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森博嗣『常識にとらわれない100の講義』要約・感想

森博嗣『常識にとらわれない100の講義』表紙

書籍紹介

  1. 森博嗣は工学的な論理で感情や見栄を排除し、物事を冷静に分析する思考を提示。
  2. 死は必ず訪れるものだから自殺志願者には「今すぐではなく先延ばしに」と提案。
  3. 自分を棚上げにして、反対意見を積極的に取り込むことで真の客観性を得る。
  4. 本書は凝り固まった思考をほぐす知的トレーニングに活用できる。

森博嗣の略歴・経歴

森博嗣(もり・ひろし、1957年~)
小説家、工学者。
愛知県の生まれ。東海中学校・高等学校、名古屋大学工学部建築学科を卒業。名古屋大学大学院修士課程を修了。三重大学、名古屋大学で勤務。1990年に工学博士(名古屋大学)の学位を取得。1996年に『すべてがFになる』で第1回メフィスト賞を受賞しデビュー。

『常識にとらわれない100の講義』の目次

1限目 森教授の「新しい常識」論
2限目 マイナスを武器にする思考論
3限目 王道を行く「型破り」仕事論
4限目 孤独を楽しむ人間観察論
補講 「新しい常識」に気づく21の視点
文庫のあとがき

『常識にとらわれない100の講義』の概要・内容

2013年9月15日に第一刷が発行。だいわ文庫。227ページ。

2012年7月21日に刊行された単行本を文庫化し、あとがきを加えたもの。

「100の講義」シリーズの1作目。

『常識にとらわれない100の講義』の要約・感想

  • 死という不可逆な現象への論理的対処
  • 市場の最適解を導き出す工学的な創作
  • 不調をデフォルトとする堅牢なシステム
  • 自己を棚上げする究極のメタ認知能力
  • 反対意見という劇薬を取り込む知性
  • 経験として抽象化される天才の記憶装置
  • 思考の手間を惜しまない経済的な合理性
  • 思考の関節を柔らかくする極上の知的な練習

私たちが普段、何気なく受け入れている事象の多くは、本当に正しいのだろうか。

社会生活を営む上で、波風を立てないための暗黙のルールや、先人たちが築き上げてきたとされる価値観は、いつしか強固な枠組みとなって私たちを縛り付ける。

それを一般的に常識と呼ぶわけだが、その枠組みの中だけで思考を完結させてしまうことは、知的な怠慢に他ならない。

歴史的な観点から見れば、ある時代の常識は、次の時代には非常識として扱われることが繰り返されてきた。

例えば、天体が地球の周りを回っているという天動説は、かつては疑いようのない絶対的な常識であった。

しかし、ニコラウス・コペルニクス(Nicolaus Copernicus、1473年〜1543年)などの観測と論理的な推論によって、それは覆されたのである。

このように、常識というものは常に暫定的なものであり、時代や環境によって変化する相対的なものに過ぎない。

私たちが真に論理的で自由な思考を手に入れるためには、まず自らの周囲に張り巡らされた常識という透明な壁の存在に気づく必要がある。

本書『常識にとらわれない100の講義』の著者である森博嗣(もり・ひろし、1957年〜)は、まさにその壁を軽々とすり抜ける思考の持ち主である。

彼は工学博士であり、大学で建築や土木といった工学分野の研究と教育に従事しながら、ベストセラーを連発する小説家としてデビューした特異な経歴を持つ。

工学という学問は、常に現実の物理法則と向き合い、安全で効率的なシステムを設計するための極めて論理的な分野である。

彼の著作には、その工学的な冷徹さと、人間社会を俯瞰する鋭い観察眼が根底に流れている。

本書は、そんな彼が日々の生活や社会の事象に対して、いかに独自の視点から論理的なメスを入れているかを示す、いわば思考の実験室のような一冊である。

これから紹介する内容は、時に冷たく、時に身も蓋もないように感じられるかもしれない。

しかし、感情のノイズを取り払い、徹底的に純化された論理の先にあるのは、驚くほど澄み切った真理である。

それでは、私たちの凝り固まった脳を解きほぐすための、いくつかの重要で刺激的な講義の内容を紐解いていこう。

死という不可逆な現象への論理的対処

人間の命というテーマは、古今東西を問わず、文学や哲学、宗教において最も重く、そして感情的に語られてきた主題である。

生きるべきか死ぬべきかという苦悩は、ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare、1564年〜1616年)の戯曲から現代のポップスに至るまで、常に人々の心を捉えて離さない。

しかし、森博嗣はこのような極めて感情的なテーマに対しても、一切の感傷を交えずに、ただ静かに論理の光を当てる。

彼によれば、「生きたい」という人間の根源的な欲求は、厳密な言葉の定義に当てはめれば「もう少しだけ生きたい」という状態を指すのだという。

なぜなら、どれほど強烈に生を望んだとしても、生物学的に人間は必ず死を迎える存在だからである。

永遠に生き続けることは不可能であり、私たちが願うことができるのは、死という確実な終着点を、ほんの少し先へ延ばすことだけなのだ。

この冷徹とも言える事実の認識は、一見すると虚無的であるように思えるかもしれない。

しかし、この思考の真の価値は、自ら命を絶とうとする極限状態にある人間に対するアプローチに現れる。

だから、「君の願いは必ず叶うのだから、もう少しだけあとにして下さい。そうすれば、もっと良い死に方ができるかもしれませんよ」という感じである。(P.51「1限目 森教授の「新しい常識」論:17 「生きたい」とは、厳密にいえば、「もう少しだけ生きたい」である」)

自殺を試みようとする人に対して、世間の常識は「命は尊い」「生きていれば良いことがある」といった感情的な言葉を投げかける。

しかし、絶望の淵にいる人間にとって、そのような常識的な励ましは、全く意味を持たないばかりか、逆に重圧となることすらある。

そこで著者は、死という現象の持つ「不可逆性」と「確実性」を利用する。

死にたいという願いは、人間である以上、何もしなくてもいつかは必ず叶う絶対的な約束である。

必ず叶う願いであるならば、今すぐ急いで自らの手で実行に移す必要はないのではないか、という見事な論理の転換である。

これは、私がこの文章を読んで強く実感したことでもある。

死というものは、一度実行してしまえば二度と元には戻せない、完全に不可逆な現象である。

だからこそ、いつでも確実に実行できるその権利の行使を、単に先延ばしにするという選択肢は、非常に合理的で有効な防衛策になり得る。

無理に生きる理由を見つけるのではなく、死を確実な未来の権利として保持したまま、とりあえず今日のところは死ぬのをやめてみる。

この考え方は、感情論に振り回されずに命を繋ぎ止めるための、極めて高度で実用的な問題解決の手法だと言えるだろう。

哲学者のアルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer、1788年〜1860年)が説いたように、人生が苦悩の連続であったとしても、論理の力によってその苦悩と距離を置くことは可能なのである。

森博嗣のこの考え方は、生きることに対する重苦しい義務感を消し去り、心をふっと軽くしてくれる見事な視点である。

市場の最適解を導き出す工学的な創作

小説家や芸術家と呼ばれる人々に対して、私たちはしばしば「自らの内なる魂の叫びを表現する人」という常識的なイメージを抱きがちである。

自分の書きたいものを書き、それが結果として世間に評価されるのが美しい芸術のあり方だ、というロマンチックな幻想である。

しかし、作品を世に出して対価を得るという行為は、立派な経済活動であり、ビジネスである。

ビジネスである以上、市場に存在する需要に対して、適切な供給を行わなければ利益は発生しない。

森博嗣は、自身の小説執筆について、極めてドライにその事実を語っている。

小説は、以前は売れるものを書いた。みんなが喜びそうなものを書いていた。仕事だったからだ。(P.86「2限目 マイナスを武器にする思考論:34 「森博嗣らしくない」と言われることが、僕にはとても嬉しい。」)

この一文には、プロフェッショナルとしての凄みが凝縮されている。

狙って売れるものを書けるという才能は、単なる文学的なセンスだけでは決して到達できない領域である。

これを実現するためには、世の中の読者が今、何を求めているのかを正確に把握する高度な市場調査の能力が必要不可欠である。

さらに、その調査結果に基づいて、ターゲットとなる読者層を想定し、彼らの感情を揺さぶるための最適な要素を配置するマーケティングの技術も求められる。

著者は元々、工学の研究者であるから、膨大なデータを集めて観察し、そこから帰納的に法則を導き出し、論理的に最適解を構築するというプロセスは得意中の得意だったはずだ。

自分が書きたいという内なるエゴや感情を完全に抑制し、設計図面を引くように、精密にヒット作をデザインしていたという事実には驚嘆せざるを得ない。

自分の表現欲求を満たすことよりも、読者という顧客の満足度を最大化するための要件定義を優先する。

これはまさに、優れたシステムエンジニアやプロダクトマネージャーが製品を開発する際のアプローチと全く同じである。

自分の作品が「森博嗣らしくない」と言われることが嬉しいという感覚も、自己同一性への執着がないことの証明である。

常に変化する市場の要求に合わせて、自分自身の作風すらも柔軟に変化させるシステムの構築。

この自己すらも素材の一部として客観的に扱う圧倒的な俯瞰の能力こそが、彼が長年にわたって第一線で活躍し続ける理由の一つなのだろう。

売れるべくして売れるものを論理的に作り出すという、天才的かつ徹底した職人芸である。

不調をデフォルトとする堅牢なシステム

私たちは、何かの成果を評価する際、無意識のうちにその人の最高到達点を基準にしてしまう傾向がある。

あの人はあの時、あんなに素晴らしい仕事をしたのだから、本来の実力はもっと高いはずだ、という期待である。

しかし、常に100点満点のパフォーマンスを出し続けることができる人間など存在しない。

人間の肉体も精神も、日々の天候や体調、周囲の環境によって絶えず揺れ動いているからだ。

それにもかかわらず、最高の状態を自分の標準だと思い込んでしまうと、少しでも調子が悪いだけで大きな挫折感や焦りを感じることになる。

僕は、だいたいいつも常に調子が悪いので、この悪いのを標準にしている。(P.114「3限目 王道を行く「型破り」仕事論:47 一番調子が良いときの成果で人を評価するのは、スポーツだけである。」)

これは、工学における安全設計の思想、いわゆるフェイルセーフやフェイルソフトといった概念に非常に近い考え方である。

橋や建物を設計する際、優れた技術者は、常に理想的な気象条件や完璧な素材を前提にして計算を行なうことは絶対にない。

想定外の強風が吹いたり、材料にわずかな欠陥があったりしても、全体が崩壊しないように、最悪の事態を想定して安全率を掛けるのである。

森博嗣は、自分自身の仕事に対する姿勢にも、この工学的な安全設計を見事に適用している。

常に調子が悪い状態、すなわちシステムのパフォーマンスが低下している状態をデフォルトとして設定する。

そうすることで、いざ本当に体調が崩れたり、モチベーションが湧かなかったりした時でも、予定通りに一定の品質で仕事を出力し続けることができるアルゴリズムを構築しているのだ。

最高の状態や、あるいは平均的な状態を自分の実力だと過信することは、実は自己愛や見栄に起因していることが多い。

自分はもっとできる人間だ、というプライドが邪魔をして、調子の悪い自分を直視することができないのだ。

しかし、人間には見栄があるのが普通であり、それを捨てることは容易ではない。

森博嗣自身がかつて、自分には見栄といった感情がないと述べていたのを記憶しているが、それこそが彼がいかに自己を客観視できているかの証左である。

自分の能力の限界や、感情の波すらも外部環境の一つとして冷徹に計算式に組み込む。

だからこそ、締め切りを破ることなく、常に一定のペースで膨大な量の著作を生み出し続けるという驚異的な生産性を維持できるのだろう。

悪い時を基準にしてシステムを組むこと。

これは、あらゆる分野において、持続可能で安定した成果を出し続けるための、最も確実で王道な戦略であると言える。

自己を棚上げする究極のメタ認知能力

人間関係や社会生活において、私たちは頻繁に意見の対立に直面する。

その際、議論の焦点がいつの間にか問題の解決から逸れ、相手を打ち負かすことや、自分のプライドを守ることにすり替わってしまうことは少なくない。

心理学では、自己の信念や立場が脅かされたと感じた時に起こる強い反発を、防衛機制の一種として説明する。

自分が否定されたという感情的なショックが、冷静な判断力を奪い去ってしまうのである。

しかし、真の客観性を持つためには、この感情的なノイズを完全に遮断しなければならない。

正しいか正しくないか、ということを見極めるだけの話だ。そこに、自分の立場とか、欲求とか感情といったものを混ぜ込むからレンズが曇って見えなくなる。十年さきくらい、客観的に観察していれば普通は見えるものである。(P.158「4限目 孤独を楽しむ人間観察論:68 少し自分の立場が否定されたと思うと、躍起になって反撃する人がいる。」)

物事の正しさを見極めるためには、顕微鏡や望遠鏡のレンズが透明でなければならないように、私たちの観察眼にも曇りがあってはならない。

その曇りの最大の原因こそが、自分自身の立場や、どうあってほしいという願望、そして怒りや悲しみといった感情である。

著者は、このレンズの曇りを取り除くために、自分自身を観察の対象から切り離すことを実践している。

いわば、自分という存在を一時的に棚上げし、はるか上空から自分も含めた全体像を見下ろすような感覚である。

これは認知心理学の分野で「メタ認知」と呼ばれる、自らの認知活動を客観的に把握する極めて高度な能力である。

森博嗣は工学部の研究者時代、現在進行形の実用技術だけでなく、50年先、100年先に社会に実装されるであろう未来の技術を想定して研究を行なっていたという。

100年先という途方もない時間軸を基準に思考する習慣が身についているからこそ、わずか10年先の未来など、現在の延長線上として容易に見ることができるのだろう。

短期的な利益や感情の起伏に囚われていると、明日や明後日のことしか見えなくなる。

しかし、自分の存在を歴史の大きな流れの中の一点として棚上げし、純粋な論理と法則性だけを頼りに観察を続ければ、未来の輪郭は自ずと浮かび上がってくる。

日々の些細なトラブルや人間関係の摩擦に直面した際には、著者のように自分をどんどん棚上げにして思考する癖をつけていこう。

感情という濁りを濾過し、究極の客観という透明なレンズを手に入れること。

それこそが、複雑で不確実な現代社会を迷わずに歩くための、最も強力なコンパスとなるに違いない。

反対意見という劇薬を取り込む知性

私たちが「客観的になりたい」と願う時、具体的に何をすればよいのか迷うことは多い。

多くの情報を集めたり、中立的な立場を装ったりしても、結局は自分の都合の良い情報ばかりを集めてしまう「確証バイアス」から逃れることは難しい。

インターネットの発達によって、自分と似た意見ばかりが表示されるフィルターバブル現象が進行し、私たちの思考はますます蛸壺化している。

このような現代において、森博嗣が提示する客観性を獲得するための方法は、非常にシンプルでありながら、劇的な効果を持つ。

客観的になるにはどうしたら良いか、とときどき質問を受けるが、まず、自分が望まないものを考える、自分が欲しくないものを作ってみる、それは間違っているだろうという理論や意見を、なんとか理解しようとしてみる。それが客観性を生む一番簡単な方法だと思う。(P.184「補講 「新しい常識」に気づく21の視点:80 ピーナッツの茶色の皮を剥かずに食べられる、と最近気づいた。」)

人は本能的に、自分が好きなもの、心地よいもの、正しいと信じているものを無意識に選択してしまう。

だからこそ、意識的にその逆を行く必要があるのだという。

自分が嫌いなもの、間違っていると嫌悪感すら抱くような理論に対して、あえて歩み寄り、その構造や論理をなんとか理解しようと努めること。

科学の歴史を振り返れば、カール・ポパー(Karl Popper、1902年〜1994年)が提唱した「反証可能性」の概念に通じるものがある。

自らの仮説を証明するためには、それを肯定する証拠を集めるだけでは不十分であり、それを否定する証拠を探し、その反証に耐え抜いて初めて理論は強化される。

これと同じプロセスを、自分自身の思考回路に対して行うのである。

私もこのアプローチは非常に強力だと確信している。

私たちが普段抱いている常識や信念の多くは、実は強固な「思い込み」に過ぎない場合がほとんどである。

認知バイアスという見えない鎖に縛られていることに気づくためには、外部からの強烈なショックが必要だ。

自分が間違っていると思う意見の中にある論理の筋道を発見した時、自分の信じていた正義が相対化され、強固な思い込みの壁が崩れ落ちる。

この破壊的とも言える体験を繰り返すことでのみ、真の客観性という地平に立つことができる。

嫌いなものや理解できないものを遠ざけるのではなく、知性を拡張するための最高の教材として喜んで取り込む姿勢。

これこそが、知的な成熟を果たすための最も確実なプロセスであると言えるだろう。

経験として抽象化される天才の記憶装置

人間の記憶には限界がある、というのが一般的な常識である。

学生時代の試験勉強のように、歴史の年号や英単語を暗記しても、時間が経てばその多くを忘れてしまう。

だからこそ、私たちはメモを取り、記録を残し、過去のデータを何度も参照しながら作業を進める。

しかし、森博嗣の記憶のメカニズムは、一般人のそれとは根本的に異なっているようである。

彼は、自身の膨大なシリーズ小説の続編を執筆する際にも、過去の著作を読み返して設定を確認するといった作業を一切行なわないという。

同じシリーズの続きを執筆するときにも、まえの本を確かめたことはない。それは経験したことだから、全部覚えているのである。(P.200「補講 「新しい常識」に気づく21の視点:88 文系の人は、もの凄くデジタルだな、と思う。」)

「経験したことだから全部覚えている」という一言には、彼の天才的な情報処理の秘密が隠されている。

彼は情報を個別の具体的な記号データとして脳のストレージに保存しているわけではない。

物語の構造、登場人物の感情の動き、世界観の法則性といった本質的な要素だけを抽出し、抽象化されたアルゴリズムや概念として記憶しているのだ。

データ圧縮の技術と同じで、余分な情報を削ぎ落として本質だけを残すため、脳の容量を圧迫せずに膨大な情報を保持できる。

具体的な記号としての言葉を記憶していないため、校閲の段階で「前作ではこの赤い色を別の言葉で表現していました」のような指摘をされることもあるという。

例えば、過去に「赤」と表記した部分を、続編の執筆時には「茜色」と出力してしまうような現象である。

しかし、これは記憶力の欠如ではなく、むしろ高度な抽象化が正常に機能している証拠である。

彼にとっては「赤」も「茜色」も、物語の進行において果たす機能や意味という点では全く同一の概念だからである。

さらに驚くべきことに、彼にとっては自ら執筆した小説だけでなく、読書を通じて得た情報すらも、文字の羅列ではなく一つの「経験」として脳内に取り込まれ、抽象化されているという。

私たちが本を読むとき、文章を一言一句覚えようとするのは、単なるデジタルデータのコピー作業に過ぎない。

しかし彼のように、本から得た知識や論理構造を自らの血肉とし、抽象的な概念として記憶のネットワークに組み込むことができれば、その知識はいつでも必要な形に変換して取り出すことができる。

知識を経験として抽象化させるという能力。

これこそが、彼が分野を横断して自由自在に思考を展開できる最大の武器であり、まさに天才の脳内構造と呼ぶにふさわしい。

思考の手間を惜しまない経済的な合理性

資本主義の経済システムにおいて、富の偏在や格差の拡大は常に議論の的となる。

カール・マルクス(Karl Marx、1818年〜1883年)が資本論で分析したように、経済的な構造の中には、利益を搾取する側とされる側が存在する。

現代社会においても、なぜ一部の人は豊かになり、多くの人は経済的な不安から抜け出せないのかという問いに対する答えは、実は非常にシンプルである。

森博嗣は、その残酷なまでの真理を、身も蓋もない言葉で表現している。

まず、考えるためには、情報を手に入れ、いろいろ調べてみる必要があるだろう。具体的な沢山の数字を知らなければならない。そういったものを分析し、比較し、そこから判断する。これが「考える」という意味だ。(P.205「補講 「新しい常識」に気づく21の視点:90 どうして貧乏になるのか、それは人にやらせているからだ。」)

貧乏になる最大の理由は、「人にやらせているから」であるという。

これは仲介手数料やマージンの概念を考えれば極めて論理的な事実である。

自分が理解できないこと、面倒なことを他人に任せれば、必ずそこに情報の非対称性が生じ、専門知識を持つ相手に手数料という名目で利益を抜き取られる。

資産運用を専門家に丸投げしたり、家電の修理をすぐに業者に頼んだりする行為は、自ら考える手間を省く代わりに、経済的な損失を受け入れていることに他ならない。

著者が説く「考える」という行為は、ただ頭の中でぼんやりと思索に耽ることではない。

自ら能動的に一次情報を手に入れ、具体的な数字という客観的なデータを収集し、それらを比較分析した上で、最終的な判断を下すという極めて泥臭く、労力を伴うプロセスである。

私自身、この指摘には耳が痛い思いがすると同時に、本質を突いた素晴らしい教訓だと感じた。

私たちはすぐに「わからない」「難しい」と言って、考えることを放棄しがちである。

しかし、それは自らの富と問題解決の主導権を他人に明け渡す行為と同義なのだ。

面倒がらずに手間をかけ、沢山の数字を知る努力を怠らないこと。

そして、物事を正確に認識するための言葉や概念の定義を学ぶこと。

お金の問題であれ、人生の別の課題であれ、この徹底した「考える」という行為のプロセスを自らの手で実行し続ける限り、大抵の困難は解決へと導くことができる。

自立して思考し行動することこそが、最もコストパフォーマンスの高い最強の生存戦略であり、経済的自由を獲得するための唯一の正攻法なのである。

思考の関節を柔らかくする極上の知的な練習

ここまで、森博嗣の思考の断片をいくつかのテーマに分けて紹介してきた。

彼の思考の根底にあるのは、常に感情や見栄といったノイズを徹底的に排除し、事象を数値や論理という純粋な要素に還元して分析する極めて科学的なアプローチである。

私たちが無意識に抱え込んでいる「常識」という名の思い込みや認知バイアスは、長年の生活の中で強固に硬化し、思考の自由を奪っている。

本書を読むという体験は、まさにその凝り固まった思考の関節に潤滑油を注ぎ、一つ一つの筋肉を丁寧に揉みほぐしていくような感覚をもたらす。

森博嗣節とも言うべき、冷徹でありながらどこかユーモアを漂わせる独特の語り口は、心地よい劇薬となって脳髄を刺激する。

読書を進めるうちに、今まで絶対だと信じていた価値観が徐々に揺らぎ、物事を全く別の角度から観察する面白さに気づくはずだ。

これは単なる知識の吸収ではなく、自分自身の脳の構造を柔軟に作り変えるための、極上の思考の練習と言って良いだろう。

世の中の不条理に直面した時、困難な課題を解決しなければならない時、あるいは自分の人生の進むべき道に迷った時。

本書で紹介されている、徹底的に客観的で論理的なアプローチは、必ずや強力な武器となってあなたを助けてくれるはずだ。

常識の檻から抜け出し、冷たくも美しい論理の世界へと足を踏み入れる勇気を持つすべての人に、この『常識にとらわれない100の講義』を強く推奨する。

書籍紹介

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