱗洞(のむら・しゅりんどう、1893年~1918年)の墓を訪ねる目的がありました。

昭和十四年の九月末日、山頭火は四国に渡るために旅立った。そこには、もうひとつ、ぜひとも詣でておきたい人の墓があったからだ。同じ「層雲」の自由律俳人、野村朱鱗洞である。彼は若くして頭角をあらわし、将来を嘱望されたが、大正七年、二十四歳の若さでこの世を去った。(P.53「山頭火の生涯」)

野村朱鱗洞は、愛媛県松山市小阪の阿扶志墓地に眠っています。

この墓参りは、山頭火にとって、同じ自由律俳句の道を歩んだ先人への敬意を表すとともに、自身の人生を振り返る契機だったのかもしれません。

松山を訪れる際には、こうした歴史的背景を知ると、旅の深みが一層増すでしょう。

山頭火の俳句とその魅力

山頭火の俳句は、自由律俳句の代表として知られ、定型にとらわれない自由な表現が特徴です。

彼の俳句は、日常のささやかな情景や心の揺れを捉え、読者に深い共感を呼び起こします。本書では、山頭火の有名な俳句が数多く紹介され、その背景や解釈が丁寧に解説されています。

山頭火の代表作の一つに、以下のような句があります。

  • 分け入つても分け入つても青い山
  • うしろすがたのしぐれてゆくか
  • まつすぐな道でさみしい

これらの句は、山頭火の放浪の旅や人生の孤独、そして自然との一体感を象徴しています。

特に「分け入つても分け入つても青い山」は、人生の探求や終わりなき旅を表現した名句として広く知られています。山頭火の俳句は、シンプルでありながら深い哲学を内包し、読む者の心に静かに響きます。

本書では、山頭火の旅の精神性が、過去の漂泊詩人たちとどのように繋がっているかが論じられています。

現代人は、何かを得ようとして旅に出るが、芭蕉をはじめとする山頭火ら漂泊者たちは、一切を捨てるところから旅に出立する。捨てることに徹すること、それが芭蕉の旅であり、古人から山頭火につながる旅である。西行・宗祇・芭蕉・山頭火を貫通するもの、それは、世を捨てて、漂泊の旅をした人々の系譜である。(P.93「山頭火の俳句」)

この一節は、山頭火の旅が単なる移動ではなく、自己を捨て、世俗から解放される過程であったことを示しています。

現代の私たちは、旅を通じて何かを「得る」ことを重視しがちですが、山頭火の旅は「捨てる」ことに本質があると著者・石寒太は指摘。

この視点は、物質的な豊かさを追求する現代社会において、生き方を見直すきっかけを与えてくれます。

また、山頭火が自身の俳句の源泉として、松尾芭蕉(まつお・ばしょう、1644年~1694年)や、小林一茶(こばやし・いっさ、1763年~1828年)よりも、八十村路通(やそむら・ろつう、1649年~1738年)や、井上井月(いのうえ・せいげつ、1822年?~1887年)を意識していたことも興味深い点です。

山頭火は「私は芭蕉や一茶のことはあまり考へない。いつも考へるのは路通や井月のことである」(昭和十四年九月十六日)と書いている。(P.99「山頭火の俳句」)

路通や井月は、芭蕉や一茶とは異なる、乞食僧や漂泊者としての生き方をより体現した俳人でした。

山頭火は、彼らの自由で奔放な精神に共感し、自身の俳句にその影響を反映させたのでしょう。このような背景を知ると、山頭火の俳句が持つ独特の味わいがより深く理解できます。

『山頭火』の読みどころ

石寒太の『山頭火』は、山頭火の生涯や俳句だけでなく、自由律俳句の系譜や周辺人物についてもコンパクトにまとめられています。

特に、尾崎放哉(おざき・ほうさい、1885年~1926年)や、野村朱鱗洞といった自由律俳人との関係性も触れられており、自由律俳句の歴史的文脈を理解する上で貴重な情報が提供されています。

本書の「作品鑑賞」では、山頭火の約350句が紹介され、それぞれの句に著者の解釈が添えられています。これにより、読者は山頭火の俳句をより深く味わうことができます。

ただし、著者の主観も反映されていると思われる部分もあり、読み手によっては解釈の偏りを感じるかもしれません。

それでも、山頭火の句に込められた人生の重みや情感を、著者の視点を通じて感じ取れるのは大きな魅力です。

また、本書には「種田家家系図」「本州・四国行乞図」「九州行乞図」「自由律俳人の系譜」といった参考図版が収録されており、山頭火の旅の軌跡や俳句の背景を視覚的に理解するのに役立ちます。

これらの図版は、山頭火の放浪のスケールや自由律俳句の広がりを具体的にイメージさせてくれます。

山頭火の生き方が現代に教えてくれること

山頭火の人生は、決して平坦ではありませんでした。

母親の死、実家の破産、家庭の崩壊、酒への依存、そして放浪。しかし、彼はそんな中でも俳句を通じて自己を表現し、自然や人々との繋がりを見出しました。

彼の俳句には、人生の苦しみや喜び、刹那的な美しさが凝縮されています。

現代社会では、効率や成果が重視され、立ち止まって自分と向き合う時間が少ないかもしれません。

しかし、山頭火の生き方は、すべてを捨てて自分自身と対話することの大切さを教えてくれます。彼の旅は、物質的な豊かさではなく、心の自由を追求する旅でした。

この視点は、忙しい日々の中で見失いがちな「生きる意味」を再考するきっかけを与えてくれます。

また、山頭火の俳句は、日常の小さな瞬間を愛おしむ姿勢を教えてくれます。

「分け入つても分け入つても青い山」のように、人生の果てしない探求を歌いながらも、「うしろすがたのしぐれてゆくか」のように、過ぎゆく時間の哀愁を静かに受け入れる彼の感性は、現代の私たちにも深い共感を呼びます。

山頭火の人生と俳句を知るための最適な一冊

『山頭火』は、種田山頭火の人生と俳句を深く知るための最適な一冊です。

石寒太の丁寧な筆致により、山頭火の放浪の軌跡や自由律俳句の魅力が生き生きと描かれています。

山頭火の有名な俳句や代表作を通じて、彼の心の動きや人生の哲学に触れることは、現代を生きる私たちにとっても大きな気づきを与えてくれるでしょう。

彼の自然への愛と漂泊の精神。波乱の人生、そして自由律俳句を通じて表現された心象は、今なお色褪せることなく私たちを魅了します。

放浪の俳人、山頭火の人生と作品に触れたいなら、ぜひ本書を手に取ってみてください。そこには、人生の深い問いと美しい言葉が待っています。

書籍紹介

関連書籍

関連スポット

山頭火ふるさと館

種田山頭火の生れた山口県防府市(ほうふし)にある文化施設。

公式サイト:山頭火ふるさと館

報恩寺:種田山頭火

1924年に種田山頭火が住み込んだ熊本県熊本市中央区にある曹洞宗の寺院。

種田山頭火が出家得度した耕畝の名前の句碑がある。実際に参拝したことがある。非常にコンパクトな寺院であり、コアなファン以外には積極的にはオススメはできないかも。

公式サイトは特に無い。

瑞泉寺・味取観音堂:種田山頭火

1925年に種田山頭火が堂守となった熊本県熊本市北区にある曹洞宗の寺院。

公式サイトは特に無い。

其中庵:種田山頭火

1932年に種田山頭火が移り住んだ山口県山口市小郡にある庵。近くには其中庵休憩所も。

実際に訪問したことがある。新山口駅から、のんびりと散歩に良い距離。小高い丘の上で、町並みを眺望できる場所。

公式サイト:其中庵

一草庵:種田山頭火

愛媛県松山市御幸にある種田山頭火の終焉の地。1939年に結庵、後に一草庵と呼ばれる。

公式サイト:一草庵