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江上剛『天あり、命あり 百年先が見えた経営者 大原總一郎伝』あらすじ・感想:倉敷紡績・大原總一郎の小説

江上剛『天あり、命あり 百年先が見えた経営者 大原總一郎伝』表紙

書籍紹介

  1. 父・大原孫三郎は「新しいことを成功させるのが真の経験」「家訓は作らず祖先を訂正せよ」と教え、息子・總一郎を自立した後継者に。
  2. 總一郎は戦後の危機で外部依存を拒み、自社の技術革新でビニロン国産化を成し遂げ、クラレを世界的企業へ押し上げた。
  3. 戦争への贖罪から難事業であった中国へのプラント輸出を実現し、「思想を売らない」信念を貫いた。
  4. 本書はマジックテープの縁と城山三郎の孫三郎伝を継ぐ形で生まれ、清廉ながら気骨のある生涯を丁寧に描く。

江上剛の略歴・経歴

江上剛(えがみ・ごう、1954年~)
作家。
兵庫県丹波市の出身。兵庫県立柏原高等学校、早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業。1977年から2003年まで第一勧業銀行(現在のみずほ銀行)に勤務。
2002年、経済小説『非情銀行』で作家デビュー。2003年3月に、築地支店長を最後に、みずほ銀行を退行。

大原總一郎の略歴・経歴

大原總一郎(おおはら・そういちろう、1909年~1968年)
実業家。大原孫三郎(おおはら・まごさぶろう、1880年~1943年)の長男。
岡山県倉敷市の出身。 第六高等学校文科乙類、東京帝国大学経済学部経済学科を卒業。
倉敷レイヨン(現在のクラレ)社長、倉敷紡績社長などを歴任。

『天あり、命あり 百年先が見えた経営者 大原總一郎伝』の目次

プロローグ
第一章 空襲
第二章 贖罪
第三章 革新
第四章 信念
第五章 不屈
第六章 法王
第七章 苦境
第八章 挑戦
第九章 障壁
第十章 成就
第十一章 天命
エピローグ
あとがき
主要参考文献

『天あり、命あり 百年先が見えた経営者 大原總一郎伝』の概要・内容

2016年6月7日に第一刷が発行。PHP研究所。313ページ。ハードカバー。127mm×188mm。四六判。

題名の「天あり、命あり」の「命」は「めい」と読む。副題は「百年先が見えた経営者 大原總一郎伝」。

2015年6月号から2016年5月号まで月刊誌『Voice』で連載された作品を、加筆・修正したもの。

2019年5月10日に『百年先が見えた男』に改題して、「伊藤正明(クラレ社長)✕江上剛」の特別収録対談も掲載された文庫版も刊行。

『天あり、命あり 百年先が見えた経営者 大原總一郎伝』のあらすじ・要約・感想

  • 大原家を継ぐ者への厳しい教育方針
  • 真の経験とは何かを問い直す哲学
  • 家訓を持たないという大原家の伝統
  • 自らの力を恃む自立と革新の精神
  • 戦後の復興と中国へのプラント輸出
  • 思想を売らない経営者の強き信念
  • 論語に由来する天命と人生の総決算
  • マジックテープが繋いだ奇跡の縁
  • 破天荒な実業家との対比で見える姿

日本の近代産業史において、地方都市から世界を見据えた巨大な企業グループを築き上げた一族が存在する。

それが、岡山県の倉敷を拠点に活動した大原家である。

大原家は、単なる利益追求の枠を超え、文化や社会貢献の分野でも多大な足跡を残してきた。

その大原家の歴史の中で、特に数奇な運命を辿り、激動の昭和を生き抜いた一人の経営者がいた。

彼こそが、大原總一郎(おおはら・そういちろう、1909年~1968年)である。

本書『天あり、命あり 百年先が見えた経営者 大原總一郎伝』は、江上剛(えがみ・ごう、1954年~)によって執筆された重厚な伝記小説である。

江上剛は、緻密な取材と深い人間洞察に基づき、数々の企業小説や歴史小説を世に送り出してきた作家である。

本作では、偉大すぎる父を持った息子の葛藤、戦後日本の復興、そして信念を貫く経営者の孤独な戦いが鮮明に描かれている。

大原總一郎の人生は、決して平坦なものではなかった。

彼は、日本で初めて合成繊維であるビニロンの国産化に成功し、倉敷レイヨン(現在のクラレ)を世界的企業へと押し上げた人物である。

しかし、その業績の裏には、国家間の冷戦構造や、保守的な政治勢力との激しい軋轢があった。

特に、中華人民共和国へのプラント輸出という前代未聞のプロジェクトは、彼の生涯を懸けた大事業であった。

この記事では、本書の魅力的な場面を引用しながら、大原總一郎という人物の核となる思考や、歴史的背景について詳しく読み解いていく。

経営や歴史の視点も交えつつ、彼が現代に遺したメッセージの真意を探りたい。

それでは、彼がどのような教育を受け、どのような哲学を形成していったのかを順番に見ていこう。

大原家を継ぐ者への厳しい教育方針

大原總一郎の人生を語る上で、決して避けて通れないのが、父である大原孫三郎(おおはら・まごさぶろう、1880年~1943年)の存在である。

大原孫三郎は、倉敷紡績(クラボウ)の社長として会社を飛躍的に成長させただけでなく、社会事業にも多大な私財を投じた規格外の人物であった。

孤児院の支援や、大原社会問題研究所の設立、そして西洋美術を広く公開するための大原美術館の創設など、その功績は計り知れない。

エル・グレコ(El Greco、1541年~1614年)や、クロード・モネ(Claude Monet、1840年~1926年)の名画を日本にもたらしたのも、彼の先見の明によるものである。

そのような傑出した父から、後継者である大原總一郎はどのような教育を受けていたのだろうか。

本書には、以下のような興味深い記述がある。

孫三郎は、總一郎の教育には熱心だった。実際の教育は母に任せきりであったが、何度も「總一郎は、旅行好きの習慣と、自信のある、思慮のある、無遠慮の人間に仕上げる様、お互い注意致度候。所謂、可愛い子には旅をさせよとは誠に心理と存候」と、手紙を書き送った。(P.24「空襲」)

この手紙からは、「我が子には常に強くあってほしい」という大原孫三郎の強烈な願いが読み取れる。

大原孫三郎自身は、若い頃に上京して東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学したものの、様々な事情で中退を余儀なくされた過去があった。

自分が上級の学校に進んで学問を極めることができなかったという悔しさが、心の底にあったのだろう。

だからこそ、息子には十分な教育を受けさせ、しっかりと進学をさせたいという強い思いを抱いていたと言われている。

過保護に育てるのではなく、「可愛い子には旅をさせよ」という言葉通り、外の世界で揉まれ、自分の頭で考える力を身につけさせようとしたのだ。

結果として、大原總一郎は東京帝国大学(現在の東京大学)経済学部を卒業し、見事に父の期待に応えることとなる。

後に大原孫三郎は、息子のことを自らの「最高傑作」とまで呼ぶようになる。

偉大な創業者が二代目を育成するのは非常に難しいとされる中で、この教育方針は見事に結実したと言えるだろう。

真の経験とは何かを問い直す哲学

厳しい教育のもとで育った大原總一郎は、やがて経営の最前線に立つことになる。

彼が家業を引き継いだ時代は、日本の産業構造が大きく転換しようとしていた時期であった。

天然繊維から化学繊維へ、そして合成繊維へと、技術の進歩は止まることを知らなかった。

そのような激動の環境下で、彼は父から教えられた一つの重要な哲学を胸に刻んでいた。

それについて、本書では次のように描かれている。

「経験というものは、前のことをもう一度繰り返すことではない。まだやったことのない新しいことを、失敗なしにやり遂げることが真の経験だ」
孫三郎が常々語っていた言葉だ。總一郎は、この言葉を独創性という意味に捉え、「他人のやれないことをやる」と心に固く誓い、邁進してきた。(P.33「空襲」)

一般的に、私たちは過去の成功事例をなぞることを「経験を活かす」と表現しがちである。

しかし、大原孫三郎はそれを真っ向から否定した。

過去の繰り返しは単なる作業であり、真の経験とは、未知の領域に踏み込み、それを成功裏に収めることだというのである。

オーストリア出身の経済学者であるジョセフ・シュンペーター(Joseph Schumpeter、1883年~1950年)は、経済発展の原動力は「新結合」にあると説いた。

新しい技術、新しい市場、新しい組織を組み合わせることで、画期的な価値を生み出すという理論である。

大原孫三郎の言葉は、まさにこのシュンペーターの理論を体現しているかのような深みを持っている。

大原總一郎は、この父の教えを忠実に受け継ぎ、強烈なオリジナリティーを発揮していった。

彼は、海外の技術を単に模倣するのではなく、日本独自の技術によって合成繊維を開発することにこだわった。

それが後に、日本初の純国産合成繊維であるビニロンの開発へと繋がっていくのである。

「他人のやれないことをやる」という決意が、彼を困難な道へと向かわせた原動力であったことは間違いない。

家訓を持たないという大原家の伝統

日本の歴史ある名家には、必ずと言っていいほど「家訓」が存在する。

先祖代々受け継がれてきた教えを守ることが、家、血筋を長続きさせる秘訣だと信じられているからだ。

しかし、大原家には驚くべきことに、明文化された家訓が存在しなかった。

それには、大原孫三郎の極めて合理的かつ進歩的な思想が背景にあった。

大原總一郎が家督を継ぐ際の場面が、本書には次のように記されている。

その理由を孫三郎は、總一郎に家督を譲る際、誇らしげに、「家訓なんぞを作って古い者の言いつけを後生大事に守っているような人間では、仕様がない。子孫というものは、祖先を訂正するためにあるんだ。だから私もお前にああしろ、こうしろとは言わない。祖先の欠点をよく見て、それを批判して、訂正することがお前の義務だぞ」と言った。(P.43「贖罪」)

ここでの「その理由」とは、大原家に家訓がないことの理由を指している。

家訓を作らないこと自体が、大原家における一種の家訓として機能しているとも言えるだろう。

「子孫というものは、祖先を訂正するためにある」という言葉には、強い衝撃を受ける。

伝統を無批判に守ることは、環境の変化に対する適応力を奪い、やがて組織の衰退を招く。

ドイツの哲学者、経済学者であるカール・マルクス(Karl Marx、1818年~1883年)も、歴史は古い体制の矛盾を打ち破ることで進歩していくと考えた。

大原孫三郎は、自らが築き上げた事業や手法でさえも、時代が経てば古くなり、欠点が露呈することを熟知していたのだ。

だからこそ、息子には自分を乗り越え、自分を批判し、全く新しいものを作り上げてほしいと願ったのである。

日本の同族経営においては、創業者の影が大きすぎて、後継者が萎縮してしまうケースが多々ある。

しかし、大原孫三郎は自らその呪縛を解き放ち、息子に完全な自由と、それに伴う重い責任を与えた。

このエピソードを読むだけでも、大原孫三郎という人物の途方もない器の大きさと、凄みを感じずにはいられない。

自らの力を恃む自立と革新の精神

家業を継いだ大原總一郎は、幾多の困難に直面することになる。

第二次世界大戦によって工場は甚大な被害を受け、戦後の混乱期には労働争議や深刻な資金難に見舞われた。

会社が存続の危機に立たされた時、彼は社員たちに向けてどのようなメッセージを発信したのだろうか。

経営者としての真価が問われる場面での彼の考えが、次のように表現されている。

――真に恃むべきものは、自らのうちにある力のみであることを忘れるなら、それだけで、将来の一切の希望を放棄すると同様の結果になるだろう。これが總一郎の基本的な考えで、この考えを社員に向けて繰り返し語っていた。(P.84「革新」)

※恃む:たのむ

彼が語ったのは、政府からの支援や他社との提携といった外部要因に依存することの危険性である。

苦しい時ほど、人は誰かにすがりたくなるものである。

しかし、他者に運命を委ねてしまえば、企業としての主体性を失い、真の再生は不可能になる。

オーストリア出身の経営学者であるピーター・ドラッカー(Peter Drucker、1909年~2005年)は、企業の目的は顧客の創造であり、そのための基本的な機能はマーケティングとイノベーションであると定義した。

大原總一郎もまた、単なる人員削減やコストカットといった表面的な経営の合理化だけでは、危機を乗り越えられないと悟っていた。

真の突破口は、自社の中に眠る技術力を呼び覚まし、他社には真似できない技術革新、すなわちイノベーションを起こすことしかない。

他者ではなく自己を頼りにし、自分たちの力で新しい価値を生み出すこと。

この極めて本質的で重要な考え方を、彼は社員たちに根気強く説き続けたのである。

この自立の精神があったからこそ、クラレは後に世界的な化学メーカーへと成長を遂げることができたのだと言える。

戦後の復興と中国へのプラント輸出

大原總一郎の経営者人生において、最も象徴的であり、かつ最も困難を極めた事業が、中国へのプラント輸出である。

プラント輸出とは、単なる製品の販売ではなく、工場や生産設備、そしてその製造技術を丸ごと相手国に提供する大規模な事業を指す。

戦後の世界は、アメリカ合衆国を中心とする資本主義陣営と、ソビエト連邦を中心とする社会主義陣営が激しく対立する冷戦の真っ只中にあった。

当時の日本はアメリカと同盟関係にあったため、中華人民共和国とは正式な国交を結んでいなかった。

日本政府は、中華民国(台湾)を中国を代表する正当な政府として承認しており、大陸の中国との大規模な貿易は極めて政治的リスクが高い行為であった。

しかし、大原總一郎はどうしても中国への技術輸出を実現させたかった。

そこには、過去の戦争で中国の人々に多大な苦痛を与えてしまったことへの、深い贖罪の意識があったからだ。

この事業を進める中で、彼は戦後日本の基礎を築いた政治家である吉田茂(よしだ・しげる、1878年~1967年)のもとへとお礼に訪れる。

その時の吉田茂の言葉が、次のように記されている。

<前略>私たち生き残った者は、戦争で命を落とされた人たちに恥じない生き方をせねばなりませんね」(P.262「成就」)

歴史上の偉大な政治家である吉田茂の人物像については、様々な評価がある。

葉巻をくわえ、ワンマン宰相と呼ばれた強硬な一面が強調されがちだが、この小説の中で描かれる彼の言葉は非常に新鮮であった。

吉田茂は台湾の蒋介石総統と深い関係を築いていたため、大原總一郎の進める中国大陸へのプラント輸出に対しては、積極的に賛成できる立場ではなかった。

しかし同時に、日本の経済的自立や民間貿易の重要性も理解していたため、積極的に反対して事業を潰すようなこともしなかった。

この微妙な政治的バランス感覚と、結果的に黙認してくれたことに対する感謝を伝えるために、大原總一郎は彼を訪ねたのである。

「戦争で命を落とされた人たちに恥じない生き方」という吉田茂の言葉は、戦後の日本を牽引した指導者たちの共通の思いであったのかもしれない。

思想を売らない経営者の強き信念

中国へのプラント輸出は、国内の保守派や右翼団体からの激しい反発を招いた。

大原總一郎の身辺には常に危険がつきまとい、会社への脅迫状や抗議活動も日常茶飯事となっていた。

そのような緊迫した状況下でも、彼は自らの信念を曲げることはなかった。

彼は自らの考えを世に問うため、1963年9月に刊行された雑誌『世界』に「対中国プラント輸出について」という長大な論文を寄稿した。

その論文を読んだ新入社員が、彼に対して尊敬の念を伝える場面が描かれている。

特に『私は私の義務を果たしたいと思う』というところ、そして『私はいくばくかの利益のために私の思想を売る意思を持ってはいない』という箇所には、胸が震えました。(P.295「天命」)

この若い社員の言葉は、読者の心を代弁していると言えるだろう。

企業経営においては、しばしば倫理よりも利益が優先されてしまう局面がある。

しかし大原總一郎は、どれだけ莫大な利益が得られるとしても、自分の思想や信念を曲げてまでそれを手にするつもりはないと断言したのである。

写真や映像に残る大原總一郎の姿は、温厚で穏やかな紳士そのものである。

しかし、その内面には決して折れることのない強靱な精神が宿っていた。

やはり彼もまた、規格外の人物であった大原孫三郎の血を受け継ぐ息子なのだと実感させられる。

どんな逆境にあってもブレない強気の軸を持っている経営者だからこそ、多くの社員たちが命懸けで彼についていったのだろう。

論語に由来する天命と人生の総決算

数々の困難を乗り越え、ついにプラント輸出の契約を成立させた大原總一郎であったが、その過酷な闘いは彼の身体を確実に蝕んでいた。

彼は志半ばにして病に倒れ、帰らぬ人となってしまう。

本書のクライマックスとも言える病床のシーンで、タイトルの由来となる重要な言葉が登場する。

「天あり、命あり……」
總一郎が天井の一点を見つめて言った。
「死生、命あり。富貴、天にあり、でしょうか」
真佐子が『論語』の一節を口にした。人の生死や富貴は、人間ではどうしようもない。天の命ずるままだと解釈されている言葉だ。(P.301「天命」)

「死生、命あり。富貴、天にあり」。

富貴は「ふうき」と読み、財産や地位を意味する。

人の生き死にや、豊かになるか貧しくなるかは、人間の力ではどうにもならない運命であり、天の意志であるという意味である。

この言葉が『論語』の顔淵篇からの由来であったことは、非常に興味深い発見であった。

一見すると、この言葉はすべてを運命のせいにして諦めてしまうような、後ろ向きな響きを持っているように感じられるかもしれない。

しかし、この場面での大原總一郎の思いは決して諦観ではない。

彼は、自分の人生の終わりが近づいていることを静かに受け入れつつも、自分に与えられた儚い時間の中で、経営者としての、そして人間としての義務をしっかりと果たせたかどうかを自問しているのである。

そして、傍らで彼を支え続けた妻の真佐子に対して、その答えを確認しようとしている。

真佐子は、彼が十分にその義務を果たし切ったことを優しく伝える。

この夫婦の静かで深い対話の描写は、読者の胸を強く打つ感動的な場面となっている。

マジックテープが繋いだ奇跡の縁

本書の本文が終わった後の「あとがき」には、この小説が執筆されるに至った驚くべきエピソードが記されている。

著者の江上剛と、大原總一郎が育て上げた企業であるクラレとの間には、不思議な縁があったという。

江上剛が宇宙航空研究開発機構(JAXA)の取材をしていた際、宇宙服や人工衛星の部品にマジックテープが使われていることを知って記事にした。

その記事をたまたま読んだのが、当時のクラレの社長であった伊藤文大(いとう・ふみお、1947年~)であった。

伊藤文大は広報担当者に対し、「マジックテープはクラレの登録商標であることを江上剛に伝えてほしい」と指示を出したという。

この連絡がきっかけとなり、後に江上剛は新潟県にあるクラレの工場を見学することになった。

その場で伊藤文大が直々に工場を案内し、大原總一郎の偉業について語ったのである。

伊藤文大との対話の中で、「總一郎は百年先が見えた経営者でした」という言葉が出た。

この言葉の前提となっているのが、経済小説の巨匠である城山三郎(しろやま・さぶろう、1927年~2007年)の代表作の一つ、『わしの眼は十年先が見える』である。

城山三郎の作品は、父である大原孫三郎の豪快な生涯を描いた名著として知られている。

江上剛は、大先輩である城山三郎との個人的な交流もあったという。

実は、城山先生には、何度かゴルフなどに誘っていただき、その毅然とした生き方に触れさせていただいたこともある。これも何かの縁と大原總一郎を調べ始めた。(P.310「あとがき」)

城山三郎が父・孫三郎を描いたのであれば、自分が息子・總一郎の生涯を描くのも何かの運命かもしれない。

そのような奇跡的な縁の連鎖によって、この『天あり、命あり』という小説は誕生したのである。

一つの小さな製品名から始まり、過去の偉大な作家との繋がりを経て、一つの歴史小説が完成するまでの過程は、それ自体が一本のドラマのようである。

破天荒な実業家との対比で見える姿

ここまで、本書の素晴らしい点や大原總一郎の偉大な功績について詳しく述べてきた。

最後に、一人の読者としての総括的な感想と、少しばかりの批判的な視点も述べておきたい。

本書を通じて、大原總一郎という人物の全体像や、彼が何を成し遂げようとしたのかについては、ざっくりとではあるが十分に理解することができた。

物語の軸となっているのは、やはり中国へのプラント輸出という巨大プロジェクトであり、その歴史的な意義は高く評価されるべきである。

しかし、小説としての面白さやエンターテイメント性という観点から見ると、個人的には少し物足りなさを感じたことも事実である。

たとえば、明治から昭和にかけて「電力王」と呼ばれた実業家の福沢桃介(ふくざわ・ももすけ、1868年~1938年)を描いた江上剛の『電力王・福澤桃介』と比較してみる。

福沢桃介は、福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち、1835年~1901年)の婿養子でありながら相場で巨万の富を築き、日本各地で大規模な水力発電所を建設した破天荒な人物である。

さらに、日本初の女優である川上貞奴(かわかみ・さだやっこ、1871年~1946年)とのロマンスなど、公私ともに波乱万丈で劇的なエピソードに満ち溢れている。

そうした圧倒的な個性を持つ福沢桃介の本を読んだ時の興奮に比べると、大原總一郎の物語は少し地味に映ってしまうのだ。

それはおそらく、大原總一郎という人物があまりにも生真面目で、倫理的で、清廉潔白すぎるからかもしれない。

父の残した偉大な足跡をたどり、自分の義務を果たすために身を粉にして働く彼の姿は、尊敬に値する。

しかし、小説の主人公としては、どこか人間的な弱さや、泥臭い欲望といった要素が欠けているようにも感じられる。

父・大原孫三郎の豪快な自由奔放さと比べてしまうのは酷なのかもしれないが、息子の大原總一郎の方がキャラクターの魅力はやや薄まってしまうかもしれない。

あるいは、純粋に小説としての構成や筆力において、巨匠である城山三郎の『わしの眼は十年先が見える』の領域にはまだ及んでいない部分があるのかもしれない。

江上剛の筆致は非常に丁寧で、歴史的事実を正確に伝えてくれる安定感はあるが、読者の心を激しく揺さぶるような熱量においては、好みが分かれるところだろう。

とはいえ、彼がこの激動の時代において、日本と中国の未来のために命を削って戦ったという事実は、現代を生きる私たちに重い問いを投げかけている。

目先の利益に囚われず、自らの信念を貫き通すことの難しさと尊さを、本書は確かに教えてくれる。

組織の中で自らの役割に悩み、新しい挑戦を模索している多くの人々にとって、大原總一郎の生き様は大きなヒントとなるに違いない。

日本の近代産業史における一つの重要なパズルのピースを埋めるために、そして何より、信念を持って生きることの意味を再確認するために、ぜひ一読をお勧めしたい一冊である。

書籍紹介

関連書籍

関連スポット

大原美術館

大原美術館は、岡山県倉敷市にある美術館。大原孫三郎が支援していた洋画家の児島虎次郎(こじま・とらじろう、1881年~1929年)に託して収集した西洋美術や古代エジプト美術、中近東美術、中国美術を展示するために、1930年に開館。日本で最初に、西洋美術、近代美術を常設展示する美術館。

公式サイト:大原美術館

倉紡記念館

倉紡記念館は、岡山県倉敷市にある倉敷紡績の企業博物館。1969年に、創業80周年を記念して開設し、1971年に一般公開。倉敷紡績は大原家などの出資を受けて設立。初代社長は大原孝四郎(おおはら・こうしろう、1833年~1910年)、二代目社長は大原孫三郎、四代目社長は大原總一郎。

公式サイト:倉紡記念館

倉敷民藝館

倉敷民藝館は、岡山県倉敷市にある民芸品を保存、展示する博物館。1948年に、江戸時代後期の米倉を再利用して開館。大原孫三郎が建設費を寄贈、大原總一郎も支援。

公式サイト:倉敷民藝館